追撃

「……こりゃ駄目だなぁ」

 中東イエメンに暮らす漁師の青年は、ぼやくように独りごちた。

 人一人乗るのがやっと木造船ボートと共に海の上を漂いつつ、彼は今し方引き上げた網に目を向ける。網はびっちょりと濡れていたが、魚の姿は一匹として見られない。

 今日は不漁だ。とはいえ漁とは自然相手の仕事であり、付近に魚がいなければ獲れないのは当たり前。先進国が持つソナーなどの機器を搭載していない船では、何時間も漁をして一匹も獲れないなんて事はさして珍しく出来事ではなかった。

 流石に、三日続けてとなると色々困るのだが。

「……やっぱり、アレの所為なのかなぁ」

 続いて彼が目を向けたのは、自宅がある陸地の方。

 ほんの一キロ先にある陸地には、掘っ立て小屋のような家々……そこに隣接するように高さ十メートル近い物体が乱立していた。物体は天辺付近に数枚の葉を生やし、根本付近がまるで巨大なタンクのように膨らんでいる。木のようにも草のようにも見えるそれは海沿いにずらりと並び、なんとも言えない存在感を示している。

 怪獣がこの漁村 ― 恐らく通り道に過ぎず、本命はその先にあった首都なのだろうが ― を襲撃した翌日、何時の間にやら植えられていた植物だ。青年が暮らす漁村では『怪獣の木』と呼んでいる。

 『怪獣の木』が生えてから、魚が全く獲れなくなった。『怪獣の木』は根本付近から常にどろどろしたものを吐き出しており、これが海に流れ込んで魚を殺している……と多くの村人は考えている。青年含めた少数の村人は、単に怪獣を恐れて魚が逃げただけと考えていたが、いずれにせよ生えていて気持ちの良い代物ではない。何よりデカいし数も多く、おまけに臭いので生活の邪魔だ。海沿いとはいえ一応村の中なので無視する訳にもいかない。

 しかしながら、伐採出来ないのには訳がある。

 『怪獣の木』は傷を付けられると、強力な酸を吐き出してくるのだ。浴びれば人間など簡単に溶かされてしまう……勇ましく切り倒そうとした村人二名の犠牲により明らかとなった事だ。ならばいっそ燃やしてしまえば、とも考えられたが、火の粉が飛べば村に引火しかねない。邪魔者を追い払うため家を焼くなど、本末転倒でしかなかった。

 結局何も出来ず、悪臭と邪魔臭さを我慢して共存するしかない。されど三日も魚が獲れないとなると……『魚は逃げただけ派』である彼としても、あの木の関与を疑いたくなる。

「……仕方ない。今日はもう帰るか」

 諦めたようにぼやきながら、彼は船上の網を畳んでいく。その最中脳裏を過ぎるのは、やはり今後の生活についてだ。

 彼の暮らしは決して裕福ではない。貯金なんてろくにないし、売ってお金に出来るような財もない。父と母は病で早くに亡くし、兄弟などの身内もいない独り身だ。妻や子供もいないのでそういう意味では気軽だが、こういう時代わりに何かを稼いでくれる人もいない。

 強いて助けてもらえそうなのは友人ぐらいだが、その友人も今や遠い人だ――――別に亡くなってはいないが。彼は漁村から遠く離れた、内地の森に移り住んだだけである。

 友人曰く、世界的に都市から森へと移り住む人が増えているという。理由は怪獣から逃げ、生き延びるため。怪獣は人の住処……都市などの発展した場所……を優先して攻撃している。町で暮らす事は、何時か怪獣に襲われるのを待つに等しい。

 加えて怪獣が通った場所では作物の有毒化が引き起こされ、食糧生産が滞っていた。最近では牧草すら有毒化しており、放牧により家畜を育てる事すら出来ない。そして怪獣には知能があるのか、穀物倉庫などの国家備蓄を率先して破壊。食糧不足という、近代国家が想定していない大災厄が引き起こされた。食べ物がなければ人は生きられない。都市では略奪が相次ぎ、殺人も横行するようになっている。

