第15話:一方その頃
――フレイがサンとイスナに世の中の厳しさを教えていた頃。
ルクス学院の生徒指導室でリリィとアリウスが机を挟んで向かい合っていた。
背筋を伸ばし、凛とした表情で毅然としているリリィ。
対してアリウスは机の上に腕を置き、身体を前のめりにした詰め寄るような体勢を取っている。
「マイアくんの怪我は全治一ヶ月だそうだ」
「そうですか」
最初にそう告げたアリウスに対して、リリィは特段の感情が込められていない淡々とした口調で返事をする。
「心が傷まないのかい? 彼女は迫る武術大会に向けて頑張っていたというのに……嗚呼、不憫でならない……」
「それは気の毒ですが、実戦を想定した修練中の事でしたので」
「修練とはいえ相手を気遣うのが当然の振る舞いではないか? それをあんなひどい怪我を負わせて……」
アリウスがリリィに対して更に詰め寄る。
しかし、策を弄してリリィに全治一ヶ月でない程の怪我を負わせようとしていたのがマイアの方であるのは誰もが知っている。
仮にあれが修練中でなくとも正当な防衛が認められる状況だったのは明らかだ。
それがアリウス班のマイア相手でなければ。
「それで、アリウス先生は私に何をご要望なのでしょうか?」
「そうだな……。では、マイアくんの怪我が治るまで君が世話を見てあげたまえ」
お付きの侍女のように、そう続くような語調でアリウスがリリィへと告げる。
それは憎き相手を顎で使える立場を与えてやれば、あの婚約者の機嫌も多少は治るであろうとアリウスは考えた。
「お断りします」
コンマ一秒の間もない即答。
「なっ!? 自分が怪我を負わせた相手の世話を見ることすら拒否するのかい?」
「はい、私にその義務はありません。それは彼女の班員にお願いしてください」
フレイとの約束を果たす為に、一分一秒たりとて無駄にできない。
そう考えているリリィにとっては当然の返答であり、正論でもある。
既に戦闘不能になった相手にダメ押しを行って怪我をさせたのならともかく、この事例においてはリリィに責は全くない。
むしろ、本来であれば怪我をした側の鍛錬不足だと判断される事例である。
「はぁ、級友に怪我を負わせたあげくその世話まで断るとは……。全く嘆かわしい……担当教員に一体何を教わっているのか……」
アリウスが手で頭を抱えながら大きなため息をつく。
その言葉に、これまで無表情を貫いていたリリィの表情が一瞬だけ揺れる。
当然、アリウスもそれを見逃しはしなかった。
「現担当教員のアトラ……。いや、
フレイを示しているのがリリィに間違いなく伝わるように、アリウスが言う。
アリウスにとって為す術もないく学院から追放されたフレイは敗北者に他ならない。
そんな奴をいつまでも慕っているリリィはマイアとは無関係に度し難い存在である。
これを機に
「これだから私は反対だと言っていたんだ……。平民の採用枠なんてものは……」
アリウスは独り言のようにそう呟く。
それを聞いたリリィの胸中に、ある感情とあの時から抱いていた疑念がふつふつとこみ上げ始める。
「学院長や理事会にまた進言しないといけないな。このままでは
一連の言動から、リリィは目の前にいるこの男こそが敬愛する恩師を陥れた首謀者であると確信した。
「とにかくだ! 怪我が治るまでマイアくんの面倒を見てあげたまえ! いいな! 君もあの男のように―――ぶはっ!!」
大きな声で更に詰め寄り、『あの男のようになりたくはないだろう』と言いかけたアリウスの顔に何かがぶつかった。
あまりにも唐突なそれに、虚を突かれたアリウスが大きくのけぞる。
顔に当たった物体が机の上にばさっと音を立てて落ちる。
真っ白な手袋。
それにはまだ直前まで装着していた人間の体温が残っている。
「なっ、何をしている……」
顔に手を当てて困惑するアリウス。
机の上に落ちた手袋と、それを投げた後も平然としているリリィを交互に見やる。
「ご存知ありませんか? 古来から伝わる決闘を申し込む作法ですよ」
