☠ Ⅳ ☠

 目を覚ますと、布団以外に何もないがらんとした自室に、着の身着のまま寝かされていた。

 パーカーやジーンズなどはボロボロだったが、猟犬に負わされた傷は完治していた。主人格が玖朗から女王に入れ替わった際、治癒力が活性化して一瞬のうちに治ってしまったのだろう。ただその反動なのか、全身が筋肉痛で軋んだ。

 玖朗が起きているとは露知らずに、部屋着姿の灰音がノックもせずに部屋へと入ってきた。

 寝起きに灰音の無防備な部屋着姿を見せつけられて、玖朗の心臓が一気に活性化する。さっ、と彼女から視線を逸らし、

「ノッ、ノックぐらいしてよ灰音ちゃん!」

 と精一杯のクレームを付けるが、

「三日間も死体のように眠ってたあなたがよく言うわ。そんな相手にノックしたって意味ないじゃない。というか、起きてるとは思わなかったのよ。さっき来た時は目覚める兆候すらなかったんだから」

 と返されてしまった。そうすると、玖朗はそれ以上は何も言えなくなる。むしろ心配をかけて申し訳なくなってしまう。

 猟犬の――女王の一件から三日間も寝込んでいたことには、大して驚かなかった。最初に吸血され、彼女の体を簒奪した際も、それぐらいの間、意識を失ってしまっていたからだ。さすがに二度目ともなると慌てない。

 そんなことよりも寝込んでいる間に灰音が甲斐甲斐しく様子を見に来てくれていた、という事実のほうが驚きだった。

 ああでも、と一拍子置いてから、気を失う寸前のことを思い出す。

 そういえば仁も灰音もこの一ヶ月間、玖朗のことを影ながら見守ってくれていたのだ。思い返してみれば、チンピラに襲われた際など、偶然通りかかったと彼らは言っていたが、よく考えればそうそうあることではないだろう。

 ――とすると、灰音ちゃんは実は、僕のことをそんなに嫌っていない……?

 考えてから、即座に頭を振るう。そんなことはない。あの罵詈雑言が全て演技だったというのなら、彼女は早くこの街を出て女優になるべきだ。アレは本気で嫌悪している目だった。影ながらの警護も、きっと仁に命令されて嫌々やっていたと考えるのが妥当だろう。

 ならばやはり、灰音がこまめに玖朗の様子を見に来るなどおかしい。

「ま、まさか寝ている間に毒とか盛ってないよね」

「……あなたは私をなんだと思ってるの」

「天敵?」

「よほど殺されたいらしいわね」

 拳を握って開くと、灰音の右腕は人のそれから狼のそれに変化しており、鋭利な爪が切っ先を覗かせていた。

 ああやっぱりいつもの灰音ちゃんだ、と安心しながらも、筋肉痛に苛まれる体を流れるように素早く動かし、すいませんでした、と土下座する。

 それから灰音は玖朗が眠っている三日間にあった出来事を簡潔に教えてくれた。

 玖朗を――女王を捕らえるべく襲撃して来たペストマスク医師の素性は、いまだに掴めていないらしい。

 目的も、正体もわからない人物に狙われるというのは気味の悪いものがあったが、灰音曰く、そう珍しいことではないとのことだった

 女王とは即ち夜闇に浮かぶ月であり、光に魅せられた有象無象の羽虫たちを引き寄せる。それほどまでに正真正銘の〝怪物〟とは伝説的であり、またそれだけの価値が存在する。

 仁も灰音も、そういう輩に狙われたことは、一度や二度ではないようだ。だからこの街では自分で自分を守るだけの力が必要なのだ、と灰音には説かれた。釈然とはしないものの、その事実を玖朗は飲み込んだ

 女王の《血因能力》で傷付いた猟犬は、治療術師の手によって完治。また玖朗を襲った際の獰猛さは、微塵もなくなっていたという。むしろ調子に乗って手酷い目にあったためか、以前よりも大人しくなり、脱走する気配も見せなくなったのだとか。

