民兵

「日本が怪獣で壊滅、ねぇ。映画のタイトルみたい」

 今朝の新聞を読みながら、彼女は眉を顰めて独りごちた。

 カナダのとある小さな町に建つ安アパート一階にて、一人暮らしをしている彼女は朝の自由時間を新聞片手に過ごしている。朝食も身支度も済ませ、スーツ姿でいる彼女は今年で三十半ばになる身だ。周りからは妙齢の美女や美人過ぎるキャリアウーマンという評価をもらっており、それ自体は大変嬉しく思うが、そろそろ恋人いない歴 = 年齢を終わりにしたいとも思い始めている。

 そのような個人的事情はさておき。新聞の見出しにある『日本、怪獣により壊滅!』の文言は、中々センセーショナルなものだ。記事によれば怪獣は自衛隊の攻撃をものともせず、日本の大都市を襲撃。壊滅した都市が四つあり、死者は凡そ三百万人との事。日本政府は世界各国に支援を求め、怪獣に対する情報連携も積極的に行うという。尤も、支援については「人口の三パーセント近くを僅か一日で失った国など例がない。全面的な支援を受けても、社会システムが崩壊するのは避けられない」との意見が専門家から出ているようだが。

 そして当の怪獣は、今はカナダに向かってきているという。カナダ政府は米軍と協力して怪獣に対処すると発表しているようだが……

「(自衛隊の武器って、世界でもかなりしっかりしている方よね。うちの国とアメリカが協力しても、倒せるのかしら)」

 彼女の個人的見解では、あまり成果は期待出来ないと思った。二〇四五年現在、カナダの軍事費は日本よりやや少ない程度。兵器の質も互角であり、世界でもかなりの『戦力』を誇るが……自衛隊が一方的にやられた怪獣に対し、自衛隊と互角のカナダ軍が致命傷を与えるのは難しいだろう。

 協力してくれるという米軍は『世界最強』と名高いが、だからといって配備されている銃の威力がカナダ軍の百倍ある訳じゃない。軍隊とは対人間を想定したもので、人間相手にそんな出鱈目な威力は要らないからだ。大半のミサイルや爆弾、最新鋭のレーザー兵器でも、量は兎も角性能的には日本やカナダと大差あるまい。怪獣相手に効果が期待出来るのは、地中貫通弾バンカーバスター大規模爆風爆弾MOABぐらいか。

 もしもそれらすら通じないなら、人類の残る手立ては『アレ』しかない。『アレ』は出来れば使ってほしくないところだが……

 ……軍オタだから恋人が出来ないのかしら、等との考えが過ぎる彼女だったが、友人や同僚の前で披露した覚えはないのでこれは違うだろうと考える。決して、趣味を止めるぐらいなら結婚出来なくても良いやと思った訳ではない。

 ともあれ一般人に出来るのは、人口二万人のこの町が戦場になった時さっさと逃げ出す事だけだろう。怪獣は人口の多い大都市を狙って襲っているようなので、果たしてその時が来るかも怪しいが。

「……そろそろ家を出ないとね」

 時計を見て、程良い時間である事を確認。新聞を畳んでテーブルに置いた彼女は、朝食時に煎ったコーヒーをぐっと飲み干す。空になったカップを適当に水で濯いだら、軽やかな足取りで玄関へと向かう。壁に掛けてあるコートを羽織り、最近買ったばかりの靴を履き ― カナダは室内で靴を履く派と脱ぐ派がいる。彼女は脱ぐ派だ ― 、外へと出た。

 今日は天気予報通りなら一日中晴れ。冬のカナダはとても寒く、彼女が暮らす集合住宅一階の外には、たくさんの雪が積もっていた。道路に並ぶ街路樹も雪を被り、真っ白なオブジェと化している。数十年前までこの地域では雪など殆ど積もらなかったらしいが、温暖化の影響で降水量が激増し、昨今では毎年大雪だ。温暖化が解決に向かうだけでもあと三十年掛かるそうなので、自分が生きてる間はこの雪と付き合わないといけないのかと思い彼女は肩を落とす。

 朝から気が滅入ってはいけない。コートとスーツを手で整え、靴の踵をコンコンと慣らして気持ちを整理。最後に眩い空を見れば気持ちはスッキリ切り替わる。

 その頭上を巨大な影が横切らなければ、であるが。

「……は……え……!?」

 何が通ったのか。一瞬考え込んだ後影の正体に気付き、彼女は顔を青くしながら影が飛んでいった方を見遣る。

 影は数十メートル程度の、人間からすれば極めて危険な高度を飛んでいた。しかし『人間』ではないそいつにとっては、ちょっとした低空飛行に過ぎないのだろうか。背中から生えている巨大な四枚翅は羽ばたかず、滑空するようにゆったりと飛んでいる。六本の脚も垂れ下がり、楽な姿勢でいるようだ。

