その涙さえ命の色 〜めぐりあい〜

野森ちえこ

涙の色

 ――苦労なんて、しなくてすむならしないほうがいい。


 あの人はそういった。上の世代の人たちはみんな『若いときの苦労は買ってでもしろ』というものだと思っていたから、すごくびっくりしたことをおぼえている。


 ――年くったやつがな、若いときの苦労はぁーとかもっともらしくいうのは、嫉妬なんだよ。それか復讐。今の若いやつらが、むかしの自分よりも楽してるのがイヤとか、自分が味わった以上の苦労を味わわせたいとか、そういうくっだらねぇ感情が根底にあるんだよ。


 そういうあの人もけっこうな年だったし、おそらくとても苦労してきた人だ。そうでなければ、


 ――たとえばずっと、強い力で上から押さえつけられていたら背骨がまがる。つらい涙を流しつづけたら、心は荒れてひからびる。


 そんな言葉はきっと出てこない。


 ――人は苦労したからやさしくなるんじゃない。たくさんの涙が心を強くするのでもない。ほんとうにつらくて苦しくてどうにもならない、そんな『底』にいるとき、誰かの、なにかの『やさしさ』にふれることができた幸運な人間が、苦労を成長につなげられたというだけなんだ。


 だから。

 だから。


 逃げていい――と、あの人はそういってくれた。


 誰に相談しても『がまんしろ』といわれた。まだ入社してたった一年だろう――と。誰だって新人のときは苦労するものだ、と。そんなにすぐ逃げていたら、どこに行ってもやっていけない、と。


 早朝から深夜まで働いて働いて、休日出勤もあたりまえで、先輩にはミスを押しつけられて、上司には挨拶がわりのように怒鳴られる。それを『おまえのため』だと『若いときの苦労は買ってでもすべき』だと、誰からもがまんと感謝を要求される。


 疲れてしまって、わからなくなってしまって、ぼくはある日、会社に向かうのとは逆方向の電車に乗っていた。そうしてたどりついたのは、名前も聞いたことがない終着駅。外に出ると潮の香りがした。ふらふらと足は自然と海のほうに進んで、そして、あの人と出会った。



 ◇



 ――なんだ兄ちゃん。魂抜けちまったような顔して。ちょうどいいや。ちょっとつきあえ。


 砂浜におりる手まえの道で、すれちがいざまにいきなりそういわれた。こちらの都合も聞かず、がしっと肩を組まれ、そのまま自宅につれていかれたのである。そのときのぼくに、抵抗する気力はなかった。


 そこはむかしながらの、縁側のある日本家屋だった。


 ほんとうは、話すつもりなんてなかった。出会ったばかりの赤の他人だ。しかもあの人は父親と同年代で、いかにも『苦労は買ってでも――』といいそうなタイプに見えた。


 だけど、縁側であたたかいお茶を飲んだら、こらえるまもなくあふれてきた涙が止まらなくなった。


 あの人の豪快で、繊細で、おおらかな、なんともいいがたい不思議な雰囲気が、ガチガチにこわばっていた心のガードをはずしたのかもしれない。


 いずれにしても、気がついたときには洗いざらい話していた。すべて話して、ああ、また『がまんがたりない』とか説教されるんだろうな……と思っていたのに。


 ――苦労なんて、しなくてすむならしないほうがいい。


 あの人は、そういったのだ。


 そして、ちいさな子どもにするみたいにグシャグシャと頭をなでくりまわされて、その手があたたかくて、またすこし泣いてしまった。


 ――知ってるか。涙にも色がある。兄ちゃんのそれは、血の色をしてる。自分の命と会社。どっちが大切か。考えるまでもねぇだろ。



 それから一か月後。

 ぼくは会社をやめた。


 会社をやめて、無職になってしまったわけだけど、ぼくの心は晴れやかだった。


 どうしてもお礼をいいたくて、ぼくはあらためてあの人に会いに出かけた。だけど、いくら捜しても、あの人の家はみつからなかった。いや、あの人の家があったはずの土地が駐車場になっていたのだ。おかしなことに、あの人の名前も思いだせなくなっていた。たしかに聞いたし、表札も見たはずなのに、いくら記憶をほじくりかえしても出てこない。意味がわからなくて、しばらくそこで途方に暮れていた。


 そのとき、彼女が声をかけてくれたのだ。



     (つづく)



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