第八話 温泉

前回のあらすじ


温泉料理を堪能した二人。

そろそろ飯ネタも尽きてきそうだ。






 温泉宿根雪の枕亭の食事は紙月の舌も、未来の胃袋もよくよく満たしてくれた。

 冬場で食材が乏しいときでこれと言うのだから、雪のつもる前ならばどれだけのことだっただろうか。

 いや、冬の寒さこそがあの野菜の甘みを生み出したことを思えば、あれこそ冬でなければ体験できなかった味わいと言っていいだろう。


 夏には夏の、冬には冬の良さがあるのだ。

 胡桃味噌ヌクソ・パーストの温かい鍋は、冬場でなければそのおいしさを十全に楽しむことのできないものと言ってよい。


 十分に腹の満ちた二人は、温泉へと案内された。

 脱衣所は温泉に近いこともあってやや温まっていたが、それでもやはり、肌寒い。

 二人は手早く服を脱ぐと脱衣籠に預け、そそくさと二重戸をくぐって温泉へ向かった。


 戸の向こうは、絶景であった。


 まず温泉は石を組んで作った立派な湯船に、足場もしっかりとしたタイル張りである。

 源泉は熱すぎるらしくいくらか冷まして樋から流し込まれるが、その湯量は全く目を見張るもので、次々と湯が注がれては、あふれていく。豊かな温泉である。


 この浴場には脱衣所の壁も含めて三方は壁があり、屋根もあるが、しかし一方には壁がなく、美しい雪景色がおがめるようになっているのである。

 このような造りは、この世界では初めてだった。

 後から聞けば、吹雪く時は雨戸のように戸をはめ込んで雪風を防ぐが、もっぱらこのように雪景色を楽しんでもらい、体は温泉で温かく、頭は寒さで冷えるというのが、体に良いという。


 足元から温泉の熱が来るからか思ったより寒くはないが、それでもむき出しの肌に外気は堪える。

 手早く体を洗って、二人はそそくさと湯船につかった。


 紙月は勢いよく全身浸かり、薄い肌にぴりぴりと湯の熱さがしみ込んでくるのがたまらなかった。

 未来は足からゆっくりと浸かっていき、このぴりぴりがじんわりと広まっていくのが心地よかった。

 そうして二人とも、体全体に湯の熱さが染みわたっていくのがたまらなく心地よかった。


 湯の温度は少し熱めであったが、なにしろ外と直につながっているから、むしろこのくらいがちょうどよい。体は温かいのに、頭は冷えるというのは、なかなか味わえない珍しい体験である。


「これ以上寒くなると髪が凍りそうだけどな」

「お湯から上がるときも気を付けないとね」


 湯冷めしないようにしなければ、すぐに風邪でも引いてしまいそうである。


 何しろひどい雪を超えた山奥であるし、熊木菟ウルソストリゴの脅威もあるし、二人きりの貸し切りかと思ったが、こんな山奥の秘湯にも風呂の神官が邪魔しないようにひっそりと浸かっている。


 いや、むしろこのような山奥の秘湯だからこそ、神官としても修行するに丁度良いのかもしれない。ただ入浴するだけで祈りにも礼拝にもなる風呂の神官であるが、より人の来づらい秘湯や、隠された温泉などの方が、修行になりそうである。

 人手の少ない秘湯で人助けにもなるとなれば、徳も上がろう。


 この徳の高い風呂の神官も、やはり風呂の神官らしく豊かな体つきをしており、柔和な微笑みを絶やさない好人物であった。

 口さがないものなど、風呂に漬かり過ぎて頭が茹だっているに違いないなどと言うものなどもあるが、言われる方の神官たちはそうかもしれませんねえと暢気なもので、端から勝負になっていない。


 もともと風呂の神と言うのがマイペースで有名な山椒魚人プラオの陞神したものというから、その神官たちもみなマイペースなのかもしれない。


 この《根雪の枕亭》の風呂の神官もまた実にマイペースで、湯船に浮かべた桶に酒瓶とグラスをおいて、のんびりやっていたりする。北部名産の林檎酒ポムヴィーノである。

 それも手近な雪に突っ込んできんきんに冷やしたのを、そのまま取ってくるのだから、丁度良い具合に雪冷えの林檎酒ポムヴィーノである。


 普通酔っ払いというものはあまり良い印象を抱かれないものであるが、風呂の神官たちの飲酒は優雅なものである。まず風呂を楽しむことが先にあり、それを高めるための飲酒であるから、酒におぼれるということがない。

 むしろ見ていて気持ちの良くなるような楽しみ方である。


「……あれいいなあ」

「駄目だよ紙月」

「でもほら、あの人もってるし」

「あれは風呂の神官だからいいんだよ」


 別に宿側でもそう言うサービスを出しているのだから飲んで悪いということはないのだが、調子に乗って飲むと、危ない。代謝の高まる風呂の中で酒を飲むと、ひどく酔うのである。


 ところが風呂の神官には、かなり早い段階から、「風呂でのぼせない加護」をはじめとしたさまざまな加護が与えられており、多少酒が入ったところで全く平気なのである。

 さすがに酒の神の神官のように「酒で死ぬことがない」などと言ったふざけた加護までは得ていないようだが、それでも普通の人間よりはよほど安全に入浴中の飲酒を楽しめるのである。


