☠ Ⅲ ☠
「――すいません、退いてください! 通ります、通りますッ!!」
大通りを行く人々が、玖朗の轟く叫び声に反応してこちらのほうを向く。そして次の瞬間には、ぎょっと目を丸くさせて驚愕の声を漏らした。
「なんだあ!? 猫と犬の百鬼夜行!?」「おいアレ、先頭走ってやがるのはティンダロスの猟犬じゃねえか!?」「百鬼夜行っていうか百匹夜行?」「誰が上手いこと言えっつった」「いや言うほど面白くもな――あだだだだ! 爪で引っ掻かれた、チクショウ!」「つーか、
玖朗が率いる猫と犬の群れが、人の波を掻き分けて進んで行く。
誰かが冗談めかして百匹夜行などと言っていたが、まさしくそれぐらいの頭数がいた。皆全て、ミケの呼びかけで集った野良たちだ。
彼らの鋭い眼光が見据える先には、異形の犬――ティンダロスの猟犬が遁走している。
見つけ出すことも困難かと思われた猟犬だったが、ミケに頼み、野良の情報網を駆使して探索してもらったところ、すぐに見つかった。
猟犬を捕縛したい玖朗と、余所者を追い出したい野良たち。利害が一致し、共にティンダロスの猟犬を追っていた。
足に自信のある猫が一匹跳躍し、猟犬に飛びかかった。猫科特有の、勢いのあるジャンプ。そして獲物の咽喉元に食らい付かんとする、鋭い噛み付き。殺傷力はなかろうとも、怯ませることぐらいは可能な一撃だ。
だがしかし、勇猛なる野良猫の顎は、虚しくも空を切る。それどころか目標を見失い、着地のタイミングを逃して顔面から滑り込んでしまう始末だった。
「また瞬間移動したッ!!」
身の危険を察したティンダロスの猟犬が半径五メートル以内の鋭角に飛んだのだ。
すぐさま駆け寄ってきた大型の野良犬が、ばうっ、と吠える。
『前方の建物から野郎のイケ好かねえ臭いがしやがる!』
野良犬が鼻で指し示した先には、窓ガラスが割れ、入り口が鎖で固く施錠された雑居ビルがあった。大方、窓ガラス片の鋭角を利用して建物内へ侵入したのだろう。
上手く逃げ込んだつもりだろうが、野良同盟を舐めてもらっては困る。
「何階かわかる!?」
『恐らく二階だ。急にあそこから臭いが湧いて出やがった』
「わかった。空撃部隊、窓から雑居ビルの二階に侵入してやつを追い出してくれ!」
玖朗が空に向かって叫ぶと、しわがれた鳴き声を響かせながら、鴉の濁流が雑居ビルへと流れ込んで行った。
羽音は周囲の音を蹴散らし、それ以外は何も聞こえなくなるほどであった。雑居ビルの前には鴉の羽がひらひらと舞い、それを跳ね除けるかのようにして、ティンダロスの猟犬が飛び出してきた。
「アイツはしばらく瞬間移動が出来ない! この機を逃さずに追い込め!」
幼体のティンダロスの猟犬ともなると、瞬間移動範囲は五メートル程度しかなく、またインターバルが必要になってくる。矢継ぎ早に鋭角を渡り歩かれたのでは手の打ちようもなかったが、能力に制限があるのなら、人海戦術ならぬ獣海戦術を有する玖朗にいずれ軍配が上がる。
後は時間の問題だ。
それから半時ほど追い回し、玖朗と野良同盟は猟犬を六番区の郊外の公園へと誘い込んだ。
公園には遊具の類は設置されておらず、中央に噴水がある程度だ。その噴水も、巨大な半漁人を模したヘンテコなものであり、また水は枯れ、溜まった雨水は汚濁している。
そんなうらぶれた公園では、人っ子一人寄り付かない。
咽喉を鳴らし威嚇する猟犬を、野良犬と野良猫、そして玖朗が囲い込む。空には無数の鴉たちが旋廻しており、万が一、包囲網を突破されてもすぐに追えるよう、待機している。
「……これで鬼ごっこも終わりだ」
パーカーの腹部のポケットから、能力封じが込められた首輪を取り出す。これを猟犬の首にはめればチェックメイト、依頼完了だ。
「おォおォォおお……」
「……ッ」
暗闇の口内から響く、怨嗟のような低い鳴き声に、思わず玖朗の身が竦む。その声は獣のソレというよりも、人間の唸り声に近かった。
爛々と尾を引いて揺れる眼光も鋭く、殺気に満ち満ちている。だがそれは玖朗の錯覚。そう思うから、そう見えているだけ。〝怪物街〟の猟犬は品種改良されその過程で獰猛さを失った。ダンタリオンの図書館で読んだ本が、玖朗に一歩踏み出す勇気をくれる。
じりじりと猟犬との距離を詰める。玖朗が近付けば近付くほどに、猟犬の唸り声は一層苛烈さを増す。
玖朗が生唾を飲み込むと、頬を汗が伝った。走り回ってかいた汗だろうか、それともこの緊迫した状況でかいた脂汗だろうか。今はそれを拭うことすら許されない緊迫した状況だ。
汗が玖朗の顎から伝い落ち、地面に跳ねた、次の瞬間。
「おォあァァアおッ!!」
「ッ!?」
猟犬が玖朗の咽喉仏を狙いすまし、飛びかかる。視界を覆い隠すほど大きく開かれた顎。並びの悪い骨の牙が迫り来る。
『旦那ァ!!』
「ぐっ……!」
咄嗟に放った裏拳が猟犬の下顎を捉え、口を閉ざさせる。ガキィンッ、と甲高い音が鼓膜を打ち付けた。
迎撃された猟犬は、身を翻して着地すると、再び玖朗の咽喉を目掛けて飛んでくる。
来るとわかっていれば避けられない早さではない。体を逸らし、猟犬の牙の軌道から退く。
「なんで……! 猟犬は獰猛じゃなくなったハズじゃ……!」
