第69話:五人姉妹

 ――人間界から魔族界へと帰還した日の翌朝。


 俺は決勝前にした約束を行使するためにアンナの部屋を訪れた。


 扉をノックすると、すぐにアンナが部屋の中から出てくる。

 向こうからは何も言ってこずに、ただ生気の抜けたような顔でじっと佇んでいる。


 あれから眠ることが出来なかったのか目の下には隈が浮かび、目は赤く充血している。


「おはよう、怪我はもう大丈夫か?」

「……私達の種であれば、あのくらいなら一晩で治る」


 伏し目がちにそう呟いた顔からは確かにあの時の傷は綺麗サッパリと消えている。

 それなら今日から初めても問題なさそうだ。


「そうか、それなら良かった。それじゃあ行くとするか」

「行く? どこへだ? 私はもう……」


 とぼけているような様子ではなく、本気で忘れてしまっているような反応を見せるアンナ。


「何言ってんだ? 約束したろ?」

「約束? 一体何のことだ?」

「賭けだよ。賭け。決勝前に俺としただろ?」

「賭け……? あ、ああ……そうだったな……すっかり忘れていた」


 やはり、決勝戦前のことを完全に忘れてしまっていたようだ。


 だが、生憎俺はそれで無かったことにしてやる程優しくはない。

 なにより、この子の父親との約束の期限はそう長く残っていない。


「それで、私は何をやればいいんだ……?」

「それは着いてからのお楽しみってやつだ。とにかく行くぞ」


 大きく消沈しているアンナを半ば引きずるように屋敷の廊下を歩いていく。

 途中でリノと出会い、『朝から珍しい組み合わせですねー』と茶々を入れられたりもしながら、毎朝恒例の場所へとアンナを連れてくる事に成功した。

 そして、事前に集めておいた四人の妹たちの前にアンナを引っ張り出す。


「……これは、どういうことだ?」


 自分の妹たちを前にして、アンナは俺へと当惑の表情を向けてくる。


「何、簡単な話だ。今日から二週間、お前にこいつらの面倒を見てもらう。俺の代わりにな」

「なっ!? 私が!?」


 驚愕するアンナ。

 そんな反応からも、俺がやろうとしていることは間違っていないのだと分かった。


「ああ、そうだ。俺との賭けに負けただろ? まさか、負けた時はどうなるか知らなかったから無効だ! なんて言わないよな?」


 もちろん何を言われても取り下げるつもりはない。

 この試練を通らずしてアンナが先に進むことは出来ないからな。


「それは……そうだが……」

「決まりだな。これから二週間、責任を持って頼むぞ」

「あれ? フレイは一緒にやってくんないの?」


 まだ納得いっていない様子のアンナの肩をポンと叩いてから屋敷の方へと戻ろうとすると、サンが尋ねてきた。


「俺は久しぶりの長期休暇だ。ここしばらくは休みもなくてクタクタだったからな。お前たちは試験が終わったからって気を抜かずに、アンナの言うことをしっかり聞いてサボらずにやるんだぞ」

