第八章 スタンド・バイ・ミー

第一話 個人的大事件

前回のあらすじ


子供の成長は早いもの。

果たして紙月は。そして未来は。










 帝都での仕事を終わらせ、新しく仲間となった地竜の雛であるタマの牽く馬車でえっちらおっちらと西部まで帰ってきたのが少し前。

 こんな旅を続けたらダメになるとまでムスコロに言わしめた快適な旅であった。


 タマはどこまでも歩いていくとかいう地竜の本能など知ったことかという具合に、もっぱら一日中厩舎で寝息を立てる日々で、思いのほか静かで助かっていた。ただ、食費ばかりはえらくかかるので、それが困ると言えば困ったが。


 巷では、森の魔女が鋼鉄の怪物を真っ二つにしたとかいう、珍しく正確な噂が流れていたが、今更噂の一つや二つどうこうなったところで気にしていても仕方がない。

 結局、依頼が入らず暇なことは変わりはないのだから。


 もう秋に入るというのに、その日は妙に暑気が晴れず、寝苦しい夜だった。

 何とはなしに眠り切れていないような不快な目覚めは、どこまでも気だるく総身に覆いかぶさっているようである。


 《巨人の斧トポロ・デ・アルツロ冒険屋事務所》の寮の一室で、二段ベッドの上の段で目を覚ました衛藤未来もまた、言い知れぬ不快さを感じていた。


「………うえっ」


 煮え切らぬような微妙な暑気の中で、目覚め切らないような曖昧なまどろみにたゆたっていた未来の意識を瞬時に覚醒させたのは、下腹部に感じたひやりとした感触であった。

 ぺたりと肌に衣服の張り付くはなはだ不快な感触に、ぎくりと体がこわばるのを感じた。


 それこそ全身から冷や汗が流れ出るような心地だったが、衛藤未来はこれでも父子家庭で何かと自立を強いられた、こまっしゃくれたお子様である。ショックのあまり泣き出すなどと言う子供じみた真似はしなかった。


 落ち着け。落ち着けよ、衛藤未来。

 未来はまずぎゅうっと目をつぶって、心を落ち着けた。

 まだと決まった訳じゃない。決めつけるには、まだ早い。


 第一何だったって今更なのだ。

 未来は今年で小学六年生だ。誕生日がくれば、十二歳になる。

 もうずっと長いこと、そんな事態には陥っていなかったというのに、なぜ今更。

 小学校に上がる前には終わらせたはずだった。

 そりゃあ、まあ、小学校に上がってから即座に全くなくなったという訳ではなかったが、しかし、それにしたってこの年でって言うのは、いくらなんでも今更過ぎる。


 認めたくなかった。

 認められなかった。

 だって、未来は十一歳だ。六年生だ。来年度には中学生に上がるはずだった歳だ。


 そうでなくたって、今の未来は名高き冒険屋森の魔女の相方である、誇り高き盾の騎士なのだ。


 それが。

 それというものが。

 まさか、などと。


 未来は頭を抱えた。

 もし自分がおねしょしたなどと言うことがばれたらどうなるだろう。

 冒険屋として築き上げてきた経歴はすべてぱあだ。

 いや、なんだかんだと面倒見のよい《巨人の斧トポロ・デ・アルツロ冒険屋事務所》の冒険屋たちだ、存外そういうものだと慰めてくれるかもしれない。それはそれでショックだが。


 問題は相棒の紙月に知られてしまった時だ。

 紙月は未来を責めることも馬鹿にすることもないだろう。

 絶対にないだろう。

 だがそれがつらかった。

 優しくされるのがつらかった。

 大変だったもんななどと言われて頭でも撫でられた日には悶死しかねない。


 だが、待て、落ち着け、衛藤未来。

 まだと決まった訳じゃない。決めつけるには、まだ早い。


 未来は改めて心の中で念仏のようにそう唱え、ゆっくりと体を起こし、布団をはいだ。

 ゲーム内アイテムである《鳰の沈み布団》は恐ろしく心地よかったが、今の未来にはそれも地獄への舗装路にさえ思えた。


 白々とした朝日の差し込む部屋の中で、未来は自分の体を見下ろした。


 安いからという理由で買った麻の寝間着は、そろそろいい加減に涼しくなってきたのでもう少し分厚いものを買おうかと考えていたところであったが、まだいいかな、もうちょい待っても、などと言っている間に買う機会を逃し続けているので、今度紙月と一緒に買い物に行った方がいいかもしれない。