 そして、猟犬の飼い主の幼女は、玖朗に直接お礼を言えないことをとても残念がっていたと言う。猟犬と再会した際は、わんわん泣いて、笑って、喜んだそうだ。

 その場に立ち会えなかったことを、玖朗は酷く残念に思う。

「どう? これで少しはあなたの望みは叶った?」

「ん? んー……微妙なところかな」

 曖昧な笑みを浮かべる玖朗に、灰音が難色を示す。

「何よそれ。あなたはあの娘のために力を使って正義の味方ヒーローになれたんじゃないの?」

「いやあ……僕がやったことは結局、簡単な依頼を遂行したにすぎないからさ。感謝されることはあっても、それ以上は望むほうが贅沢ってやつなんじゃないかな。猟犬にいらない怪我まで負わせてるしさ。ここら辺は僕より長いこと処理屋をやってきた灰音ちゃんのほうがわかると思うんだけど」

「……そうね、そうだったわ。それに迷子の子犬を探し出したぐらいで叶う望みだったら、あなたはきっと女王の体を奪えていないわね。そしてあなたはただ単に誰かの何者かになりたいだけじゃなくて、自分が死ぬ時に泣いてほしいんだったわね」

「まあその願望に気が付いたのは、女王の体を奪った後だったけどね」

「歪んでるわ。そのクセ、よく正義の味方なんて言えるわね」

「そうかな」

「何者かに、正義の味方に成りたいってだけなら子供の夢と一笑するけれども、まだ理解が及ぶわ。でも、自らの死を嘆いてほしいなんて、歪よ」

「まぁ正義の味方っていうのは抽象的で子供っぽいと僕自身も思うけど……泣いてほしいっていうのは多分、一度死んだことのある人じゃないとわからないことだと思うんだ」

 生前の玖朗は、誰かの何者かであると錯覚していた。

 クラスメイトにとっては友人。

 教師にとっては教え子。

 両親にとっては我が子。

 だが死んでみてわかった。そんなものは、玖朗が勝手に抱いていただけの幻想にすぎなかったのだと。自分はただ、そこに在るだけだった。

 自身が誰かの何者かになれていたのかなど、人の価値など結局はのだ。

 何もしていないのに誰かの何者かであると錯覚するなど、思い上がりも甚だしい。

「……ま、いいわ。触れられたくないことは、あるものね」

「……」

 ――それは、灰音ちゃんにもあるの?

 そう問おうと唇を動かそうとしたところで玖朗の心臓が跳ね上がり、血管を流れる血液が灼熱を帯び、身を焦がす。

「……ッ!?」

 突然の心臓の高鳴りに、胸元を掴む。

「どうしたのよ、突然」

 玖朗の様子がおかしいことに気が付いた灰音が、詰め寄ってきて背中を摩ってくれる。しかし鼓動は収まるどころか、むしろ苛烈さを増していく。

 吐息は熱く、咽喉は渇き、血が疼く。

 朧な視界の中、灰音の細い首筋だけがやたらと鮮明に映る。

 柔肌に牙を突き刺したくて、血を啜りたくて、灰音の命を犯したくて、堪らない。

 そこまで至ってようやく、自身を苦しめるものの正体に気が付いた。

「……これが、〝衝動イド〟ッ……?」

 人間でなくなってから初めて襲われる、吸血衝動。

 食欲や睡眠欲、性欲のようなものだと玖朗は高を括っていたが――想像以上に、苦しい。抗おうとしても一層〝衝動〟は激しさを増すばかりで、収まる気配は見られない。今にも人格そのものを侵し、体が勝手に動き出さんばかりだった。

「ああ、そういうこと。猟犬との戦い、それに無理に行使した《血因能力》で、血液が減って〝衝動〟が刺激されたのね」

 何でもないことのように灰音が言ってのけるが、襲われている玖朗としては堪ったものではない。女王に意識を奪い返されるどころか、吸血衝動に自我を破壊されてしまうなど、悪い冗談もいいところだ。

