☠ Ⅳ ☠
ソファを勧めると、幼女はそこに身を小さくして座った。玖朗が差し出したホットミルク、それに仁のツマミから拝借してきたキャンディーや駄菓子の類には一切手を付けようとしない。緊張や怯え、戸惑いなどが彼女の心中に渦巻いているのが手に取るようにわかったが、どう接すればそれらを和らげられるか、玖朗には皆目見当も付かない。
息の詰まるような沈黙を、ただひたすらに耐える。
もう一時間ぐらい経ったのではないかと思い、時計を横目で盗み見るも、まだ幼女がやって来て十分と経っていなかった。
それからさらに五分後――ホットミルクから湯気が消え失せた頃になってようやく、仁が事務所に現れた。
寝起きでそのまま来たらしく、髪は掻き上げられておらず、ボサボサのままだった。ジーンズにはベルトも巻かず、ミリタリーコートは羽織らないで抱えて持って来ていた。他はズボラでも、なぜかサングラスだけはしっかりとかけているのが不思議であった。
その後ろに隠れるようにし、セーラー服に着替えた灰音が入ってくる。
仁の風貌を見るや、幼女が怯えの色を一層濃くしたのがわかった。玖朗は内心、彼女に同情した。見た目だけなら堅気じゃないからなあ、仁さん。いや、そもそもこの街で堅気もクソもあるのか、と。
そんな子供心など露知らず、寝起きの仁はぼーっとした足取りで、幼女の対面のソファにどっかりと腰を下ろした。
「クロウ、俺にも酒くれ」
「何で朝っぱらから酒なんスか」
「酒が抜けきってなくてよぉ……こういう時は迎え酒だろ?」
「や、知りませんよ、未成年ですし。つーか酒飲まなくても、それが正しくないってのは何となくわかります。お客さんの前なんスから、酒は控えてくださいよ」
「わぁーったよ、じゃあコーヒーくれ」
はいはい、と生返事をして、仁と交代するように玖朗が居住区へと引っ込む。
キッチンでインスタントコーヒーをマグカップに入れ、電気ケトルから湯を注ぐ。
キッチンは仁の性格では考えられないほどに片付いていた。というか、誰も近寄らないので散らかりようがないのだ。仁も灰音も、それに玖朗も家事が出来ない。なのでフライパンや包丁、まな板などの調理器具や食器が汚れることはまずない。洗い物はコップぐらいなものだ。
冷蔵庫の中はケチャップにマヨネーズ、チーズに牛乳、それと大量の缶ビールが詰まっている程度で、ろくに食べられそうなものはない。
生活力の低さが窺い知れる。
料理の出来ない三人は大抵、下の階の喫茶店で食事をすませてしまうためだ。
玖朗がコーヒーを持ってくる頃には、大まかな依頼内容を聞き出せたらしい。テーブルの上には数枚の写真が裏返しになって置かれ、それと隣り合わせになって幼女が持っていた豚の貯金箱があった。
「なるほどねェ……迷い犬の捜索か」
横合いから玖朗がコーヒーを差し出すと、仁は無言でそれを受け取り、一口含んだ。
「……ただ苦いだけでマズい」
べっ、と赤い舌を出して、不満を露わにする。
「インスタントなんだからしゃーないでしょう。琥珀さんのところのコーヒーと比べないでくださいよ。てか、仁さんや灰音ちゃんが淹れたやつよりはマシだと思うんですけど」
「一理ある」
仁が淹れるコーヒーは泥水のように濃く、灰音が淹れるコーヒーは粉が溶け切っていない。それに比べれば玖朗の淹れたものは、飲めるだけまだいい。それに、牛乳や砂糖を入れて味を調えてやれば、そこそこに美味いと自負していた。
ブラックが飲めない灰音にカフェオレを差し出し、玖朗はあらかじめスティックシュガーを溶かしたものを口に運ぶ。
玖朗も灰音も、ソファに座す仁の後ろへ控える形となった。依頼者が来ると、大体がこの構図になる。
図体のデカイ仁の両隣に玖朗と灰音が座るというのは窮屈だし、見た目的にも圧迫感があってよろしくないためだ。
ただ常々、これじゃあヤクザとその子分一と二みたいだな、と玖朗は感じていた。幼女の恐怖心がさらに煽られなければいいが。
ちらりと幼女のほうを窺い見ると、話すべきことを話し、一安心したのか、温くなったミルクに口を付けているところだった。瞳は少し潤んでおり、緊張感の緩みから泣いてしまったのかもしれない。
「えーっと、嬢ちゃん。この貯金箱にはいくらぐらい入ってるって言ったっけ?」
大きな手の平で豚の背を掴むと、仁が無遠慮にじゃらじゃらと揺らす。音はあまり鳴り響かず、隙間がほとんどないようだった。子供の貯金にしては、相当溜め込んでいるようだ。