「えー……フレイが居ないならあたしもやる気出ないんだけどー……」

「さ、サンちゃん……あんまりそういうことは……」


 アンナの方を一瞥して露骨に不満そうにするサン。

 合格した自分がなんで不合格だったアンナから指導を受けないといけないんだ、と思っているのが分かる。


 逆に妹から舐めたような態度を取られたアンナは、不服そうにムっと顔をしかめた。


「それなら……そうだな……。よし、アンナと手合わせしてみろ」

「え? あたしがアンナ姉と?」

「そうだ。それでお前が勝てば、俺がいない間は好きにすればいい。サボろうが、一人で訓練しようがな」

「ほんとに!? そういうことならやってもいいよ!」


 乗り気になったサンがその場ですぐに準備運動を始める。

 今の自分ならアンナに負けることはないと思っていそうだ。


「アンナもいいか?」

「あ、ああ……別に構わないが……」


 一方のアンナはまだ状況についていけてないのか、若干困惑気味に答える。

 それでも準備を終えると、いつもは俺がそうしていたようにアンナがサンと向かい合う。


 この二人がこうして朝練の場に揃っているというだけで、やり遂げたような感情を少し抱いてしまう。

 だが満足するのは早い、真に目指すべき場所はまだまだ先だ。


「じゃあ、審判はいつも通りイスナが頼まれてくれるか?」

「え、ええ……構わないけど……」


 サンと違って言葉にこそしていないが、イスナも複雑そうな感情を抱いているのが分かる。

 それでも俺の言うことならと引き受けてくれたイスナの合図によって二人の模擬戦が開始された。


 そして五分後――


「ふぅ……」

「はぁ……はぁ……きつ……アンナ姉……つよ……」


 そこには息を少し荒げながらも立って汗を拭っているアンナの姿と、息も絶え絶えになり両腕両足を大きく広げて地べたに寝転んでいるサンの姿があった。


「よし、それじゃあアンナの言うことをしっかり聞くってことで良いな?」


 寝転んでいるサンに向かってそう告げると、一応は小さく頷いてくれた。


 格闘戦なのでどうなるかと少しだけ心配だったが、アンナの実力はまだサンより明確に上だ。

 これでサンも多少は態度を改めて師事してくれるだろう。


「じゃあ、頼んだぞ」


 そう言って、五人に背を向けて屋敷の方へと戻る。


「えっと……アンナ姉さん、それで何からすればいいんでしょうか?」

「う、うむ……なら、まずは――」


 フィーアからの質問を受けたアンナが顎に手を当てて考え込む。


 俺に出来るのはここまでだ。

 後は本人が自分がの役目に気づくことが出来るかどうか……。


 そのまま自室に戻った振りをして、五人が訓練している光景を屋敷の上階からひっそりと眺める。


 任せるとは言ったし、口を出すつもりは一切ない。

 それでもやっぱり気になるのは仕方がない。


 何をすればいいのか悩んだ末に、アンナは四人の姉妹を引き連れながら黙々と外周を走り始めた。


 先頭を行くアンナの真後ろには模擬戦で負けたサンが渋々と追従している。

 それから少し離れてイスナが若干不満げながらも今のところは大人しく走っている。

 そして更に離れて、既にヘトヘトになりながらなんとかついていっているフィーアとフェムの姿が見える。


 何をすればいいのか分からなかったので、とりあえず自分がいつもやっていることを選んだということだろう。

 しかし、まずは基礎体力からという考え方は悪くない。


 その後もアンナは昼食の時間が来るまで、四人を引き連れて外周をただひたすら周回し続けた。


「あ……アンナ姉……いつもこんなに走ってるの……?」


 ひぃひぃと息を荒げて地面にへたり込んでいるサンがアンナを見上げながら尋ねた。


「いや、今日はお前たちがいるから少し軽めにしたんだが……きつかったか……?」


 アンナは言葉通りにまだ余裕のありそうな感じで額の汗を拭いている。


「え……えっと……このくらいでちょうどいいんじゃないかな……うん。あたしもまだいけるし……」


 対するサンは明らかに強がっている。

 しかし、その視線には若干だが、長女を敬うような色が生まれ始めて……いたら嬉しいが、どうだろうか……。まだ、流石にそこまではいってないか……。


「しかし、まだ合格にはまだまだ遠いな……」


 独り言ちながら他の子たちの様子を見る。

 結局、アンナに最後までついていけたのはサンだけだった。


 フィーアとフェムは半分もいかない内に音を上げて、イスナは途中で自ら切り上げるような形で抜けていった。