 そんな現実逃避をよそに、未来の真ん中は濡れていた。

 容赦なく思いっきり下腹部にシミが広がっていた。


 反射的に叫びそうになった口の中に拳を突っ込み、未来はこらえた。


 アウト。

 確かにアウトだ。

 だが厳密にアウトかセーフかで言えば、セーフよりのアウトではなかろうか。

 だって濡れているのは寝間着だけだ。布団には被害が出ていない。


 であればこれはセーフよりのアウト……むしろ寝間着だけでこらえたという功績を思えば十分セーフだと言えるのではないだろうか。

 むしろセーフ。これはセーフ。


「ノーカン、ノーカン……」


 全く持ってセーフでもノーカンでもないのだが、未来はそう唱えて心を鎮めた。


 とにかく、湿った感触もあって、いつもより早く目覚められたのは僥倖だった。

 そっと下の段を見下ろせば、紙月はまだぐっすりと寝息を立てている。


 となれば今のうちに処理してしまえば、だれの目にも触れないままこの件は闇に葬り去られることになる。ノーカンだ。


 未来は覚悟を決めて、そしてまず被害状況を正確に確認するために、そっと服をめくって、下腹部を覗き込んだ。


「………うん?」


 ところが予想と少し、違う。

 匂うは匂いのだが、尿の匂いではない。

 嗅いだことのない匂いである。


 不思議に思ってそっと手を伸ばしてみて、その感触に背筋がぞわりとした。


 としたのである。


 単に濡れているという感触ではない、もっと粘着質なぬめりけだった。


 今度叫ばなかったのは、拳を口に突っ込んだからではなく、ショックに心がついていかなかったからである。


「…………なにこれ」


 何これ、と口では言いながらも、無駄にませたお子様であるところの未来にはがなんであるかもうわかっていた。わかっていたが、認めたくないものがあった。

 いや、別段悪いものではないということは教科書を読んで知っていたが、しかし自分の体が変化しつつあるというのは奇妙なおぞましさがあった。

 そして何よりも意味不明な猛烈な恥ずかしさがあった。


「知ってた……知ってるけど………寝間着まで貫通するぅ……?」


 未来の頭の中で合致する情報は一つしかなかった。

 第二次性徴に訪れる体の変化の一つで、大体未来くらいの年頃前後に発生するイベント。


 である。


 初めて精子が出るようになる、つまり子供を作れる体になったということであり、めでたいことではある。あるのだが、これは極めてな問題であり、人に知られるなど考えただけでも恥ずかしいことだった。

 いや、別に恥じるようなことではないと教科書にも書いてはあるのだが、一方で社会的通念として恥を覚えるように未来は教育されてきたわけで、この相反する教育が未来を悩ませるのだった。


 精通というイベントに遭遇してしまったショックで頭を抱えた未来ではあったが、何しろ彼は大人とも行動を共にしているいっぱしの冒険屋である。これが恥であろうとなかろうと、自分の胸の内に抱えている限りはノーカンである、と開き直ったのである。


「あー、驚いた」


 一度ショックを乗り越えてしまえば、かえって湧いてくるのが好奇心というものである。

 下をくつろげてしばらく観察してみたが、まあ別段面白いものでもない。触ってみても、時間が経ってきたからかさらさらとしてきて、変な水という感じである。


 まあどうせこれから長い付き合いになると妙にドライな考え方、インベントリから手ぬぐいを取り出して手早くふき取ってしまいながら、再び頭に巡ってきたのは、なんでまた、という原因についての思いである。


 昨日何か特別なことがあったという訳でもない。

 いや、特別なことがあったが故に精通が起きるという訳でもないのだろうけれど、なにかしら理由があってもおかしくはなさそうである。


 そう言えば夢精と言って、夢が原因で吐精してしまうこともあると教科書で読んだことがあった。

 夢と言えばどんな夢を見たであろうかと、すでにあさぼらけに掻き消えつつある記憶を掘り起こし、そして未来は土下座した。


 声に出して謝れるものではない。聞かれていないとわかっていてもとても声に出せるものではない。

 それゆえの土下座であった。自然な事とは思えど、致し方ないとは思えど、申し訳なかった。


 衛藤未来十一歳。人生で初めての土下座は下半身丸出しであった。


 ひとしきり土下座して謝罪の念を送ったあたりで、未来ははたと我に戻った。


 なんであれ、とにかく証拠を隠滅してしまわなければならない。

 何事もない一日を始めなければならないのである。


 音をたてないようにそっとベッドを降り、未来は朝日に誓うのであった。


 隠し通そう、と。











用語解説


・おねしょ

 寝小便、夜尿とも。睡眠時の無意識下で排尿してしまうこと。

 成長するにつれて普通は改善されていく。

 六歳を過ぎても継続的にみられる場合夜尿症と呼ばれる。

 性的なプレイとして行う場合もある。


・精通

 男性器をもつものが生まれて初めて経験する射精。

 普通は性的な成熟とともに自然に発生する。

 睡眠中に射精してしまう夢精によるものの外、外部からの刺激によって精通するものもある。

 性的なシチュエーションとして扱われることもある。


・土下座

 土、または床などにじかに座り、ひれ伏して礼をすること、またその姿勢。

 深い謝罪や請願の意があるとされる。

 未来の場合ベッドの上であるし相手と対面していないし、やや変則的ではある。

 性的なプレイの一環として行われることもある。

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