増員

 イギリスが怪獣に襲われた。

 その一報を聞けば、大陸側に暮らすヨーロッパ人は誰もが恐怖に震えた。いくら海を隔てた島国の話とはいえ、その距離は『ヨーロッパ』という括りを越えない程度のもの。アメリカからイギリスに渡る事が出来た生物が、ラ・マンシュ海峡を渡れないというのは、いくらなんでも夢の見過ぎというものだ。

 故にフランスに怪獣の大群が現れても、大半の人々にとってそれは予想外の出来事ではなかった。なかったが、しかしだからといって冷静に対応出来るかは別問題。怪獣出現と同時にフランス全土は混乱に包まれた。誰もが恐怖し、生き延びる術を求めて右往左往するばかり。

 ――――そんな恐ろしい怪獣に会おうとしながら、うきうきした足取りをしている植物学者の中年男性は、あらゆる意味で変人と言えるだろう。

 彼はにこやかに笑いながら、どんどん山を歩いて行く。天然林ではなく人の手により作られたこの森は、真っ直ぐな針葉樹が等間隔に並んでいて行く手を遮る事がない。下草も殆ど生えておらず、足に何かが引っ掛かる心配もいらないだろう。

 自然保護的観点を抜きにすれば、とても歩きやすい良い山だ。

「先生ぃ……待って、ください……は、早過ぎます……」

 そんな山でも、素人には辛いらしいが。

 彼が振り向けば、随分と下の方に『同行者』の姿が見えた。若くて麗しいと世間的に評されるであろう、つまり美女だ。

 女は小さなリュックサックを背負い、その手に撮影用のカメラを持っている。荷物はたったのこれだけ。服装も登山向きの動きやすい格好をしている。若い女なので身体付きは少し華奢だが、不健康な細さではないだろう。

 対する植物学者である彼の背負う大きなリュックサックは、女のものよりずっと大きい。持ち前の身体も、麗しい女よりも軽そうなぐらいやつれている。服装は登山向きのものだが、腰にはたくさんの試験管やノートが備え付けられ、歩きをほんのり邪魔していた。手ぶらではあるが、それ以外は女よりも大きな負荷が掛かりそうなものばかり。

 なのに、どうして女の方が先にバテているのか。

「どうしました? まだ歩き始めたばかりですよ?」

「さ、三十分は、歩いてます……なんで、先生は、そんな、余裕で……荷物、私より、たくさん持って……」

「学者には二通りいます。研究室にこもるか、フィールドワークが主体か。私は見た目こそこんなのですが、後者でしてね!」

 元気よく答えながら、彼は女の下へと向かう。戻ってきた彼に女――――若い写真家は、苦笑いを浮かべた。

 彼等が山を登る理由は一つ。この先に、怪獣がいるかも知れないからだ。

 植物学者である彼が怪獣を一目見たいと思っていたところ、女性写真家から申し出があった。世界で騒ぎになっている怪獣がフランスにも現れた、怪獣の写真を撮りたいので植物の専門家としてアドバイスをもらえないか……と。どうやら駆け出しの写真家で、一発大きな山を当てたいと考えていたらしい。

 なんとも命知らずだと思ったが、されど命知らずは彼も同じ。怪獣がフランスに現れたと聞いた彼は、その怪獣を至近距離で見たいと考えた。怪獣と出会って生き残れる自信はないが、もし生還した時、駆け出しとはいえプロの撮影した写真があれば研究に役立つだろう。万一の時には囮にもなるし……なんて考えは向こうも少なからずあるだろうが。

 ともあれ二人の利害は一致し、怪獣に会う事とした。

 そして二人はとある山を登る事にした。此処に怪獣の秘密があると信じて――――尤も山登りを提案したのは植物学者である男の方で、写真家の女は未だ詳しい話を聞いていないのだが。