 それに対して、アンナは特に何もせずに黙っていた。

 これではしっかりと面倒を見ているとは言い難い。


 まだ始まったばかりとはいえ、ここから『お姉ちゃん』になるための道程はまだ長そうだ。



**********



「よう、今朝はどうだった?」


 昼食後、他に誰も居なくなった食事部屋でアンナに今朝の感想を尋ねる。


「どうだと言われてもな……」


 片付けられた机を挟んで向かい側でアンナは腕を組んで視線を少し伏せながら考え込んでいる。

 約束だから従ってはいるが、まだ当惑の感情が強いといった様子だ。


「やはり、慣れないというか……どうすれば良いのか分からないというべきか……」

「なるほどな……」


 今までの振る舞いからも、これまでは妹の世話なんてしたことも無ければ考えたこともなかったのがよく分かる。

 それが嫌っているからというわけではなく、無関心に拠るものだということも。


「向こうも私に師事するようなことは望んでいないだろう。フレイ、やはり……」

「いやいや、そんな事ないぞ。むしろその反対だ」


 やはり自分には荷が重い。約束は何か他の事で果たさせてくれないかとか言い出しそうだったアンナの言葉を遮る。


「どういう意味だ?」

「そのままの意味だ。あいつらはお前に師事したくないなんて思ってないって事だよ」

「そんなわけが……私はこれまで……」

「おいおい……いつもの自信はどこに行ったんだ?」


 確かに、一度立ち止まって広い視点を持ってもらう為に悔しい思いをしてもらった。

 しかし、ここまで別人のようになるとは思わなかった。


 仕方ない……あの話をしてやるしかなさそうだ……。


「例えばだな……フェムはずっとお前に憧れてたんだぞ? お前みたいにかっこよくなりたいって言ってな」

「フェムが……?」

「ああ、そうだ。今のフェムがあるのは、お前っていう目標があったからって言っても過言じゃないぞ」


 アンナという明確な目標があったからこそ、俺もフェムがなりたい自分へと導くことが出来た。


「サンだって、フィーアだって言ってたぞ。姉妹の仲で一番強くて父親に近いのはお前だってな。イスナだって、口にこそしないがお前のことは認めてる」


 アンナは黙ったまま、目線を下げたままじっと俺の言葉に耳を傾けている。


「でも、そうだな……苦労してるお前に一つだけ、俺から助言だ」

「助言……?」

「いいか? ただ漠然と四人全員と向き合うな。一人ずつで良いから、その個性をしっかりと理解してやるんだ。そうすれば、何を教えればいいかなんてすぐに分かる」


 俺から助言出来るのはこれが限界だ。後は本人に気づいてもらわなければいけない。


「一人ずつ……」

「そうだ。じゃあ、頑張れよ。俺は二週間、ゆっくりと休暇を過ごさせてもらうからな」


 椅子から立ち上がり、顎に手を当てて何かを考え込んでいるアンナを置いて退室する。


 そして休暇と言いつつ、その後もバレないように上階からアンナの奮闘を見守り続けた。


 二日目、三日目はほとんど初日と変わらず、不器用過ぎる長女にただ心労が募る一方だった。


 しかし、四日目に事態は急に動いた。

 サンが再びアンナへと戦いを挑んだのだ。


 なぜそうなったのか理由は分からない。

 今度は勝てると思ったのだろうか、それともまた別の理由なのか。


 とにかく、初日と全く同じ様に二人は拳を構えて向かい合っている。


 前回は審判を務めたイスナは、我関せずといった様子で椅子に座っている。


 だが、その目線は手にした本の方ではなく、しっかりと二人の方へと向けられている。


 フェムとフィーアは二人がまた戦おうとしている事に気づかず、疲れ果てて仲良く木にもたれかかっている。


 誰の合図もないまま、二度目となる二人の戦いが始まった。


 そして、数分後には前回と全く同じ光景が生まれていた。


 二人の間にある実力差は一日二日で埋められるようなものではなかったので当然の結果だ。


 両手両足を広げて仰向けに倒れていたサンが上半身を起こす。


 これはまた不貞腐れるぞと考えた直後、サンは意外に落ち着いた雰囲気でアンナと話し始めた。


 ここからでは口の動きが見える程度で何を言ってるのかは全く分からない。

 だが、悪くない雰囲気は伝わってくる。


 それからアンナがサンの側へと寄り、身振り手振りを交えて何かを教え始めた。

 それを受けてサンは立ち上がると、アンナの行った動作を真似し始める。


 言葉は聞こえなくとも、二人の間でどんなやり取りが行われているのかが分かる。