 悶絶する玖朗の眼前に、灰音の剥き出しの細腕が差し出された。

「灰音、ちゃん……?」

「いいわよ、吸いなさい。どうせ少し吸えば収まるわ。血が枯渇したから〝衝動〟が暴れてるワケじゃなくて、全然使ってなかった力を突然使ったから暴走してるだけよ。女王の体には多量の血が蓄えられているんだから」

「で、でも……」

「大丈夫よ。あなたに吸われたって私は吸血鬼になんて成らないから」

「そういうことじゃ……」

「誤解されるのも嫌だから言っておくけど、私は処女よ。吸血鬼に成らないのは、私が元々人狼だからよ」

「しょっ……処女とかそういう話じゃなくて……!」

「じゃあ、どういう話よ」

 差し出される灰音の細腕は、今の玖朗にしてみれば砂漠に現れたオアシスに等しい。一度口に含めば渇きは癒え、たちどころに〝衝動〟は収まるだろう。

 けれども。

「……僕は人である誇りを、失いたくない。心は人で、ありたいんだ」

「……!」

 玖朗の言葉に、灰音は息をすることも忘れて驚愕する。彼女は何度か言葉を紡ごうとするがしかし、言い淀むばかりで一向に言葉にはならなかった。

「……? どうか、したの?」

 玖朗に声をかけられると、灰音は顔を手の平で覆い、肺の中の息を全て吐き出すような深いため息を吐いた。

「はぁ……世話が焼ける。仕方がないわね。誰も傷付けない〝衝動〟の抑え方を教えてあげる」


 灰音に連れて来られたのは、『Killing Dead』の事務所の階下の喫茶店『迷い家』であった。

 ドアを開けると、来店を知らせるベルが小気味よく鳴り響き、店主の琥珀が猫なで声で出迎えてくれた。

「……え、何、灰音ちゃん。まさか元猫の血液ならセーフ判定だろってことで琥珀さんを僕に襲わせる気?」

「……そんなワケないでしょう。琥珀も立派な〝怪人〟なんだから、アウトよ」

「にゃー……入店してくるなり物騒な会話だにゃあ」

 喫茶店『迷い家』は、玖朗も通う馴染みの店だ。もうメニューのほとんども暗記してしまっているぐらいに通いつめている。だから、ここには玖朗の吸血衝動を癒すようなものがあるとは到底思えなかった。

「ここには裏メニューがあるのよ」

「裏メニュー……? まさか、病院からくすねてきた輸血パックとか?」

「……勝手にウチの店にブラックな印象を植え付けないでほしいにゃ」

「なんでさっきからネガティブなほうにばかり思考が行くのよ。琥珀、例のやつ出してあげて」

 灰音がそう言うと、琥珀は訝しげに彼女を見つめた。

「いいのかにゃ? アレは結構貴重なものにゃー。クロ坊に飲ませると、灰音が飲む分なくなっちまうにゃ」

「別に、構わないわよ。私はもうしばらく大丈夫そうだし、それに本来なら吸血鬼のほうが代用品として正しいでしょ」

「うにゃあ、灰音がそう言うならいいんだけどにゃ」

 琥珀は厨房の冷蔵庫を開けたかと思うと、中から一本の瓶を取り出し、玖朗の前に置いた。それはどこからどう見ても、見間違うことのない――瓶牛乳だった。

「……なにこれ」

「何って、どう見ても牛乳にゃ」

「騙されたと思って飲んでみなさい」

「……ええ?」

 こんなもので身を焦がすような〝衝動〟が収まるとは到底思えなかった。気を抜けば今にも自我を支配され、赴くままに血を貪りかねないぐらい玖朗は崖っぷちに立たされている。

