自壊

「仕事を、辞めようと思う」

 ロシアのとある町に暮らす若い女性は、自宅リビングにて夫からそのように告げられた。夫の言葉を正面から受けた彼女は、「そう」と一言だけ返す。

 夫は彼女と向き合ったまま、淡々と話し始めた。

「この時勢で働いて、金を得ても、なんにもならない」

「うん。そうだと思う。今じゃ一月分のお給料でも、パン一つ買えないし」

「だけど森には行かない。ロシアの森で生き抜く方法を、ボクは知らないから。猛獣から身を守る術はおろか、食べられる野草すら分からない」

「うん、それは仕方ないわ。私だって知らないもの」

「……不甲斐ない夫で、済まない」

 一通り話すと、夫はぽろぽろと泣き始めてしまった。妻である彼女は、優しく夫を抱き締める。

 彼女は、こうなる事を既に予想していた。

 怪獣と呼ばれる生物が現れてから、早くも二ヶ月が経っている。一時は怪獣の対処方法も分かってきたと言われていたが、とんだ思い上がりだった。怪獣は人間が思う以上に賢く、様々な搦め手を用いてきたからだ。作物や牧草の有毒化、穀倉の的確な破壊、『怪獣の木』による海洋汚染……あらゆる方法で人類から食糧を奪い去った。

 毒ガスや物理的に殺されるという被害は、出現パターンや行動からある程度回避出来る。しかし食糧不足は回避不可能だ。未だ核兵器以外で怪獣を打ち倒した例はなく、核兵器で怪獣を倒しても放射能汚染された土地から食べ物は得られない。穀倉や畑を襲撃する怪獣は、どうやっても止められないのである。

 怪獣に直接殺された人間は推定五億人を突破したと、国営テレビで報じられていた。これだって決して馬鹿に出来ない ― 第二次世界大戦の『総犠牲者』数すら五千五百万人程度なのに ― 数字だが、しかし怪獣により引き起こされた人間同士の諍いで失われた命は十五億を超えたらしい。しかもこれはほんの二週間前の、まだテレビ番組が流れていた時期の話。今の総死者は三十億に迫るか、或いは超えているのではなかろうか。

 少し前に聞いた世界人口は九十億人。三十億人死んでも、まだ三分の二以上残っていると言えなくもないが……僅か二月で三分の二まで減らされたとすれば、果たして人類は八ヶ月後の年末まで生き延びているのだろうか? 彼女には、とてもそんな自信はない。

 食糧供給が改善される見通しは立たず、治安は悪化していくばかり。こんな情勢で経済が立ちゆく筈もない。働いて稼いだところで、その金で何を買えというのか。一番欲しい食糧は、何処にもないというのに。

 ならば夫が仕事を辞めるのは、当然の行いだろう。彼女もそれを望んでいた。

「良いじゃない、仕事なんてしなくても。これからは毎日、ゆっくりと暮らしましょ」

「……ああ。そうだな」

 彼女は夫に囁き、夫もこくりと頷いて受け入れる。

 人が人らしく生きていくのが難しくなった昨今、一つの『ブーム』が生まれていた。

 それは『好きなように生きる』という事。

 森の中は過酷な世界だ。何時野生動物に襲われるか分からず、安心して眠れる場所はなく、食べ物だって満足に得られるとは限らない。技術がなければ、たちまち苦しみの中で命を落とすだろう。

 どうせ命を落とすなら、最期まで人間らしく生きる方が良いではないか。泥水を啜ってでも生きるなんて、そこらの獣と変わらない。自分の生き方を決め、自分で死に方を決めてこそ人間だ。

 怪獣に戦いを挑むも良し。

 盛大に飛び降り自殺をするも良し。

 冷蔵庫にある缶詰を、後先考えずたらふく食べるも良し。

 ……つまるところこれは、享楽的な自殺である。回復する兆しのない世界に失望した人々の間に、この怠惰な終末思想が広がっていたのだ。彼女とその夫もまた、緩やかな死への誘いに惹かれていた。

「良し、それじゃあ今日は冷蔵庫にあるもの全部使っちゃいましょ。豪勢に行くわよ」

「賛成だ。久しぶりに、良いものが食べられそうだよ……あ、そうだ」

「ん? なぁに?」

 彼女が訊き返すと、夫は目を逸らし、照れたように頭を掻く。

「料理、手伝わせてくれるかい? 今までずっと、任せきりだったから」

 ようやく発した言葉は、ちょっとばかり卑屈な物言いで。

 妻である彼女は唇を尖らせる。

「そういう事は、もうちょっと早く言ってほしかったわ」

 それから発した言葉は意地悪で。

 だけど頬を赤らめ、目許を弛ませていたものだから、気持ちは夫に筒抜けのようだった。

 ……………

 ………

 …

「……本当に、食べちゃったわねぇ」

 翌日、彼女は哀愁漂う顔で冷蔵庫を眺めた。

 中身は空――――という訳ではないが、食材と呼べるようなものは殆どなかった。あるのはジャガイモの欠片や底が見えるピクルスの瓶詰め、半分も残っていないワインとマヨネーズぐらいか。肉に至っては切れ端すら見当たらない有り様である。

