銭湯で出会った男

 燃えるように熱くなった頬を押さえながら、自室にある布団の上で膝を抱えている。

 八塚が窓から出て行った後、先生は何ごともなかったかのようにHRを再開しようとした。


 しかし、隣のクラスの先生が来たことと、誰が呼んだのか警察が来たことによりそれまでのことが発覚した。

 急いで上階の3年の教室を見に行くと、見事にもぬけの空だったらしい。

 机や椅子が乱雑に倒されていたが、血痕などは残っていなかった。


 その日の授業は、パニックになった生徒が多かったので、俺のクラスは早退となり、昼には全学年早退となった。

 この時、早退となったことを保護者に伝えるため、母親に学校から連絡が行き、それを父親が知り俺の顔を殴ってきた、という流れだ。

 親に迷惑をかけたということで、昼夜のご飯は抜きとなった。


 腹がグルグルと鳴る。

 昼から何も食べていないので、そろそろ空腹の限界だった。

 時刻は、0時を過ぎた。耳を澄ませて両親が寝静まっているのを確認してから、静かに窓を開けてベランダに出る。


「今夜は満月か……」


 外に出て初めて気づいたが、空には満月が煌々と輝いており辺りを照らしていた。

 家がある場所は駅から離れているので人通りは少なく、あったとしても車が自転車が主だ。

 おかげでこういった明るい夜でも、比較的、容易にベランダから外に出ることができる。


「――っと」


 トン、とベランダから外を囲う壁に足を置き、飛び降りる形で地面に降り立つ。

 目撃者が居ないことを確認して、足早にその場を離れる。

 ポケットに入っている、クシャクシャになったなけなしの千円札の感触を確かめる。

 

