第七章 夢の音色


「学校祭でライブをやろう!」

 めでたく鳴海が仲間に加わり、万事解決したところで、俺は鳴海と千種に向かって高らかに告げた。

 翌週の月曜日の昼休み。教室とは別棟の、人気のない廊下でのことだった。作戦会議という名目で三人が集まっている。

「無理」

 しかし、即座に返った答えは短く一言。ピシャリと放った鳴海の言葉だった。

 ちなみに、千種はとても幸せそうに、鳴海の腕に絡みついてべったりしている。仲直りができて嬉しいのだろう。もはや俺の話など聞いていない。鳴海は鬱陶しそうに身体を若干離している。

「な、何で」

「だって、もう審査の締め切り過ぎてるもの。あなたと一華が学校をバックレている間に済んじゃったのよ」

「バッ……いや、そこを何とか! 鳴海って学校祭実行委員なんだろ? 頼むよ!」

「……呆れた。クラスの出し物もろくに知らないくせに、そう言うことだけは知ってるのね」

 鳴海は溜息をついて肩をすくめた。

 俺はその目の前で、両手を合わせて頼み込む。

「な? いいだろ? な?」

「無理よ。私に決定権があるわけじゃないんだから。それに、ただでさえ倍率高くて、出られない人もたくさんいるのよ。今更どう考えたって許可は下りないわ」

「くぅ……でもこっちには、稀代の天才美少女ギタリスト唯花が……」

「そういう問題じゃないのよ」

「くぅ……」

 今回は諦めて。ギターならまた今度付き合うから。鳴海はそうやって、まるで諭すように曖昧な笑みで俺に告げる。

「あっ! じゃあ、ゲリラライブとか!」

 しかし懲りずに俺がそんな提案をすると、途端に鳴海は顔をしかめた。

「あのねぇ……入学早々の学校祭で、そんな奇行ができるわけないでしょ。あなた頭大丈夫?」

 くぅ……まるで俺の頭がおかしいみたいな言い方しやがって。なんて言い草だ。

 いや、ちょっと待て。そもそもだ。そもそも……。

「つーかお前、ちょっと前までそんな性格じゃなかったじゃないか! 何なんだよいったい!」

 そう、まったくだ。彼女の豹変はあまりに著しい。おかしいと言えばそっちの方が十分おかしい。

「あら、そう? じゃあ少し前までの私は、あなたにはどんな風に見えていたの?」

「どんなって……もっと、こう……お淑やかで穏やかで、声かけると花が咲くみたいな明るい笑顔が……」

 俺が答えると、彼女はスッと目線を逸らし、一瞬だけ間を置いてから

「こんな感じかしら?」

 と、まるで別人のように華やかな笑顔を浮かべて見せた。ニコリと振り向いた拍子に、しなやかな黒い髪がサラリと揺れる。

「そう! そうだよそれ!」

 けれど彼女はすぐに元に戻ってしまう。

「大江君さ、いい? ちょっとよく考えて? 賢くて美人で礼儀正しくて、しかもその上性格まで良いだなんて……そんな天使みたいな女の子が現実世界にいると思う? 空想の産物もいいとこよ」

「お、おま……」

 その言い方だと賢いとか美人とかのあたりは自覚があるのか。なんてやつだ。

「だいたい、あなたこそよく『花が咲くみたいな』とか素で言えるわよね。私からしたらそっちの方が驚きだわ。恥ずかしすぎて鳥肌立つ。幻滅させて悪いけれど、この性格は前からなの。もうあなたには本性ばらしちゃったし、これ以上取り繕っても意味ないものね」

 ……あまりにしたたか。そして屈折しすぎている。いや、もう端的に言って性格悪い。悪女だ。悪女がここにいるぞ。

「んだよー……一緒に弾いてくれるって言ったのにー。この前はあんなに素直な涙流してさー」

「ちょっと。その話は今は関係……」

「なくはねーだろ。むしろ大ありだ」

「……た、確かに、なくはないけど……あんまり思い出させないでくれるかしら」

 ただ、そんな鳴海も普通に恥ずかしがることはあるようだ。先日の屋上でのことを引き合いに出すと、頬を少し染め、ばつが悪そうに顔を背ける。うーん、確かに自分で美人と言うだけはある。中身を知ってなお、その外見と仕草には油断ならない。