リリィはこれまでアリウスに対して見せたことがない柔らかい笑顔を向ける。
「そ、それくらい知っている! 何故そんな事をしたのかと聞いているんだ!」
困惑から一転、アリウスが強い怒りを露わにする。
部屋の外にも響き渡りそうな大声。
しかし、生徒指導室は他の教員や生徒達がほとんど来ない場所に設置されている。
その声を聞いて誰かが駆けつけてくることはない。
それが誰にとって幸か不幸かはこの時点ではまだ分からない。
「アリウス先生はどうしても私にマイアさんのお世話をさせたいようですが、私は絶対に嫌です。死んでもお断りです。なら、これで決めるしかないと思いまして」
リリィが掃除の当番をじゃんけんで決めるような気軽さで言う。
「ふ、ふざけるな! フォード家の次男たる私がこのような事で! け、けけ決闘など!」
「たかが平民、それも生徒からの決闘はお受けできない……と?」
決闘は、古来より貴族同士が揉め事の決着をつける為に行われてきたものである。
過去には貴族がその威を示し、従わせるために平民を相手取った事例もいくつかは存在していた。
「当然だ! 貴様……こんな事をしてどうなるのか分かっているのか!」
「さあ、どうなるのでしょうか? 私もこの学院から追い出されますか? ……先生のように」
リリィがアリウスの顔をほとんど睨みつけるような力強い視線を向ける。
私は気づいているぞという意思を込めて。
「ぐっ……。貴様、何を言って……」
「さぁ、ご自分が一番ご存知なのではないでしょうか? それで、お受けになられないのであれば、この話は無かったという事でよろしいですか?」
リリィは立ち上がり、部屋から出ていこうとする。
「ま、待て!」
生徒、それもたかが平民に舐められたままでは終われない。
そう考えたアリウスがリリィを制止する。
「どうされましたか?」
リリィが振り返り、アリウスを見据える。
彼女の瞳には名門出身の教員に対して一切の気後れもない。
今この場を支配しているのはどちらか、誰の目から見ても明らかな状況。
「平民のガキの分際で……あまり大人を、貴族を舐めるなよ……」
この状況を覆すには、机の上に投げ出されている手袋を取ればいい。
その上でリリィを正式な決闘の元で叩きのめしてやればいい。
そうすれば全てが丸く収まる。
アリウスはそう考えるが、発せられた強い言葉とは裏腹に握りこぶしが机に押し付けられて固まったまま動かない。
その理由は単純明快。
自分の実力と眼の前の少女の実力を秤にかけて、確実に勝てる展望が浮かばないからだった。
「ご安心ください。何もないのであれば口外しません。アリウス先生の名誉に傷つきはしませんよ」
今すぐにでも先生を返せと、アリウスに食って掛かりたい程の気持ちを抑えながらリリィが余裕の表情でそう告げる。
そもそも平民である自分がそんな事を口外したところで大した効力はない事はリリィも重々承知している。
それよりもこんな益もない事は一秒でも早く終わらせたい。
一秒でも早く先生を迎えにいくための自己鍛錬に戻りたいと彼女は考えている。
「ぐっ……」
アリウスが苦悶の表情を浮かべながら唸る。
たかが平民によるこんな捨て身のようなやり方に良いように翻弄されるわけにはいかない。
だが、もし決闘を受けて負けてしまえば平民に敗北を喫した貴族として歴史の汚名を残す。
そうなれば学院どころかフォード家にも自分の居場所はなくなってしまう。
しかし、マイアに見得を切った手前、このままリリィを黙って帰すわけにもいかない。
アリウスの思考は迷宮に迷い込んでしまったかのように同じ場所をぐるぐると回り続ける。
そして――
「もういい……出ていけ……」
顔を伏せたまま苦渋の決断を下す。
その言葉を聞いたリリィは何も言わずに机の上に置いてある手袋を掴んでそのまま部屋の外へと出ていく。
自分以外誰もいなくなった部屋で、アリウスは握りしめた拳を机に叩き落とした。
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