 その姿はまさに、武術に関する助言を俺に聞きに来る時のサンの姿だった。


 そう言えば俺に最初に心を許してくれたのもサンだったなと少し懐かしさを覚える。


 その後も、少したどたどしくもアンナはサンに丁寧に武術の指導を行い続けた。


 その日が終わる頃には、俺が僅かな嫉妬心を覚える程にサンはアンナに懐いてしまっていた。

 一方のアンナもまだ少し戸惑い気味だが、満更でも無さそうにも見える。


 続く翌日、アンナの行動にまた変化があった。


 ランニング中にフィーアとフェムが真っ先脱落するという光景はいつも通り。

 だが、今日はアンナが二人のもとへと駆け寄り、何か声をかけはじめた。


 屈んだ状態で二人と目線を合わせて喋り続けるアンナ。

 声を掛けられた二人は突然普段は疎遠だった長女の行動に少し戸惑いつつも、何度かやり取りを繰り返している。


 会話が終わると、フィーアとフェムは互いに顔を突き合わせて頷いた。

 そのまま立ち上がるとアンナに追走するように再び広場の外周を走り始めた。


 アンナは二人のペースを合わせて走っている。

 それだけでなく、時折後ろを振り向いて励ましの言葉をかけている。


 そうしていつもの倍以上の長い時間をかけながらもフィーアとフェムは完走を果たした。


 疲労困憊ながらも、やり遂げた表情で地面にへたり込んでいるフィーアとフェム。


 アンナは二人の頭をポンポンと軽く撫でたかと思えば、すぐに照れて背を向けた。

 ぎこちなくも姉として妹たちに接してみようと努力しているのが伝わってくる。


 それから毎日、アンナは俺の助言を以て妹たちと向き合った。


 一人一人の個性と向き合い。


 各々にあった訓練を提案し、上手く出来た時は褒める。

 上手くいかなかった時は激励し、時には叱責する事もあった。


 日が経つ毎にぎこちなさは消え、その振る舞いは自然な姉のものになっていった。



**********



 アンナとの約束の期限が翌日に迫った日の夕方。


「よう、今日もご苦労さん」


 夕日によって朱色に染まった広場。

 備えられた長椅子に座って黄昏れていたアンナへと近寄り労いの言葉をかける。


「ああ……誰かと思えばフレイか……」


 近寄ってきたアンナが俺に気づく。

 夕日に照らされるその顔は、心なしか普段よりも穏やかに見える。


「いよいよ明日で終わりだな。ここまでやってきた感想はどうだ?」

「感想か……そうだな……」


 アンナが再び広場へと視線を戻す。


「誰かの面倒を見るというのが、ここまで大変なことだとは思わなかったな……」


 そこで在った初めて姉として過ごした日々を追想するかのように呟いた。


「俺の苦労が少しは分かってくれたか?」

「ははっ、そうだな。本当に大変なものだ……」

「大変なだけだったか?」

「いや……確かに大変だったが、存外悪いものでもなかった。誰かにこうして慕われ……その成長を共に喜べるというのも……」

「おっ、それが分かるってことは教育係の才能がありそうだな。どうだ? 俺の代わりにこのまま続けてみるか?」


 冗談めかして尋ねるが、才能があると思ったのは本当だ。


 この役割の醍醐味を早くも理解したというだけではない。

 昨日今日と妹たちの面倒を見ているアンナの姿はかなり様になっていた。


 その姿を思い返すと、改めて魔王が課した試験の真意が理解出来る。


 あの試験はつまるところアンナが長女として妹たちを引っ張っていけるかどうかの気概を試したのだ。

 もっと簡単に言えば、アンナに『お姉ちゃん』になって欲しかったというわけだ。


 だが、それは簡単なように思えて意外と難しい。


 例えば、魔王が命令すればアンナは指示に従って妹たちの面倒を見ていただろう。

 しかし、上から押し付けられた役目では本当の意味での姉にはなれない。


 だから俺はアンナの目を一度、遠くにある目標から逸らす必要があると考えた。

 一度立ち止まり、もっと身近な物事に目を向けてもらおうと。


 全力で戦った末の敗北など、そのために用いた作戦は今思えば少々手荒だったかもしれない。

 それでも、あのまま魔王から不合格を言い渡されてアンナが終わりを迎えるよりは遥かに良かったはずだ。


「確かに、それも悪くはないかもしれないな。思えば私は、妹たちのことを何も知らなさすぎた……いや、それどころか一つしかない席を争う敵であるとさえ考えていた節がある。だが、違ったんだな……共に歩んで共に成長出来る……そういう間柄だったんだ……私たちは……」