 吸血衝動は純然たる本能である分、女王に抗うことよりも難しい。

 震える指先で、ひんやりと冷えた瓶を掴む。

 疑心暗鬼であろうとも、他に知恵を持ち合わせない玖朗は、この瓶牛乳を飲むしかない。

 こくり、と咽喉を鳴らして飲み下すと、牛乳本来の甘さがじんわりと口の中に広がる。よく冷えたそれは、体の内側から煮え滾る血を鎮めていった。

「……〝衝動〟が、収まった?」

 その事実が自分でも信じられなかった。

 きっとこの場に本の悪魔ダンタリオンが居合わせたのなら、そんなことも知らないのかと馬鹿にされていたことだろう。

「牛乳は元々、牛の血液から作られてるのよ。摂取したところで吸血鬼の力を活性化させることはないけれど、吸血衝動の初期症状ぐらいは抑えることが出来るわ」

「まあでも、ウチで取り扱ってるのはスペシャルだからにゃ。ただの市販のそれと一緒にしてもらっては困るのにゃ。何と北海道から産地直送、搾乳したての新鮮なお乳そのままなのにゃ。殺菌とかして味が薄まってないから吸血鬼や人狼の〝衝動〟を抑える力が強いのにゃ。」

 えっへん、と琥珀が胸を張ってそう主張する。

「……あれ、食品衛生法的に大丈夫なんですか、殺菌しなくて」

「クロ坊、それは今さらなのにゃ。この街ではんなもの、ないに等しいにゃ」

「それよりも気にすべきは、琥珀が北海道から産地直送の牛乳を入手してることよ」

「あっ」

 言われてみれば確かにそうなのだ。この街において外界――人間世界へと出向くには、『調律師団』から正式に許可を頂戴しなければならなかったハズだ。勝手に出入りを繰り返すとなると、禁忌に触れることになる。

「だから裏メニューなんスか?」

「ああ、良からぬ想像をやめるのにゃクロ坊。アタシは正式な手続きを踏んで外界へ貿易に出てるのにゃ」

「……本当ッスか?」

「うにゃあ! じゃなきゃこんな堂々と店を開けないのにゃ! 何気なくウチで口にしてるから気が付かないだろうけど、外界の食品は〝怪物街〟ではとっても貴重なのにゃ! クロ坊のところにある酒やつまみ、パンなんかも、アタシが外で買い付けてきたものなのにゃ! というか本業はそっちで、喫茶店は趣味なのにゃ。大量に仕入れるから、こんなにもリーズナブルに料理を提供出来るのにゃ!」

「はぁ、なるほど。だから全然お客が入ってなくても潰れないんスね、この店」

「うにゃ……もっと別に感激すべきところがあるハズなのに、そこに着地するのかにゃ」

 身を苛んでいた〝衝動〟が霧散して消えてしまったせいか、玖朗の口はよく回った。

 玖朗の意志を尊重し、貴重な牛乳を恵んでくれた灰音に感謝すると共に、少なからず罪悪感を覚える。

 琥珀は先ほど言っていた。純度の高い牛乳は吸血鬼や人狼の〝衝動〟を抑制してくれると。

 ならば灰音にとっても必要になってくる品物ではなかったのだろうか。

「別に。人狼の〝衝動〟は狩猟。そして狩猟に新鮮な血は付き物。私は牛乳を摂取することによって狩猟を終えたと体に錯覚させているの。まぁ、要は誤魔化しね。あなたに比べれば、利き目は非常に薄いわ。でも私の〝衝動〟はその程度で誤魔化せるレベルなのよ。それなら今にでも人を襲いかかねないあなたに回したほうが、有意義ってものでしょう」

 牛乳代は私がおごってあげるわ。正式なバイトになったお祝いとでも考えてちょうだい。

 そう言い残して、灰音が店から立ち去ろうとした。玖朗も慌てて残りの牛乳を飲み干し、後を追おうとしたのだが――盛大に腹の虫がなったため、玖朗の足が止まってしまった。

「無理もないわ。三日も飲まず食わずで寝てたんだから。あなたは琥珀に何か作ってもらってゆっくり食べてから戻ってくればいいわ」

 カラン、とベルが寂しく鳴る。

 今度こそ、灰音が『迷い家』から出て行った。その去り行く後姿を、玖朗は穴が開かんばかりに凝視していた。もしかしたら、どこかにチャックでも付いているのではないかと疑っていたのだ。