「おーい……まさか一緒に弾くって話まで思い出させんなとか言わないよな? 今度っていつだよー」

「別に、私だって有耶無耶にしようなんて思ってないわよ。あなたには少なからず感謝しているのも事実だし……でも、いくら何でもゲリラライブなんて……」

「そんなに駄目か? 学校祭だろ? 少しくらい羽目外したって」

「あなたの提案は羽目じゃなくて頭のネジが外れてんのよ」

「な、なんだと!」

「皆が皆、あなたみたいに無茶苦茶じゃない。羽目外すにしたって限度ってものがあるの」

 もはや言いたい放題だな……罵詈雑言にも限度はあると思うのだが。

「それに、もし仮にそんなことやるにしたって、私だけに聞いても駄目なんじゃないの? 一華には聞いたの? そもそも一華って、あんまり目立つの好きじゃないし、了承するとは思えないのだけど」

 鳴海のその言葉に、自然と俺の視線は千種へ移る。

「千種、いいよな?」

 鳴海もつられて千種を見つめ、二人して答えを待つ形になった。

 千種はおずおずと口を開く。

「……わ、私は、玲奈と一緒に弾けるなら……やる」

 瞬間、思わず俺はガッツポーズ。

 鳴海は片手で顔を覆って深々と溜息をついていた。

「ほら、これで二対一だぜ!」

「……一華あなた、随分と大江君に飼い慣らされたのね……」

「そ、そんなんじゃないよ! 私は、玲奈と一緒に弾きたくて、それで……玲奈が昔言ってたみたいに、私たちのギターを色んな人に聴いてほしいって、そう思って」

「あー! わかったわかったから! あんまり昔のことは言わないで」

「本当だよ! 私は別に、玲奈より大江をとったわけじゃなくて、私はいつだって玲奈のことが好」

「ほんとにわかったから! お願いだから一華、ちょっと黙って! あと離れて!」

 千種は鳴海を押し倒さんばかりの勢いで、内に秘めた想いを主張した。事実、千種は鳴海とギターを弾くことだけを考えてそう訴えたのだろうが、しかしこの場合、結果的には俺の味方のようなものだった。ナイスだ千種!

 鳴海は迫ってくる千種を力ずくで押し退け、いささか度を超えた発言をしかねないその口を塞ぎながら、一方でげんなりとこめかみを押さえる。

「……ああ、もう、どうにでもなればいいわ……」

 鳴海の呟きを聞いて、俺は再度、拳を握ってガッツポーズ。なし崩し的ではあるが、どうやら彼女は俺の提案を受け入れてくれたらしい。

 すると、今度はヤケになったように鳴海は強く言った。

「もうっ! わかったわよ! やってやろうじゃない! ただし、それならそれで、私からも条件があるわ!」

 腕に絡みつく千種を吹っ切れたようにぶんっと振り払って俺を見る。

「やるからには本気でやる! ちゃんと練習もする。でも、前みたいに学校のことを放り出すとかは認めない! ちゃんと毎日学校に来て、やるべきことはしっかりやりなさい!」

「お、おう」

「遅刻も駄目よ! 授業で寝るのも不可! 学校祭でやるクラスの出し物にもちゃんと参加して、身の回りには何一つ、落ち度のない生活をすること!」

「お……おぉお、おう」

 なるほど。何とも鳴海らしい要求だ。律儀で真面目なのは根っからの性格らしい。

「今から学園祭まで約二週間。あなたにそれができなければ、ライブの話はなかったことにしてもらう。練習もそれ以外のことも、一生懸命、本気でやるのよ! いいわね!」

「お、おう。わかった! まかせろ! 俺の本気を舐めるな!」

 一昔前の、サッカーを中心としていた俺の生活。その中心が、今度はギターになるだけだ。そういう生活は慣れているつもりだった。

 そして俺が意気込んで返事をすると、最後に鳴海はまた告げる。さらりと短く、端的に。

 驚いたことに、それは俺の予想を遙かに越える要求だった。

「それとあなた、歌いなさい!」

 歌詞を書けと、鳴海は言った。

 宣言通り、やるからには彼女は本気だ。ゆえにこの言葉も、紛うことなき本気なのだろう。

 三人でギターを弾くにあたり、主に時間と俺の技術的な問題から、学校祭で演奏するのは一曲だけということになった。やるのは当然、俺が以前に屋上で鳴海に向かって弾いた、彼女たちの最も大切とする曲だ。