「えっと……大体五万円ぐらい、です」
淀みがちに、幼女が言う。彼女ぐらいの年齢からすれば、それは大金だ。もしかしたら全財産かもしれない。貯金箱を見るに、親から今回の件のためにもらってきた、というワケではなかろう。そうでなければ、彼女一人でここへ訪れた理由の説明が付かない。
「五万、か。興信所なんかでもこの倍ぐらいは必要なんだがなァ」
「……パパとママにも、同じこと言われました。もらってきた犬を探すのに、十万円もかけられないって……だから、あの子は、タロのことは忘れて、また新しい子をもらってこようって」
言葉が進むにつれ、幼女の脳裏にはその時の記憶がフラッシュバックしたのか、嗚咽交じりになっていった。ぼろぼろと大粒の涙をこぼし、鼻水をすすりあげる。
見ている玖朗のほうがハラハラして落ち着かない。それは隣にいた灰音も同じようで、どうしようどうしよう、と呟きながら文字通り右往左往していた。
玖朗は仁と幼女には聞こえぬよう、灰音に小声で耳打ちをした。
「は、灰音ちゃん、何とか泣き止ませられないの?」
「無理言わないでよ。わ、私、子供の扱いなんて知らないわよ」
「人見知りって大抵、子供とかには気を許したりするもんなんじゃないの?」
「他の人見知りのやつのことなんて知らないわよ、人見知りなんだから」
玖朗と灰音があたふたとしていると、
「あー、泣くな泣くな、嬢ちゃん」
今までに見たことのない優しげな笑みを浮かべながら、仁が手を伸ばし幼女の頭を撫でた。
フランケンシュタインの怪物は、怪力が売りだというのに、そんな大雑把に触れて幼女は大丈夫なのだろうか。そんな一念が、玖朗と灰音の心中に芽生えた。
しかし玖朗たちが思っている以上に仁は子供の扱いが上手いらしく、幼女がどうなるということはなかった。それどころか、彼に撫でられるのが心地良いのか、涙を止める始末だった。
「……すっげえ意外ッス。仁さんが子供の扱い、上手いなんて」
「……すっげえ失礼だな、お前」
「やっぱりアレですか。小さかろうが女の扱いには慣れてるってところスか」
「叩っ切るぞ、てめえ。俺ァガキの時分から灰音の面倒見てたんだぞ、このぐらいの扱いは出来らあ」
灰音はそれで納得したらしく、小さくああ、と声を漏らした。彼女と仁の正確な関係を把握出来ていない新参者の玖朗だけが、意味がわからずに小首を傾げる。
どういうことですかソレ、などと問うている暇もなく、話は流れていく。
「その値段でやってやりてェのは山々なんだが、兄ちゃんたちも商売だからなァ」
「兄ちゃんって年齢でもないでしょ、仁さん」
「るせえ、俺はまだ若いんだっつーの!」
幼女を相手する時の優しげな表情はどこへやら、犬歯を剥き出しにして玖朗を睨み付ける。しかし何かを思い付いたらしく、仁の顔から表情がすっぽりと抜け落ちた。それから数秒、口元を手で多い隠し、思案にふける。
その場の仁を除くものが、頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。彼は一体、何を考えているのだろう。
しばらくして、仁は膝を勢いよく叩いた。パン、という乾いた音が、狭い事務所内に響く。
「よぅし、こうしよう! この案件、クロウに任せた!」
「……は?」
どういう思考の手順があってその結論に行きついたのかわからず、玖朗の口から素っ頓狂な声が漏れた。
これには灰音も驚いたようで、目を丸くしてきょとんとしていた。どうやら彼女でも仁の思考は読み取れなかったらしい。
玖朗の疑問を、灰音が代弁してくれた。
「ちょっと仁、どういうつもり? こんな割に合わない仕事、受けるつもりなの? それに、任せるってどういうつもりよ」
ソファの背もたれに片手を付き、前のめりになる灰音。
それに対して仁は、まァ落ち着いて俺の考えを聞けや、とのらりくらりとやり過ごす。
「嬢ちゃんにもわかりやすいよう、一から解説しようじゃあねェか」
そう言うと仁は、右腕を軽く掲げて見せた。引きしまった手首に、銀色に輝く腕輪が装備されている。それには細かな文字が刻まれていた。
「これは『調律師団』から頂戴した、外界への通行証だ。ただし、これにゃあそれ以上の意味がある。街を守る連中から、その実力を認められたっていう証だ。まァそれと同時に、連中の