本には確かにそう書いてあった。だが眼前に立ちはだかる猟犬は、確かに玖朗の命を噛み千切らんとし、襲いかかって来た。
「こるるるるるる……」
歯と歯の隙間から大量の涎を垂らしつつ、玖朗を睨み付ける猟犬。周囲の野良犬や猫たちが毛を逆立てて威圧をするも、怪獣の一睨により勢いを殺がれる。下手に動けば殺されると、彼らの野生が告げているに違いない。そして恐らくそれは、間違いではない。
図書館で交わしたダンタリオンとの会話が脳裏をよぎる。
『ただこの写真を見る限り、能力の発露があまりにも早すぎる』『……はあ。まあでも、そういうこともあるんじゃないですか? タロの成長が他と比べて早かったってだけの話でしょう』『自分の物差しで事を推し量りおって。思考の停止は死も同じだぞ』
全く持って、その通りだった。
一瞬でも判断が遅れていれば、即死んでいた。本で読んだから大丈夫だろう、知識は間違っていないだろうと思考を停止していた結果が、このザマだ。
そもそも、本の悪魔、知識の権化であるダンタリオンが違和感を覚えた時点で、事態は自分の予想の斜め上を行くと警戒してしかるべきだったのだ。
『旦那! ヤバいですよ! ゾンビ犬のヤツ、殺る気満々です! 依頼だか何だか知りませんが、命あっての物種、ここは退きましょう!』
生き残ること優先の、野良らしい考え方だ。そして生物として至極真っ当な思考だ――しかし玖朗は退かない。
「……悪い、ミケ。僕はここで退き下がるワケにはいかないんだ。こんなところで退いているようじゃ、僕はあの日から変われてない」
拳を前に付き出し、体を捻る。見様見真似の、拙いファイティングポーズ。喧嘩が不慣れであるといことが垣間見える。
『旦那……ッ』
「ミケたちは包囲網を解いて逃げててくれ。ここまで僕に付き合ってくれてありがとう」
『そんな……旦那は戦うっていうのに、俺たちには逃げろと言うんですか? 第一、包囲網を解いたらあいつは逃げ出すんじゃ』
「大丈夫。きっとあいつは逃げない」
刹那の攻防の中で、玖朗は猟犬のスイッチが切り替わる音を聞いた。
追いかけられる側から、追いかける側へ。
いつしか失くしてしまった猟犬の本能を呼び覚ましたのだ。
猟犬はきっと、玖朗を殺すまでこの場を去ることはない。
――怖い。
死という暗闇のように不明瞭だった存在が、玖朗の中でじわりじわりと膨れ上がっていく。それが身を、心を蝕み、玖朗を竦ませる。
勇ましくファイティングポーズを構えたはいいものの、その四肢は、小さく震えていた。
それでもなお、玖朗は死に立ち向かわなければならない。
死は恐ろしい。一度死んだことのある玖朗だから、それは誰よりも知っていた。けれども多くのものは、死よりも恐ろしいものがあることを知らない。
死してなお、誰にも泣いてもらえないことだ。
己の人生に意味などなかったのだと、まざまざと見せつけられた時の恐怖は、死という暗闇よりも勝る。
ここで死に立ち向かわなければ、何もしなければ、玖朗はまた誰にも泣いてもらえない。それだけは絶対に、死んでもごめんだった。
決意を汲み取ってくれたのか、はたまた呆れられたのかはわからない。だがミケはそれ以上、玖朗を引き止めるような野暮な真似はしなかった。
『……ッ、わかりました。俺たちは
ミケが目配せをすると、猟犬を囲んでいた野良たちが一斉に散開する。瞬く間に、公園には玖朗と猟犬、その両者を空から俯瞰して見守る鴉たちだけとなった。
対峙する玖朗と猟犬はただ静かに、互いを睨みつけ合う。そこに言葉はなく、息をするのも苦しい張り詰めた空気だけがあった。
空を旋廻する鴉の羽ばたきと、濁った鳴き声が遠くに聞こえる。
ひらりと、艶やかな羽根が一枚、玖朗の視界を遮るようにして舞い落ちた。
それが開戦の合図となった。
「は……ッ!?」
一瞬、目の前を落ちていく羽に気を取られている間に、眼前の猟犬の姿が消えていた。予備動作も、地面を蹴り上げる音もなしに。
ぞくりと背筋に冷たいものを感じ、本能的に足元へと視界を落とす。するとそこには、もう数歩のところまで肉薄してきている猟犬の姿があった。
背筋が粟立ち、毛穴から脂汗がどっと噴き出す。
「うぉ……おおおおおおッ!?」
骨の牙に噛み砕かれるよりも早く、右脚を蹴り出す。命中こそしなかったものの、乾いた公園の地面を蹴り上げ、砂と砂利の土埃が猟犬の目を襲う。
「ぐるぅっ!」
視界を潰された猟犬は
玖朗は返す刀で掲げた踵を頭蓋へと振り落とす。だが猟犬は風の流れで攻撃を察知したらしく、紙一重で後ろへ跳躍し、それをかわしてみせた。
今度は地を蹴る音も、予備動作もあった。
では先ほどの無音の接近は、どうやって。
「……鴉の羽根の鋭角!」
羽根の先端は、整えれば筆として使えるほどに鋭い。例え整形前であったとしても、猟犬が瞬間移動の出口にするには十分な角度がある。そこから地を這うような低い姿勢で、玖朗に這い寄ったのだろう。
心底、相手がまだ幼体で助かったと思う。
猟犬の鋭角を用いた瞬間移動の距離は五メートル程度、そしてインターバルは一分程度。成体であったのならこれの数倍の距離、インターバルなしときている。三百六十度、全方位からの不意打ちなど防げる自信がない。