「……それにしても、なんでこの山を登るのですか? 私、何も聞いてないのですが」

「おっと、すみません。急いでいたから後回しにしちゃいましたね……実は此処、怪獣が現れた場所なのですよ」

「怪獣が現れた?」

 話しながら、彼はゆっくりと歩き出す。写真家の女は渋い顔をしながら、彼の歩みに合わせるように山を登る。

「ここ数日、怪獣が世界各地で大量発生したのはもう誰もが知るところです。アメリカ、イギリス、そして今日は此処フランスに現れました」

「ええ、そうですね」

「じゃあ、奴等はどんなルートで移動していると思いますか?」

「……? それは勿論アメリカから海を渡ってイギリス、イギリスから海を渡ってフランスに」

「違います。彼等は海は渡っていない」

 女が相槌を打ちながらした答えを、彼はばっさりと否定する。女の目が、少しだけ好奇心で光った。彼はその光に気付き、にこりと微笑む。

「実はアメリカからイギリスへと渡った怪獣は、確認されていないのですよ。イギリス軍と精通している友人から聞きましてね。だからこそ、イギリス軍は突然現れた怪獣にてんてこ舞いだったらしいのですが」

「……それは、イギリス軍が怪獣を見逃した訳じゃなくて?」

「あり得ない、とは言いませんよ。どんな事でも事故は起こりますからね。でも怪獣にはステルス性もなければ隠れるような行動もしない。そんな物体をうっかりでも見逃すというのは、実に不自然です」

「なら、怪獣はイギリスから突然現れた? まさかそんな事――――」

「そしてフランスでも、怪獣の襲来は突然起きました。イギリスがやられているってニュースが流れていた時、精強なフランス軍は暢気に昼寝をしていたと思いますか?」

 彼の言葉に、女は答えを返さない。

 怪獣出現の一報があったとしても、咄嗟に警戒体勢を強化する事は難しいかも知れない。しかしまかり間違っても緩めはするまい。そして平時の警戒体勢であっても、ステルス性能を持たない怪獣を発見する事は難しくない筈だ。

 それでも見落としたという事は、恐らく怪獣は、本当に『突然』その地域に出現している。

 インドネシア出現時は空を飛んで国々を渡ったが故に、怪獣は飛行していくものだと人々は考えているが……逆なのだ。その飛行移動の方が『異例』であり、インドネシアのように突如姿を見せるのが本来の出現方法なのだろう。

「この山の麓にある町は、もう怪獣が襲撃した後です」

「ええ、そうですね……立ち寄った時、死体がごろごろ転がっていましたから」

「その怪獣が現れた場所がこの山。地元民の一人がSNSに動画を投稿しました。その映像を見る限り、本当に、森の中から現れたようでしたよ」

 彼はスマホを取り出して「見ますか?」と尋ねれば、写真家の女はこくりと頷きスマホを受け取る。

 流した動画に移るのは、山を覆う人工林の中から怪獣が飛び出してくる光景。それも何十という数が一斉に、である。

 動画を見た女は目を大きく見開き、否定するように、首を横に振った。

「……じゃあ、此処は怪獣の巣なのですか?」

「どうですかね。確かに此処は大きな森ですが、今でも普通に林業が行われています。怪獣がどの程度の速さで成長するかは不明ですが、巣なんてあったらとっくに見付かっているんじゃないですかね」

「なら、一体何が……」

「それを解き明かすのです。我々の目で」

 彼の言葉に女は頷いた。疲れきっていた筈の歩みは、すっかり元気になっていたようだ。

「なんとも奇妙な存在ですね……正に怪獣です」

「獣じゃなくて植物のようですがね」

「まぁ、そうですね。だからあなたに協力を求めた訳ですが……ニュースでは断定したように話していましたけど、根拠とかはちゃんとしているんでしょうか?」

「一応は。アメリカで撃墜された個体はなんらかの方法で自爆し、跡形もなく吹き飛びましたが、米軍の人海戦術でなんとか破片を回収出来たそうで。解析の結果その肉片はセルロースの塊……植物の持つ材質だと分かったのです。まぁ、それ以上の事を調べる前にアメリカが壊滅した訳ですがね」

「……他には?」

「怪獣が撒く毒ガス。アレはどうやら青酸系の毒物のようで。青酸系の物質は植物がよく合成するものです。これはさっきの説を補強する程度のものですが」

「成程……だとすると、あの怪獣には知性なんてないのでしょうか」

「ん? なんでそうなるのです?」

 写真家の女の意見に、今度は彼の方が困惑する。女も目をパチクリさせ、そして自分の意見を述べた。

「いえ、植物なんですよね? なら、脳がないと思うのですか」

「成程。だけどそれは脳を神聖視し過ぎていますな。脳の代わりになる、なんらかの機能が発達してるかも知れないでしょう?」

「なんらかってなんですか」

「さて、それは分かりませんね。だけど人間の知性すら、脳細胞同士の単純な電気信号のやり取りが集まった結果でしかありません。似たような仕組みがあれば、思考力は芽生えると考えるべきでしょう。怪獣は人間を殺すために、町をぐるっと一周するような行動を見せる訳ですし、知能はあるかと」