 昨晩は本当に思うがまま料理を作り、思うがまま食べて食材を使い果たした。食べたものは今頃と血となり肉となり便となっているだろう。最早吐き出す事すら出来やしない。

 昨日の自らが選んだ行いに、彼女は深々と項垂れた。

 快楽に任せて一日を過ごす。

 口で言うのは簡単だが、今まで真面目に、そして計画的に生きていた人間がいきなりこの怠惰に身を委ねるのは『抵抗』を感じるものだ。転がり落ちるのは一瞬、とは言うものの、本当に一瞬で転がり落ちる訳ではない。なんやかんや数日、或いは何週間も掛けて、少しずつ ― 節制が身に付くまでに比べればあっという間に ― 人は怠惰になる。

 ましてやそれが命に関わる事なら、やっぱりやらなきゃ良かったと後悔するのが普通だ。獣のように地べたに這いずろうとも、泥水を啜ろうとも、大半の人間は死にたくないものである。人間である前に、生き物なのだから。

 故に普通ならば、如何に破滅的な局面でも『好きなように生きる』というブームはさして流行らないだろう。そう、普通ならば。

 今は普通ではない。があるのだ。そして彼女は、その『普通でないもの』を知っていた。もしも政府がきちんと残っていれば間違いなく禁止されただろうが、今じゃ誰も咎めやしない。

「アレに頼るのも抵抗あるんだけど、まぁ、どうせ最期なら試してみようかしら」

 独りごちて立ち上がった彼女は、ベランダへと続く窓を開け、庭へと出た。

 怪獣出現から二ヶ月が経ち、間もなく春になろうとしている。極寒だのウォッカなしでは過ごせないだの色々言われるロシアの地だが、春になればそれなりに ― それでも最高気温は十度以下だが ― 暖かい。

 一メートルほどの塀に囲まれた庭には小さな草がたくさん生え、短い春の間に子孫を残そうと一生懸命生を謳歌していた。草の形は千差万別で、しかしながらどれも地味に見えるだろう。

 そんな地味な植物に紛れて、彼女の探していた『普通でないもの』が生えている。

 『普通でないもの』は、しかし見た目は極々有り触れたものだ。少し太い茎と、キャベツのように柔らかで肉厚な葉を持ち、他の植物を押し退けて大きく育っている程度。強いて奇妙な点を挙げるなら、昨年まで誰も見た事がない……されどそんなのは植物学者でもなければ気付かないだろう……種というところだけ。

 彼女はその奇妙な草を毟った。根からではなく、茎の真ん中当たりからポキリと折るように。

 折れた茎からは、どろどろと白濁の汁が染み出す。手に汁が付いたので彼女は嗅いでみたが、臭いものではなかった。むしろほんのりと、甘い香りがする。汁は最初サラサラしていたが、指で弄っていると瞬く間に粘り気を帯び、接着剤のように指にこびり付いた。

 彼女は決して植物に詳しい訳ではない。種の同定など、お店に売られている野菜相手が精々。されど今し方折った植物の特徴は、どれも知り合いから聞いていたものと同じであり、故にこれが求めていた種だと確信する。

 仮に間違っていたとして……なんら問題はない。その時は『無害』なだけだ。

「えひひひひひひひ、ひ、ひひひ」

 他にないかと探していると、不意に何処からか不気味な笑い声が聞こえてきた。反射的に彼女は声が聞こえた方……家をぐるりと囲う塀の方を見遣る。

 そこには、塀を乗り越えるほど前のめりになり、こちらを見ながらへらへらと笑う中年男性の姿があった。当然のように敷地内に頭を突っ込んでいるが、彼女にとって全くの見知らぬ人物であり、口からだらだらと涎を垂らす様は異常者以外の何者でもない。

「ひっ!?」

 彼女は恐怖から悲鳴を上げ、尻餅を撞くようにへたり込んでしまう。

 尤も中年男性はそんな彼女の姿を見ても、表情一つ変えない。涎で庭を汚した後は、のそりと身を起こし、ふらふらと離れていく。笑い声は今も出しているが、暴れたり、人を襲うような素振りはない。

