エピローグ 新しい世界

 あれから、事態は約三十分ほどあとを引いた。

 理想的には午後三時五十分から演奏を始め、気持ちよく一曲弾いたのち、四時前に三人で姿をくらませばよかったのだけれど、おちおちそうも言っていられないほどのお祭り騒ぎになってしまった。終いには屋上を中心にアンコールの声が巻き起こり、もちろんその要望には応えられるはずもなかったけれど、それでも学校祭のスケジュールはさらに乱れる結果となった。

 つまるところ、あのゲリラライブは大成功!

 だがその代償として、事の収束後に俺たち三人が職員室でこってりとしぼられたのは言うまでもない。幸か不幸か観客――もとい目撃者はたくさんいたので、言い逃れなどただの愚行に過ぎないことは明白だった。

 さし当たって指導を受け持った学年主任が俺たちの顔ぶれを見たときの反応は、今でもなかなかに忘れ難い。鳩が豆鉄砲とは、まさにあんな顔のことを言うのだろう。

 理由はおそらく、首謀者三人の中に鳴海の顔を見つけたからだ。まさかこんなことで説教をされにくる生徒だとは、夢にも思っていなかったに違いない。

 そして直後に千種を目にした表情もまた、なかなか面白いものであった。やっぱりというか案の定、みたいな顔をしていたので、当然ながら先生も千種の素性を把握しているのだと理解できた。

 一通り怒られてから「週末は家で大人しく反省しなさい」という半自主謹慎まで仰せつかって、月曜にはまた生徒指導の先生と教頭のところへ頭を下げに行かされて……最後に駄目押しとばかりに一人ずつ担任と話をするという念の入りように辟易するばかり。まあ、何せ入学したばかりだから、こういうことはしっかりしておこうという学校側の考えなのだろう。

 俺は放課後に担任の先生としばらく話し、すみませんという言葉も何度目か忘れるくらいに謝ってから、平身低頭で職員室をあとにする。離れたところでは、まだ千種が自分の担任から説教を受けている。どうやら俺は早めに解放されたようだ。次が控えているというのもあるのだろう。

 入り口にはちょうど入れ替わりで担任と話しにきた鳴海の姿を発見できて、向けられた視線に苦笑いを返しておく。

 さっさと職員室を出ていこうとすると、ちょうど扉に向かうまでのすれ違いざまに

「もしよかったら、このあと音楽準備室で待っていて。話が終わったら私も行くから」

 と小声で言われ、疑問符を浮かべながら俺は廊下に出るのだった。

 少し頭を捻った末、荷物の置いてある教室には戻らずに、直接音楽準備室まで向かう。

 はて、鳴海の話とは、一体全体、何だろう? まさかこれだけ説教のオンパレードを食らったあとに、クラス委員としてなおも俺に説教を垂れるとか、そんな魂胆じゃないだろうな。いやいや、今回はあいつだって共犯だ。どの口がどの面下げて何を言うか。まさかそれはないだろう。だとしたら何だ?

 しかし考えてもわかるはずはなく、気づけば俺は目的地まで着いてしまっていた。

 今日もオーケストラ部は体育館で練習だ。ゆえに広い音楽室も、その隣の準備室もすっからかん。静かに朱色の光を跳ね返す埃が舞うばかりである。

 俺は狭苦しい準備室の窓際に椅子を用意して腰掛けた。まるで時が止まったように音のない室内から、グラウンドをぼんやり眺めてしばらく経つ。

 室内を照らす光がわずかな赤みを帯び始める頃、背後の扉が開かれた。

「待っていてくれたのね。ごめんなさい、遅くなって」

 振り返るとそこには、鳴海がいた。後ろ手に扉を閉める仕草が、妙に慣れている様子で少し見惚れる。

 それに感づかれないよう、すぐに俺は答える。

「いや、そうでもないよ。つか、むしろ早いくらいじゃないか?」

「えー、そんなことなかったわよー。色々小言も言われたんだから。あなたには期待していたのに、とかね」

 鳴海はこちらに向かって歩きながら苦笑いでそんなことを言う。様子を見る限り、怒られたことはさしてショックでもないようだ。優等生にしては、何だか意外。

 途中、傍にあった椅子を持ってきて、それを俺の隣に置く。手で軽く埃を払うと、ゆっくりとスカートを抱えて腰を下ろした。

 驚いたことに、互いの肩が触れ合うくらい、とても近くに。

 咄嗟に俺は、条件反射で少し身を引く。

 すると彼女は、俺の空けた透き間を詰めるように、また座る位置を寄せてきた。

 ……な、なんだ?

