本番

 怪獣。

 少し前までフィクションに出てくるモンスターを示す言葉だったそれは、今では『インドネシアから出現した巨大生物』を指し示すものとなっていた。怪獣はインドネシアを飛び立ち、日本、カナダ、そしてアメリカを襲撃。毒ガスの散布や謎の攻撃により、多くの人命を奪った。

 死者数は推定一千万人。僅か二十四時間以内の出来事としては、人類史上最悪の惨事なのは間違いない。怪獣は最終的にアメリカの核兵器で葬られたが、核兵器使用に反発を覚える者は殆どいなかった。それほどの恐怖を、一匹の獣は人類に刻み付けたのである。

 しかし怪獣が倒されてから三日が経った今、世界は落ち着きを取り戻しつつある。勿論爪痕はあまりにも大きい。何百万という国民を失った日本とカナダでは混乱が今も続き、飛び交うデマで社会情勢が不安定化している。アメリカは大統領を失い、政治的な混乱が治まるのは数年先だと言われていた。これら国内問題から派生する国際社会の動揺も無視は出来まい。

 それでも怪獣の事は段々と忘れられていき、やがて『なかった』事に変わるだろう。怪獣はもういないのだから。その事に誰もが安堵していた。

 ガッカリしているのは、アメリカ在住のとある怪獣大好き少年ぐらいなものだ。

「全くガッカリだよなぁ。怪獣なのに核兵器で死ぬなんて」

 小学校エレメンタリースクールの教室にて彼は大きな声でクラスメートの男子にそう語り、男子は困ったような表情を浮かべる。男子は自分とは違う意見のようだと知り、彼は眉を顰めた。

 同世代の痩せ形と比べ三倍近い恰幅の彼が迫れば、男子は怯んだように身を仰け反らせる。しかしそれでも困ったような顔は止めない。やはり、彼とは違う意見のようだった。

「なんだよ。お前ガッカリしてないのかよ」

「そ、そりゃする訳ないだろ。毒ガスをばら撒く怪獣なんて怖いじゃんか。退治されて良かったよ」

「良くないね! もっともっとバンバン人を殺さなきゃ面白くないだろ?」

 如何にも悪ガキらしい物言いに、男子が声を詰まらせる。怯えだけでなく、軽蔑の意思もひしひしと感じる表情も浮かべた。

 しかしその反応は小さな暴君に喜びを与えた。彼は悪ぶりたいタイプの問題児であり、悪者に憧れる子供なのである。

 言葉を詰まらせた男子に代わり、彼に反発したのは、クラスメートの中でも特に気の強い女子だった。女子は彼から見て二つ前の席に座っていたが、力強く立ち上がり、鋭い眼差しで彼を睨み付けてくる。彼が無反応でいると、女子は大きな声で怒鳴った。

「ちょっとアンタ! 不謹慎よ! たくさんの人が死んだのよ!」

「全然足りないね。折角の怪獣なんだから、何億人も殺さなきゃ面白くないだろ?」

「アニメとか映画じゃないのよ! 悲しんでる人がいるのに、楽しむなんて酷いでしょ!」

「そいつらが悲しんでいてもオレには関係ないだろ。ガァー! 殺したりないぃー!」

「……ほんと最低!」

 怪獣の物真似をしてみれば、女子があからさまに嫌悪を剥き出しにし、他のクラスメート達も女子に同調する。が、彼を怖がらせるには全く足りない。この無鉄砲で高慢ちきな少年は、クラスメート全員とケンカしても勝てるという、なんの根拠もない自信を持っていた。

 彼があまりにも怯まないものだから、女子としても話しても無駄と思ったのだろう。軽蔑の眼差しを残してそっぽを向き、もう話し掛けてこない。それを『勝利』と感じた彼は、ますます粋がった。自分の席に座るとふんぞり返り、ニヤニヤと笑ってみせる。

 ……その中で、ふと時計を見た。

 既に朝のホームルームが始まる時間だった。このクラスの担任は時間に五月蝿く、何時もホームルームの時間キッチリにやってくる。なのに今日は時間が過ぎても来る気配がなく、こんなのは初めての事だった。

「先生、来ないね」

「どうしたんだろう?」

 彼より遅れて、周りの女子や、真面目な男子が彼と同じ事に気付き始める。ホームルームの時間は一分、二分と過ぎたが、やはり先生はまだ来ない。

 彼としてはラッキーだと思った。先生の長々とした話も嫌いだし、一時間目の算数も大嫌いなのだ。先生が来なくてどちらかの時間が短くなるなら大変喜ばしい。或いは今日の遅刻をネタに、自分が遅刻した時の言い訳に使えるかもと思った。

 勿論ぼうっとして時間が経つのを待つのも、授業を受けるのと同じぐらい退屈だ。親に買ってもらったスマホを取り出し、ゲームでもやろうとする。隣に座る男子は彼が始めようとしている『悪事』に気付いたが、咎めても無駄と思ったのだろう。気の強いクラスメートの女子は席が前の方であり、彼の姿は見えやしない。

