それぞれの複雑な思い

 帰ってきたはいいけれど、亜貴は食事もあまり喉を通らなかった。

「何かあったの?」

 奈津の言葉に、何でもないと答えて、お風呂に入る。


 ーー「嫌な臭いじゃない」


 刻の言葉を思い出して、なぜかいつもより念入りに身体を洗ってしまった。布団に入ってもなんだか寝付けず、ぼんやりと天井を見る。焔を裏切ってるような嫌な感じがした。本屋での出来事が脳裏に蘇る。その度に事故よ、と自分に言い聞かせた。

 ようやく眠れたと思ったら目覚ましが鳴った。六時半だった。バシンと時計を止めて部屋に貼られているカレンダーを見る。

「……今日、日曜じゃない」

 目覚まし時計を恨めしそうに見て、亜貴はもう一度布団をかぶった。

 亜貴にしては珍しく昼近くまで寝ていて、起床して階段を下りていくと両親の姿はなく、映画を見に行くとだけ伝言があった。

(娘一人置いて映画……)

 亜貴の両親は仲が良い。それだけに亜貴は結婚に夢があった。いつか本当に好きな人と一緒になりたい。でもそれは焔でははないようだ、と思うとやっぱり悲しい。その後一瞬刻の顔が浮かび、亜貴は「ないない」と全力で否定した。昨日、刻を置いて帰る際に購入だけしていた少女漫画を開いた。あるシーンに、亜貴は自分の顔が赤くなるのを感じた。

(また思い出してしまった。事故。あれは事故。唇と唇じゃないんだから、キスなんかじゃない)

 結局少女漫画を読むのを諦めて、亜貴はリビングのソファーに座るとテレビをつけた。

(好きな人が変わるなんてことあるのかな)

 テレビをぼんやり見ながら亜貴は考えた。焔は亜貴の初恋の人だった。初めて男性を異性として意識した。顔を見られたらそれだけで幸せ。焔の存在で学校生活が以前より楽しくなった。……そして初めての失恋。

(失恋したからってすぐに先輩への気持ちがなくなるわけないんだよね)

 恋愛にも授業があればいいのに、なんて思ってしまう。今後焔以上に好きになれる男性ひとが現れるのだろうか。でもそれはどこか寂しいことのように感じた。今の気持ちは永遠じゃないのだ。こんなに好きなのに。

(この世に永遠の愛なんてあるのかな。

……あればいいな)

 そう、亜貴の両親のような関係。それが自分にとってはベストだ。

 でもまだ見ぬ王子様を探すより前に、今は焔のことだ。どうやったらさゆりとうまくいくだろう。喫茶店で刻が言っていたことを思い出す。できることは限られてる、それは事実だと思う。でも、でも何かしたいのだ。

(とにかく樋口先輩が円上先輩を好きという確信がまだないから、そこをこの目で確認して、それから、それから?

二人であの喫茶店で会わせて……。その後が思いつかない……)


 ふうとため息が出た。もはやテレビの音は耳に入っていなかった。

(うーん、刻と考えよう。

待って、でも、刻とどんな顔して会えばいいの?!)

 無意識に唇を親指で拭った。

 気まずい。今日もあまり眠れないかもしれない。



****




「うわあー!」

 刻は思わず叫んで、自分の声で目を覚ました。いつもの見慣れた天井が見える。

(夢……)

 ほっと胸を撫で下ろす。が。

(何でこんな夢見んだよ、俺!)



 初めてのことだった。女子が夢に出てくるなんて。

 しかも。

 柔らかな感触を思い出して、ぐいと自分の唇を拭う。自分は変態なのかと思い、頭を抱えた。今日、どんな顔をして亜貴に会えばいいか分からなかった。

(だ、大丈夫だ。亜貴には俺の見た夢なんて分かりゃしねぇんだから)




****



 終業のチャイムが鳴っている。寝不足で痛む頭にチャイムの音が響き、亜貴はこめかみを押さえた。昼休みになったと思うとますます気持ちが沈んだ。今日も一緒に昼食をとるのだろうか。いつも通り刻が来るようなら、男女の感覚の違いを感じざるを得ない。はあ~と息を吐いて亜貴は机に突っ伏す。

(今日は約束してるわけじゃないから、いつもの場所に行かなくてもいい、かな?)

 勝手に理由を付けて気をとりなおし、自席で弁当箱を開けた。食欲はなかったが、作ってくれた奈津に申し訳ないので少し手をつけた。余った分は夕飯のときに食べよう。

 刻はいつものベンチに行ったのだろうか? 少し罪悪感を覚えた。


 刻は結局昼休み亜貴の前に現れなかった。




****



 刻は亜貴の教室に行こうか迷っていた。でも行っても今日は避けられるかもしれない。きっとあの接触事故のこと、怒ってるだろうから。もう一度謝りたい。その気持ちは強かったが、情けないことに席を立つ気になれない。今朝見た夢が蘇る。亜貴の顔を見て平常心でいられる自信がなかった。

 結局、刻は自分の教室から出ることなく昼食をとった。会わない安堵と会えない焦燥。味わったことのない奇妙な気持ちに刻は戸惑う。ただ数日一緒にいた、それだけで以前とは違った見方で女子を見ている。相手が誰であってもこうなるのだろうか?  例えば告白してきたあの女子と付き合ってみても?


 思い出して少し心が傷んだ。悪いことをしたと今なら思える。

(でも、気持ちもないのに付き合うのもどうなんだ?)

 そう思う自分もいた。接触事故直後の亜貴の顔が思い出される。泣く寸前のような顔だった。

(俺とはそういうことは考えられないってことだよな)

 まあ、付き合いだした理由が理由だし、亜貴は厄介なことに焔が好きなのだから当然の気もしたが、そのことに少し傷つく自分がいた。焔だったら亜貴は拒まなかったかもしれない。そう思うとかなり面白くなかった。

(一方で俺は……どうだろう。分からないけれど、キスは好きな子との方がいいんだろうな)

 また今朝の夢を思い出して、ぶんぶんと頭を振った。

(別に、亜貴としたいわけじゃねぇし)

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