 まるで憑き物が落ちたかのようなすっきりとした顔でアンナが更に続ける。


「今なら父上が私に何を求めていたのかもよく分かる……まあ、もう今更気づいても遅いがな……」


 自嘲気味に笑うアンナの顔には僅かな後悔の色が浮かんでいる。

 しかし、それ以上に大きな未来を見据えた強い意志があるのもはっきりと分かる。


「なあ、フレイ……」

「ん? どうした?」

「よければ……私に教育者としての在り方を教えてくれないか? 父上の後を継ぐという道が絶たれたからというわけではなく、純粋に……その道も悪くないと思ったんだ……」


 少し照れながらも、俺を見据えるアンナの目にはその言葉に嘘がないことを示している。


 教えてやりたいのは山々だが、この子にはその前にやるべき事がまだ残っている。

 個人的にはこのまま助手として働いてもらうのも悪くないが、そういうわけにもいかない。


「まあ、それは別に構わないが……。まずは二日後に向けて頑張らないとな」

「二日後? 約束は明日までではないのか? いや、伸びる分には構わないが……」


 今度は不可解そうな表情を見せるアンナ。

 それが少し可笑しかったので、もう少し引っ張ろうかとも思ってしまう。

 でも、流石に可哀想なのでネタバラシすることにしよう。


「そうじゃなくて、二日後にお前の再試験があるってことだよ」

「え……? 再……試験……? だって……私は負け……」


 予想外の言葉だったのか、アンナは文字通り目を丸くしている。


 自分は全力を尽くした上で負けた。


 だから試験の機会は二度と得られないと思っていたらしい。


「ん? 俺は一言でも負けたら再試験は無しだなんて言ったか?」


 俺との賭けに勝てば合格扱いにしてやるとは言った。

 しかし、武術大会での勝敗で再試験が決まるだなんて言った覚えは無い。


「でも……父上は……」

「大丈夫だ。ちゃんとお前の親父も納得した上での再試験だ。安心しろ」


 人間界から帰って来てからのアンナの振る舞いはロゼに逐一報告させてもらっていた。


 その上でしっかりと父親から再試験が認められた。

 当初言ってた通り、もう一度失敗すれば俺のクビは飛ぶらしいがもう何も心配していない。


 今のアンナならあの父親に対して、立派に長女の気概を示してくれることだろう。


「本当なのか……?」

「ああ、本当だ。だから次はしっかりやるんだぞ。


 涙が溢れないように腕で抑えるアンナの頭をポンポンと軽く叩くように撫でてやる。


 頭の下から小さな嗚咽混じりの泣き声が聞こえてきた。

 今日だけは長女の名誉の為に、それは聞かなかったことにしておいてやろう。



**********



「よーし! 今日は気合を入れてやるぞ!」


 今日はアンナが俺の代理を務める最終日。


 広場に集まった五人全員に向かって声を張り上げて宣言する。


「あれ、フレイは休むんじゃなかったの?」

「いや、休暇は昨日までにした。あんまり休みすぎると身体が鈍るからな」

「ふーん……」


 ここに来て俺も協力することにしたのは、もちろんアンナが明日再試験に挑むからというのが大きな理由だ。


 別にあっという間に妹たちに懐かれていくアンナに嫉妬したわけじゃない。

 そろそろ存在感を示さないと全部持っていかれるんじゃないかと思ったわけではない。


「しかし……ああ、ようやくって感じだな……」


 この場に五人全員が揃っている光景を眺めて、感慨深い思いが胸中に湧いてくる。


「ようやく……?」


 一番手間をかけさせてくれた長女が首を傾げている。


「いや、何でも無い。それより今日はビシバシいくからな? 覚悟しとけよ?」


 一つの到達点ではあるが、一つのスタート地点でしかないと次回して皆にそう告げる。


「ああ、望むところだ!」


 昨日泣いていた名残を目に残しているアンナが気合の入った声で応じてくれる。