 彼は悠々とゲームを始めた。

 ……始めたのだが、始まらない。

 ロード画面から先に進まないのだ。この手のスマホゲームは最初にサーバーの読み込みが行われるものだが、その読み込みが進まないのである。

 彼は舌打ちをした。今時のスマホが全て酸素通信であり、酸素通信に不通があり得ない事は彼も知っている。つまり故障しているとしか思えない。買ってもらったばかりなのに、今度パパに頼んで店に文句を言ってやる――――

「み、皆さん! 居ますか!」

 そう考えていた最中、突然の大声が教室内に響いた。

 女子の怒号に怯まなかった彼も、流石にこの大声には驚く。思わず声の方へと振り向けば、そこにはクラスの担任である老いた女性教師が居た。

 もしも来たら遅刻してる事を揶揄しようと考えていた彼だが、女性教師の顔があまりにも鬼気迫るもので声が詰まる。しかしそれがなんだか癪で、彼は一発言ってやろうと口を開けた

「皆さん! 怪獣が、また現れました! すぐに避難を始めます!」

 直後、女性教師がそう叫ぶ。

 出そうとした声が詰まり、彼は何も言えなくなった。

「い、いやあぁぁ!?」

 代わりに、怯えきった女子の悲鳴が教室に木霊した。

 その叫びを境に、教室内が一気にざわめく。混乱が混乱を呼び、泣き出す生徒も現れた。

 彼は言葉を失った。怒鳴られても、睨まれても、嫌われても、全く怖くなんてない。だけどみんなが不安で、パニックになっているところを見ると……凄く、大変な事が起きているような気がして、胸の中がざわざわしてくる。

「落ち着いて! 怪獣が現れたのは、遠い隣の州の出来事です! 今から逃げれば大丈夫! 落ち着いて、すぐに行動しましょう!」

 今の彼に、女性教師の『指示』に歯向かうような意識は全く湧かなかった。

 クラスメート達が次々に席から立ち、教室から出る。通学鞄は持たないよう女性教師に指示された。彼も大人しく鞄を置いていき、教室から出る。

 学校の廊下には、たくさんの生徒が居た。階段からは下級生が降りてきていて、びーびーと五月蝿く泣いている。何時もならちょっかいを出そうと思えるのに、今の彼にはその泣き声が酷く不安を煽った。

 廊下の生徒達は先生達に指示され、五列に並んで歩かされた。彼も列に並ばされ、有無を言わさず歩かされる。綺麗に並び、落ち着いて歩くよう五月蝿く言う教師達は、だけど今すぐ自分が逃げたそうな強張った顔をしていて、本当に恐ろしい事が起きたのだと伝えているよう。

 何時ものようにからかいたい。だけどからかえない。

 それがとても居心地が悪くて、彼は行列の正面から目を逸らす。歩き続けながら、彼は廊下にある窓から外の様子を眺めた。まだまだ朝のホームルームの時間帯。外の太陽は元気に輝き、芝生に覆われた校庭と、白い雲が映える青空を照らしている。

 故によく見えた。

 大空を飛ぶ、巨大な『蛾』の姿が。

「ひっ」

 思わず彼は声を漏らしてしまう。あまりにも唐突、そして予想外であったがために。

 先生は隣の州に現れたって言ってたのに。それとも真っ直ぐこの町に飛んできたのか? いや、いくらなんでもこんなに早く――――

「何よ、あんだけ強がってたのにビビってるの?」

 混乱のあまり足が鈍っていたのか、後ろから煽るような声を掛けられる。彼が振り返ると、そこには朝の教室で口ゲンカをした気の強い女子が居た。

 心底軽蔑した眼差しは朝に向けられたものと変わりないが、一つ決定的に違うところがある。彼が、本当にビビっていたというところだ。そしてこの少年は悪に憧れ、ビビるなんて弱虫のする事だと思っている身。

「び、ビビってねぇよ! あ、あそこに怪獣がいて、ちょっと驚いただけだ!」

 弁明するために、彼は本当の事を叫んだ。

 大人であれば、自らの失態にすぐ気付いたかも知れない。

 しかし彼はまだ子供であり、自分のちっぽけなプライドを守るために必死だった。怖がっていると他人に思われるのが我慢ならないという、ただそれだけの理由の行動。その先に起こる事など何も考えていない。

「キャアアアアアアアアアアッ!?」

 だからその後、彼の言葉の真偽を確かめるべく窓を見た気の強い女子が、悲鳴を上げるなんて予想もしていなくて。

 女子の悲鳴を境に、避難中の生徒達がパニックに陥るなんて考えてもいなかった。

「うわあああああん!?」

「助けてぇ!」

 悲鳴を上げながら、今まで大人しかった生徒達が走り出す。

 彼は恰幅の良い生徒だ。同級生だけでなく上級生でも、身長は兎も角体重で自分より大きな生徒なんてあまり見ないほど。そんな身体付きだから歯向かうクラスメートなんて殆どいなかった。下級生なら尚更だ。