「ふざけた
こんな怪獣相手に、人間がどうこう出来るワケがない。
今の一撃とて、吸血鬼の反射神経があったからどうにか出来たようなものだ。
瞬間移動だけでも脅威だと言うのに、猟犬はまだ必殺の武器を隠し持っていた。
ずるり、と湿っぽい音と粘つく涎を伴って、歯並びの悪い口から舌が伸びる。しかしただの舌というにはあまりに鋭すぎた。さながら注射針のようであったが、長く、鞭のように撓る。自由自在に動く刃物と形容しても過言ではない。
「なあっ……!」
跳躍ではなく、疾駆。不細工な四肢を上下させながら、一直線に玖朗へと迫ってくる。その動きに合わせ、長い舌が波打ち、地面を抉りながら襲来した。
「こンの……ッ!」
先ほどと同様、地面を蹴り上げて猟犬の目を潰す。
軌道は玖朗から反れたものの、縦横無尽にうねる舌の射程範囲からは逃れられない。腕、肩、太ももを、服の上から削り取られる。
叫びそうになるのを堪え、拳を握った。
玖朗の横を素通りしていく猟犬の背へ、吸血鬼の渾身の力を込めて殴りかかる。
猟犬の勝利条件は、玖朗を殺すこと。
玖朗の勝利条件は、猟犬を気絶させること。
吸血鬼を殺すのには首を刎ねるか、心臓を穿つか、力の源である血を大量に奪うかしかない。ならば首と心臓の攻撃だけを留意して避け続ければ、そう易々と死ぬことはない。反対に玖朗は一撃、猟犬へと食らわせてやればいいだけだ。
成り損ないの玖朗の拳とて、吸血鬼の身体能力を持ってすれば時速百キロの車の衝突事故と同等か、それ以上の威力を発揮する。気絶させるには十分――あるいは過剰とも言えるそれだろう。
――とった!
確信と共に拳を振り抜いた、その時だった。
血管がはち切れんばかりの膂力を持って振るったハズの右腕から、玖朗の意志とは無関係に急速に力が失われていった。
「……あ?」
あまりに鋭すぎて、痛みを感じる間すらなかった。
地面に叩き着けられた舌は軌道を変え、背後から襲い来る玖朗の右肩を深々と貫いていた。
「――――ッ!!」
今度こそ耐え切れずに、玖朗が声にならない叫び声を上げる。猟犬は、その声が聞きたかったとばかりに口元を歪ませてせせら笑った。
吸血鬼の超回復を持ってすれば、ないも同然の負傷だが――それに付随する痛みは、どうしようもない。
一ヵ月の間で、暴力には慣れたと思っていた。けれども、あんなもの痛みのうちに入りはしないのだ。
本当の痛みとは、我慢など出来はしない。
貫かれたのは右肩だけであるハズなのに、足に力が入らない。膝が笑う。今にも崩れ落ち、腰が砕けそうになる。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。
理性が喧しいぐらいに警鐘を鳴らし続けていた。
けれどもあまりの激痛に、体は言うことを聞いてくれない。
逃げられない獲物を前にして猟犬は舌なめずりをする。闘争の中で〝ティンダロスの猟犬〟としての有り方を、思い出し始めているのだろう。
獲物をいたぶる、快楽というものを。
「ぎっ……ああああああああああ!」
「うぇあははははァァア!!」
猟犬はゆっくりと時間をかけて、玖朗の肉という肉を削ぎ落としていく。傷口からあふれ出す血は赤く鮮やかで、地面に吸い込まれては黒く変色していく。
玖朗の周囲の地面が、赤黒く染め上げられていく。
苦痛に悶える絶叫と、快楽に溺れる獣の笑声、血の飛散する瑞々しい音が延々と公園に響く。
四肢の肉を抉られてもなお玖朗が折れなかったのは、もはや執念と呼ぶ他ないだろう。満身創痍、息も絶え絶え、傷を負っていない箇所を見つけるほどが難しいぐらいだった。それでも玖朗は、膝を屈しない。
「僕……は……何、者かに、成る……んだ」
さながら恨み言のように、ただそれだけを繰り返し呟く。
誰にも涙を流してもらえなかった白木玖朗という人間の亡霊が、今の吸血鬼の玖朗を突き動かしていた。
獲物のあまりのしぶとさに、一方的な暴力を振るっているハズの猟犬が怯え、後退する。
初めての狩猟――眼前に立つ、未知の存在に恐怖している。
果たして自分は、この獲物を狩れるのだろうか、と。
そんな迷いを振り切るように、猟犬は己を鼓舞する遠吠えを上げた。それから獲物の咽喉笛目掛けて、一直線に舌を伸ばす。
もう嬲るのはお終い、これで最期にしよう。
そう物語っているようであった。
血を流しすぎて視界が霞み、意識も途切れかけの玖朗にとって、単調な一撃とてかわすことは難しい。
猟犬は勝利の喜びと共に、安堵していた。これで得体の知れない相手ともおさらばだ、と。
だが咽喉笛に届く紙一重のところで、舌が動きを止めた。
「……るぁッ!?」
玖朗のボロボロの右腕が、猟犬が知覚するよりも早く、その舌を捕まえて離さなかった。立つのもやっとな、死に損ないの拳とは思えないほどの握力で、玖朗は舌を握る。
「――嗚呼、やれやれ。小僧の意識が薄れたことでようやく
玖朗の咽喉から、玖朗のものではない女性の声が漏れる。
凜として透き通った、鈴のように良く響く声。同時に不遜で、不敵な声だった。
このままでは舌が握り潰されると判断した猟犬は、転がる石ころの鋭角を利用して瞬間移動を行う。玖朗の拳の中から、舌が煙のように消えてなくなった。