 そうした怪獣や暴徒から逃れるため、森へと移り住むのだ。森は決して安全な場所ではないが、木の実や獣など、原始的な食べ物は手に入る。今のところ山菜や果実の有毒化は見られず、食いつなぐ事は可能。そのため犯罪が横行する町よりはマシだからと、多くの人が原始的生活に回帰しているらしい。

 ……尤も友人のこの話も、自称大富豪という怪しい輩から聞いたものなので、何処まで信じればいいのやらと彼は思うのだが。しかし確かに、海よりは森の方が暮らしていけそうな雰囲気はある。少なくとも森には、あの不気味な植物は生えていないようなのだから。

 だけど。

「……だからって、俺は魚を穫る以外の暮らし方は分からんがな」

 どれだけ安全でも、生き方が分からねば荒野に放り出されるのと変わらない。

 父から教わった漁以外何も知らない彼は漁具の片付けが済むのと共に、家がある陸地の方へと船を進ませるのだった。

 ……………

 ………

 …

 丘に着いた彼を待っていたのは、ざわつく村人達だった。

 村人達が囲うのは、一本の『怪獣の木』。村人の数は四十人ほどで、それはこの村に残る大人の数とほぼ同数であった。

 何をしているのか? と思う彼だったが、すぐに自分の考えを改めた。村人と木の距離はかなり離れていて、村人達は木に触れる事など出来ないだろう。つまり何かをしているのではなく、何かを眺めているという事だ。

 彼は自分の船をしっかりと陸地にある杭に結び付け、それから村人達の下へと駆け寄る。

「どうした? 何かあったか?」

「……なんか、村の外からやってきた奴等が『怪獣の木』を調べ始めた。なんでも、政府から派遣された科学者達らしい」

「科学者?」

 声を掛けた村人の一人から教えられた話に首を傾げ、彼は人混みの向こう側を覗き込もうと背伸び。幸いにして彼は村人の中では背が格段に高く、人混みの向こう側を覗き見る事が出来た。

 村人達が集まった先には、三人の作業着を着た者と、迷彩服姿で武装した三人が木の傍に立っていた。作業着姿の者達は刃物のようなものを使ったり、注射器を用いたりして、慎重に『怪獣の木』から何かを得ようとしている。

 確かに科学者っぽい。周りに居るのが軍人の護衛だとしたら、政府から派遣されたというのもあながち嘘ではないのだろう。

 ……嘘でなくても、彼はこの国の政府をあまり信用していないが。一体何を調べているのか知らないが、下手に触って『怪獣の木』が何か、例えば毒ガスなどを吐いたらどうするつもりなのか。

 村人達が集まり、包囲しているのも、奴等が余計な事をしないようにするための見張りか。銃を持つ者が三人もいるので、四十人とはいえ非武装の村人に勝てるか甚だ怪しいが、抑止力にはなるだろう。

 ならば、彼としても村人に協力しない訳にはいかない。村から離れる事も検討していたが、故郷に愛着はあるのだ。村で好き勝手するのを見過ごすつもりはない。

 彼は村人の人混みに混ざり、最前列へと向かう。野次馬ではなく見張りである村人達はすんなりと彼に道を譲り、彼は人混みの最前列に到着した。

「やはり、硝酸イオン濃度が桁違いに高い」

「ドイツの事例と同じだ……まさか、怪獣はハーバー・ボッシュ法を?」

「いや、アレはアンモニアを合成する。硝酸は硝酸アンモニウムの分解過程で発生するものだが、こっちは硝酸を直に合成しているようだ。似て非なる、未知のプロセスが使われている」

「肥料成分としては、アンモニアの方が向いている筈だが……」

「それは日持ちの問題だ。吸収物としては大した違いじゃない」

 一番前まで行くと、作業着姿の学者達の話が聞こえてきた。アンモニアやらショーサンやらがどんなものか彼は知らないが、何やら科学的な話であり、此処に来たのが科学者というのはやはり嘘ではないと感じる。