「んじゃ、今日はあたしもアンナ姉にはビシバシいかせてもらおうかな。この二週間で本当に色んな意味でお世話になったしね。にゃはは」

「私も……お返し……」


 一歩前に進み出て、アンナへの支援を申し出るサンとフェム。


 明日の試験に備えて今日一日で出来ることはそう多くはない。

 それでも今のアンナにとっては妹たちからの応援が何よりの力になることだろう。


「わ、私もお手伝いさせていただきます!」


 フィーアも二人に負けじと一歩前に出て声を張り上げる。


「……そうだな。フィーアは後ろから声援でも送ってやってくれ」


 流石にフィーアが戦闘訓練に混ざるとそっちの心配の方が大きくなってしまう。


「はい! 精一杯頑張ります!」


 フィーアの返事の後、皆の視線は自然とまだ意志を表明していない最後の一人へと集まる。


 結局、イスナだけはアンナと打ち解けたところを見ることは叶わなかった。


 この二週間、イスナは俺と同じようにアンナの様子を遠くから眺めていた。

 しかし、自分から関わりに行こうとすることは一度もしなかった。


 もし俺が一言仲良くしろと言えばイスナは従ってくれるだろう。

 だが、それでは何の意味もない。


「……私は別に用事があるの」


 それでも最終日くらいはという期待もあっさりと打ち砕かれた。


「用事? でもロゼからは何も聞かされてないぞ?」


 いつもなら用事がある時は本人か、もしくはロゼから前もって聞かされるはずだ。


「ええ、ちょっと急用が入ったのよ」

「急用か、それなら仕方ないな……」


 そう言いながら、その目を見て真意を探る。


 アンナの手伝いをしたくないから嘘をついているとは思いたくはない。

 それでも、ここに来て用事というのは流石に唐突すぎる気もする。


 嘘をついているようには見えないが、夢魔であれば感情を隠すことはお手の物だろう。


「ごめんなさいね。それじゃ」


 イスナはそう言うとすぐに若干速歩きで屋敷の方へと戻っていった。


「イスナ姉がフレイから離れるなんて珍しい……ここしばらくはまともに会えなくて悶てたのに……」


 サンが訝しげにしている隣で、アンナはイスナの背中を少し複雑な表情で見送っている。


「まあ、そういう時もあるだろう。それじゃあ早速やるぞ!」


 せっかく五人全員が揃ったと思ったので残念だが深く追求しすぎても仕方がない。


 他の三人とは打ち解けてくれたんだ。

 いずれはイスナとのわだかまりも解けていくことを期待するしかない。


 そう考えながら、アンナの試験へと向けた訓練を始める。



**********



 訓練を初めてからおおよそ四時間後、太陽がちょうど頂点へと到達しそうな時間帯。


 俺の目に前には全身を汗でびっしょりを濡らして息を切らすアンナの姿があった。


「はぁ……はぁ……これほどに強かったのか……フレイは……」


 地面に座り込み、呼吸で胸を大きく上下させながらアンナが呟く。


「まあ、これでもお前に勝ったあの子の師匠だからな」

「本当に……もっと早く教えを乞うべきだったな……」

「そうかもな。でも、まだ遅くもないさ。合格さえすれば時間はいくらでもあるんだからな」

「でも、ほんっとに容赦なさすぎ……アンナ姉と二対一なのに全然敵わないって……」

「サンちゃん……大丈夫……?」

「お水、飲む……?」


 いつものように両手両足を広げて仰向けに倒れているサン。


 フィーアとフェムはその姿を心配そうに眺めている。


「さて……そろそろ昼食だし、一旦休憩にするか」

「うわ……もうそんな時間になってたの……? どーりでお腹減ったと思ったー……」


 そう言いながらお腹を抑えているサンを見ていると、屋敷の方から誰かが近づいてくる気配がした。


 その方向へと視線を移すと、イスナとロゼが俺たちの方へと向かって歩いて来ている。

 二人の手には何か籠のような物が握られている。


「イスナ? どうした、用事があるんじゃなかったのか?」

「その用事が終わったから持ってきてあげたのよ」


