習得

「まだ戻れないって、どういう事だ!」

 人目を憚らずに出した大声に、周りに居る人々がざわめく。そうした周囲の反応は声を出した当人である初老の男にも聞こえていたが、それでも彼の興奮は中々冷めない。肩が上下し、鼻息も荒くなっていた。

「で、ですから、安全が確保出来ないうちは立ち入り禁止でして」

 彼の行く手を遮るのは若い陸軍兵士。彼の鬼気迫る顔に気圧されたのか声が震えているものの、それでも退こうとしないのは命令故か。

 この若い兵士に当たっても仕方ないのは、しがない一般人である彼にも分かる。だがそれでも怒りをぶつけずにはいられない。もう三日も、生まれ育った故郷に戻る事が出来ていないのだから。

 目の前にある故郷の町の周りには軍隊により黄色いテープがぐるりと張られ、等間隔に並ぶ軍人達が行く手を遮っていた。彼の後ろには何百という市民が居て、彼と同じく軍人達に足止めされている。

 二月としては珍しく強い日差しは、舗装すらされていない大地に立つ市民を容赦なく照り付けていた。寒さの厳しい時期ではあるが、今日は無風という事もあってかなり暖かい。道の端に茂る雑草は喜ぶように葉を広げているが、市民達人間は慣れない暑さに苛立ちを募らせている。

 尤も、彼ほど怒り狂っている者は他にいないのだが。

「安全の確保だと! 今更一体何が危険だと言うんだ!」

「か、怪獣が襲撃した場所は毒ガスの影響があるため、すぐに立ち入る事は」

「騙されんぞ! 怪獣の毒は半日あれば消えるという話じゃないか! 怪獣がこの町に来たのは何時だ!?」

 彼が怒鳴るように問えば、兵士は口を噤んでしまう。人の心など当然見えやしないが、少なくとも彼には、その反応が図星を突かれたようにしか見てなかった。

 確かに、兵士達が立ち入りを禁じた町――――男達の故郷であるドイツの片田舎の町は怪獣の襲撃を受けた。

 ドイツとフランスは隣人の間柄。お隣さんで大きな事件が起きれば、自分にもその災禍が降り掛かるのは当然の事だろう。そしてフランスもイギリスもアメリカも、突然湧いてくる怪獣の兆候を発見出来ていない。ドイツ軍も同じく見付けられないと考えるのが自然だ。

 しかし絶対に見付けられないというのなら、それなりの対処法はある。

 怪獣がフランスに現れたその日、多くのドイツ国民は翌日の仕事を休みにし、何時でも避難出来るよう準備していたのだ。政府からも避難準備が推奨され、余程悪徳な企業以外ではほぼ全員が『休暇』を取って自宅待機をしている。軍や警察も早期発見は諦め、スムーズな避難を優先。監視人員を国境ではなく、国内に集結させていた。

 そしてフランスが襲われた翌日、怪獣の群れがドイツを襲った。やはり完全な避難は出来ず、大勢の犠牲者を出したが……他イギリスやフランスと比べて、かなり被害を抑えられたのも事実。人々が町から離れた森などに身を隠していると、探し出して殺すのも効率が悪いと考えたのか、怪獣達はさして追跡もせず散っていった。

 ドイツから怪獣の姿はほぼ消えた。それが三日前の事である。

 男が暮らす町も怪獣の被害に遭った。毒ガスを撒き散らされ、何千人も死んだが……生き延びた人の数の方が多い。男も家族共々無事だった。

 そうして生き延びたからには、生活を再建しなければならない。彼は工場長であり、雇っている社員達を食わせるためにも工場の稼働が必要だ。被害の程度を早く確認しなければ、再開が何時になるか分かったもんじゃない。なのに軍人達が町を封鎖し、中に入れてくれないのだ。

 そして彼が兵士に向けて言った言葉は、決してハッタリや勢いに任せたものではない。

 テレビやネットで流れている情報だ。怪獣が撒く毒は青酸系のものであり、こうした物質は空気中の二酸化炭素と反応してすぐに無毒化するらしい。これまでの被害地域の情報から判断するに、半日ほどでほぼ無毒化するそうだ。そこから更に二日以上経過したなら尚更である。

 今の町に、一体どんな危機があるというのか。

「軍人さん、オレは何もアンタに意地悪してる訳じゃない。危険だ危険だ言うからには、どんな危険があるか教えてくれと言っているんだ。それを教えず危ない危ないだけ言って、誰が納得するんだ?」