 昔から、こういった躾け・・をされてきて、風呂に入れないのは当たり前で、酷いときには数日間、水で過ごさなければいけなかった。

 そんな時でも生き抜くために食べていけるようにバイトをするようになった。


 もちろん親からバイトの許可で降りるわけがないので、日払いのそういったことに無頓着な現場作業だ。

 しかし、金払いには無頓着な訳がなく、そういった仕事場はこちらの足下を見て最低賃金をさらに下回る金額で働かせてくる。


 さすがに可哀想だと思った周りの大人たちがたまに昼飯を奢ってくれたりするけれど、それもたまにだった。


「ご飯……いや、まず風呂に入った方がいいかも……」


 スンスン、と自分の体の臭いを確かめる。

 腹が減っていることに気をとられすぎて、もう3日くらい風呂に入っていないことを忘れていた。

 先日の雨に打たれたおかげで多少の臭いはなくなったけど、3日も入っていないとさすがに体がかゆくなり始める。


「となると、まずは風呂か」


 そう思い、ふと空を見上げる。

 空には星と満月と――。


「なんだあれ……?」


 キラキラとした燐光を撒き散らしながら、人が空を飛んでいた。

 いや、初めは人かどうかではなく何か飛んでいる程度だったが、集中してみようとすると双眼鏡で見たように風景が近づいてきた。


「女の子――だよな?」


 長い髪の毛を風に乗せ、両手をいっぱいに広げて空を跳んで・・・いた。

 その女の子は2~3度、空を跳ぶとそれ以降、見えなくなってしまった。


「なんだったんだ?」


 見間違えなのか、それとも家の屋根よりも高く跳ぶ人間が居るのか。

 後者について考えていると、ふと昨日今日、見た鯨のような姿をした化け物のことを思い出し、背筋が寒くなったので足早に銭湯へと向かった。



 家の近所にある古びた銭湯。

 深夜0時までやっていて、風呂はただのお湯と薬湯の2種類しかないけど、料金が350円と安く、とてもありがたい存在だった。

 数日分の垢を丹念に落とし、薬湯に浸かる。


 閉店まであと10分くらいしかないので、風呂内には俺の他に体を洗っている1人しか居ない。

 30代後半くらいの厳つい顔をしていて、体も鍛えているのか引き締まり筋肉が盛り上がっている男性だ。


 公共の場で、しかも見ず知らずの人間から絡まれることはないけれど、こうせまい空間では変に意識してしまう。

 「見なければ大丈夫」と、自分に言い聞かせるようにする。

 ――も、体を洗い終わった男はあろうことか薬湯に、さらにいえばわざわざ俺の隣に来た。


「こんばんは」

「こっ、こんばんは……」


 まさか話しかけられるとは思っていなかったので、思わず声が裏返ってしまった。


「高校生?」

「えっ……あっ……はぁ……」


 地獄かここは。ゆっくりと浸かるべき銭湯でこんな風に話しかけられるだなんて、これじゃあゆっくりと入ることもできない。


「よく入りにくるの?」

「たまに……」


 男性は柔和な笑みを心がけているようだったが、元の顔の作りが頑強すぎて不器用な印象にしかならなかった。

 わざわざ見ず知らずの人に話しかけてくるなんて、もしかしたらそっち方面の人なのかもしれない……。


「ははっ。そう警戒しないでくれよ。同じ風呂に入っている者同士、ちょっと気になってね」


 こちらはただ静かに入りたいだけだったので、返答することなく黙る。


「……その怪我は、喧嘩でもしたのかい?」

「…………」


 たぶん、頬にできた傷を見て問われたんだろう。

 あの日・・・のイジメでできた傷か、父親に殴られた傷か。そのどちらも。

 面倒くさかったので、頬を押さえて傷を隠した。

 それで何かを悟ったのか、男性はやや神妙な面持ちになった。


「辛いよな……。ご両親や学校の先生とかには相談した?」

「…………」

「どちらもちょっと――ってことなら、県の……最寄りの警察署とかでもそういった相談は受け付けているから」

「どんな世界で生きてきたら、そんな楽観的な考えになるんですか?」


 分かったような顔で、ズケズケと人の領域に侵入してくる男性に苛立ちがつのり言い返してしまった。

 その反応に、男性の顔は愕いたようにゆがんだ。だが、目の奥では嗤っていた。


「ありがとう。やっと反応してくれた」

「…………」

「警察が役に立たなかったのは――って、おい、ちょっと!」


 嫌な予感がして風呂から立ち上がり出て行く。

 頭も体も適当に拭き上げ、男性の制止も聞かずに脱衣所を出て銭湯の外へ出た。


坂咲さかさき恭也きょうや君だね?」


 銭湯を出てすぐのところで、中で話しかけてきた男性よりもだいぶ若い、20代半ばくらいの男性から呼び止められた。


「違います」

「あぁっと。待って、待って。今、坂咲君って子を探しているんだ。中に居るらしいんだけど、もうすぐ出てきそうかな?」

「知りません」


 若い男性の脇をすり抜けようとすると、男性は俺をブロックするように半身乗り出してきた。

 避けようとしたがそのぶん相手も体を乗り出してくるのでぶつかってしまい、若い男性は大げさに転んだ。


「あぁーーっ!? 痛い、あーっ痛い!」


 「いたたたた」と大げさに痛がりながら地面を転がる男性。


「あー、公務執行妨害だなこれ」


 男性は当たった肩をわざとらしく押さえながら立ち上がり言う。

 そのどれもが胡散臭く、転んだといってもゆっくり座って寝転んだような状態なので怪我のひとつもない。


「警察って名乗っていないから、公務執行妨害じゃありません」

「……僕、警察ね。あーいたたたた」


 ふざけているのだろうか、と思わずには居られない男性の反応。

 しかし、風体ではなく雰囲気が彼が警察、またはその関係者だと物語っていた。

 なんというか、勘というやつで。


「おい、山下ァ! お前、そんなセコいこと止めろって言ったよなぁ!」


 大声を出しながら銭湯から出てきたのは、風呂の中で話してきた男性だった。


「いやだって、真島さん」

「だってじゃないだろ。子供相手に転び公妨なんてやるなっていってんだよ」


 怒られた山下と呼ばれた警官はシュンと項垂れ、叱られた子犬のようになってしまった。

 対して真島と呼ばれた男性は、頭から湯気を上げながら荒い息を吐き、こちらに駆け寄ってきた。


「部下がすまなかった。ただ信じて欲しいのは、俺は君の味方だっていうことだ」

「なら、かまわないでください」


 警察と関わって良いことなどひとつつも無かった。

 だから真島の話を無視して立ち去ろうとしたが、真島は警察手帳を俺の目の前に出した。


「これで信じて貰えるか? 無理なら、深夜徘徊で補導することになるが?」


 逃げ場はなくなった。


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