 ただ聞くところによると、あの曲には歌詞がないらしい。そして題名もない。鳴海曰く、俺がそれを考えて歌えということらしかった。

 なぜ鳴海がこんなことを言ったのか、理由は様々あるのだろうが、一番の理由はこうである。

「三人でやるなら、一華と私がリードとリズムを担当するわ。あんな演奏じゃあ、とても人には聴かせられないからね。その代わり、あなたにはアレンジで簡単な譜面を用意してあげる。手が楽になるんだから、ボーカルくらいやりなさいよ」

 つまり、技術的な負担を軽くしてやる代わりに頭捻って歌詞を作れと、そういうことだ。

 そうして話がまとまったその日から、学校祭へ向けて、俺たちの活動が始まった。

 勢いで俺の本気を舐めるなと豪語し、実際、何かのために一途に取り組む生活というものに俺はそれなりの自信を持っていたが、ところがどっこい、鳴海の本気もかなりのものだった。

 朝は早く登校して学校の音楽準備室で練習。放課後は千種の家を貸してもらってまた練習。初日から一秒も無駄にしない完璧なスケジュール。

 鳴海は真面目にギターを弾くのは久し振りだと言っていたものの、その割にほとんどブランクは感じさせず、俺の練習にとても熱心に付き合ってくれた。……が、しかし、彼女の指導は、何というか、千種とは比べものにならない厳しさだった。

「はぁ? 一華の真似をする練習?」

 学校を終えて千種の家に集まったとき、先週までの練習内容について鳴海に話したら、思いの外に驚かれた。いや、驚いたというか、むしろ呆れているみたいだった。

「あのね、素人が一華の真似なんて、とてもじゃないけどできるわけないじゃない」

「でも千種が真似しろって言ったんだよ。それに、上手いやつの真似をするのは上達の早道だろ?」

 サッカーのようなスポーツ全般では、よくそういう話をよく耳にする。偉い人曰く、技とは盗むものだ。俺もまったくその通りだと思う。

「……もしかして大江君って、試合とか練習でちょっと上手いプレイや珍しい技を見かけると『お、あれいいな!』とか思って真似するタイプ」

「そうそう、それ!」

 だが、そこで鳴海はまた大きな溜息をつくのだ。もはや何度目の溜息だろうか。彼女の幸せはもう残り少ないかもしれない。

「それで問題なくテクニックを身につけてトッププレイヤーやってたあたり、なんか本当……あなたも大概、サッカーでは稀有な資質を持っていたのね」

「な、何だよそれ。どういう意味だよ」

「そのままの意味よ。私、才能とかセンスって嫌いなのよね。ムカつくから」

「……見も蓋もないことを言うやつだな……」

 さらっと当然のように言うところがまた、まったく悪びれた様子もなくていっそ清々しい。

「見ただけですんなり技術を吸収できる人間って、あなたが思っているほど多くないのよ。ギターにおいて一華は特別だと思った方がいい。あなたに一華のような才能があるかどうかはわからないけれど、少なくとも今から二週間、私が教える間は基礎基本を大事にするし、地味な反復練習もたくさんする。文句があるなら素人の域を脱したあとに聞いてあげるわ」

「お……おう」

 特別とか才能とか、正直なところ、俺にはよくわからない。でも、まあ、鳴海の言うことは正しいように思えた。基礎は大切だし、たぶん千種に教わるよりは幾分マシだ。

「えっと、だからつまり一からじゃなくて、もうゼロからのスタートなのね」

「お、おす! よろしくお願いします! 師匠!」

「私、そういう暑苦しいのも嫌いなの。是非やめてね。はいこれ、チューナー」

 俺の気合いをぞんざいに一蹴しつつ、鳴海は小さなラジオみたいなのを手渡してきた。

「チューナー?」

「そう。どうせその様子だと、チューニングも一華の真似したんでしょう? だから前に弾いてたとき、変に音がズレてたのよね。何も使わずにチューニングなんて、いきなりできることじゃないもの。でも、ギターを弾くならチューニングって大事だから、ちゃんとこれ使って、自分でできるようになって」

