援護

「自衛隊が負けちゃったから、遠くに逃げないといけないの……良いわね?」

 母から宥めるように伝えられ、彼女は無言のままこくりと頷いた。

 彼女は小学一年生の女の子。まだまだ幼いとはいえ、世の中の事をそれなりには知っている年頃だ。例えば今日何処か南の国に現れた『怪獣』が、その南の国でたくさんの人を殺し、日本に向かっている事も知っている。自衛隊がそれを食い止めようとしていると ― 「だけどもしかしたら避難しないといけなくなるかも知れないから、家の人が心配しないよう寄り道せず真っ直ぐお家に帰りましょう」という小言付きで ― 学校でも先生が話していた。

 そして家に帰ってからしばらく経った頃、自衛隊が怪獣に負けたとテレビのニュースで報道された。好きなアニメが中断された怒りでそのままニュースを見たところ、アナウンサーの人が海沿いにあるこの町は怪獣が日本で最初に上陸する場所で、すぐに逃げないと危険であると言った。

 そしてこのニュースを共に見ていた母は荷物なんてろくに持たず、すぐに彼女の下にやってきて、遠くに避難しようと言ってきた……というのがつい先程の出来事だ。

 母は酷く動揺している様子で、わたしを宥める事で自分も落ち着かせようとしているのだと彼女は感じた。テレビの人達も、自衛隊が負けた事を話す時に酷くそわそわしていたと彼女は感じている。

 何故大人達はこんなにも動揺しているのだろう。まるで自衛隊が怪獣をやっつけてくれると信じていたみたいだ。アニメや映画だと、自衛隊は何時も怪獣にやられているのに。

 「大丈夫、安全なところにすぐ避難するからね」と語る母は、目に涙を浮かべていた。彼女は泣かなかった。怪獣が日本に向かっていると聞いた時から、きっと自分は殺されるのだと思っていたから。痛いのは嫌だけど、毒ガスですぐに死ぬのなら多分そんなに痛くはないだろう。やりたい事はまだまだいっぱいあったが、ママと一緒に天国へと行けるなら問題ない。仕事に行っているパパも、多分そのうち天国に来る筈。

 それよりも本物の怪獣を見てみたいわ、なんて思っていたり。

「さ、出発よ。道が混雑してるだろうから、車じゃなくて歩きでね」

「ん。分かった」

 だけど無事逃げきれるなら勿論それで構わないので、彼女は母に言われるがまま、帰ってきたばかりの家から出た。

 鮮やかな夕日に染まり始めた自宅の外は、酷く騒がしかった。怒鳴り声や泣き声があちこちから聞こえ、ガシャンという何かが壊れるような音もしょっちゅう耳に届く。道路では大人達が駆け足で前へ前へと向かっていて、道が埋め尽くされていた。全員戸惑い、我先に逃げようとしている。

 死ぬのは怖くないが、独りぼっちは怖い。もしも離れ離れで死んでしまったら、一緒に天国に行けなくなってしまうかも知れない。彼女は何があっても離さないよう、母の手を両手でぎゅっと掴んだ。母も彼女の手を強く握り締め、二人は一緒に自宅である一軒家の敷地から出た。

 道路は人でごった返し、思うように前には進めない。どうにか人の流れに押し入る事は出来たが、彼女の身体には潰れそうな圧迫感が加わった。母は苛立つように唇を噛み締め、身体がそわそわと震えている。周りの大人達も同じで、「何してんだ!」とか、「早く前に行けよ!」と叫んでいた。殴り合う音が近くで聞こえてきて、怪獣よりもこっちの方が怖いと彼女は感じる。

 それにしても人が多い。道の全てが埋め尽くされ、子供故に背が低い彼女の視界を大人達の背中が塞ぐ。この道は通学路でもあるため彼女もよく通るが、何時もなら目の前に見える山が全く見えない有り様だ。尤も杉林など眺めても、あまり楽しくないが。