「琥珀さん、何か今日の灰音ちゃん、様子おかしくないスか?」

「いんやあ、いつも通りだと思うんだけどにゃあ」

「いや、絶対おかしいですって。だって僕に優しいし」

「……すっごい卑屈にゃ」

「罵詈雑言が灰音ちゃんの口から飛び出さないなんて、何か変なものでも食べたかな……」

「あの娘に三食提供してるのはウチの店にゃ。失礼なこと言うもんじゃないにゃあ」

 目が覚めて灰音と言葉を交わした時、玖朗はまだ夢を見ているんじゃないかと疑ったほどだった。それほどまでに、彼女は玖朗という人間を――纏わり付く血の臭いを嫌っていたハズだ。彼女の口から暴言が飛び出さなかった日などこの一ヵ月でなかったというのに、そればかりか玖朗のために頭を捻って血を吸わずに〝衝動〟を抑える方法を考え、あまつさえおごってくれる始末だ。

「いよいよもって〝怪物街〟に隕石でも降りますかね……」

「ひっでぇ言い草だけど、クロ坊が普段どれだけ虐げられていたか目に浮かぶようだにゃ」

 ほろり、と琥珀が大きな猫目に涙を浮かべる。

 同情されるとこちらも泣きたくなるが、今はそんなことは後回しだ。重要なのは、灰音の様子についてだ。

「にゃあ~、もう少し物事を素直に捉えてもいいと思うけどにゃあ」

 琥珀が言わんとしていることがわからず、玖朗は小首を傾げた。

「〝ティンダロスの猟犬〟の一件で、クロ坊のことを見直したんじゃないかにゃあ。さっき昇格祝いって言ってたし」

「見直す? 灰音ちゃんが? 僕を? はははは、ご冗談を」

「いやいや、マジで」

「……マジで?」

「大真面目にゃ」

 それこそ玖朗は信じられない、という感想だった。たかだか数万円程度の依頼の、迷子の子犬を見つけたぐらいで――あの灰音が、玖朗を見直すなど有り得るだろうか。

「実はにゃあ、クロ坊が寝込んでる間にミケから一部始終を聞いたのにゃ。鬼気迫る表情で、文字通り命を賭して、猟犬を捕まえようと、していたってにゃ」

 文脈から察するに、ミケはあの場から結局逃げなかったらしい。そして玖朗の変わり果てた姿を目撃してしまったようだ。

 女王は〝怪物〟指定されている存在であるから、他人に知られると非常に面倒臭いことになるのだが、しかしミケは仁義深い野良猫なので大丈夫だろう。

「クロ坊はたかだか数万円の依頼をこなしただけって言うけれど、普通、その程度の依頼に命は賭けられないのにゃ。逃げるのが大体にゃ。今までのクロ坊は口先だけのヘナチョコ吸血鬼だったけど、その一件で考えを改めるには十分な内容なのにゃ~」

「……ヘナチョコ吸血鬼って」

 しかし成り損ないの、出来損ない、体は借り住まいなので、ヘナチョコ吸血鬼なのは間違いではない。

「アタシは灰音ほど臭いに敏感じゃないから正しいかどうかわからないけど、以前に比べてクロ坊の血生臭さが和らいだような気がするのにゃ。灰音が変わったっていうよりも、クロ坊が変わったから灰音の態度も優しくなったんじゃないかにゃあ?」

「血生臭さが?」

 オウム返しをしながら、自分の体の臭いを嗅いでみるも、あまり以前との差がわからない。

「自分の臭いなんて自分じゃわからないから、それは仕方ないにゃあ」

「……そういうもんですかね」

 そう指摘されようとも、玖朗としては実感が湧かない。そもそもなぜ血の臭いが和らいだのか、原因が不明だ。思い付く限りの原因、変化と言えば、眠っていた女王の顕現だが――これはむしろ、真逆に作用する気がしてならない。