「本能とかなんじゃないですか?」

 植物学者としての視点と、一般人としての視点。二つの意見をぶつけながら、二人は前へと進み続けた。

 無論この間、彼としては気を抜いたつもりなどない。女の方も周りを警戒していた事は、話しながらも辺りを見回していた事から間違いない。何しろ此処は怪獣が突然現れた場所。もしかしたら新たな怪獣がこの地で産まれようとしているのかも知れないのだから。

 にも拘わらず二人は酷く驚く事となる。

 森を歩いていたら、突如眩い光が行く先に現れたのだから。

「!? なん……」

「隠れて!」

 驚きから足を止めた彼に、女が指示を出す。その指示に従って彼は真っ直ぐに伸びた針葉樹の影に隠れ、女も別の針葉樹の影に隠れた。

 それから二人はこそこそと木の陰から顔を出し、自分達が行こうとしていた場所を見る。

 彼等の前には、煌々と輝く光の塊があった。

 いや、光というのは正確ではないかも知れない。それはなんらかの球体状の物体なのだからだ。光って見えるのは降り注ぐ陽の光を反射しているからだろう。

 その球体に向けて、小さな光の粒が集まっている。小さな粒は森のあらゆる方角から飛来し、球体に吸い込まれるようにして一体化していた。粒を取り込んだ球体は、決して急激とは言えない速さであるが、留まる事なく巨大化している。

 植物学者の男はごくりと息を飲み……思いきって、偶々自分のすぐ横を通ろうとした粒の一つを捕まえてみる。

 粒は、やはり光ってはいなかった。捕まえたそれは光り輝く繊維であり、ぐるぐると絡まって球体を作っている。綿埃のようなもので、だからこそ空気中で漂う事が出来たのだろう。

 そして彼は思いきって、その輝く繊維を舐めてみた。

 ……口の中の温度ですっと溶け、液体になってしまった。味はない、と思ったすぐ後に微かな甘さを感じる。唾液と反応して糖質に変わったのだとすれば、この繊維の正体は――――

 思考を巡らせる男。しかしその思考を纏める時間などなかった。

 ずしん、という力強い音と揺れが辺りに響く。

 バタバタと羽ばたく音色と共に、足下の落ち葉が吹き飛ぶほどの風が流れた。メキメキと樹木が軋むような音も奏でられ、やがて粒の流れも止まる。

【ペキ、ペキキキキキキキキ……!】

 そして聞こえてくる、恐ろしい鳴き声。

 実物を聞くのは男も始めて。されどテレビなどの映像で何度も聞いてきた。今更忘れもしないし、聞き間違えもしない。

 怪獣だ。

 男達は怪獣誕生の瞬間に立ち会ってしまったのである。何処からともなく飛んできた粒子が集まり肉体を形作るとは、なんともファンタジーな誕生方法。だが、現実に起きたのだからそれを認めるしかあるまい。

 そしてこの現実は、人間の命運すら左右する。

 怪獣が突然現れる謎の答えがこれだ。どうりで隣国に出現した個体群をどれだけ観察しても、襲撃を察知出来ない訳である……本当に何もない場所で突然誕生しているのだから、気付きようがない。

 しかし気付けない理由が分かったというのは、大きな前進である。少なくとも怪獣達の奇襲には『手品』があると分かったのだから。手品があるならそれを前提にした対策を練る。そして手品の『タネ』が明らかとなれば、怪獣の出現そのものを阻害出来るかも知れない。希望を語るなら、タネから怪獣の弱点が判明する可能性だってあるだろう。

 逆に自分達がこの情報を持ち帰れなかった場合、人類は今しばらく『手品』がある事すら知らぬまま怪獣と戦わねばならない。それは不利どころの話でなく、ルールも知らずに対戦ゲームをするようなものだ。ビギナーズラックすら起こらないだろう。

「(こりゃ、何がなんでも生きて帰らないとなぁ)」

 自分達の命と人類の命運。ずしりとのし掛かる『責任』により、冷や汗が彼の額から噴き出す。

 しかしながら現状、生き延びる事はそう難しくないと彼は考えていた。少なくとも彼等は現れた怪獣にまだ見付かっていないし、見付かるような音も出していないつもりだ。怪獣はこちらの存在に気付かぬまま、大勢の人間が暮らす町へと向けて飛び立つ筈。