 彼女は胸に手を当て、呼吸を整え……ごくりと息を飲んでから、ゆっくりと立ち上がる。

 今度は彼女が塀から身を乗り出し、男の姿を目で追う。

 覚束ない足取りで離れていく男。その男の行く先には、同じく覚束ない足取りで歩く人の姿があった。一つ二つではない。頻繁に現れては、何処かに去って行く。

 道端で倒れている者の姿もちらほらと見られた。男だけでなく女の姿もあり、恥も外聞もない。いや、幼い子供までもが倒れていては、最早恥がどうこうではないだろう。

 明らかな異常事態。

 しかし彼女にとっては『予想通り』であり、最早見慣れた光景なのだが。

「……せめて家で使いましょう。いくらなんでも、アレを見られるのは勘弁だわ」

 ぽつりと呟きながら、彼女は毟った草を持って家へと入るのだった。




「これが噂の……」

 夫が、ぽつりと独りごちた。夫の前には彼女が庭で摘み取った長さ二十センチほどの草が五本束ねられ、テーブルの上に敷かれたアルミホイルに乗せられている。

 彼女の持ってきた草が『何』であるかは、夫もよく知っていた。

 実際にこの植物を使かどうか、彼女は夫に委ねていた。夫が使うのであれば、自分も使う。夫が使わないのであれば、自分も使わない。

 自分の今後を他者に委ねた、とは少し違う。夫と同じ道を歩むのだと、彼女は自分で決めたのだ。

 やがて彼女の夫はライターを手に取り……草に火を付ける。

 草は毟られてまだ半日も経っていない、水気を多く含むもの。しかし火を付けられた途端、パチパチと油が弾けるような音を鳴らし、火が燃え移る。

 火が付くと植物からは朦々と煙が噴き出し、部屋の中に広がっていく。草から出てくる煙の量は凄まじく、部屋の中はあっという間に真っ白になった。聞いていた話よりも濃い煙に、彼女と夫は顔を顰める。

 しかし煙の事など、すぐにどうでも良くなった。

 止め処なく込み上がる多幸感が、そんな鬱陶しさなど消し飛ばしたのだから。

「……ふ、ふふ。ははははっ」

「あはっ。あははははっ」

 夫が笑い出し、彼女も一緒に笑う。理由などない。ただ笑いたくなったから笑うだけ。

 幸せだった。何が幸せなのかはよく分からないが、兎に角幸せだった。こんな幸せなど他に感じた事がない、否、この幸せがない現実などただの地獄ではないか。

 彼女と夫は意味もなく相手と触れ合い、口付けをし、抱き合い――――楽しそうに笑い続ける。

 言うまでもなく、これが正常な精神状態な筈もない。原因は全て、彼女が摘んできた草にある。

 ユメミグサ。

 何処の誰が付けたのか、彼女が手に入れた草はそう呼ばれていた。既知の植物ではない、完全なる新種。怪獣が現れた都市部にのみ生えている事から、硝酸を撒き散らす巨大植物同様、怪獣によって植え付けられたものだと思われる。

 しかしながら普段の性質は普通の植物そのもの。怪獣のように毒ガスを放出したり暴れ回ったりする事がないのは勿論、巨大植物のように刺激に対し硝酸をぶちまけたり垂れ流す窒素分で海洋汚染を引き起こしたりもしない。香りも強くなく、精々汁がちょっと粘付くだけ。なんの脅威にもならない。

 ただ一つ、強力な麻薬作用を除いて。

 汁を燃やす事で麻薬成分が気化。この気化した成分を吸い込むと、多幸感を簡単に得られるのだ。どれほど強力かといえば、一度吸い込むだけで自我が吹っ飛ぶほど。誰でも簡単に、今の彼女達のようになる。

 手順が極めて単純な上、数も少なくない。マフィアなどの非合法組織が独占しようとしたところで、あちこちから生えてくる雑草の流通を押さえるなど出来る筈もなく。怪獣が去った後、希望の見えない都市部で瞬く間に広まったのだ。

 ……無論、これだけ強烈なものに代償がない筈もない。

 強烈過ぎる幸福感は、人を容易に依存症へと突き落とす。一度使えば素面の状態すら『絶望』と『不安』に塗れていると感じるようになり、常にユメミグサを求めて歩き回るようになる。抑えられない負の感情は人の凶暴性を掻き立て、犯罪行為へと誘う。長時間摂取を絶っても肉体的なダメージはないが、精神的に耐えられず、最期は自殺を選ぶ。

 彼女とその夫も、最早ユメミグサなしでは生きられない。いや、ユメミグサのためなら人殺しすら厭わないと言うべきだ。そしてユメミグサの幸福に勝るものなど何もない。食事も睡眠も取らず、ただただユメミグサだけを求める。

 平穏な生活を諦めきれない人々にとって、薬物中毒者は怪獣よりも身近な脅威だ。そのため薬物中毒者の存在は、今では都市から人々を追い出す一因と化している。

 ――――もしも冷静なら、彼女は気付いたかも知れない。麻薬植物が怪獣からの『贈り物』であるなら、その贈り物を受け取っている自分達の行いが人に何をもたらすのか。

 しかし彼女はその理性をとうに手放し、享楽と幸福に身を委ねた。最早現実に戻る事はない。

 彼女と夫は笑顔で夢を見続ける。

 自らの身体から、エネルギーが枯渇するその時まで……

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