玖朗の背後に回りこむや、猟犬は唸り声を上げ睨み付ける。
鋭敏な鼻は嗅ぎ取る。玖朗から漂う、咽び返るような大量の血の臭いは先ほどから変わっていないことを。
しかし、猟犬の前に立つのは明らかに異質のように感じられて仕方がなかった。同一の体でありながら、その挙動、雰囲気、目に宿る光までもが違って見える。
首だけを巡らし、玖朗が猟犬を見据える。今まで殺されかけていた相手を見ているとは思えないほどに、穏やかな目。口元には微笑すら浮かべていた。
ぶわり、と猟犬の半液状の体が逆立つ。
「駄犬のクセにわかるのか。我と、小僧との違いが。思っていたより利口ではないか」
手の平からは血が止め処なくあふれている。刃のような猟犬の舌を素手で受け止めたためだ。玖朗の姿をした何者かは、右手で自身の顔面を鷲掴みにした。すると、手の平の傷口が割け、血が爆ぜ、その身を飲み込む。
血は逆巻き、渦となって玖朗の体を覆い隠し続ける。
しばらくすると血の渦は、右手の傷口へと飲み込まれていった。一滴も残さず鮮血を食らい尽くすと、傷口は何事もなかったかのように塞がった。ちょうど、映像を巻き戻しにしたかのような素早さだった。
指先は、男のようにごつごつと骨ばったものではなくなっていた。しなやかな、花の茎を思わせる瑞々しくも儚げな、女の指。
血の渦の中から現れたのは、見目麗しい女性だった。
闇夜を切り取って仕立てたかのような漆黒のロングドレスには金糸の刺繍が施されており、簡素でありながらも豪奢さが窺い知れる。裾から覗く脚は艶やかで美しく、赤いハイヒールを履いていた。細い肩には重たそうな
肌は病的なまでに白く、透き通り、触れれば溶けてしまう新雪を思わせた。膝まで届くロングヘアーは赤黒く、酸化し変色していく血のようであった。鋭い目に宛がわれた黒曜の瞳は深く、見つめるものを捉えて離さない魔力が込められている。唇は鮮血のルージュで化粧されており、実ったばかりの果実のように麗しい。
彼女が姿を現した途端、周囲の空気が歪んで感じられた。それまでも咽び返りそうなほどの血の臭いが猟犬の鼻腔を刺激していたが――もはやそのレベルではないほどの血の臭いだ。古戦場が歩き回っているような、濃い血の瘴気とでも言おうか。その場にいるだけで気圧されてしまうような死の臭いを彼女は纏っていた。
彼女こそが玖朗を襲った吸血鬼その人であり、仁や灰音が殺さんとする正真正銘の〝
名は誰も知らず、その美貌、暴力性、孤高さから、《
人外魔境の〝怪物街〟ですら、女王の存在は伝説と同義語のようなものだった。信じるもののほうが少ない。彼女を認知しているのは『調律師団』とその走狗、十三番区の極一部ぐらいのものだろう。なぜなら、出会ったものの悉くは、飢える彼女に殺されたから。
「くふふふ、何百年もの時を彷徨う我にとって
久方ぶりの体の具合を確かめるように、拳を開閉する女王。
血は生命なり。
血を吸われた人間は魂を奪われ、吸血鬼の意識に取り込まれてしまい、自我を崩壊させていくのだが――玖朗は死の間際、誰よりも生きたいと強く願った。故に屈強な自我は女王に破壊されることはなく、むしろその意識を逆に取り込み、彼女の肉体を己のものとした。
しかしそれで玖朗が女王に打ち勝ったのかというと、そういうワケではなかった。彼女は玖朗の内側で昏々と眠り続けているに過ぎない。その眠りを永遠とするべくダンタリオンの図書館に通い、手段を模索していたのだが、終ぞ発見には到らなかった。
そして今、玖朗が死の淵に際し、意識が途切れかけたことで、眠っていた女王が目覚めた。
「ぐルゥゥゥあぁぁッ……!」
「ん? 何だ、まだ居たのか駄犬。小僧はお前に用があったらしいが、生憎と我にはない。普段なら吠えた時点で串刺しものだが、我は今気分が良い、見逃してやるからさっさとどこへなりと行くがいい」
女王は手首をしならせ、猟犬を追い払う仕草をする。
運が悪いことに猟犬は、今回が初陣であった。彼我の戦力差を推し量る術というものを知らない。なまじ玖朗に対して
「……利口と言ったが、撤回する。やはり度し難い阿呆よ。吸血鬼の力を存分に振るえぬ小僧を嬲ったところで、お前の力の証明にはならんと言うのに」
振り返り、白枝のように澄んだ細い指先が、猟犬に向けられる。動作としては何のことはない、それだけのことだったが――瞬間、女王から放たれる苛烈な殺気が猟犬を襲う。殺気というものに形があるのなら、それだけで人が殺せそうなぐらいの濃度だった。
その殺気から逃れるように、猟犬は女王の背後の鋭角に飛んだ。
「芸がないやつだ。それにどこから襲ってこようが我の射程範囲だぞ」
猟犬のほうを見ぬままに、女王がかざした指を
「《
一噛みで絶命させるべく、猟犬は大口を開いて女王の頭上より襲撃する。だから彼女の足元など、気にも止めていなかった、いられなかった。
玖朗の鮮血――女王の鮮血の染み込んだ赤黒い地面が穿たれてヒビ割れ、その割れ目が自身に向いているということを猟犬は知らない。
「――《
ぞんっ、と空気を切り裂き、無数の槍が割れ目より出現する。突如として襲い来る槍衾を猟犬が避ける術は、瞬間移動しかなかった。だが、インターバルが終わっていない。
