☠ Ⅲ ☠

 玖朗の爽やかな朝は、奇怪な不協和音によって乱された。

 身を跳ね起こし、音のする方向――カーテンのない窓ガラスの向こう側をみやれば、電線の上に、首が二つの怪鳥が停まっていた。

 一方の首は、ぎょええええ、と重たくしわがれた、断末魔のような鳴き声を。

 一方の首は、きえええええ、と甲高い耳障りな金切り声を上げていた。

 その二つの低音と高音が合わさり、聞くものの精神を不安にさせる不協和音を作り上げる。

 玖朗がこちらを睨んでいると気付いた双頭のカラスたちは、まるで目覚ましの役割は果たした、とばかりに飛び立って行った。ドップラー効果を伴った二重奏は、最後まで玖朗の寝覚めの気分を台無しにする。

「……毎朝毎朝うるさいなあ。カラス避けでも吊るすか?」

 あの怪鳥相手では、普通のカラス避けなど効果は望めそうにもないが。

 枕下のアナログ時計を手繰り寄せて見れば、時刻は午前の七時。一般人にしてみれば普通の起床時間だが、吸血鬼にとってこの時刻の目覚めは、少々早起きが過ぎる気がした。

 二度寝を敢行したいところだが、あの怪鳥の鳴き声のせいですっかり目が覚めてしまった。無理にもう一度寝ようものなら、悪夢に魘されそうだ。

 のそのそと玖朗は布団から起き上がると、寝巻きのスウェットを脱ぎ、真っ白なサマーパーカーとジーンズを履く。

 ベルトをしめながら、玖朗はぐるりと部屋を見渡した。

 相変わらず何もない部屋だ。

 元々は物置に使われていた部屋を急遽玖朗に宛がったため、布団以外の家具が存在しない。六畳間の畳の部屋の中央に、ぽつりと擦り切れた寝具だけが鎮座する。後は事務所の片隅で埃を被っていたアナログ時計と、玖朗が持ち込んだ着替えの入ったボストンバック程度。窓にはカーテンすらない。

 当初、吸血鬼にカーテンのない部屋で寝ろとは、つまり死ねということなのかとも疑ったものだが――〝怪物街〟という街は、やはり特殊らしい。

 古の魔術師によって構築された見えざる大結界は、陽光の有害物質を遮断するらしい。これで吸血鬼諸々の夜族ミディアンズは日中でもお日様の下を歩けるというワケだ。逆に、多くの〝怪人〟に恩恵をもたらす月光は、何の阻害もなく通す。

 その話を聞いた時、チートじゃないか古の魔術師、と玖朗は思ったものだ。そんな〝怪人〟よりも、〝怪物〟よりも人間離れした、神様の領域に踏み込んだようなやつが徘徊しているかもしれないとなれば、確かに誰も十三番区に近付きたくないワケだ。

 まさしく触らぬ神に祟りなし、だ。

 欠伸を噛み殺しつつ、ぺたぺたと廊下を歩く。途中、仁の部屋の前を通ったが、彼はまだ絶賛爆睡中らしい。部屋の外にまでそのいびきが響いていた。

 昨夜は大酒をかっ食らって帰ってきたようだし、今日は依頼も入っていないので、昼まで寝ているつもりだろう。可能であれば玖朗もそうしていたかった。

 部屋には読み物もなければ、無論テレビもなかった。現代っ子の必須アイテムであるスマートフォンも、吸血鬼になった際に失くしてしまった。昨日行けなかった図書館に出向きたいところなのだが、生憎と開くのは午後からだ。つまるところ、日中は暇を持て余す。

 娯楽テレビがほしければ玖朗は必然的に事務所へ行く他ない。

「……ま、屋根があって布団があるところで寝れるだけ幸せなんだろうけど」

 住居スペースと事務所を区切るドアを開ける。

 事務所と言っても、大勢の従業員を抱えているワケでもないので、手狭だ。広さにして十六畳ぐらいだろうか。窓際には立派な黒革張りのワーキングチェアと黒檀のプレジデントデスクが置かれている。デスクの上には山盛りのタバコの吸い殻と、書類が適当に放置されており、チェアの周りにも幾枚か散乱していた。その有り様だけで仁の性格がまざまざと見て取れる。

 デスクの正面には、オンボロで分厚いブラウン管テレビが傾いて置かれている。仁は節電という言葉を知らないらしく、四六時中〝怪物街〟のニュースを垂れ流していた。

 デスクとテレビの間には、ゴミ置き場から拾ってきたように古い応接用ソファが二脚ある。チェアの豪華さとは対象的だ。客を舐めているとしか思えない。ソファの前に置かれたガラスのテーブルも、煤けていてよく見ればヒビも入っている。