 しばらく観察していると、科学者達は地面の土を採取し始めた。というより『怪獣の木』よりも土の方をよく調べている。どうやら本題は土らしい。

「……こんなものだろう。引き上げよう」

「ご協力感謝します」

 科学者達は地面の土を袋に詰めると立ち上がり、村人達に礼を伝えた。戸惑う村人達だったが、科学者達と軍人はそそくさとこの場を後にする。

 よく分からないが、調査は終わったらしい。

「……終わったか」

「やれやれ、一体何をしていたんだか」

「土なんて持っていって何をするのかしら?」

 部外者が立ち去ると、村人達はそそくさと解散する。

 彼もまたこの場を後にした。

 科学者達の言葉の意味が気にならない訳ではない。しかし彼等の語る難しい言葉の意味など分からず、周りの村人に訊いたところで誰も答えを知らないだろう。この村には学校がなく、読み書き出来る者すら少数派という有り様なのだから。だからといって科学者達を問い詰めたところで、理解出来る答えが返ってくるとは思えないし、そもそも自分なんかに丁寧に教えてくれる筈もない。

 分からず終いであるが、されど彼は少しだけ安堵していた。

 科学者達の話していた事の大半はよく分からなかったが、一つだけ彼でも知っている言葉があった。

 肥料成分としては、という下りだ。

 どうやら『怪獣の木』が出しているものは肥料らしい。この漁村で畑作は殆ど行われていないが、肥料を撒けば作物が育つ事は彼だって知っている事。そしてその肥料が海に流れれば海藻や藻を育て、それらを餌にする魚も増える筈だ。

 つまり『怪獣の木』のお陰で魚は減るどころか、増えるという事になる。これを植えた怪獣の目的は知りようもないが、そうなれば有り難い事この上ない。

「ま、気楽に考えておこう」

 彼はそう思いながら、帰路についた。




 翌朝、彼は大いに喜んだ。

 大海原を漂う船の上には、今し方引き上げた網と、その網に絡まるたくさんの魚がいた。魚はどれも大物で、売り物としても自分が食べる用としても申し分ない。

 前日予想していた通りの大漁だった。いや、或いは逆に予想外か。まさか予想した翌日にこんな大漁を迎えるなんて、流石に思いもよらなかったのだから。

「これなら、三日は食い物に困らないな」

 引き揚げた魚に満足しながら、彼は周りを見渡す。

 近くには同じ村の漁師が同じく漁をしていたが、いずれの船も陸に向けて走り出していた。まだ漁を始めて二時間も経っていないのに帰る理由は、二つしかない。一つは船や漁具が壊れたから。もう一つは、大漁過ぎてもう魚を獲れないから。

 たくさんの船が一斉に帰るとなれば、後者の可能性しかない。自分だけでなく他の船も大漁だったようだ。今頃村人達は満面の笑みを浮かべ、今日の豪勢な夕食を夢想しているだろう。

 この大漁が何時まで続くかは分からないが、そんなのは怪獣が現れるよりも前の漁でも変わらない。日常的な出来事だ。思い返せば三日間坊主となるのも、珍しくはあっても皆無ではなかった。

 世界は怪獣が現れる前と大して変わっていない。彼はそう思った。

 だとすると、村から出た人間の方が苦労していそうだ。漁業以外殆ど興味もないような彼ほどではないにしても、どの村人達も基本的には海での暮らし方しか知らない。いきなり森の中で暮らすのは、相当大変な筈だ。

 なら、こっちは大丈夫だと手紙の一つでも出した方が良いかも知れない。そう考えつつも、彼は一つの問題に突き当たる。

「文字が分からんな……」

 ろくに学校に通っていなかった彼は、文字が書けなかった。

 友人もまた文字など読めなかった事を思い出し、彼はくすりと笑いながら沖へと戻るのだった。




 希望が無惨に砕け散るのに、丸一日も掛からなかった。

 大漁だった翌日。この日も青年は海へと出た。しかしその表情は喜びに満ちた笑顔ではなく、眉間に皺が寄った苦悶の顔。

 彼が乗る船には、何匹かの魚が揚げられている。数は昨日よりずっと少ないが大きさは悪くない。何時もなら、十分な漁獲だ。網を何度か投げ込めば、また同じように魚が獲れるだろう。

 しかしこのような魚が何匹獲れても、喜ぶなんて出来やしない。

「……コイツも死んでる」

 何故なら今日揚がったものは、全て死んだものなのだから。

 おまけに死んでから時間が経っているらしく、生臭さを漂わせていた。触れば肉がぶよぶよしており、中には爪を立てただけで腐臭のする汁が噴き出すものまでいる始末。死んだばかりのものならまだどうとでも出来るのだが、これはもう手の施しようがない。これでは売り物にもならないし、自分で食べるのも危険だろう。