「――ッ」
肉を削ぎ、血が飛散する湿っぽい音に、子犬のような情けない鳴き声が混じる。
槍の手ごたえに違和感を覚えた女王が、訝しげに後ろを振り返る。森林のように生い茂る槍の穂先は、猟犬の肉こそ抉っていたものの、命には届いていない。首も心臓も見事に避けていた。猟犬は一瞬にして襲われた激痛によって気を失っているだけにすぎない。
「……ちっ、小僧の意志が邪魔をしたか? 狙いが上手く定まらんかった」
振るった右手をまじまじと見れば、小刻みに震えているのが微かながらにわかる。女王の中の玖朗の意志が、体の自由を奪い返そうと必死に足掻いているのだ。
喰らった相手にその内側から意識を侵食されるなど、女王の長い吸血鬼生命においても異例中の異例であった。だからどうすれば玖朗の意識を殺しきれるのか、彼女は知らない。そもそも、彼女の内側には膨大な数の命が渦巻いている。これまでに吸ってきた、数多の命だ。その中に埋もれ、自我を保てるなど、普通ではない。
「並々ならぬ執念だ……が、残念だったな小僧。お前一人では我から今一度、体の主導権を奪うことなど出来はしないさ」
「――へェ、なら二人がかりならどうだ?」
女王が反射的に後方を振り返る。すると、彼女の頬を何かが掠めて行った。目だけでそれを追うと、先端の尖った杭であったことがわかる。金属製のソレは紫電を帯びており、高速で飛んでいく。
地面に突き刺さると杭は帯電していた電気を周囲に拡散させる。
「《
落雷にも匹敵する轟音と、辺り一帯を覆い尽くすほどの眩い光が女王を襲う。鼓膜は劈かれ、視界は強制的にホワイトアウトさせられる。
動体視力が優れていたのが災いした。目で追えていなければ、視覚まで奪われることはなかっただろうに。
「ちぃ――ッ」
小さな舌打ちの後、腕を振りかざす。
まだ地面に残っていた血液が鋼鉄の壁へと変化し、女王の前に盾として立ち塞がる。続けざまに三度、壁に衝撃が走った。
戻りつつある視力で壁を見やると、そこには杭が二本、突き刺さっていた。一本は勢いが足りなかったのか、跳弾し、噴水の像の胸を抉っている。
「ひゅう。己の血を自在に操り、鋼鉄と化す《
吸血鬼は多種多様な能力を有する。その多彩さは、〝怪人〟の中でも断トツだと言っても過言ではない。その中で最も特異であるのが《血因能力》――
無尽蔵に血を蓄える吸血鬼が、その血を鋼鉄に変える能力。つまるところ、個でありながら一国に匹敵するだけの戦闘力を兼ね備えているのと大差ない。
「はン、嘯きおって。狙いは我ではなく、我から意識を逸らさせることだったのだろう?」
妖しい光沢を放っていた鋼鉄の壁が、槍が、風化し霧散していく。
槍に突き上げられていたハズの猟犬の姿は、そこにはない。
「魂胆バレバレかよ、ったく」
公園を囲うようにして生い茂る草むらの中から、ミリタリーコートを着込んだ仁が姿を現す。長さにして三十センチ、太さにして五センチほどある杭を片手の指の間に挟んでおり、それらは彼から発せられる紫電を帯び、時折弾けて光を放っていた。
仁の横に猟犬を抱えた灰音が音もなく現れた。
その首には能力封じの首輪がしっかりと架せられている。
「見事な手際だな、小娘。だが、我のそばからその駄犬を引き離したところで、意味はないぞ。其奴の命になど、興味はないからな」
「あなたが興味なくても、気にするやつがいるから助けただけよ」
「……気にするやつ? はて、誰のことだか」
「わかってるクセにとぼけんなよ。はした金の依頼のために、自分を殺そうとした狂犬を救うために、女の子の願いを叶えるために命張った、大バカヤロウのことだよ」
「……我の聞き間違いか? その口振りでは、今一度我から意識を奪おうと、そう言っているように聞こえたのだが」
「さっきからそう言ってンじゃねェか。悪ィがクロウは返してもらうぜ、女王サマよォ」
ざわり、と女王の周囲の空気が揺らぐ。彼女の顔には暗い影が灯り、黒曜の瞳が苛烈な怒りの炎を灯す。
「……戯言を。随分とこの小僧に肩入れするではないか、処理屋共が」
「その大バカヤロウっぷりを気に入っちまったんでな」
「まあ、それで体を奪われてたんじゃあ世話がないけれどもね」
「……お前たち、随分と詳しいじゃないか。小僧の危機にたった今駆けつけてきた、というワケではなさそうだな。さてはずっと付け回っていたな?」
「モチのロン。この一ヶ月間、ずっと尾行させてもらってたぜ。てめェが目ェ覚まして暴れないか監視するのと、そいつの器がどんなもんか推し量るためにな。しっかしまあ、猟犬は暴走するし、クロウは死ぬかもしれねェっつぅのに逃げねーし、あまつさえてめェが目覚める始末だ。予想外の連続だぜ、ったく」
「ふむ、ならば小僧はお前の眼鏡に適わなかった、と」
「言ったろ、気に入っちまったって」
にやり、と仁が歯を剥き出して笑みを浮かべる。
「現時点から白木玖朗は見習いから『KID』の正式なバイトに昇格だ。社長である俺ァそいつを助けなきゃならねェ。面倒だがな」
杭を持たない右手を、ミリタリーコートの裏地に突っ込む。水が万物を受け入れるようにして、仁の手はその中に吸い込まれて行き――中から刃の分厚い、剥き出しの