 絵に書いたような、うだつの挙がらないダメ事務所と言った感じ。

 これででは有名な事務所だというのだから、驚きだ。

 スプリングが若干イカれたソファにどっかりと腰を下ろし、ぼーっとテレビを眺める。

 〝怪物街〟のニュースは非常にエキサイティングで、クレイジーだった。対岸の火事として見ている分には、飽きない。

『十二番区のカラーギャングたちが拮抗状態を破ってついに抗争をおっぱじめた! 連中のアジト周りは血で血を洗う、まさに仁義なき抗争! 暇なヤツは是非一度見に行ってみるといい! だけど連中、無茶なドーピングをしているらしく、敵味方の区別がついていなぁい! もし巻き込まれて死んじゃっても、当番組は一切命の保障はしないから、あしからず!』

 もはやニュースキャスターからしてぶっ飛んでいた。

 多眼にして多腕のキャスターは、持てるだけの原稿を持ち、次々と原稿に目を通してハイテンションにニュースを読み上げていく。そんな異形がきっちりとスーツに身を包み、ネクタイをしているからミスマッチで面白可笑しい。

「ていうか、こういうのを止めに行かなくていいのかね、ウチは」

 カラーギャングが治安を乱しているのは明らかだ。こういうのを諌めるのが、この事務所の仕事ではなかったのだろうか。

「馬鹿ね。『調律師団』どころか一般人からも依頼が来てないんだから、止めに行く必要なんてないわよ」

 独り言へ返事が返ってきたことに、玖朗は肩を跳ね上がらせて驚く。

 きぃ、とチェアが軋んで正面を向いた。

 大きな背もたれに隠れるようにして、灰音がそこに体育座りをしていた。

 灰音は外行き用のセーラー服ではなく、ぶかぶかのティーシャツを着ていた。過激な英字やロゴが描かれており、膝丈が隠れるぐらいにぶかぶかなことから、恐らく仁のお下がりだろう。しかしそんな体育座りしせいでは、パンツが見えてしまう。

 以前、無防備すぎると玖朗が注意すると、

『別に、蚊にパンツを見られたって恥ずかしいも何もないでしょう?』

 と灰音は全く気にした様子がなかった。

 そちらが良くとも、玖朗は思春期真っ盛りな男子だ、目の保養であると同時に毒でもある。灰音の無防備さだけは一ヵ月経っても慣れない。というか、一生慣れる気がしない。

 さらりと蚊となじられていることに気が付かないぐらい、玖朗には刺激が強かった。

「い、いたの、灰音ちゃん」

 極力動揺を悟らせないよう、平静を装う玖朗。しかし顔が直視出来ず、不自然に真横を向いていた。

「ウチは慈善事業じゃないの。『調律師団』からはそれなりのお金をもらってるし、〝怪物〟を殺すとそれとは別に報奨金が出る。無論、一般人からの依頼もお金をもらうわ。この街は慈善や偽善でやっていけるほど、甘くはないのよ」

 吸血鬼の力を使うのなら、誰かのために。

 そう語った玖朗を、灰音は言外のうちに甘い考えだ、と責めているような気がした。

 それと同時に、怖気を覚えた。

 同い年であるハズの少女が、何気なく殺す、という単語を躊躇いなく使ったことに薄ら寒いものを感じたのだ。

 生まれながらに〝人狼〟の灰音は、数え切れないほどの死を見てきたのだろう。

 だからその言葉には重みがあったし、玖朗は何も言い返せなかった。

「私はあなたが嫌い。何が出来るワケでもなく、口先だけのあなたがね。誰かのために、なんてくだらないし、そんなものは虚構ウソよ」

「う……」

 実際、この一ヵ月の間に仁から任された仕事と言えば、茶出しや買い出し、掃除などの雑務ばかり。誰かのために吸血鬼の力を振るえた例などない。

 玖朗は誰かを救う正義の味方どころか、偽善者にも成りきれていなかった。誰の助けにもなれていなかった。

 自分は人間だった頃と変われていないのじゃあないか。不遜とも言える目標だけを掲げ、あの頃から変わったつもりでいるだけなのではないか。そんな不安の灯火が近頃、玖朗の胸の内で揺れた。