仁が説明する傍らで、灰音もまた通行証を取り出した。彼女のソレはネックレスタイプのようなもので、セーラー服の内側から姿を現した。
「んでもって、そんな首輪付きを雇おうとすると、それなりの金が必要になる。嬢ちゃんの依頼を安く受けてやりたいのはもちろんなんだが、ソレをやっちまうと、他のやつらも挙って安値で俺らを雇おうとする。下手をすりゃ、他の首輪付きたちの商売にも影響が出て、『KID』そのものが恨まれかねない」
そこまでの説明を聞いて、幼女は表情を曇らせた。手持ちの金額では、仁を雇えないと断言されたも同然だからだ。
「そこで、だ。この街に来て間もない、雑用しかこなしてねェ首輪なしのクロウの出番だ。お前は『
水を得た魚のように、幼女の顔が活き活きとし始めた。
「そ、それじゃあ、タロを探してくれるんですか?」
幼女が期待の眼差しを仁に向けるが、
「それはクロウが承諾するかどうか、だな」
と言い、玖朗を親指で指し示した。
途端、輝きに満ちた目が玖朗へと向き直る。あまりの眩しさに、視線を逸らしそうになってしまうほどだった。
「どうする、正義の味方志望クン?」
ここまで期待させておいて、断れるハズもない。
それに、玖朗にとっては初めて回されてきたまともな依頼だ。理由はどうあれ、仕事を任せてもらえるというのは嬉しい。例えそれが子犬探しという地味なものでも、だ。
それは玖朗の目的を達成するための第一歩となる。
「もちろん、やらせてもらいます」
どん、と拳で胸を叩く。
幼女が笑い、場の空気が和やかにまとまるのを肌で感じた。
まだ依頼を達成したワケではないが、この感覚、悪くない。思わず玖朗はにやけそうになるのを必死に堪えた。今まで頼られるということがなかった人生だったので、あまりこういう空気には慣れていないのだ。
「ンでもって、この依頼をこなせたら晴れてバイト見習いを卒業させてやるよ。雑用だけじゃなく、依頼を回してやるし、無論給料もくれてやろう」
言い終わるや、玖朗のほうから灰音のほうへと視線を移す仁。
「ってワケだ。言ってみりゃこの依頼は、バイト見習い卒業試験だな。納得したか、灰音」
「……わかったわよ」
「うっし、灰音も納得したことだし、気張ってこいや、クロウ」
仁が放って寄こした数枚の写真を手に取ると、玖朗の顔色から血の気が引いていった。
その写真には大方、迷子になった子犬が映されているのだろうと予想はしていた。その予想は、大まかには当たりであった。
予想外の出来事があったとするのなら――玖朗が想像していた子犬のイメージから、大幅にズレていたということだ。
四足獣の骨格に、青く腐食した半液状のものが纏わり付いている。眼窩には赤黒い鬼火のような妖しい光を宿し、大きく開いた口からは、注射針に似た長く鋭い舌が覗いている。
「……い、犬?」
「正式名称、〝ティンダロスの猟犬〟。鋭角九十度以下から出現する能力を有し、それを駆使して獲物を追う様から猟犬の名が付けられた。とある結社は、この猟犬を用いて暗殺なんかをしてたこともあるらしい。ンで、写真を見りゃあわかると思うが、猟犬っつっても、お前の知る犬とは全くの別物の存在だ。〝怪人〟と〝怪物〟の狭間の、まあ怪獣ってところかね」
「成長するとその能力を使ってどこかに飛んで行っちゃうっていうのは知ってたんだけど、タロの成長、早すぎたみたいで……能力封じの首輪をする前に逃げちゃったの」
「……へ、へぇー」
その鬼火の目と、鋭利な舌からは獲物を殺すという確固たる意志しか感じられない。
灰音が玖朗に依頼を任せることを渋っていた理由がわかった気がする。
仁や灰音ならともかく、見習いの玖朗には荷が重いのではないだろうか。
困難だからこその、卒業試験とも言えるのだろうが――今日、卒業する前に死ぬんじゃないか。そんな一抹の不安が、玖朗の心に芽生える。
「えっと、その、ちなみに、この依頼を今から辞退する、なんてことは――……」
きっと探し出してくれると信じて疑わない、純粋無垢な少女の眼差しの前では、それ以上の言葉を紡ぐことは出来なかった。
「……全身全霊を持ってやらせていただきます」
もう後には引き返せない。
「……次からはちゃんと内容を確認してから依頼を受けよう」
「次があればね」
「ぐっ……」
いつもの灰音の皮肉が、この時はあまり皮肉には聞こえなかった。
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