だらりと肩の力を抜き、腰を低く据えたかと思った瞬間、土煙を上げて仁が飛び出した。
「全く、面倒な……」
自らの血で
「灰音ェ!! お前はその犬を安全な場所に移して隠れてろ! こいつァ俺がやる!」
「うん、わかった」
仁の命令を遂行すべく、迅速に灰音が行動に移る。文字通り目にも止まらぬ速さで、その場から立ち去った。
「俺がやる、だと? 我も舐められたものだな、《
「強がるなよ、《
「ほざけ、それでもお前を殺すには十分だ」
「――本当にそうか?」
何が言いたい、と女王が唇を動かそうとしたところで、手元の十字剣に雷が迸った。握っていた右手の表面が焼け焦げ、黒煙を上げる。手からこぼれ落ちた剣が地面にぶつかると、砕けて霧散していった。
「……刃を通して雷を送り込んだか、小賢しい」
「以前のてめェなら気付けたんじゃねェのか? 抵抗するクロウに加えて、大喰らいのてめェが一ヵ月もの間、絶食状態だ。本調子じゃねェんじゃねえか?」
「……口の減らない
女王の足首から血があふれ、ヒールを伝って落ちていく。あっという間に彼女の足元には、血の海が作り出された。
往け、と女王が短く命令を下すと、血の海がゴボゴボと気泡を立て、渦巻く。水面に波紋を起こしながら、無数の槍が穂先を覗かせた。
その穂先の一切合財が、仁に向けられていた。
「《
女王の言葉を合図に、槍が一斉に放たれる。射出の勢いは凄まじく、輪郭を捉えることがようやくの速度だ。
だが仁はそれを難なく、右手の野太刀と左手の杭でもって払い除ける。
圧し折られた槍が次々と霧散していくが、血の海は仁が破壊するのと同じか、それ以上の速度で槍を精製し、投擲し続けてくる。
「さて、いつまで耐えられる?」
「……こりゃあ、確かにきっちィわ――なァッ!!」
鉤爪のように握られた四本の杭で投擲槍を迎撃するのと同時に、放つ。
杭の向かう先は女王ではなく、彼女の足元の血溜り。彼女を中心とし、四方を囲むように杭が地面に穿たれる。
左手の武器を失ったことで、仁の迎撃態勢は不完全となり、数本の槍が無防備な左腕を深く抉る。瑞々しい肉が露わになり、骨がひしゃげ、神経がズタズタに引き裂かれるが、彼は痛みを感じないとでも言うかのように、傷口に目もくれなかった。
「!」
仁の意図を汲み取った女王は即座に血溜りから跳躍し、足を離す。
「《
杭に雷が走り、四本の杭を線で繋ぎ合わせる。紫雷は正方形を形作り、囲われた血溜りは一瞬にして温度が跳ね上がり、蒸発してしまう。
あのまま女王が留まり続けていたのなら、血と共に焼かれていたことだろう。
宙を漂う女王は、小さく舌打ちを漏らした。
「……お前の望んだ通りに我は動いたか?」
仁が赤漆塗りの鞘をコートから取り出し、納刀、腰を低く据える。爆発的な握力を込めて柄を握り、振り抜く。鞘の内部を刃が走り――抜刀される頃には、柄から先が見えぬほどの神速の太刀筋と化していた。
「《
刃に宿っていた雷が、その太刀筋に乗せて放たれる。
弧を描く雷の斬撃が、空中で回避行動の取れない女王を襲う。
「避けるまでもない」
指先から伝い落ちた、一滴の血が引き伸ばされ、鉄と化して地面に突き立てられる。
女王を切り裂かんとしていた雷の斬撃が、突如として方角を変え、その鉄の棒へと引き付けられて行った。
「避雷針と言ったところか。残念だったな、渾身の一撃が当たらなくて」
俯く仁の顔。落胆に彩られた彼の顔を嘲笑ってやろうと企んでいた女王だったが――彼の口元が微かに歪んだのを、見逃さなかった。
瞬間、視界がブレた。
何かが横合いから凄まじい勢いで衝突して来て、体がくの字に折れ曲がる。
「……ッ!?」
衝撃で吹き飛ばされる寸前に、飛来物の正体を女王は黒曜の瞳に映す。
四肢を狼のソレに変化させた灰音が、その並々ならぬ瞬発力を持って女王に飛び蹴りをかましてきていたのだ。
「ぶっ飛びなさい」
「お、おぉッ……!!」
ビリヤードの玉が弾かれるのと同様、灰音をその場に残し女王の体が吹き飛ばされる。その軌道上には半漁人の像の噴水があり、彼女は噴水の縁に激突した。
人間であれば全身打撲、あるいは全身骨折、打ち所が悪ければ最悪は死に至る一撃であるが、人喰らいの〝怪物〟にとって、致命傷にすらなり得ない。
洋服を汚水で染めた女王が、瓦礫の下から起き上がる。
「ちっ、逃げていろと声高々と叫んだのは我の注意を逸らすためか。一々やることが小賢しい。そんなことで本当に我を殺せると思っているのか?」
「おいおいおい、余裕綽々だな女王サマ」
「戯けたことを。この程度、ダメージのうちにも入らぬわ」
「あっ、そう。ならこういうのはどうだ?」
指と指の間に、雷が弾ける。仁はそれを、ボールでも投擲するかのようなフォームで女王へと振るった。
雷鳴を轟かせ、雷が走る。
「馬鹿が、先ほど電撃は逸らされるとわかったばかりだろう。まさか、水に濡れれば我が血を操れないなどと思ったワケではあるまいな」
噴水から少し離れたところに、避雷針を作り出す。
しかし電撃は方向を変えず、一直線に女王へと飛来してくる。
「……ッ、なぜ」
「そんな鉄の棒よりも雷を引き寄せやすい特注素材がそこにあるからだよ」