「――まあそれと、〝衝動イド〟に抗って血を吸いたくないってところも、自分と重なって見えたのかもしれないにゃあ」

「……それって、どういう意味です?」

「何でもないにゃ~。それよりクロ坊、アタシは一つ気になることがあるのにゃ」

「……話逸らさないでくださいよ」

「答えてくれたら飯奢ってやるにゃ」

「何でも聞いてください」

 万年金欠、三日間の絶食状態と来れば、玖朗がその魅力的な提案に引っかからないハズがなかった。見事に琥珀の意味有りげなセリフは、玖朗の脳みそから弾き出される。

 手っ取り早く質問に答え、店で一番高い料理をたらふく食べよう。

 そんな食欲に支配されていた。

 だが、琥珀の口から紡がれた問いは、玖朗のそんな欲望を掻き乱すには十分すぎるほど強烈なものだった。


「何でそこまで何者かになろうと必死なんだにゃ?」


「――……」

 琥珀は玖朗の体のことを知っている。

 生きたいという玖朗の強い意志が、《不死の女王》の意識を凌駕し、体を拝借するまでに至ったということを。

 玖朗の生きたいという意志が、何者かになりたい、誰かに泣いてほしいという願望に結びついていることを。

 けれども、なぜそんな願望を玖朗が抱くようになったのかを、琥珀は知らない。

「……」

 あまり話していて、気分のいいものではない。

 なぜ玖朗が何者かになることを切望し、誰かに泣いてもらうことを渇望するのかを語ることは、それ即ち白木玖朗という人間の生が、全くの無意味であったと語ることと同義であるのだから。

 それでもこの先、〝吸血鬼〟白木玖朗として生きて行くのなら――語らなければならない。

 先ほどまで牛乳で潤っていたハズの咽喉が、カラカラに渇いていた。唾を飲み下す音が、やたらと大きく聞こえる。

 意を決し、玖朗は口を開く。微かに開かれた唇から紡がれる、震える声。

「……琥珀さんは、自分の葬式に参列したことがありますか?」

 問い返されて、琥珀は眉間にしわを寄せた。意味がわからなかったのだろう、腕を組んだまま首を傾げ、唸る。

「自分の葬式に……? それは何かの頓知かにゃ? そんなことが出来るのは生前葬か、はたまた幽霊ぐらいのものだにゃ」

「幽霊、ですか。あながち間違いじゃないですね、それも」

 ふっ、と玖朗が自嘲的な、自虐的な笑みを浮かべる。

 玖朗が何を言いたいのかわからない琥珀は、一層シワを深め、首を捻る。二又の尾が、もどかしそうに揺れていた。

「僕はね、琥珀さん。白木玖朗の葬式に参列したことがあるんですよ。この目で、火葬されるところもハッキリと見ました」

「……うにゃあ、ジョークがすぎるんじゃないかにゃ、クロ坊。お前さんは今こうしてアタシの前で喋ってるし、ものを飲み食いすることも出来てるにゃ。もちろん、触ることだって出来るのにゃ。だのにどうやって自分の葬式に参加するっていうの……にゃ?」

 言っていて、気付き始めたのだろう、琥珀の声は終いには掠れるほどに小さくなっていき、やがては消え行ってしまった。

 それから、呆然と口を開け、猫目を丸くして玖朗を凝視する。

 独り言のように、幽霊、と琥珀が呟く。

 恐らく、琥珀が辿り着いた結論は、玖朗の想像通りであるハズだ。

「そうです、白木玖朗という吸血鬼は幽霊――あるいは魂の残り滓と同義なんです」

 吸血鬼は本来、血を触媒にして種を増やす。

 血を吸われた処女、童貞は彼らの同胞と成り果てる。それ以外は物言わぬ喰屍鬼グールとなり、吸血鬼の傀儡と化すか、血を飲み干されてミイラのような干乾びた変死体となって発見されるかのどちらかだ。

 あるいは、血の契約。

 吸血鬼から血を授けられ、それを飲み下す、ないしは体内に取り込むことによって人間から同族へと昇華する。

 魔導の末に吸血鬼となるものや、偶然の一致――奇跡と言っても過言ではない条件の重なり合い――によって成るものもいるらしいが、これは極めて稀なケースで、歴史上を見ても両手で足りてしまうほどしかいないらしい。表舞台に出てきていないものを含めればもう少しはいそうなものだが、それでも稀有なことには違いないだろう。