 だけど今はそのクラスメートが、同級生が、下級生が、自分を突き飛ばすほどの勢いで走っている。

 怖い。彼はハッキリと己の心境を自覚した。それを恥ずかしいとも思わなかった。もう此処は、自分の知っている『世界』ではないのだから。

 自分も逃げないといけない。頭ではそれが分かっていたが、だけど怖さに慣れていなかった彼は身体が動かず。

 だからこそ、彼は方角から聞こえた崩落音に驚く事が出来たのだが。

 彼は反射的に音がした方へと振り返る。

 校舎の壁が崩壊していた。

 ……一目で分かる事実を理解するのに、彼は短くない時間を必要とした。分かってしまうと、今度はぺたりとその場にへたり込んでしまう。

 倒れた校舎の壁、それが崩れて出来た瓦礫の山を境に、生徒の行列が途絶えていた。否、途絶えている訳ではない。行列は確かに続いているのだ。その瓦礫の下に。

 海外の事故で、〇〇人が生き埋め、なんてものはネットやテレビで何度も見てきた。その度に悪ぶりたい彼は「なんだ十人しか死んでないのか」などと心の中で煽っていた。

 この瓦礫の下敷きで死んだのは、十人? それとも二十人? 少なくとも普段の彼なら満足出来るような数字ではない。

 だけど彼は、涙が出てきた。

【ペキ、ペギキギィイイイイイ……】

 その涙を止めたのは、巨木が軋むような声。

 彼は声が聞こえてきた、校舎の窓側を見る。

 そうすれば、窓のすぐ近くに居る怪獣の顔がとてもよく見えた。余程至近距離に居るようで、顔で窓ガラスが埋め尽くされている。外の景色が見えない。

 代わりに、怪獣の顔がとてもよく見えた。昆虫のような見た目なのに、その目は複眼ではなく、丸みを帯びたただの出っ張りに過ぎないと分かる。体表が木の表皮みたく凸凹していて、近くで見ると動物らしさはあまり感じられない。触角の付け根が動く度、ぺきぺきと小さな音を鳴らしていた。

 そういえば、コイツの正体って植物なんだっけ。ネットに書いてあったな。

 至近距離で怪獣を目にした彼は、そんな悠長な事を思えるぐらい、不思議と頭の中が落ち着いていた。股はぐっしょりと湿り始めたが、そんな事はどうでも良いと感じる。この怪獣が校舎の壁を倒し、たくさんの生徒を生き埋めにしたという事実にも気付いたが、特に恐怖は感じられなかった。

 これが達観という感情なのか。漫画に描かれていて、だけど今まで理解出来なかった感覚を、始めて理解した。彼以外にも下敷きを免れた生徒は居て、悲鳴と共にわたわた逃げ出していたが、彼は身体に全く力が入らなかった。

 彼と目が合った怪獣は、やがてくるりと身体の向きを変えた。頭が窓から遠退き、外の景色がよく見える。

 窓から見えた空には、『怪獣』が飛んでいた。

 だけど一匹二匹じゃない。戦闘機のように隊列を組んだ十匹ほどが、びゅんっと空を横切る。そして怪獣の編隊は一つでなく、次々と大空を飛んでいった。少年が目にしただけで五十匹はいるらしい。

 怪獣はたくさんいた。軍が核兵器で倒したのも、校舎を襲ったのも、そのうちの一体に過ぎない。

 怪獣は、まだ滅びていないのだ。

「……やべぇ。すげぇ強いじゃん」

 ぽつりと出てきたのは、怪獣に対する称賛。死んだと思ったら死んでいない。それは彼が思い描く、理想の怪獣像なのだから。

 ぼんやり見ていたところ、崩れた壁の方からずるずると音が聞こえてくる。何も考えずその音の後を追えば、巨大な昆虫の『腹』が校舎に射し込まれる最中だった。天井よりも高いその腹は更に校舎を砕きながら、奥へ奥へと侵入してくる。

 彼は知っていた。怪獣が腹から毒ガスを撒き散らす事を。何故わざわざ校舎の壁を砕いたのか? きっと校舎という密閉性の高い建物の中に隠れようとしている人間を確実に殺すため、内側から毒ガスを放出し、校舎内を満たそうとしているのだ。

 ならこれから自分は、噴き出した毒ガスに飲み込まれて死ぬのだろう。

「ひっ……ひぃ!」

 彼はようやく立ち上がれた。プライドも意気地も全部投げ捨て、ただ死にたくないという一心だけで身体が動く。目からぼろぼろ涙を零し、這いずりながら少しでも遠くへ行こうとする。

 されど、最早何もかもが手遅れ。

 怪獣の腹から大量のガスが放出され、校舎の中が黄色く染まったのは、それから間もなくの事であった。

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