 時速九百キロで飛ぶ、という新聞情報とは異なるが……五十メートル近い巨躯と蛾に酷似したフォルムは新聞の記述と重なる。

 間違いない。『怪獣』がこの町にやってきたのだ。

「嘘っ、もう軍はやられて……っ!」

 新聞に書かれていた通りなら、軍は怪獣撃破のため向かった筈。よもや戦ってもいないとは思えず、ならば足止めすら出来ずに一瞬でやられてしまったしか考えられない。

 米軍もやられたのか、どれだけの兵力を投じたのか、被害はどの程度か――――軍事に詳しいからこそ様々な不安が過ぎり、故に彼女は自分の身を守る事が少し遅れてしまう。

 怪獣が毒ガスを撒き散らす事を思い出したのは、怪獣が頭上を通り過ぎてから数秒も経ってからだった。

 彼女は慌ててハンカチで口を塞いだ。一呼吸で死に至るガスがこれで防げるとも思えないが、三呼吸ぐらいには耐えられるかも知れない。後は部屋の扉と窓を閉め、新聞紙で玄関戸の隙間を塞げばなんとか……

「(あれ? 黄色いガスが、ない?)」

 そこまで思考を巡らせ、彼女はまたしても今更気付く。

 怪獣の通り道に、ガスなど撒き散らされていなかった。視界は黄色く染まっておらず、よく見れば通行人達は呆然としつつも普通に立っている。小学生ぐらいの子供が怪獣を見てはしゃぎ、傍に居る親がおろおろしながら窘めていた。

 彼女も恐る恐るハンカチを口から退かし、ゆっくり息をしてみる。このままでは死ぬ! ……というような感覚は、一向に訪れない。

 次いで彼女は、怪獣が飛んでいった方角を再び見る。怪獣の姿は地平線近くに見えた。真っ直ぐ、のんびりと飛んでいるようである。

 怪獣は毒ガス攻撃を仕掛ける際、都市の外側をぐるぐると周り、高度百メートルほどの位置から散布するという。その意図は明白で、ガス攻撃で都市の住人全員を効率的に殺すため。町をガスで囲えば人間に逃げ場はなくなるし、僅かな濃度でも致死性があるなら高高度からばら撒いて拡散させた方が費用対効果は高いからだ。

 ところが今の怪物は、ほんの数十メートルの高さをのんびり飛んでいた。しかも彼女の自宅である安アパートは、この町の中心部に位置している。怪獣が通るのは、毒ガス散布の最後の筈。

 怪獣は毒ガス攻撃を仕掛けにきた訳ではなさそうだ。彼女がその結論に至るのに、さして時間は掛からなかった。

 しかし、ならばアイツは何をしにこの地を訪れたのだろう?

 空飛ぶ姿を見る限り、怪我などはしていない様子である。自衛隊と同じく、カナダ軍と米軍は易々と蹴散らされたのだろう。だから傷を癒やすためではない。攻撃、逃走以外でこんな小さな町を訪れる理由があるとすれば……

「(もしかして、補給に来た、とかかしら)」

 最初に思い至るのは実に軍オタらしい発想。しかしなんとなく過ぎった考えにしては、的を射ていると彼女は思う。

 どんなに精強な軍隊でも、補給が出来なければ暴徒以下だ。弾のない銃なんて棍棒程度にしか役立たないし、動かない戦車など置物でしかない。弾薬・燃料・食糧・医薬品……あらゆる物資が滞りなく前線に届いて、始めて軍は全力を発揮出来る。アメリカ軍が世界最強と謳われるのは、この補給線の強さも理由の一つだ。

 フィクションならば兎も角、現実の存在ならば如何に怪獣でも質量保存の法則に縛られる。無から有が生じない以上、撒けば撒くだけ体内の毒ガス備蓄は減るのだ。それに生き物なら食糧が必要だろう。何時か必ず補給が必要になる。むしろインドネシアと日本で合計七ヶ所も都市を襲い、自衛隊・カナダ軍・米軍と戦いながら、よく今まで毒ガスと体力が持ったものだと言うべきか。

 降下してきたのは、地上から物資を得るためかも知れない。蛾のような姿だし木や草をバリバリ食べるのだろうか、それとも人間を頭から丸呑みにするのか……興味はあるが、それは命知らずなカメラマンにでも任せてしまえば良いだろう。一般人に過ぎない彼女は、自分の命を優先する。

 会社には向かわず、兎にも角にも町から逃げるのだ。

「……OK、落ち着きましょう」

 するべき方針を決めた途端、心臓がバクバクと鼓動を始めた。脂汗も出てくる始末。

 「危ないから逃げよう」と具体的に考えて、ようやく身体が危機感を覚えたのか。長年の文明生活で人間の野生が退化しているという話は、どうやら本当らしい。でなければ、危険を感じるのにこんな長々としたプロセスは必要あるまい。

 『人間本来の生き方』なんてものがあるとはこれまで思わなかったが、案外そのような意見も正しいのか……等とまた思考が逸れそうになった。彼女は首を横に振り、兎に角今は逃げようと、早歩きで郊外に向かう。

 町の人々も、とぼとぼとした歩みだが歩き出した。行く先は怪獣が飛んでいったのとは逆方向。はしゃいでいた子供達も、大人達の反応から喜んでいる場合ではないと気付いたらしい。静かに、暗い顔となっている。