「おい、ちんたら歩いてるんじゃねぇよ!」

「きゃっ!?」

 ぼんやり考えながら歩いていたら、背後から罵声と、突き飛ばすような衝撃を感じた。彼女が振り返ると、怖い顔をした老人が睨み付けている。

 どうやらこの老人に蹴飛ばされたらしい。ちんたら歩くなと言うけれど、前が詰まっているのにどうすれば良いのか。彼女には分からず、ぽかんとしてしまう。

「ちょっと! うちの子に何するのよ!」

 対して母は、老人に向けて吼えるように怒りをぶつけた。

 ぎゃあぎゃあと二人は怒鳴り合う、老人が掴み掛かり、母も掴み掛かり、周りの人も掴み掛かり……なんだか大変な事になってきた。だけど彼女に大人達の争いを止めるだけの力なんてない。大人達の矛先が自分に向かないよう、母の背中に隠れるだけで精いっぱいだ。

 騒ぎに驚いたのか、赤ん坊の泣き声が離れた場所から聞こえてくる。すると同じぐらい離れた位置から罵声が響き、悲鳴と叫びも上がった。人混みは全然前に進まないのに、動きはどんどん激しくなっていく。こんなケンカをしても仕方ないと彼女は思うが、それを口に出せば怒られるような気がして何も言えない。痛くない毒ガスは怖くないが、痛くて堪らないケンカは嫌だ。もう何も見たくないとばかりに、彼女は母の背中に顔を埋める。

「ひぃ!? か、か、怪獣が来たぞ!」

 大人達のケンカが治まったのは、誰かがそんな大声を上げてからだった。

 先程まで罵声と悲鳴を上げていた口を誰もが閉じ、一瞬にして静寂が広がる。尤も静寂が続いた時間も同じぐらい一瞬。殆ど間を置かずに全員が後ろを振り返り、間もなく誰かが悲鳴を上げるや、一斉に前へと走り始めた。

 人々は最早後ろで待つなんてせず、前の人間を突き飛ばしてでも進もうとする。罵声や殴り合いがお行儀良く見えてくる有り様だ。突き飛ばされた老人が倒れたが誰も助けず、それどころか踏み付けていく。老人の呻きは、すぐに聞こえなくなった。

「ふんっ!」

 彼女の母も、ちんたら子供の手を引いて歩くつもりはないらしい。彼女を抱きかかえると、猛然と駆け出した。彼女の母は元スポーツ選手であり、一般的な女性どころか男性と比べても力は勝る。老人や若者を押し退けながら前へと進む事が出来た。

 彼女は母にしがみつきつつ、高くなった視界で辺りを見回した。周りの大人達は全員恐怖で顔を引き攣らせている。目に涙を浮かべている人も少なくない。大人が子供のように恐怖に慄く姿は、彼女にはちょっと新鮮な光景に思えた。

 そして自分達の後方に、大人達を震え上がらせる存在が飛んでいる。

 背中側に広がる空にぽつんと緑の物体が浮かんでいた。視力一・二の彼女でもよく見えないぐらい遠いが、大きな翅が四枚あり、飛行機のような速さで飛んでいるのは分かる。高度は、百メートルぐらいだろうか。以外と低い位置を飛ぶのだなと彼女は思った。

 あれが噂の怪獣なのだろう。本当にそうなのかは分からないが、大人達が逃げ出すからにはきっとそうなのだ。

 怪獣は毒ガスで人を殺すと、学校の先生は言っていた。その毒ガスは黄色をしているらしい。じぃっと見てみたが、怪獣の身体から黄色いものは出ていない様子。なら、まだ毒ガス攻撃はしていないのだろう。

 思い返すと、怪獣好きなクラスメートの男子が話していたが、怪獣は毒ガスを撒く前に町をぐるぐると周回していたらしい。曰く、たくさんの人を殺すために良い場所を探していたのではないかとか。その男子はスマホを持っていて、ネットで調べた情報との事だ。もしこの話が本当なら、怪獣がこの町で毒ガスを撒き始めるのは町の上空を何周かした後の筈。殺戮が始まるのはもう少し後である。

 母も周りの人も凄い速さで前に進んでいる。ケンカをしなければこんなにもスムーズに進めるのに、大人も案外バカなのねと彼女は思った。今の調子で走り続ければ、町の外へと出るのに三十分も掛かるまい。案外このまま町の外へと出られるのではないか……