「ねぇ、大江君」

「……な、なんだよ」

「お話、してもいいかしら」

「お……おう」

 触れ合う肩と腰から彼女の体温が感じられる。窓越しの夕陽を穏やかに見つめる鳴海の声は、以前ギターの練習をしていたときの勝ち気な声とも、教室にいるときのような柔らかな声とも違っていた。それは、ただただ凛と透き通った美しい声だった。

「あのね。私がこの学校を受けたのには、理由があるの。……何だか、わかる?」

 尋ねられて、ふと想起する。それは以前、俺が千種に対して抱いた疑問と同じだった。

 千種の家と鳴海の家は隣同士だ。そこと学校を実際に行き来してみてわかったが、あれはかなりの距離がある。どんなに急いだって四十分。道中歩いたり、何度も乗り換える電車の時間が合わなければ、優に一時間はかかるだろう。

 それを毎日、往復で……特別な理由がなければ、普通はそんなこと考えない。

 千種のときは、鳴海と同じ学校がよかったからだと理解したから気にならなかったけれど、よくよく思えば、鳴海だって同じ場所から通っているのだ。ならば彼女にも、それなりの理由があるはずだ。だいいち、鳴海ならわざわざこんな遠くの公立に来なくても、近くにもっと偏差値の高い公立や、品の良さそうな私立が選びたい放題なのに。

 理由として俺の胸に思い浮かんだのは、一つだけだった。

「オーケストラ部」

 でも、口にしてみて、すぐに思った。これはきっと、違うのだろう。今までの鳴海は、そんな風には見えなかった。

「……じゃ、ないんだよな」

「無関係じゃあないけどね」

 彼女は無表情のまま、ゆっくりと息をついて、また口を開く。

「遠いところに、行きたかったの。誰もいない、誰一人私のことを知っている人のいないところに、行きたかった。それで、全部やり直したかったの」

「……全部?」

「そ。全部」

「全部って、なんだよ」

「全部は全部よ。過去を捨てて、音楽を捨てて、全てなかったことにして逃げて……真っ白になって、もう一度始めたかった」

 語る様子は真剣だった。その横顔から、その声から、彼女は本当にその想い一つだけでここへ来たのだと伝わってきた。

「でも現実、そう上手くはいかなくてね。うちではそんな理由で一人暮らしなんて許されないし、意味もなく遠くの学校に行くこともできない。親が、特に母が心配するだろうし、迷惑もかけたくなかったから」

 そして俺は、なるほど、と思った。そこまで聞いて、何となく話の先を想像したのだ。

「……で、オーケストラ部か」

「ええ。母の知り合いが顧問をしている、実績のあるオーケストラ部。そこに入るためだって言えば、大義名分としては十分だったわ。偏差値もそこそこある学校だし、家族も中学校の先生も、何も言わなかった。無理のない範囲で地元からできるだけ離れていて、私としても、まあいいかなって。あとは、入ってしまえばこっちのものよ。適当な理由を付けて入部をはぐらかせばいいと思ってた」

「……音楽を、やめるためか」

 俺が尋ねると、彼女は静かに頷いた。

「だいたい思惑通りだったわ。顧問の先生とはちょっと揉めたし、小さな噂はあったみたいだけど……それでも、この学校に私の地元から来る人なんて他にいなかったから、誰も私がヴァイオリンを弾いている姿なんて見たことなかっただろうしね」

 全てを捨てて、自分をまっさらの白紙に戻すその機会を、彼女は高校受験に見出した。タイミングや手段としては、絶好の節目であると言えるだろう。

 しかし彼女は、そこで首を左右に振る。

「けど……人生いつどこで何が起こるかって、わからないものよね、ほんと。あなたにギターのことを尋ねられたときは、まるで、背中をナイフで刺されたような気分だったわ」

「なんかひどい言われようだな」

「だって、それくらい驚いたのよ。ヴァイオリンならまだしも、私がギターを弾いていることは数少ない人しか知らないはずだし、ストリートライブのことなんて、親にすら言ってなかったんだもの。あなたも見ていたなら知ってるでしょう? フード付きのコートで全身隠して、ヒールも上げて、染色ワックスで髪まで染めて……」