「お気持ちは分かります。ですが我々に情報を開示するか決める権限はないのです。お願いですから、お引き取りください」

 彼は少し落ち着いた口調で説得するも、軍人は申し訳なさそうに拒む。彼はくわっと怒りが込み上がり……けれども今度は、爆発させなかった。

「……そうだな、お前さんは上司の命令を聞いているだけだよな」

「……申し訳ありません」

「いや、こっちこそすまなかった」

 頭を下げて謝り、彼はこの場を後にする。兵士は彼が急に退いた事でキョトンとしていたが、今度は彼の後ろに居た大勢の一般人に詰め寄られ、それどころではなくなった。

 ――――さて。彼は真っ直ぐ、力強く歩いていた。

 先程軍人に謝ったのは、演技でもなんでもない。あの若造は一兵卒であり、上官からの命令を守ろうと必死なのだ。軍隊なら一般人には言えない秘密だってたくさんあるだろう。それを強く詰め寄られたからで答えるようでは、国の安全など守れまい。あの若造は立派な軍人だ。守られる側の国民でありながら困らせてしまった事は、大変申し訳ないと思う。

 ただ、だから諦めるかどうかは別。

 彼は町から少し離れた、町外れへと移動する。大勢の市民が町の前には集まっていて、軍人達の視界は遮られている状態だ。町への侵入を阻もうとする軍人は、彼の姿が見えていない筈である。

 そしてその軍人達の殆どは地元出身ではなく、何処かの基地から派遣されてきた者達。

 ならば町の傍を流れる川、その川にある『下水道』の出口から町へと侵入出来る事など、知る筈もないだろう。

「……良し。誰も居ないな」

 川の傍に来た彼は、下水道の出口を見る。下水道の出口は直系二メートルほどの大きさがあり、成人男性でも易々と通れる広さがあった。

 勿論普通の成人男性は、こんな下水道など通りはしない。精々町の悪ガキが使うものであり、彼もまた分別の付かない悪ガキ時代に使ったきりだ。しかし今の彼は大切な職場に入れない怒りにより、ちょっとばかり冷静さを失っている。下水道だろうがなんだろうが、町に入れるならなんでも使うつもりだった。

 それでも一応大人なので、下水道から水がたくさん出ていれば諦めもしたが……今日は水が出ていない。このところ雨など降っていないのだから当然だった。彼は念のため周囲を見渡し、誰も居ない事を確かめてから下水道へと忍び込む。

 下水道を照らすのは、マンホールから降り注ぐ、或いは道路脇の側溝から射し込む陽の光のみ。しかし昼間ならば存外明るいもので、数十年前の記憶を頼りに彼はどんどん歩く。しばらく歩いたところで、彼は見覚えのある梯子を登り、側溝の蓋を開けて地上に顔を出す。

 外には懐かしい町並みが広がっていた。

 故郷の町であると、彼はすぐに理解した。念のため辺りを見回してみたが、周囲に軍人の姿はない。幼少期と比べ随分と重くなった身体を這いずるように動かし、彼はついに地上に立つ。

 まずは一仕事終えた。彼は息を吐き、今まで無意識に強張らせていた肩がすとんと下がった。

 しかし町に入り込むのはあくまで目的の前段階。本来の目的は自分の工場が無事なのか確認する事だ。彼は駆け足で、自分の工場がある方へと向かう。

 ……特段、町の様子に変わりはない。

 家が壊されている訳でもなく、怪獣の死骸が転がっているでもない。脱出前に見たのと変わらない町並みである。確かに怪獣の攻撃は毒ガスが主で、直接建物を叩き壊すような真似はあまりしないと聞く。ならばどうして軍人は、町への立ち入りを禁じているのだろうか?

 違和感はもう一つある。嗅ぎ慣れない臭いがある事だ。強い臭いではないが、つんと鼻を突くような感覚。まるで学生時代の実験室で嗅いだ薬品のような……

 考え込みそうになる彼だったが、しかしその考え事はすぐに終わる。彼が這い出た排水口から工場まで、走れば五分と掛からない道のりなのだ。工場にはすぐ辿り着いた。

 そして辿り着いた工場で、彼は自らの思考を止めさせられる。

 中身が剥き出しになるほど破壊された、自分の工場を見てしまったのだから。

「そ、そんな……なんで、オレの工場が……!」

 彼は呆然としながら、ただただぼやくばかり。それは勿論職場が悲惨な……破壊された壁から、砕かれた配線や機械類が見えてしまう……状況だからというのもある。

 されど何より彼の心を揺さぶったのは、ここまで酷い被害を受けているのが自分の工場だけだったからだ。これまで通ってきた町並みは殆ど無傷だったのに、自分の職場だけが壊されている。

 科学者なら、そこにある種の興味を抱くかも知れない。しかし科学者ではなく、しがない工場長に過ぎない彼には、困惑しか覚えられなかった。

 やがて困惑は怒りへと変わる。

 何故自分だけがこんな理不尽に遭わねばならないのか。何故自分の工場を狙ったかのように壊したのか。

 理由を教えろ――――怒りが導き出した衝動はどうしようもないほど感情的で、彼は殆ど考えなしに工場内へ足を踏み入れる。

 すると彼の怒りは、今度は一瞬にして混乱へと移り変わった。

 工場内に謎の植物が生えていたからだ。

 彼は一般人と比べれば、植物には詳しい方だ。仕事柄全くの無関係ではいられないため、納品先と話が出来る程度には知識が必要だからである。それでも学者と比べればお粗末なものであり、自分の知らない植物などいくらでもあると自覚していた。

