第二章:それぞれの進むべき道

プロローグ:悪夢

『父さん! 父さん!』


 悲痛な子供の叫び声が頭に直接響いているように聞こえる。


 幼い頃の自分の声だ。


 しかし、自分がそれを発したという感覚は全く無い。


 故に、これが夢だという事にすぐ気がついた。


 それはただの夢ではなく、最悪の記憶であることにも。


『シファル……、この子を連れて裏から逃げるんだ。ここは俺が……』

『でも、あなた……』

『いいから早く!!』


 剣を構えて何者かと向かい合う父が母へと向かって叫んだ。


 その左腕からは真っ赤な血が流れ、床には大きな血溜まりが出来ている。


 幼い俺は悲痛な叫び声を上げながら、父の背中へと向かって必死に手を伸ばしている。


 母はそんな俺の手を引き、涙を流しながら父の指示に従って裏口へと向かって駆け出した。


『くっ……、――クス……どうし――。もう少しで――って言うのに……』


 途切れ途切れに聞こえる父の声がどんどん遠ざかっていく。


『君の理想……。いや……世迷い言に付き合うのはここまでだということさ』


 そんな中、父と相対していたあの男の声だけは今もはっきりと記憶している。


『いたぞ! あっちだ!』

『追え! 殺せ!』

『今までよくも騙したな! この悪魔の手先どもが!』


 裏口を抜けた先にある暗い森の中、母が俺の手を引いて一目散に駆ける。


 いつも笑顔だった優しい母の顔には見たこともない大きな焦燥が浮かんでいる。


 そんな母をなんとか励ます言葉をかけてやりたいが、これは記憶の追体験でしかない。


 今の俺にはこの小さな身体を動かす事も、声を出す事すらも出来ない。


 出来るのは、ただ地獄のようなこの記憶を黙って見ているだけ。


 迫りくる追っ手に向かって母は魔法を放ち、何とかそれを退け続ける。


『怯むな! 続け!』

『ガキがいる! 無理はできまい!』


 多勢に無勢。


 追手の数は母一人でどうにかなる数ではなく、敵はその背に迫りつつある。


 何かを悟った母は足を止めて、その手をしっかりと握ったまま俺と向き合う。


 続けて、その顔にいつも俺に向けてくれていた優しい笑顔を浮かべる。


『悪い人達は母さんがここで食い止めるから……あなたは一人で逃げなさい。父さんと母さんに何かあった事を知れば、きっと……必ず助けに来てくれる人がいるから……』


 母が俺の目をしっかりと見つめながら言う。


 幼い俺は声を詰まらせて、首を左右に振って拒絶の意思を示す。


『お願い……母さんの言う事を聞いて……。後できっとまた会えるから、ね?』

『本当に……?』

『うん、約束。父さんと必ず二人で迎えに行くから……』


 無理に作ったような笑顔から諭す言葉を絞り出す母。。


 だが、この手を離せばもう二度と会えなくなるのは幼い俺も勘付いていた。


 それでも、あの時の俺にはそこで一緒に戦う力は無かった。


 自分が居れば母の邪魔になるだけだと。


 小さく頷いた俺の頭を母が優しく撫でた。


 そして、ゆっくりと握られた手が解かれる。


 幼い俺は母へと視線を向けたまま、母から離れるように歩き出した。


『走って!』


 俺へと向かって母が悲痛な声で叫ぶ。


 声に背中を押されるように、幼い俺はその足を速めていく。


『もっと速く! 絶対に止まらないで!』


 その言葉はまるで俯瞰で見ている俺に向かって言っているようにも聞こえる。


 過去の俺は母から視線を切って、前を向いて走り出した。


 暗い森の中、枝葉で体中が傷だらけになる事も気にせずに全力で駆ける。


 背後からは追っ手の声と母の絶叫。


『レイ! 生きて!』


 視界と心が暗闇に包まれていく。


『レイ! ――イ! ――――ィ』


 声がどんどん遠ざかり、小さくなっていく。


 それでも俺は母の意志に従い、振り返ることなく森の中を一目散に走り抜けた。


 目から流れる涙を拭くこともなく、ただ走り続けた。、





「――イ――レイ――レイ様」


 瞼の裏に明かりの感覚、それと俺を呼ぶ声が鼓膜を揺らしている。


 それが夢ではなく、現実の感覚である事にぼんやりとした意識の中で気がつく。


「ん……、んん……」

「フレイ様、大丈夫ですか?」


 目を開けてまず感じたのが窓から射し込んできている陽光の眩しさ。


 続いて視界に入ったのはベッドの傍らに立って俺を見下ろしているロゼの姿だった。


「ロ……ゼ……?」


 窓から差し込む光に照らされた古風な風貌のメイド。


 相変わらずの無感情な無表情で俺を見ているその顔を見て安堵を覚える。


「はい。うなされていたようですが……お体の具合がよろしく無いのでしょうか?」


 なかなか感情が読み取りづらい声だが、多分心配そうに尋ねてくれている。


 どのくらいかは分からないが、うなされている俺の声を聞いて部屋に入ってきたんだろう。


 状況を冷静に分析出来るほどに意識が覚醒したのに合わせて身体の感覚が戻ってくる。


 すると体中が嫌な汗でびっしょりと濡れている事に気がついた。


 冷たい汗で薄い服が肌に張り付いていて非常に気持ちが悪い。


「いや、大丈夫だ……。ちょっと嫌な夢を見ただけで……」

「嫌な夢、ですか?」

「ああ……」

「それはどのような……?」


 繊細な部分に、一歩奥へと踏み込んでくるような問いかけ。


 普段はあまり他人に興味がなさそうなロゼにしては珍しい行動だった。


「……あの子達の母親五人に地の果てまで追いかけ回される夢だ」


 その場しのぎの適当な嘘をついてはぐらかす。


 本当の事は言えるわけがないし、言う必要もない。


「……それは、確かに悪夢ですね」


 僅かな間の後に、ロゼはそう返してきた。


「だろ? 多分、先日の宴会でトラウマになったんだろうな。こんな事を言うのは怒られるかもしれないが、もうしばらくは会いたくないな」


 実際、あの母親たちの相手は非常に骨が折れた。


「まだご気分が優れないようでしたら、朝食はこちらまでお運び致しましょうか?」


 話題の軸が切り替わる。


 嘘をついているのはバレたかもしれないが、一定の説得力はあったのか更なる追求は避けられたらしい。


「いや、大丈夫だ。試験も終わって改めてみんなの顔も見ておきたいし、食べに行くよ」

「畏まりました。では、食堂にてお待ちしております」


 ロゼが俺へと向かって恭しく一礼してから部屋を出ていく。


 それを見送ってから大きく息を吐き出す。


 悪夢の影響か、まだ心臓が早鐘を打っている。


 汗でびっしょりと濡れている手のひらを見ながら、またあの夢を見た理由を考える。


 単に諸々の疲れが悪夢という形で噴出したのか。


 あるいは俺の深層意識が、成すべき事を忘れるなと言っているのだろうか。


「忘れるわけないだろ……」


 窓の外に広がる魔族の領域を見据えながら自らの本懐を再確認する。


 そう、俺はあの日の真実を知るためにここに来た。

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