「幻想を捨てなさい。己の利益を求めない崇高な正義の味方なんて、この世にはいないのよ」

 魔術師や〝怪人〟、その他諸々の超常の存在が跋扈するこの街で幻想を捨てろとは、酷い皮肉のように思われた。

「仁も、私も、己の目的を持ってこの仕事をしている。無駄な正義感や偽善は身を滅ぼすだけよ」

「……灰音ちゃんの、目的って?」

「単純明快、生きるため、よ。私は私が明日も生き続けるためにこの仕事をしているわ。……誰のためでもない、自分のためよ」

 灰音の目は事務所内に有りながら、しかしどこか遠くの景色を見つめているようだった。

「じゃあ、仁さんの目的は?」

「知ってたとしても、私が仁の人生を語っていいワケがないでしょう」

 それも、確かだ。

「他人のことを詮索してる暇があったら、己のことをもっと知りなさい。あなたの場合は特に」

「……うっす」

 まさしく灰音の言うとおりだ。玖朗は他人のことよりもまず己のことを知らなければならない。玖朗は自分に、それすらもわからないのだから。

 清々しい朝には似つかわしくないほど、玖朗は深くため息を吐いた。息に重量があったのなら、それは鉛のように重かったハズだ。

 玖朗の心境とは裏腹に、ブラウン管テレビからは愉快な笑い声が漏れてくる。

 その笑い声に掻き消されそうなほど遠慮がちに、事務所のドアがノックされた。自然と玖朗と灰音の視線がそちらを向く。

「あの……すいません、ここが何でも依頼を解決してくれる、処理屋さんですか……?」

 消え入りそうな声が、ドア越しに聞こえてくる。こんな早朝からの来客は珍しいが、ないワケではなかった。

 依頼であれば何でも問題を処理する、という性質柄、営業時間は問わない。客の問題は、いつ何時起こるかわからないから。それが仁の考えであった。

「灰音ちゃん、お客さんだよ……って、アレ?」

 チェアの上に体育座りをしていた灰音の姿が、一瞬目を離した隙に消えていた。どこに行ったのだろうと裏側に回りこんでみると、デスクの隙間に彼女は隠れていた。心なしか眠たげな目からは光が消え失せ、体は小刻みに震えていた。

「あー、えっと、灰音さん? またですか?」

 無言のまま、こくこくと首を縦に振り頷いた。

 玖朗との舌戦を見ていると、よく勘違いをされるのだが――灰音は極度の人見知りだった。仁や下の喫茶店の店主のように心を許した相手か、いっそのこと嫌悪感を抱く玖朗とは普通に話すことが可能なのだが、こと初対面の客となると、目も合わせられない。口も利けない。まともに話が頭に入ってこない。

 いつもキツイ言葉を吐かれている玖朗が初めてその姿を見た時は、我が目を疑ったものだ。まるで別人ではないか、と。

「あーっと……応対は僕がやっておくから、灰音ちゃんは家のほうに戻って仁さんを起こしてきてよ。ついでに、着替えてきて。その格好じゃ、お客さんの前に出れないでしょ?」

 瞬間、わずかばかり灰音の瞳に光が差した気がした。毒の一つも吐かず、彼女はそそくさと住居スペースのほうへ身を引っ込めてしまった。

 本日すでに二度目になるため息をこぼしながら、玖朗はドアのほうへ向かう。

 一体何があればあれほどの人見知りになるのか、不思議だ。

 しかしおかしな話だ。玄関にはインターホンが付いていて、それを押せばノックなどしなくてもすむハズなのに。その音を聞けば仁も――起きるかは怪しい。

 玄関のドアを開けるのと同時に、玖朗はなぜインターホンが鳴らなかったのか、理解した。

 ドアの前に立っていたのは、ようやくドアノブに手が届くかぐらいの身長をした、幼女であったのだ。

 ただし、ただの幼女ではない。

 幼い子供特有の、ぷにぷにとした丸い頬。瞳は大きく澄んでいて、子供の純粋な心をそのまま映し出す鏡のようだった。身の丈よりも大きなターコイズブルーのレインコートを着込んでいるようだったが、それは衣服ではなく、彼女の一部だった。コートの裾は八本に別れ、うねうねとタコの足のように蠢いている。内側には吸盤のようなものも見受けられた。彼女の肌の色もまたコートと同じ色だ。

 事務所を訪ねてきたのは〝怪人〟の幼女であった。

 〝怪人〟がやって来ることは珍しくなかったが、こんなにも小さな来客は始めてだったので、玖朗は面食らってしまい、一瞬息を飲んだ。

 その玖朗の様子を見て、幼女が不安げに表情を歪めた。自分は何か間違ったことをしたのではないかと思ったのだろう。

 こんな幼い女の子を泣かしたとあっては、仁に、灰音に何を言われるかわかったものではない。玖朗は慣れないスマイルを貼り付けて、彼女を安心させようと努める。

 それが幸をそうしたのかはわからないが、幼女の表情がそれ以上崩れることはなかった。

「こっ、ここが、処理屋さん……『KIDキッド』で間違いないですか……?」

 嗚咽に近い声で幼女が尋ねてくる。玖朗は精一杯優しげな笑みと声で、そうだよ、と答える。

「ここが処理屋『Killing Dead』――略して『KID』で間違いないよ」

 表にはでかでかと看板が釣り下げられているが、きっと幼女には読めなかったことだろう。しかも単語と単語の間には、悪趣味なドクロのロゴが刻まれている。虚の眼窩から血を流しながら笑う、不気味なドクロだ。最初見た時、ここは海賊のアジトか何かなのではないかと玖朗も疑ったものだ。彼女が戸惑うのも無理はない。

 『Killing Dead』――その意味は、不死をも殺す。つまりは、矛盾を成し遂げる。転じて、何でも処理屋。そんな由来があると、仁が言っていた。

 しかし無茶苦茶なことも多々やらかすため、嫌味と皮肉を込めて『KIDワルガキ』と言う蔑称で呼ばれることのほうが多かった。

 幼女の震える両手は、豚の貯金箱を必死に握りしめていた。

 こんな胡乱げな場所に――従業員である玖朗が言うのも何だが――幼い女の子一人でやって来るからには、彼女にとって一大事に違いない。

「とりあえず、中に入りなよ。ホットミルクぐらいは出せるからさ。お菓子は……あったかな」

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