 そして玖朗は、そのどれにも属さない方法で吸血鬼に成り損なった。

 血を吸われた吸血鬼の内側から意識を食い破り、体を奪った。

 これは白木玖朗という人間の肉体と、意志たましいが切り離された形になる。そうすると、肉体は干物のような変死体で発見されることになり、白木玖朗と言う存在は、社会的にも、事実的にも死んだこととなる。

「でも、女王の中で白木玖朗ぼくは生き続けている。魂の残り滓、亡霊のように、取り憑いて」

「……それで、お前さんは自分の葬式で何を見たんだにゃ」

「…………何てことはない、僕が見ようともしなかった現実ですよ」

「現実?」

「……僕はね、生まれてくることを望まれてなかった子供なんですよ」

「……忌み子、かにゃ?」

「そこまで大したもんでもないです。本当は作る気がなかった子供、ってだけですよ。でも堕ろすにも世間体が悪すぎた、だから産んだ。それだけのことです」

 小学校に上がってすぐ、ある宿題が出た。自分の名前の由来をご両親に聞いてこようという、ものだった。

 自分はどんな願いを込められて名付けられたのだろうと、ワクワクしながら母親に問うたのを今でも覚えている。

 そして返ってきた答えは、子供には冷たく残酷なものだった。

 九月六日に、玖朗よ。

 そこには何の願いも、愛すらもなかった。仕方なく、という諦観だけが、そこにはあった。

 それ以来だろうか、玖朗は他人にも、自分にも何も望まなくなったのは。

 ただただ生きて、ただただ死のう。自分は生まれてくるべき子供じゃなかったんだから、と。

 玖朗のそんな生き方に拍車をかけたのは三つ年上の、出来の良い姉の存在だった。

「姉は小さい頃から才色兼備で、両親に将来を期待されてました。姉は可愛がられて、僕は蔑ろにされ続けた。ああ、きっと僕が何かをしなくても、姉がきっと全て上手くやるだろう。なら僕は必要ないな。そう、子供心に思ったんです」

 でも死にたくはないから、適当に生き続けた。

 そして《不死の女王》と出会い――死んだ。

「家は嫌いでした。姉が大学に進学して、一人暮らしを始めてからは特に嫌いでした。かつて遠巻きに見ていた両親の優しい笑顔すら、姉がいなくなってからは消えてしまいましたから。沈殿した、重い空気だけが漂っていました。だから吸血鬼に成れた時は、やっとあの家から解放される、くだらない人生から脱出出来る。そう浮かれていました」

 吸血鬼としての新しい生――それでも世の中は世知辛い物で、先立つものが必要になってくる。あまり寄り付きたくはないと思ったが、一度家に戻り、貯金を持ち出そうと玖朗は考えた。そこで遭遇したのが、自分の葬式だった。

「葬式自体は、立派なものでした。最期の手向けに――いや、手切れ金、かな――豪華にしてくれたんだと、思います。謎の変死を遂げた高校生、その哀れな遺族の葬儀は、煌びやかに。そんな世間体も、あったでしょうけれども」

 戯れに、自身の葬式に参列した。世界が未知にあふれていようとも、自分の葬式に参列したものはそう多くはないだろう。そんな面白半分の気持ちだった。

 この時は、葬儀で自身の価値観を揺るがされようとは思いもしなかった。

 人間は死んで初めて、その生の意味が露見する。

 それは例え十七年にも満たない玖朗の生においても、同じだった。

 死者を前にして、人々は憚ることもなくその生の価値を品評する。まさか死んだハズのものが、その場に居合わせているなどとは露ほどにも思わずに。

 何で夏休みに死にやがるんだ、白木のヤツ。死ぬなら平日に死ねって言うんだよなあ――事件に巻き込まれての変死か、校長に監督不行き届きってどやされるかなあ。面倒な死に方してくれたよ、白木は――ようやく私たちもあの足手まといから解放されるワケだ。せめて葬式は豪勢にしてやろう。これからはお姉ちゃん一人に専念出来るなあ――エトセトラ、エトセトラ。