 しかし、それでも彼は思う。此処に生えている植物は、どんな科学者でも見た事がない代物だと。

 植物の高さは、ざっと五メートルはあるだろうか。大きさだけなら木のようだが、茎は青々としており、どうやら木本化 ― 木の枝や幹のようになる事 ― はしていない。バナナのような、巨大な『草』だと思われる。

 植物は葉を広げており、屋根があった場所から降り注ぐ光を浴びてキラキラと緑の煌めきを放つ。葉の大きさは凡そ十センチと、草そのものの大きさと比べてかなり小さい。数もたったの十数枚。枝は生えておらず、真っ直ぐ伸びた茎から小さな葉が直接生えている格好だ。

 そして根元部分はぶくりと大きく膨らみ、縦横二メートルほどの球体を作っている。引き抜かれたカブを彷彿とさせる姿だ。膨らんでいる部分の組織は非常に柔軟らしく、息をするようにゆっくりと伸縮を繰り返している。植物も生き物とはいえ、ハッキリ動く姿はなんとも生々しい。

 何もかもが奇妙な、不気味と言っても差し支えない要素で形成された存在。植物の知識がなければ「気持ち悪い」の一言で片付けられたかも知れないが、なまじ知識があるものだから、彼は大きくその心を揺さぶられる事となった。

 しかし動揺していられたのはほんの僅かな時間だけ。すぐに強い怒りが込み上がってきた。

「オレの工場をこんな滅茶苦茶にしやがって……! てめぇも怪獣の仲間か!」

 怒りをそのまま声に出し、彼は行動を起こす。踵を返して工場の外に出るや、敷地内にある小さな物置へと向かった。物置は怪獣の興味を惹かなかったようで、避難前と変わらぬ姿をしている。物置には防犯のためダイヤル式の鍵が付けられているが、彼はこの工場の主。鍵の番号は当然知っていて、なんの苦労もなく開ける。

 物置の中には様々なものが置かれていたが、彼が迷わず手を伸ばす道具は一つ――――斧だった。

 斧は立派なもので、人間に向けて振るえばホラー映画よろしく簡単に頭を跳ね飛ばせるだろう。無論彼に人間を殺すつもりなど毛頭ない。殺すのは忌々しい雑草のみ。

 彼は手にした斧で、工場内に生える植物を切り倒そうと考えたのだ。

「やってやる! ふんっ!」

 工場内に戻るや、彼はなんの躊躇もなく斧を謎植物に叩き付けた。斧で切られた植物は深々と傷付き、出来た傷口から黄色い汁を飛び散らせる。汁は酷い刺激臭を放ち、怒りに燃える攻撃者の顔を顰めさせた。

 もしも彼がただの伐採者ならば、この臭いで切り倒す意欲も失せたかも知れない。されど彼は伐採者ではない。工場を奪った化け物退治に闘志を燃やす、復讐者なのだ。化け物がどんな抵抗を見せたところで躊躇う理由などない。

「ふんっ! ふんっ! ふんっ!」

 怒りに任せて斧を振り、彼は少しずつ植物に傷を付けていく。根元が二メートルも膨らんでいるため正しく大木を切るような苦労だが、それでも彼は止める気などなかった。工場を奪われる事への怒りは、それだけ強かったのだ。

 ……もしも、彼があとほんの少しだけ冷静だったなら。

 きっと気付いただろう。例えばこの謎の植物こそが、軍人達が人々を町に入れないようにしていた原因だと。怪獣がなんらかの理由で植え付けたものであり、ろくなものではあるまいと。そんな原因の周りに、何故その軍人達がいないのかと。

 そして自分が切り倒そうとしている植物には既に深い傷が幾つも付き、その傍にはボロボロの……ゴミクズにしか見えない布の切れ端が落ちている事にも気付けたかも知れない。

 しかし彼は気付けなかった。気付かないまま斧を植物に斧を叩き付けていき――――

 不意に、植物が震えた。

 次の瞬間、彼は頭から液体を浴びる事となる。

 その液体は空を向いていた植物の先端から、どばどばと溢れ出していた。先端は正確に彼の方を向いていて、この液体を浴びせてやろうという意思を感じさせる。

 その『意図』を、彼は身を以て知る事になる。

「う、ぎぃやあああああああああ!?」

 彼は悲鳴を上げた。己の身を焼く、激しい痛みと共に。

 彼の皮膚はどんどん爛れ、服もボロボロと崩れていく。肉は形を失い、剥き出しになった骨もすぐに溶けていく。

 その反応は外から眺めれば、恐ろしく強力な酸によるものだとすぐに理解するだろう。しかし強酸に溶かされている当人に、そんな悠長な考えを巡らせる余裕などない。

 どうして自分がこんな目に……

 最後に抱いた疑問に答える者は誰も居ない。

 肥料工場の敷地に、どろどろに溶けた男の身体は染み込んでいくのだった。

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