 仕事中、つまり礼拝中、長時間風呂に浸かる以外のことができない風呂の神官たちにとっては、神々の与えたご褒美と言っても良い。


 とはいえだからと言って、人がうまそうに飲酒しているのを見て我慢できるかどうかと言うのは別問題である。


「なあ、いいだろ?」

「そう言って後でぐでんぐでんになるんでしょ」

「《浄化ピュリファイ》使うからさ。迷惑かけないから」

「もう……一本だけだよ」


 懲りないのが紙月なら、甘いのは未来である。

 《浄化ピュリファイ》でどうにかなるし、何なら未来が面倒を見てくれると甘えたことを考えているのが紙月であり、いろいろ迷惑もかけてるしたまの娯楽くらいは許してあげなければと思い、また甘えてくれたならばそれはそれでなんだかんだ嬉しいのが未来である。


 風呂の神官に一本頼むと、いい笑顔で雪の中からグラスと小瓶を取り出して、桶に入れて流してくれる。

 それだけでなく、未来の分にと、林檎ポーモジュースの瓶もグラスと一緒によこしてくれた。

 これは本来、神官が覚えておいて、宿から請求が行くが、なにしろ今日の二人は宿代を免除されているから、気兼ねなく飲める。


 雪できんきんに冷やされた林檎酒ポムヴィーノの味は、格別だった。温まっているときに内蔵に冷たい飲み物を送り込むのは非常に体に悪い気もするが、それはそれとしてうまいものはうまいのである。


「もう少し寒くなってくると、見かけは変わらないのですが、注ぐとたまに状に半端に凍ったものができる時もありましてねぇ、それなどは本当に、たまらないんですよぉ」


 風呂の神官がそのように語るもので、多分、過冷却状態からの凍結だろうと紙月は辺りをつけた。

 つまり、液体は静かに静かに温度を下げていくと、凍るはずの温度より冷たくなっても、凍らない時がある。これが過冷却状態である。これに振ったり注いだりと刺激を与えると、すぐに凍り付いていく。


 良いことを教えてもらった礼にと、紙月は早速手元の瓶に《冷気クール・エア》を慎重にかけて、この過冷却状態を作り出すことを試みた。ただの水であればマイナス二度程度でもできるが、アルコールの混じる酒はこれよりもう少し温度を下げる。


 一度目は、軽く注いでみたが変化がなかった。二度目は凍り付いてしまった。

 一度溶かして、三度目になるとうまくいき、注ぐとしゃらしゃらと即座に凍り付いていき、まさしくのような具合に仕上がった。


 これでコツをつかみ、風呂の神官の酒にも、未来のジュースにも同じことをしてやると、大層喜ばれた。


 成程これは面白いものだった。

 凍らせてしまうので、炭酸の多くは逃げてしまうのだけれど、凍っていない部分もあって、そこはしゅわしゅわとする。合わせてこれを飲んでみると、しゃりしゃりとしたシャーベットのような食感に、しゅわしゅわとした微炭酸が味わえるのである。


 この酒を飲みながら、二人はゆっくりと湯につかり、改めて降り積もった雪に感嘆した。

 二人とも、雪のあまり降らない、降ってもさして積もらない地方の出身である。これほどまでに積もった雪と言うのは、想像や、画面の向こうの世界のことでしかななかった。

 異世界と言えば、これほど異世界を実感したこともそうないかもしれないくらいの光景である。


「思えば遠くへ来たもんだねえ」

「まだ東部とか、辺境にも行ったことがねえのにな」

「ファシャだっけ。隣の大陸のもいつか行ってみたいね」

「大叢海のむこうかぁ。そう言えば、スピザエトは元気にしてるかね」

「あの子も、アクチピトロの子だったのかな」

「かもなあ」


 ぼんやりとしていると、ざぶざぶと湯船に新たな客があった。

 貸し切りかと思っていた紙月がぼんやりと顔を上げると、そこにはサルがいた。


「……は?」


 サルである。それも一頭や二頭でなく、数頭が集まって湯をかぶり、湯船につかっていく。


北限猿ノルダシミオと言いますねえ。大陸でも、これ以上北にはサルは住んでいませんよぉ」

「え、いや、そういうことじゃなくて」

「昔から天然の温泉に浸かる習慣があるみたいでしてねえ。人に慣れたのなんかは、かけ湯もするし、大人しいものですよ」


 急に賑やかになってきた湯船だが、しかし動物好きの未来は、なんだか目を輝かせている。

 まあ、それならば、しかたないか。

 恐らく年かさの北限猿ノルダシミオと目礼を交わして、紙月は酒をすするのだった。






用語解説


北限猿ノルダシミオ

 猿の仲間のうちで最も北に棲息する一種。

 果物や昆虫を主に食べる他、時に肉食もする。

 赤ら顔で、北部で酔っぱらいを指してよく猿のようだとよばうのはこの北限猿ノルダシミオが由来である。

 人里近くにも出没し、食害などを出すこともあるが、多く人の真似をして、危害を加えないことが多い。

 温泉に浸かることで有名。

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