 イスナが手提げの籠を俺たちへと向かって掲げる。


「ん……? 何か良い匂いがする……?」


 サンが鼻を鳴らしながら言ったのに少し遅れて、俺の鼻にも食欲を唆る匂いが漂ってきた。


 それがイスナたちが手に持った籠から漏れ出てきていることがすぐに分かった。


「ほら、これ。どうせ昼からもやるんでしょ? だったら、その場で食べられる方がいいと思って作ってきてあげたのよ」


 イスナが俺に向かって差し出したのは、パンに様々な具材を挟んで作られた軽食。

 籠の中には、それが所狭しと大量に詰め込まれていた。


「全く……素直じゃないな、お前は……」


 つまりはイスナの用事というのは、姉の訓練のために昼食を作ることだったというわけだ。


 それなら最初からそう言えばいいものを……。


「べ、別に素直とか素直じゃないとかじゃなくて! 戦闘訓練で私に出来ることなんてたかが知れてるから! それならご飯でも作ってあげた方がいいのかなって思っただけで……と、とにかく! ほら、貴方たちも! いっぱい作ってきたから食べなさい!」


 照れを隠すようにテキパキと、イスナが妹たちにお手製の昼食を一つずつ手渡していく。


「……ほら、あんたの分も」


 そして、最後にアンナへと向かってぶっきらぼうに差し出した。

 それに挟まれているのは食事の際、アンナがいつも最後に食べている好物だ。


「イスナ……」

「何よ、その目は……」

「いや、君にはまだまだ嫌われているのかと思っていた……」

「別に……今も好きかって言われたら微妙だし、昔から散々な目に遭わされたのは一生忘れないわよ」


 姉の顔を見据えながら、イスナは言葉を濁すことなく率直に言う。

 過去に何があったのかは知らないが、その恨みは深いらしい。


「でも……最近のあんたは少しは反省して頑張ってるみたいだから、多少は協力してあげてもいいかなって思っただけ! それだけ! 分かった!? 分かったならさっさと受け取って食べなさいよね! 一咀嚼ごとに私への感謝を忘れずによ!」


 顔を真赤に紅潮させたイスナが、今度はその照れを隠すように早口で捲し立て始める。

 妹たちはあまりにも可笑しなそんな姉を見て、笑いが漏れないように必死で堪えている。


「あ、ああ……頂こう……」


 次女の素直じゃない激励を受けたアンナが手を伸ばして差し出されたそれを受け取る。


「うむ、美味いな……ありがとう、イスナ」


 そして、一口齧ると薄い笑みを浮かべながらイスナへと向かって素直な感謝の言葉を口にした。


「アンナ姉ぇが、ありがとう……だって……」

「はじめて……聞いた……」

「え、えーっと……流石にアンナ姉さんと言えども、そんな事は……ある……かもしれませんが……」


 妹たちは皆、長女の口から出た率直なお礼の言葉に目を丸くして驚いている。


「し、失礼だな……私だってたまには礼くらい言うさ。それに感謝しろと言ったじゃないか」

「全然足りないわよ! 彼とイチャイチャするのを我慢して作ってあげたんだから! もっともっと感謝なさいよ!」


 見ているだけで頬が緩んでしまう五人姉妹による団欒の光景。


「……どう思う?」


 いつの間にか隣に立っていたロゼに、眼前の微笑ましい光景についての感想を求める。


「そうですね……やはり、貴方が最も適任でしたね」

「本当にそう思うか?」

「はい、最初からずっと思っていました」

「実は、俺もそうなんじゃないかと思い始めたところだ」


 あの教室で初めて出会った時と比べて本当に大きく成長してくれた。


 今は俺がそれを成したという自負もある。

 だから、たまにはこのくらい得意げにしてみせても誰も文句を言わないだろう。


 ロゼからそれ以上の返事は無い。


 だが、相変わらずの無表情が何故だか俺には嬉しそうに笑っているように見えた。

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