ハッとして、女王は後ろを振り返る。するとそこには、先刻弾き返した杭が一本、噴水の像に突き刺さっていた。
「てめェに灰音の蹴りをブチかますためのブラフ? 水浸し? 知るかよンなこと。俺たちはただ最初からてめェをその杭のところに誘導することしか考えてなかっただけだぜ。蹴りも水浸しも、全部はこの一撃のためのオマケだ」
避けるのも防ぐのも、もはや遅すぎた。
女王の肉を、骨を、血を、電流が焼き尽くす。
灰音の蹴りとは一線を画する、身を焦がす必殺の一撃。
「かっ……!」
それでもなお、女王は倒れない。
焼け爛れたそばから、皮膚が完治していく。
「く、ふふ……全てはこの一撃のために……? こんなもので《不死の
『――しかし殺せはせずとも、動きを鈍らせることには成功しているように思うが?』
突如として鳴り響く、聞き慣れないくぐもった声。
その直後、高高度からの爆撃。
大質量の物質が硬い地面に叩き付けられ、周囲に衝突の余波と礫、土煙を撒き散らす。
「あァ!? なンだってんだよ!!」
予期せぬ第三者の介入に、苛立ち混じりの驚愕の叫びを仁が上げる。
だが闖入者は疑問には応じず、ただただ己の目的を遂行しようとして動く。
土煙が揺らめき、その内側から白濁した糸が横薙ぎに振るわれた。
灰音は跳躍してかわし、仁は身を屈めてやり過ごす。雷撃に見舞われ、体の自由が満足に利かない女王だけが逃げ遅れ、糸に捕らわれた。
女王を噴水に縛りつけるようにして、糸がぐるりと彼女の細身を一周する。その太さは人の二の腕ほどもあり、またそれ自体が粘着質で、触れるだけで絡め取られる。獲物を逃がさないというただ一点に特化した、蜘蛛の糸だった。
女王は膂力だけで糸を引き千切ろうとするも、腕の関節ごと糸に絡め取られており、十分な力を発揮出来ない。
忌々しげに舌打ちを一つこぼし、射殺す眼力で持って、蜘蛛糸の袂にいるであろう襲撃者を睨み付ける。
「貴様……無粋にも我に触れておいて、タダですむと思っているのではあるまいな」
濃密な殺気の込められた声――常人であれば、それだけで失神してしまいそうなほどの迫力があったが、襲撃者はあっけらかんとした調子で応じる。
『おお怖い怖い! さすがは《不死の女王》サマだ。こんな無様を晒してもそこまで嘯けるとは、感服するよ、うはははは』
「……我を女王と知っての行いか」
『無論だとも! この機会をずっとずっと、ずぅぅぅぅぅっと待ち望んでいたのだからな! 我輩の願望の糧、これ以上は望めぬ極上の贄よ!』
立ち込めていた土煙が風に攫われ、視界が開ける。散り散りになった煙の隙間から、襲撃者の姿が露わになった。
嘴の鋭い鴉を思わせる、俗にペストマスクと呼ばれる覆面を、襲撃者は着用していた。煤けた接眼レンズは光を受けてギラギラと光り、その奥の瞳の色を窺い知ることは難しい。よれたワイシャツに、結び目の緩いネクタイ、使い古されたベストを着ており、それらの上から薬品で汚れた白衣を羽織っている。頭にはふざけているのか、手品師が被るような、赤いリボンの結ばれたシルクハットを被っていた。ペストマスク医師と手品師――
彼の足元には蜘蛛の腹部と獅子の上半身を混ぜ合わせたかのような不気味な獣――
『彼の少年を見つけた時は、目を疑ったものだよ。よもやこの街でさえも都市伝説とまで言われた無類の〝怪物〟《不死の女王》、その魂を封印した少年など、何の冗談だ、とね! それから延々と、この機を窺っていたよ。器が壊れ、女王がその身を顕現させる、この瞬間を! そして我輩はようやく女王を捕らえた! うははははは!』
男が合成獣の腹の上で小躍りを始めた。それに合わせ、獣の体が小刻みに揺れた。事態の深刻さに反し、ピエロがボールの上で跳ねるような、馬鹿馬鹿しい光景を思わせる。
震動と連動し、蜘蛛の糸がキリリとさらに深く女王の体に食い込む。白く濁った糸には女王の血が染み込み、赤く染め上げられて行く。
「訊いてもいない口上を捲くし立ておって。我を捕らえただと? 巫山戯るのも大概にしておけよ、道化風情が。我は何人にも、万象にも捕らえられぬ――故に〝怪物〟なのだ!!」
『むっ!?』
染み込んだ血液が《鉄血魔装》により転化、鋼鉄の刃と成って糸を内側から食い破る。
破れた糸からは女王の血が滴り、辺り一帯に飛散した。それは仁の足元や、灰音のスカート、合成獣の蜘蛛の脚などに飛び散り、付着し、じわりと鮮血に染める。
「やっべェ――……灰音! 血の付いた部分を切り捨てろ!」
仁が叫ぶよりも早く、灰音が狼の爪を振るって付着部を切断する。
「忌々しい……道化も、処理屋も、白木玖朗も――我を縛るものは全て消え失せよ!」
女王の絶叫から一拍と置かず、血液は殺意を体現する凶刃と化した。
刃はさながら枝葉のごとく四方八方に、無作為に、確実に対象を殺すという意志を持って伸びる。
一瞬にして閑散とした公園は、殺戮の竹林と成り果てた。
直接、脚に血液が付着してしまった合成獣は見るも無惨に切り刻まれ、原形を留めぬほどのミンチになっていた。その上に構えていたペストマスク医師は転げ落ち、仰け反っていた。帽子を押さえるだけの余裕はあるらしく、豪運にも、致命傷は全て避けていた。