 まあ確かに、あの格好はかなり奇怪ではあったものの、端から見てそれが誰なのか特定するのは、ほぼほぼ不可能なくらいの変装だった。

「一言もしゃべらなかったし、ともすれば性別だってわからなかったはずなのに……あなた、よくわかったわね。一華には他言しないように言っておいたはずなんだけど」

「そりゃあ、あのストリートライブを見てたってだけじゃ、わかんなかったよ。もしかしたらって思ったのは、この部屋で鳴海が、同じ曲を弾いていたのを見たからだ」

 それにしたって、あのときの俺の想像はかなり突飛だったと、今更ながらに思ったりする。結果オーライだったからいいものの、もし違ったら大恥だったかもしれない。

「……ああ、やっぱり、あれがきっかけだったんだ。あのときは私、たまたま少し用があってこの部屋に来ていて、ふとギターを目にしたら触ってみたくなって……それをたまたま、あなたに見られた。だからほんと、逃げられないものなのね。音楽から、自分から……どうしたって私は逃げられない。あなたの言った通り、なかったことになんて、ならないんだわ」

 軽い溜息をつき、わずかに自嘲気味な笑みを、鳴海は浮かべた。

「清楚で上品で健全で、ありったけ普通の高校生活にしようって思っていたのに。なのに入学早々、いきなり滅茶苦茶で、波乱のスタートよ」

「おまっ」

 果たして何を言われるのかと疑問だったが、まさかこんな小言の連鎖だとは思わなかった。確かに学校祭のライブを提案したのは俺だし、巻き込んで悪かったとも思っているけれど……でもこれって、わざわざ呼びつけてまで言うようなことだろうか。

 俺が苦言を呈そうとしたところで、しかし鳴海は、まるで先回りするようにこちらを向いた。

「っていう皮肉を言ってやろうって、週末ずっと、考えていたんだけどね。でも、違うわ。それは私の本心じゃなかった」

 突然振り向かれたので、俺は驚いて固まってしまう。

 彼女はまっすぐに俺の両眼を見つめていた。彼女の顔が目の前で、とてもすぐ近くで俺の視界を占めている。その瞳の中に、自分の姿すら見えるほどに。

「あの学校祭であなたと、そして一華と一緒に弾いて、私、わかったの。やっぱり私は、ギターが弾きたかったんだって」

 噛みしめるように言葉を区切って彼女は繰り返す。

「そう、弾きたかったの。弾きたかった。ただ弾きたかった。逃げたって全然逃げきれない。だって私は、本当はずっと弾きたかったんだもの。だから私がしなきゃいけないのは、逃げることじゃなくて、ちゃんと前を向くことだった。自分が今見ている景色を変えるには、どんなに駄目でも、前に進み続けるしかないんだって、あなたは気づかせてくれた」

 そして思いがけず、彼女の端正な顔が穏やかに綻んだ。

「ありがとう。今日はお礼を、あなたに言おうと思ったの。あと、あのライブ、すごく楽しかった」

「楽しかったのはついでかよ」

 俺が突っ込みを入れると、彼女はまた表情を変えて、今度は優しく、可愛らしくころころと笑った。どうやら彼女は、少しずつ雰囲気の違う、たくさんの笑顔を持っているみたいだった。

「だからね。言葉だけじゃなくて、実際に何かしてあげたいなって思ってるの。言葉でありがとうって言うのは簡単だけれど……本当に感謝しているから、何でもいいから、何かあなたにお礼がしたい」

 しっかりと改めて礼を言い、しかもそれを言葉だけで終わらせることを良しとしないのは、鳴海の律儀な性格ゆえだろう。こんな風に何でもいいなんて言われたら、そりゃあ健全な男子としては少し迷ってしまうところだけれど……でも、このとき俺は、何気なくあることを思いついたのだった。

「じゃあさ、俺と一緒に軽音部やろう!」

 勢いよく立ち上がって鳴海に言う。それは以前まで俺と鳴海の間に存在していた案件だった。

「俺、まだ鳴海に部活の申請用紙出してなかっただろ? もう期限過ぎまくってるけど、結局どの部活もしっくりこなくて迷ってたんだ。でも、軽音部作って、ここで放課後にギター弾くの、楽しい気がする。だから鳴海、一緒にやろう!」