 そして悪臭が漂うのは、魚だけではない。

「くそっ。さっきからなんなんだ、この臭いは……」

 彼が悪態を吐きながら覗き込むのは、自らの船を浮かべている海。

 海は、濃い緑色に染まっていた。

 元々この辺りの海は、観光地のように綺麗なものではない。しかし時折大きな魚がたくさん獲れる程度には、豊かで汚れていない海だった。少なくとも昨日まではそうだった。

 なのに今や海は地平線の彼方まで緑一色。船底すら見通せない有り様である。何よりキツいのが漂ってくる悪臭だ。こんな吐き気のする臭い、海沿いの村で二十年近く暮らしている彼でも生まれて始めて嗅いだ。こんな汚い水の中では、魚も皆死んでしまうだろう。

 彼以外の村人は、殆どがこの腐った臭いに耐えられず、船すら出さなかった。船を出してもこの有り様なのだから、最初から漁に出なかった者達が正解だ。彼は肩を落とし、食べられない魚を海に捨てていく。

 今日は史上最悪なぐらい駄目だった。

 しかし彼は前向きだった。自然というのは気紛れである。時には曾祖父さんすら見た事がないような出来事を、あたかも何時もの事のように引き起こす。そうした異変は確かに大事件だが、やがて解決するものだ。

 此度の事もいずれ解決する。彼はそう信じた。

 ――――そう信じたかった。


 されど海の汚れが消える事はない。


 あまつさえ日に日に緑は濃くなり、悪臭は強さを増していく。


 魚が獲れない日は何時までも続いた。


 海水を口にした子供が次々と死んだ。


 飢えと渇きが村を襲った。


 村の中で略奪や殺人が起き始めた。


 村人は次々に村を発った。


 そして……


 そして時は流れ、村に怪獣がやってきてから一月が経った。

 燦々と陽が降り注ぐ大海原に浮かぶ船で、彼は漁をしていた。彼の頬は痩せこけ、目は虚ろ。手足に力も入っていない。大して重くない網を持ち上げるのすら苦労し、引き揚げる時には三度も休憩を挟まねばならないほど疲弊している。

 何故なら、もう五日間何も食べていないのだから。

 家に蓄えていた燻製などの保存食は尽きた。金なんてない。あったところで穀物も家畜も市場に出回っていない今、食べ物なんて野生動物の肉だけ。その肉すら供給が全く追い付かず、どうしようもないほどの高値となっている。富裕層すら買い渋る値段であり、貧しい一市民では買うという選択肢すら出てこない。

 食べ物を得るには、生きた魚を獲るしかない。それ以外の方法など、彼は知らないのだから。

「……………」

 何も掛からなかった網をもう一度投げながら、彼は虚ろな眼差しで海を見回す。

 彼の周りに船はない。村にも人の姿はない。魚が獲れなくなった海に見切りを付けて立ち去るか、或いは飢えでいなくなるか、村人同士で殺し合うか……様々な理由で。村に残るのは、彼ただ一人。

 もうこの村が駄目だというのは彼にも分かる。そして彼はまだ死にたくない。友人のように自分も村の外に出て、食べ物があるという森へと行きたかった。

 しかし元気な時であればまだなんとか出来たかも知れないが、飢えで体力の落ちた今では森へと向かう道中で力尽きるだろう。退き際を誤ったと言えばそれまでだが、魚獲り以外知らない彼にとって、村の外へと出る事は高い壁だった。

 ここから生き延びる術は最早一つだけ。

 なんとしてもここで魚を獲る。小さくても良い。不味くても構わない。少しぐらい腐っていても我慢しよう。何かを食べて、飢えを満たして、体力を回復させて……ちゃんと歩けるようになったら村を出る。

 どれだけそれが儚い希望でも、青年にはこれしか出来ないのだから。

 故に彼は網を投げ続ける。魚のいない網を、死骸すら掛からなくなった漁具を、何度でも。

 力をなくした身体が、腐りきった海に転げ落ちるその時まで……

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