第三章『名前のない怪物』

☠ Ⅰ ☠

 女王の覚醒から六日、玖朗が目を覚ましてから三日後の『KID』事務所――、

「……おかしい。晴れて見習いを卒業したハズなのに、この三日間ずっと事務所に篭りっぱなしで書類の整理しかしてない。僕の助けを待ってる依頼人はどこ? ここ?」

「何を馬鹿なこと言ってるのよ。見習いを卒業したから書類に触らせてあげてるんでしょう。光栄に思ってせっせと片付けなさい。そうじゃなくてもこの一ヶ月間、あなたのでろくに処理出来なかったんだから。この状況はある意味自業自得よ」

「……うっす」

 玖朗と灰音は前のめりになり、延々と書類を片付けていた。

 ガラステーブルには山積みの書類が置かれており、今にも底が割れて抜けそうだ。

 足元には琥珀から差し入れられた〝怪人ヴィラン〟用栄養ドリンクの空瓶がゴロゴロと転がっており、玖朗と灰音の目下にはどす黒いクマが出来ていた。

「〝怪人〟じゃなかったら死んでる気がする。労働基準ガン無視な事務所に雇われたなあ……」

「うひゃひゃひゃ、安心しろよクロウ。外界の社会じゃこのぐらい珍しくもねェらしいぞ」

「マジで言ってるんスか? え、何それ怖いッス」

 玖朗は書類から目を離さないまま、チェアに座す仁に受け答えをする。口を動かそうとも、手は一切の淀みなく動く。

「そもそもの話、法もなんもねェ〝怪物街〟で労基を訴えたところで無意味だがなァ」

「まぁ、労働基準は最悪置いといても良いんスよ――何で仁さんは書類整理手伝わないで悠々と酒を嗜んでるんスかねぇ!?」

 耐え切れなくなった玖朗が頭を上げ、仁に怒号を飛ばす。その際、持っていたボールペンを真ん中から圧し折ってしまった。

 書類がなくなったプレジデントデスクの上には、先日使用した野太刀が置かれており、仁が手入れをしている真っ最中だった。その横には高級そうなウイスキーのボトルと、氷の入ったグラス、そして灰皿とタバコが並んでいた。

 必死になって玖朗と灰音が書類を始末しているというのに、なぜ仁だけは優雅な休日の一時を過ごしているのか、これが納得いかなかった。

「せめて一緒にやれ! 一緒に辛い目を見ろッ」

「うわあ、日本人ジャパニーズの嫌な体質が出たよ。自分が苦しいからって周りまで巻き込もうとしやがんの。あー、ヤだねェ。だからブラックがなくならないんだぜ?」

「や、そもそもボスであるアンタが率先して取りかかるべきでしょーがよ! 今ここで日本人のブラック体質とか持ち出さなくていいんですよ!」

 バンバンバン、とソファーを叩く。テーブルを叩くと黙々とペンを走らせている灰音の邪魔になるだろう、という配慮だ。揺らそうものなら八つ裂きにされること必至に違いない。

「んー、手伝ってもいいんだけどよォ」

「……だけど、なんスか」

「俺の書類を直すのに通常の三倍ぐらい手間がかかるけど、それでもいいか?」

「仁さんはそこで酒飲みながらまったりしててください!!」

「アイアイサー」

 なるほど、灰音が文句を言わないワケだ。

 灰音から手渡された新しいボールペンを握り、また書類へと向き直る。

「うう、僕が誰かのために力を振るえる日はいつになるの……?」

「少なくとも、この書類をどうにかしない限りは永遠に訪れないわね。それと、会話に脳みそのスペック回してる暇があったらもっと高速で手を動かしなさい、この愚図」

「考えなくても手が動くぐらいには素早くやってるよ!」

「すげーな、それ。もう首から下はオートパイロットみてェなものじゃねェか」

 まるで他人事のように仁が軽口を言う。

「両手でその速度を維持出来るようになってから口を開きなさい、のろま」

「そんなのマシーンじゃないか! いやだいいやだい、僕は血の通った人でありたいんだい!」

 徹夜が続いたせいか、テンションがおかしなことになっている玖朗。普段の灰音ならそこに容赦のない言葉の暴力を浴びせかけてきただろうが、彼女も徹夜続きでキレが鈍っていた。

 ――結局、灰音が暴言を吐かなかったのはあの日一日だけであった。病み上りの玖朗に配慮しての、スペシャルサービスデーだったのかもしれない。しかし言われようのない、理不尽な罵詈雑言はめっきり減ったように思われる。琥珀の言った通り、玖朗が変わったから灰音の態度が変わったのだろうか。その真相は彼女本人だけが知っている。

 はぁ、とため息を吐くと、灰音は筆を止めた。大概のことでは手を止めなかった彼女がそうするのが珍しくて、玖朗も思わず釣られてしまう。視線は自然と、彼女の顔を見ていた。