 そう思い始めた、刹那の事だ。

「だ、駄目だぁ! この先に毒ガスが来てるぞ!」

 誰かがそう叫んだのは。

 走り回る集団が足を止めたのは、それから数秒ほど後の事。悲鳴とどよめきが起きたのは、足を止めて間もなくの事だった。

 母に抱きかかえられている彼女にも、『毒ガス』の姿は見えた。自分達が目指す先……その正面に位置する山から、朦々と黄色い煙が舞い上がっているのだ。煙の範囲はゆっくりとだが拡大していき、少しずつ麓、もっと言うなら自分達の方へ流れようとしている。煙の色は濃く、如何にも毒々しい。

「嘘だろ……なんでこっちからも毒ガスが!?」

「と、兎に角逃げろ! こっちは駄目だ! 押すな! あっちに行かせろ!」

 怪獣が出す毒ガスは黄色。その情報はテレビやネットなどで広まっており、誰もがそれを知っていた。黄色い煙を見た人々はパニックに陥り、来た道を慌てて引き返す。今まで押し退けてきた人達を、また押し退けて後退していた。押し退けられた人達は怪訝としていたが、黄色い煙を目の当たりにすれば事情を察し、同じく身を翻す。

 彼女の母も同じだ。いや、誰よりも必死かも知れない。

「ママ。ねぇ、ママ」

「大丈夫! 大丈夫だから!」

 彼女が呼び掛けても、母は壊れた機械のように同じ言葉を繰り返すばかり。普通の女性と比べて屈強な身体は、どんどん周りの人を押し退けた。

 親の心子知らずということわざがある。だけど今の彼女は、母の気持ちがよく分かった。きっととても怖いのだ。あの毒ガスに飲み込まれたら、みんなバタバタ死んでしまうと不安なのだろう。

 彼女は教えてあげたかった。そんな心配なんてしなくて良いんだよ、と。

 だけど母は耳を貸してくれず。必死だからそれも仕方ないなと思って、彼女は口を閉ざすしかない。それに大人達がみんな毒ガスだと言うのだから、きっと自分の勘違いなのだろうとも思った。

 黙った彼女を抱えたまま走り続ける母。だけど来た道には怪獣が飛んでいて、何処に逃げれば良いのか分からない。周りの人も同じようで、今まで一方向に逃げていた人混みはばらばらと散っていく。母の走りを邪魔する者はいなくて、母の足はどんどん加速していた。

 やがて母は足を止めた。

 空に浮かんでいる怪獣が、お腹の辺りから黄色い煙を出し始めたからだ。彼女と母の居る場所からはずっと離れていたが、怪獣は飛行機のような速さで飛んでいる。彼女達が町の外へと出るよりも、怪獣がぐるりと町を一周する方がずっと早いだろう。

「ああ……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 母は膝を付き、泣きながら彼女の頭を撫でる。母は逃げるのを諦めてしまったようだ。周りには自分達以外にも何人かの大人や子供が居て、母と同じく泣いていた。

 彼女も、今更あの怪獣から逃げられるとは思えない。だけど最初から駄目だと思っていた彼女は、あまり気にしていなかった。

 それより、ここでめそめそする方が勿体ない。

「気にしないで、ママ。ねぇ、わたしケーキ食べたいの。冷蔵庫にあったやつ。全部食べていい?」

 死ぬ前にしたい事を母親に伝える。母は泣きながら、にこりと笑った。彼女の手を掴み、とぼとぼと歩く。他の人達も立ち上がり、のろのろとした足取りで各々歩き出した。きっとみんな家に帰るのだろうと彼女は感じた。

 この歩く速さじゃ、家に着く前に怪獣の毒ガスに巻き込まれてしまうかも。そう思う彼女だが、しかし母と一緒だから問題ない。パパが一緒なら最高なのにとは思うけど、夕飯の時のように天国で待てば良いだけ。

 それに怖い大人に囲まれるのはもう嫌だ。家でママと一緒に遊びたい。

 空に撒き散らされる毒ガスと、山からやってくる黄色い煙に挟まれて、彼女はうきうきした足取りで家路に着くのだった。

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