 すると彼女は、少しの間、黙って目を丸くしていたが、やがて大声で笑い出す。

「あっははは! 何よそれ。あなたってほんと、突拍子もないことばかり言うのね」

「な、なんだよ。冗談じゃないんだぞ。俺は本気だぞ」

「わかってるわよ。だから笑ったんだもの。確かに、できないことじゃないわ。まあ、やるなら部じゃなくて、同好会だと思うけど」

「どっちでもいいさ。それはどうやったらできるんだ?」

「同好会の発足は、三人の署名で学校に申請できる」

「よし! じゃあ三人目は千種だな!」

「えー。あの子を入れるのー?」

 俺が千種の名前を出すと、鳴海は露骨に顔をしかめた。

「いいだろー。他にいないし。そんで、俺と鳴海と千種の三人で、またあの曲弾こう! 俺、あの曲すっごく好きだからさ。簡単なパートだけじゃなくて、全部ちゃんと弾けるようになりたいんだ! 教えてくれよ」

「えー。一華を誘うなら、あの子に教えてもらえばいいじゃないの」

「あいつの教え方はわかんねーんだよ。言葉通じなくて」

 俺はこれまで、千種と鳴海の両方に一回ずつギターの指導を受けてきた。そのときの記憶を比べても、こればっかりはどちらが良いかなんて比べるまでもない。千種の擬音語オンパレードはもう勘弁だ。

「あら、あなたと一華ってちょっと似てるところがあるから、案外いけるのかと思っていたけれど」

「あんなもんわかるかよ。つか、鳴海も言ってただろ? いきなりあいつの真似するよりも、基礎が大事だって。千種には悪いけど、教えてもらうなら鳴海の方が断然いい」

「へぇ。そっかそっか。私の方がいいか。まあ、そう言われちゃあ、断れないわね」

 鳴海は芝居がかった仕草で手を頬に当てながら、にやついた視線を俺に向ける。そして「でも優しくはできないわよ」といらずらっぽく付け足した。

 大丈夫。鳴海に優しく教えてもらおうなんて考えていない。この際スパルタは覚悟の上だ。むしろ、お礼だからっていきなり優しく教えられても、不気味に思えて仕方がない。

 俺の中の彼女の印象は、もはや教室で見ていた外面のそれではなく、彼女の言うところの本性にすっかり置き換わっていた。律儀で真面目で荒々しくて性悪で、しっかりと芯があって、その実面倒見の良い、本当の鳴海に。

 そうやってめでたく約束が成立すると、今度は彼女が椅子から立ち上がって、伸びながら言った。

「そういえば、曲の話で思い出したんだけど、いつまでもあの曲って呼ぶのも、少し不便よね。せっかく歌詞を付けたんだから、ちゃんとタイトルも付けることにしましょうよ」

「あー、まあ、確かに。曲名はあった方がいいんだろうな。つっても、そんなにいきなりは……」

「考えていたのがあるの」

 彼女は室内を歩き、手際よく紙と鉛筆を見つけ出して何かを書く。すぐにそれを、俺へと渡した。

 目の前に示されたのはアルファベットだった。ただ短く一言

『cielo』

 とある。

 俺は見たままを読み上げる。

「しえ、ろ……?」

「そう」

「知らない英語だ。意味は?」

「英語じゃないわよ。意味は……せっかくだから、あとで自分で調べたら?」

「んだよー。教えてくれないのかよ」

 彼女はまた、ほのかにいたずらな笑みを浮かべていた。さっきと同じにやついた顔で、隣の椅子にまた戻ってくる。くぅ……たぶんこいつ、夏休みの宿題とか見せてくれないタイプだぞ。うん。