「大体ね、その誰かのためにって言うのをやめなさい。偽善と幻想は捨てろと言ったハズよ。そのままじゃああなた、死ぬわ」

 その言い様に玖朗はむっとし、灰音を睨み返す。

「前も言われたけど……僕が口先だけじゃないってのは証明しただろう? それに、死ぬことよりも恐ろしいことは、あるよ」

「確かにあなたは子犬一匹のために命を賭ける、大馬鹿者よ。口先だけじゃないのは痛感させられているわ。でも、だからこそよ。死ぬことよりも恐ろしいことはあるのかもしれないけれど、あなたこのまま誰かのために命を投げ打ったら、きっと後悔する」

 恐怖と後悔は別物よ、と灰音が付け加えて言う。

「誰かのために力を振るい続ける限り、あなたは二度目の死も後悔する。一度目は、現実に押し潰された。二度目は、きっと理想に押し潰される」

「……?」

 灰音の言っている意味がわからず、玖朗は眉をしかめる。チェアに深く腰掛け、黙って話を聞いていた仁のほうへ助けを求めた。すると彼はわざとらしく肩を竦め、やれやれと言ってみせた。

「言いたいことは少し違ェが、俺も概ね灰音と同じ意見だなァ。その誰かのためにっていうのはやめたほうがいいぜ。特に薄汚れたこの街じゃあ、その自己犠牲の精神は輝いて見えるかもしれねェが、クソほどの役にも立たねェから捨てたほうがいい。路地裏の利己的なチンピラ共のほうがよっぽど賢い」

「……でも仁さんは、僕のそういうところを認めてくれたからバイト見習いを卒業させてくれたんじゃないんですか?」

「目に見える行動の話じゃあなく、それに伴う動機の話だな、こりゃあ。心の問題と言ってもいい。要するに不純なんだよ、お前の動機は。灰音が偽善って言うのもわかるぜ」

「……?」

 自己犠牲が不純だと言うのならば、何が純粋だと言うのだろうか。玖朗にはそれがわからなかった。

「おっと、勘違いするんじゃねェぞ? お前の何者かになりたい、泣いてほしいって願望を否定してるワケでもなければ、ましてや貶してるワケでもないんだぜ? 個々人の願いだ、誰にも口を出す権利はねェさ。ただお前のその望みは、一歩踏み込みが足りないのさ。切実さが、伝わってこねェんだよ」

「そんな、僕は――」

「――つゥか、誰かって誰だよ。願望が、そんなにぼんやりしてていいのか? そんなんでお前はいざって言う時、本気で他人のために力振るえンのか? 誰かのために、なんて言ってるやつァ、いずれ失敗した時、その責任を誰かに押し付ける」

「……ッ」

「正義の味方も良いけど、もっと他に味方するやつがいると思うけどねェ」

 ちらり、と仁が玖朗を見る。

「……」

 言い淀む玖朗。対して仁はと言うと、玖朗の反論を待つかのようにして、ゆったりとタバコの煙を吸い込み、吐き出していた。

 玖朗が言い返せないとわかるや、灰皿にタバコを押し付けて、火を揉み消す。

「ま、今は何かに付けて働きたい時期なんだろうさ。依頼を成功させたっていう達成感もあるだろうし。自分の部屋でシコシコやってるやつ試してみてェんだろ」

「あっ、なっ、なん、何で仁さんそのこと知ってるんですか!? てか言い方どうにかしてくださいよ! 僕が変なことしてるって灰音ちゃんに誤解されるでしょーが!」

「誤解も何も、私もあなたがシコシコしてるのはすでに知ってるわよ。人狼の五感を侮らないでほしいわね」

「だから表現ッ!!」

「そう過剰に反応するなよ、童貞がバレるぞ」

「るっさい!」

「まぁまぁまぁ。誰しも手に入れたら試したくなるよなあ――新しい能力」

「最初からそう言ってくださいよ!」

 女王から再び体を奪取してからというもの、吸血鬼としての力が顕在化したのか、今まで使うことの出来なかった能力の悉くが、十全ではないが行使出来るようになっていた。

 わずかな休憩時間を見つけては、新たな能力の数々の訓練を秘かに行っていた。特別、力を入れて鍛錬しているのは強力無比な《血因能力ブラッドアーツ》――名を《鉄血魔装ドラクリヤ》と言っただろうか、それに心血を注いでいた。

 もっとも出来上がる武装の数々は実戦で役にも立たない不細工なものばかりなのだが。

「能力の鍛錬もいいが、俺と灰音の言った意味を考えてみるこったな」

 言葉に翻弄される玖朗を見て楽しむように、くつくつと仁が笑う。

 しかしだ――、

「……や、それよりも先に書類どうにかしないと、どっちにも集中出来ませんって」

「……それもそうね」

「おう、頑張れ。俺ァ陰ながら応援してるぜ」

 玖朗と灰音は書類に向き直り、仁はウイスキーのグラスを手に取った。

 しばらくの間、カリカリと筆が走る音と、氷が揺れるカラン、という音だけが事務所を支配した。

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