 写真家の女も、自分の見たものの重要性が分かっているのだろう。写真を撮ろうともせず、木の陰に隠れたまま男の方を見て、無言のまま頷く。そして息を潜めてじっとしていた。

 動かなければ良い。動かず、音を立てなければ――――彼はそう考えた。

 それを打ち砕くように。

 女が隠れていた木が、突然倒れた。女が隠れている側に向けて。

 女は悲鳴一つ上げなかった。上げる暇などなかったのだから。全力で振るわれたハエ叩きのような速さで倒れた木は女の背中を押し、そのまま女を地面に叩き付ける。倒れた木は深々と地面に食い込み、女の姿は、地面から僅かに出ている手以外は見えなくなった。

 その木の上に乗せられているのは、巨大で図太い節足動物的な脚が一本。

 脚は執拗に、さながら農家が害虫を踏み潰すように、ぐりぐりと木を押し潰す。木は更に深く沈み、女の手が僅かに沈む。その木の下にある身体がどうなっているのかなど、考えるまでもない。

 念入りに踏み付ける脚を見て、彼は感じた。一見して節足動物のようだが、外皮はブナ科の植物に似ていると。節部分は確かに節足動物的な構造だが、動く度に僅かだが気体の漏れ出る音がするので、筋肉ではなくガスで動いているようだ。

 間違いない。コイツは、確かに植物だ。少なくとも動物じゃない。

 待ち望んでいた怪獣との肉薄を、彼はついに体験したのだ――――尤も、喜びに浸る余裕もなく彼は頭を全力で動かす必要に迫られたが。

 何故怪獣は女の居場所が分かった?

 木を押し倒した先の一撃は、念のためにしたという印象ではない。木の裏に人間が隠れていると、確信を持っているかのようだった。粒が集まっていく最中にこちらの姿を見られたのか? だとしても木の陰に何時までも潜んでいると確信出来るものではあるまい。大体姿を見た時、怪獣は光り輝く塊に過ぎなかった。目も鼻も触覚もない向こうが、こちらの存在を知るなどあり得ない。

 それこそ、誰かがこちらの居場所を伝えていない限りは。

「(そうだ。そういえば、怪獣は酸素通信を行っているって話じゃないか。だとしたら、誰か、いや、何かと交信しているんじゃないか!?)」

 密告した奴が居る。そう思って彼は辺りを見渡した。しかし人影はおろか、ドローンのような機械の姿も見えない。

 いや、そもそも人工的に作られたこの森には動物の姿すら影も形もなく――――

「ぁ……」

 微かに、男は声を漏らす。

 酸素通信。

 甘い繊維。

 動物のいない森。

 様々なピースがかちりと嵌まる。一つの大きな絵が男の頭の中に出来上がり、彼はその絵を俯瞰するように眺めた。決して上手な絵ではないし、奇抜過ぎて世の人には受け入れられないだろうが……手元のピースから出来上がった推論には説得力がある。

 そしてこの絵は絶望を示した。もしも彼の作り上げたものが正しければ、人類に勝ち目などないのだから。

【……ペキキギィギイイイィィィィ】

 彼が考えを纏めた頃、すぐ傍から樹木が割れるような『声』がした。

 彼はなんの恐怖もなく、静かに声の方へと振り返る。

 思った通り、そこには巨大な怪獣の顔があった。複眼、のように見える出っ張りが男に向けられ、まるで見られているかのような感覚に陥る。植物だとしたら視力なんてない筈なのに。

 或いは、それこそ植物学者の偏見なのかも知れない。

 彼を目にした怪獣は、彼の前でゆっくりと脚を上げ始めた。見えていないなら、もしかすると盛大に外すかも知れないが……期待するだけ無駄だろう。

 彼は逃げなかった。逃げればその瞬間踏み潰されると分かっていたので、やるだけ無駄だと考えていた。そして何より、どうせ死ぬならこの目に焼き付けておきたかった。

 この星の、正統な支配者の姿を。

「……勝てないなぁ」

 諦めてしまえば、目の前の『大いなるもの』に畏怖と敬愛すら抱いてしまい。

 されど怪獣の脚は、自らの信徒をなんの躊躇もなく踏み潰すのであった。

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