 あとから辞書でも引けばわかるのだろうが、しかし、もったいつけられると、それはそれで余計に気になってしまうもの。俺はその場でポケットの携帯を取り出した。

「あーあ。そうやってすぐネットで調べちゃうんだ。やーねぇ、これだから現代っ子は」

「お前も現代っ子だろ!」

 鳴海の書いたタイトルをキーワードに入力して検索する。数秒で結果が表示され、その意味を見ようとした。

 準備室の扉が思いっ切り開かれたのは、まさにそのときだった。

 驚いて、俺は思わず画面から目を離す。

「玲~奈~!」

 静かだった準備室に突然、甘えた声が響き渡った。声の主は、明らかに千種だ。

「え、ちょっと一華! あんた、何でここが!?」

 鳴海は椅子から立ち上がって飛び退き「うげっ」と言わんばかりの顔をしている。

「先生の話、やっと終わった~! 私だけすっごく長かったよぉー! 慰めて~」

「そんなの知らないわよ! やだこっち来ないで!」

「玲奈~」

「ああもう! ひっつかないで! 離れて!」

 千種は室内に乱入するなり一も二もなく鳴海に駆け寄り、その胸に頭から飛び込んだ。広げた両手で鳴海に抱きつくと、余すところなく身体を密着させてじゃれついている。傍にいた俺に気づいていないはずはないが、まるで鳴海以外は目に映っていないかのようだ。

「……お前ら、相変わらず仲良いな」

 俺が呆れた半眼でそう零すと、千種に抱きつかれてバランスを崩し、椅子にもたれかかった鳴海が抗議をする。

「これのどこが仲良さそうに見えるのよ! 私は全力で嫌がってるでしょ! 大江君も、ぼーっと見てないで、この子止めてよ!」

「いや……でもな、そこに俺が立ち入るのは、ちょっと……。鳴海も少しくらい構ってやればいいじゃないか。女子ってよくそうやってじゃれ合ったりしてるし、普通だろ?」

「普通!? これが!? 他の子たちのコミュニケーションと一緒にしないでよ! ほら見てこの子の目! 本気過ぎるわ! 嫌よ私、ノーマルだもの!」

 確かによく見れば、いや、よく見なくても千種の愛情表現は度を超えている。鳴海を見つめる瞳は、やはりそれ以外を映す気などないらしく、惚れ薬でも飲んでいるのかと思うくらいの傾倒具合だ。

 しかしだからと言って、俺はこんなものの仲裁などしたくない。ここまで露骨にいちゃつかれたら見ている方も恥ずかしいし、そういうわけで、俺は早々に退室を試みる。

「……ま、ごゆっくり」

 けれど、ちょうど回れ右をしたところで、不意に制服の裾を捕まれた。

「止めてって、言ってるでしょ!」

 今にも椅子から転げ落ちそうな鳴海が、その手で俺を引き留めたのだ。

 無論、そんなことをすればどうなるか。

 俺は危うく転びそうになり、かと思えば、鳴海が倒れ込んできたので結局転んで床に伏し、その拍子に俺は手に持った携帯を床に落とした。

 さらに上から千種まで乗っかってくる。

「いってーなおい! 重いぞ! どいてくれ!」

 俺が言うと、すかさず鳴海が文句を重ねる。

「失礼ね! 私はそんなに重くないわよ!」

 千種は相も変わらず鳴海にじゃれつく。

「ねぇ~玲奈~」

 収拾がつかない。

 西日の射し込む茜色の部屋の中、盛大に埃が辺りに舞って、俺たち三人が床に倒れ、もつれている。

 ああ、いったい、何をやっているんだろう。

 そんな光景は、これから俺たちが過ごすであろう三年間の高校生活を彷彿とさせた。

 思わず小さな溜息が出る。

 きっとそれは、可笑しくて馬鹿馬鹿しくてハチャメチャで賑やかな、とてもとてもはた迷惑な毎日なのだろう。何だか容易に想像ができてしまう。

 ただ不思議と、本当に不思議と、悪い気はしなかった。

 倒れたままで首を持ち上げると、目の前には落とした俺の携帯があった。画面が上向きになって光っている。そしてそこには、さっき俺が知ろうとしていた曲名の意味が、大きく映し出されていた。

 鳴海の名付けたあの曲の名前と、その言葉の持つ意味が――。

 未だに俺の身体の上では、千種と鳴海がじゃれ合っている。

 早くどけよと思いつつ、俺は鳴海の付けた曲名の意味を知ったとき、ハッとして小さな笑みを浮かべるのだった。


 cielo。どうやらそれは、遠い遠い異国の言葉で『空』という意味を持つらしい。

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トライアングル・セッション! りずべす @Lizbeth

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