 心ない言葉が、玖朗を苛んだ。

 そして誰も彼もが、その葬式では涙を流さなかった。

 玖朗の死に、何も思わなかった。

「僕はね、誰の何者でもなかったんです。失って困るような、かけがえのない存在にはなれなかったんです」

 その時初めて、望まれない生になぜしがみ付こうとしたのか、理解した。

 望まれなかったこの生に、生きる意味がほしかった。生きていていいと誰かに言ってほしかった。死なないでくれと願ってほしかった。葬送の折に、涙を流してほしかった。

 涙は、死者に対する最高の贈り物であるとその時、知ったから。

「変わろうと、思ったんです」

 涙を流してもらえないのは、誰の何者にもなれなかったのは、他の誰でもない怠惰な自分のせいだから。望まれなくとも、誰かのために必死に生きることが出来なかった、自分の責任だから。今度こそ抗おうと決めた。

 吸血鬼の力も、自分のためではなく誰かのために使おうと、決意した。

を迎えて、誰かに泣いてもらえた時、泣いてもらえなかった人間の白木玖朗も、生きた意味が与えられると思うんです」

 だって、それがなければ今の自分は有り得ないから。

「でも、そういった努力をしてこなかったから、どうしたらいいか僕自身よくわかってないんです。だから正義の味方なんていう、大雑把で子供っぽい目標を掲げちゃうんでしょうね」

 あるいは、玖朗の時間は小学生のあの時から止まってしまっていたのかもしれない。そしてようやく今、また時を刻み始めた。

「――これが、僕が必死な理由です」

 ふう、と一息吐き出す。少し長く語りすぎて、疲れた。

 だが話し終えてみれば案外、穏やかな気持ちだった。

 この話を落ち着いた心持ちで喋ったのは、琥珀が初めてかもしれない。

 仁と灰音はその決意の直後に玖朗を――女王の体を殺しにやって来た。ワケもわからず、すぐさま訪れた二度目の死の間際、玖朗はみっともなく喚き散らした。

 あんな思いはもう二度とごめんだから、僕はまだ死ぬワケにはいかないんです。もし、もしもあなたが僕を殺したとして――あなたは僕のために泣いてくれますか? そうでないなら僕はやっぱり死んでやれないんです。

 その嗚咽交じりの主張のどこが仁に響いたのかは知らないが、彼は玖朗のことを『Killing Dead』に拾ってくれた。

 玖朗に居場所をくれた。生きている許しを、少なからずくれた。

 あの猟犬の幼女の一件は、取るに足らない些末な依頼であり、自身の願いを叶えるようなものではなかったと玖朗は言ったが、人間だった頃の玖朗は、そんな些末なことさえしようともしなかった。

 小さな一歩ではあったかもしれないが、前進にはきっと違いない。

 少しだけ、生きていける気がした。

 そう、思えた。

 話を聞き終えた琥珀は、苦虫を噛み潰したような、慈愛に満ち溢れる慈母のような、複雑な表情をしていた。彼女なりに、色々と感じるものがあったのだろう。

「なるほどねぇ。しっかし仁も相変わらず、そういうのを拾ってくるのが好きな男だにゃあ」

「……? 相変わらずって、どういうことですか?」

「それはナイショなのにゃー」

「ええ? 僕はこんなにも赤裸々に胸の内を明かしたって言うのにですか?」

「なら仁のことを話してもいいけれど、その代わりに奢るって言ってた飯はなしなのにゃー」

「あっ、結構です。あの飲兵衛の過去とかどうでもいいです。そんなことよりこの店で一番高い料理をください」

「にゃー……変わったにゃあ、クロ坊。最初の頃は遠慮してたのに、今ではもうすっかり強かだにゃあ」

 呆れる琥珀に、玖朗は笑みでもって返した。

「そりゃあ、こんな奇想天外、奇妙奇天烈、奇々怪々な街で生きていれば強かにもなりますよ」

 明日も玖朗は、〝怪物街〟で生きて行く。

 生きる許しを得るために、生きる。

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