灰音は優れた動体視力と瞬発力で持って紙一重で回避し、仁は迫り来る刃の悉くを迎撃し、事無きを得ている。
しかし灰音も仁も、神経をすり減らしてようやくいなすことが出来たのだ。今一度同じ攻撃が繰り返されれば、また回避し切れるかは怪しい。
決して万全ではなく、手負いの状態――そう考えると、寒気を覚えずにはいられない。
「……これが正真正銘の〝怪物〟か。ゾッとしないねェ」
「……〝衝動〟に飲まれた意志なき獣とは大違いね。彼はこんなものを内側に抑えていたの?」
ただ一人、襲撃者であるペストマスク医師だけが、無様にも引っくり返りながら、ケタケタと全身を揺すって歓喜に打ち震えていた。
『うは、うは、うははは……! 何とも素晴らしい! 欲しい、欲しいぞ、俄然欲しくなった!』
その様子を見て仁は舌打ちを一つ鳴らし、苛立たしげに、
「……狂人が。お前のような力に魅せられたやつが〝怪物〟を生み出すんだ」
と吐き捨てた。
顔のすぐそばまで伸びてきていた刃を素手で握る。継ぎ接ぎだらけの手の平から赤い血が滲み、刃先に沿って滴り落ちていく。
「テメェがどんな意図でクロウを――女王を狙ってたかは知らねェが……だが残念だったな、タイムリミットのようだぜ?」
『……何だと?』
力任せに刀身を圧し折ると、砕けた刃が酸化し、霧散していく。
だが、それは破壊された部位だけに留まらず――公園一帯を埋め尽くしていた殺戮の竹林が、一斉に掻き消えて行く。
『……!? 一体何が起きているというのだ』
マスクの男は慌てて立ち上がり、竹林の根源である女王へと視線を向ける。すると接眼レンズに映し出されたのは、悶え苦しみながら胸を押さえる〝怪物〟の姿だった。
「くっく、目覚めにきつい一撃食らわしてやったからなァ。女王が弱るのを待ってたようだが、それが仇になったな」
『まさか……白木玖朗が目を覚ましたというのか? 馬鹿な、女王の覚醒によって彼の意識は完全に飲まれたハズではないのか』
「そりゃあ、テメェの勝手な見立てだろォがよ」
『あの凡庸で脆弱そうな少年が二度に渡り、女王に抗うというのか……!?』
「私たちが思っている以上にあきらめが悪いようよ、彼」
どこか呆れたように、ため息を吐き出しながら灰音が言う。それに対して仁は、違いねェ、と心底楽しそうに笑いながら頷いた。
錆臭い空気を肺いっぱいに吸い込み、身悶えする女王――その内側でいまだに眠る玖朗に向けて、仁が叫ぶ。
「いつまで寝てやがンだ、クロウ! とっとと目ェ覚ましやがれ!!」
その絶叫に呼応するかのようにして、さらに女王が身悶え、背中を丸める。
「ぐっ、がっ……あああああああ! おのれ、おのれぇ……! 白木、玖朗ォォォォオオ!!」
背筋を駆け上がる衝撃に耐え切れず、女王は丸めていた背を仰け反らせ、空に吠える。天に向かって突き出された胸――その谷間から朱に染まった腕が飛び出し、力強く虚空を掴んだ。腕と共に吹き出した鮮血は、彼女の体を包み隠すヴェールとなる。完全に彼女の体が隠れてしまう寸前、ぽつりと呟くように、しかし確かな意志を宿した言葉が紡がれた。
「――ごめん、僕はまだアンタに体を返すワケにはいかないんだ」
血のヴェールが取り払われた後には女王の姿は一切なく、ただ拳を突き上げた白木玖朗の姿だけがあった。
それも長いことは持たず、足がもつれて前のめりに倒れそうになる。寸前のところで仁が腕を添え、受け止める。
「テメェにしちゃあ頑張ったな、クロウ」
「……ずっと、見守っててくれたんスね、仁さん。ご迷惑、おかけしました……」
「ったくだ。事務所に帰ったら覚えとけよ、お前」
仁は晴れやかな笑みを玖朗に見せたかと思うと、ペストマスク医師に向き直り、不敵な笑みを浮かべる。
「さァて、どうするイカレマスクさんよォ。ご自慢のペットもミンチになって、お目当ての女王もまァた眠っちまった。俺たちと一戦交えてクロウを奪取するか? 俺たちゃあそれでも全然イイんだぜ?」
野太刀のギラ付いた切っ先を、マスクの男に突き出す。仁の横へ、無言のまま狼の爪を伸ばした灰音が歩み寄り、五指を大きく開いて威嚇する。
『致し方ない、ここは忠告に従って一時退散することにしよう。我輩も浅からぬ傷を負ったことだしな』
白衣の裾を摘み上げ、奇術師のような恭しい態度で頭を下げるペストマスク医師。
『それではまた相見えるその日まで。ご機嫌よう、『Killing Dead』の諸君』
男が裾を翻すや、彼と、彼が連れてきた合成獣の残骸が、痕跡もなくその場から消え失せた。外界であれば賞賛の声やおひねりも投げられただろうが、この街においては何てことのない、タネも仕掛けもあるただの魔術だ。仁も灰音も、別段驚きはしない。
むしろ、ようやく立ち去ってくれたか、と安堵のため息を吐き出していた。
「ったく、犬一匹探すのにとんだ大立ち回りだぜ」
勘弁してほしいわね、と灰音は頷き、仁の腕の中で気持ち良さそうに眠る玖朗を見た。
本当に気持ち良さそうに、満足そうに眠っている。
そんな寝顔を見ていると、咽喉元まで込み上げてきていた文句が出てこなくなった。
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