 日本では怪獣が現れた際、殺されるという恐怖から町がパニックに陥ったという。この町ではそうしたパニックはなく、町人は静かに歩いている。それは日本よりこの町の民度が上だから……という訳ではなく、人口が少ないので道が詰まる心配がなく、怪獣が頭上を通り過ぎた時点で色々吹っ切れたというのが大きいだろう。この町が人口十万人以上の大きな町で、遠くにちょっと姿が見えるぐらいの位置に怪獣が現れたなら、生き延びようとする人々で大混乱になった筈だ。

 人の少ない道を歩きながら、彼女は懐からスマホを取り出し、万一に備えて家族に遺言を伝えようとした。が、メッセージを送ろうとしても『通信出来ませんでした』というエラーが出るばかり。アプリの問題かと思いメールや電話も使ってみたが、どれも通じなかった。

 こんな時に故障? とも思ったが、周りの人々もスマホ片手に困惑している姿を見て、自分のものだけがおかしいのではないと彼女は知った。そういえば今朝の新聞に、怪獣の通り道でスマホなどの通信端末が使えないという証言があったという記載があったのを思い出す。酸素通信の妨害など人類でも出来ていない事。実に怪獣らしい、とんでもない能力だと彼女は思う。

 仕方ない、スマホにはメモだけ残そう。会社には、生きていたら明日連絡しよう……そう考えながら、もう一度視線をスマホに戻そうとした。

「うっ……うぅ……」

 その時、ふと真横から呻き声が聞こえる。

 思わず声がした方を見れば、女子高生ぐらいの少女がお腹を抱え、蹲ろうとしていた。何をしているの? と一瞬思う彼女だったが、すぐに少女の体調が酷く悪いのだと察する。彼女は逃げるのを止め、少女の身に寄り添った。

「どうしたの? 大丈夫?」

「か、ら……しび……」

「え? 何?」

 容態を尋ねようとしたところ、少女の口から出てきたのは途切れ途切れの言葉。何を言っているか分からない、が、喋れないぐらい酷い状態なのは理解した。

 この少女は一刻も早く病院に連れていくべきだ。そう思う彼女だが、しかしスマホは使えない。他の人達のスマホも同じだろう。なら、病院まで徒歩で連れていくしかあるまい。

「頑張って。肩を貸すから、病院まで行きましょう」

「ぁ、が……かっ……!」

 なんとか少女を助けようとする彼女だが、少女の容態はどんどん悪化していく。目を剥き、明らかに息が出来ていない。喉を掻き毟り、苦しさに藻掻いていた。

 新聞に書かれていた、怪獣が撒き散らす毒ガスの症状とよく似ていると感じた。しかし自分はなんともない。これは毒ガス以外に原因があるのか? 疑問に思っている間も少女の苦しみはどんどん強まり、ついに蹲る事すら出来ず、ぱたりと倒れてしまう。

「っ! しっかりして! ねぇ! 誰かこの子を――――」

 あまりにも急激な悪化に、自分だけでは手に負えないと判断。彼女は周りに助けを求めようとして……されどその言葉は、詰まってしまう。

 彼女の周りには、助けてくれる人など誰もいない。

 殆どの人が、道路の上で寝転がっているのだから。

「おい!? しっかりしろ! どうした!?」

「お願いします! 息子が、息子が息をしてないの! ねぇ! あなた助けてよ!」

「俺だってダチが大変なんだ! 一人でなんとかしてくれよ!」

 僅かに残っていた人達も、自分の親しい人を助けようとするので手いっぱい。下手に声を掛ければ、助けるどころか助けを強要されそうだ。

 想像もしていない光景。何故こんな事が起きている? 原因を探ろうと、彼女は倒れている人達の共通点を探ろうとした。されど男も女も、大人も子供も関係ない。肥満か痩せ形かも無関係なようである。無事な人にも共通点が見られず、精々大人の男性が多いぐらいか。しかし今が通勤時間帯である事を思えば、外を出歩いている人の成人男性比率が高いのは当たり前で、ごく自然な光景でしかない。

 原因が、理由が分からない。未知というのはそれだけで人を恐怖に突き落とし、心身に異常を生じさせる。彼女も息が乱れ、足腰が震え始めて……

「ぁ、か……!?」

 これが恐怖によるものではないと気付いた時には、何もかも遅かった。

 両足から力が抜け、腰砕けになる。なんとか立ち上がろうとしても、足の次は手が、身体が震えてしまう。ついに倒れてしまうと、息までも詰まってしまう。呼吸をしようとしても喉が震えるばかりで、全く空気を吸い込めない。

「(嘘、やだ、やだやだやだやだ死にたくない誰か、誰か……!)」

 思えども、出てくるのは掠れた声すら出せない震えのみ。

 その必死な震えも、今まで立っていた人々が次々倒れる中では誰にも届かない。

 五分。

 彼女の中から苦しいという感覚すら失われるのに、それだけの時間が必要だった。

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