 こうして、鳴海に学ぶギター講座は、演奏以前の基礎の基礎から始まった。

 まずは音階、ドレミファソラシドを弾いてみる。さらに、正しいフォームを意識しつつ、ネックの握り方、ストロークのやり方といったところから綺麗に矯正。それから、より正確に粗のない動きを掴むための、いくつかの反復練習。これをメカニカルトレーニングと言うらしい。しっかりとメトロノームを使ってリズムを取り、音やタイミングを身体で覚えることが必要なのだとか。鳴海はまさに言葉通り、手取り足取り教えてくれた。

 時折、俺が質問すると、ちゃんとわかりやすいように答えてくれる。それが真面目な質問であればあるほど、彼女は思案し、俺に伝わりやすいように言葉を選んでくれるのだ。比べてしまっては悪いけれど、千種の擬音語オンパレードよりも格段にわかりやすい。鳴海は人に教えるのがとても上手だと、素直に感じた。

 初日の練習を終えたのは午後八時だった。

 帰り際、鳴海は自宅からいくつか書籍を持ってきて、俺に渡す。彼女の家は千種の家のお隣さんらしかった。

 貸し与えられたのはギターの教本だ。

『ギターの初歩! これだけは知っておきたいこと』

『コード理論』

『死に物狂いで弾くアコースティック・ギター』

 ……最後のはどんなタイトルだよ。

「難しかったら無理に全部読む必要はないわ。軽く目を通すだけでいい。もし私の教えたことでわかりにくいものがあったら、違った説明が載っているかもしれないから、そういう点を参考にしてみるといいわ。あなたの一番飲み込みやすい形で自分の中に落とし込んで。あと、コードの話は理解できるのならそれに越したことはないわね。知っておいて損はないことだから」

 そして、本の次にはギターケースを渡される。中にはブラウンのアコースティックギターが入っていた。

「これは?」

「父のギターよ。あなたに貸すわ。一華のギターは、あなたには小さいものね」

「ああ、なるほど」

 鳴海は案外、面倒見がいい。言葉や態度は正直アレだが、たった一日一緒に練習しただけで、実にそれがよくわかる。

 彼女がこれまで、本当に真摯に真剣に、そして自ら考えながらギターに携わってきたのだということ。熱意を持ってたゆまぬ努力を続けてきたのだということ。音楽が、ギターが好きなのだということ。

 俺はその気持ちから、まるで背中を押されるようして活力をもらった。

 それから二日して、鳴海は約束通り、俺のパートを仕上げてきてくれた。歌詞についての催促を受けつつ、さっそく曲の練習もメニューに追加する。

 朝練の集合時間は日に日に早くなり、帰宅は終電になることもあった。音は出せなくても、夜には夜の練習のやり方があるのだと、鳴海は言った。

「しっかし、そろそろコンビニの弁当も飽きてきたな……」

「文句言わないの。私や一華まで、あなたに合わせてあげてるのよ」

 夕飯は基本的に、出来合いのものを買って食べた。おかげで財布が泣いている。

「鳴海も変なところで律儀だよなあ。家が隣なら、戻って食べればいいのに」

「時間がもったいないじゃないの。今はただでさえ急いでるんだから、一秒でも多く練習するのよ」

 まあ……彼女の言わんとすることはわかる。ただ、そうやってコンビニの弁当をせかせかとかきこんでいる鳴海の姿は、学校にいるときの彼女からあまりにかけ離れ過ぎている。清楚な印象が台無しだ。

「今度から学校帰りにスーパーでも寄ってくるか……」

 ちなみに俺と鳴海が食事をとる間、千種はゼリーやケーキといったデザートばかり食べている。コンビニで買ったものを食べるという意味では俺に合わせているのかもしれないが、それはそれで不安になるものだ。まともな食事をとっているところを見たことがない。

「そうね。いちいち買い出しするのも効率悪いから、多めに買い込んでおいてくれるかしら。そろそろ一華にもスイーツばかり買うのはやめてもらわないと」

 鳴海が食べ終えた容器をビニール袋に詰め、ハンカチで口を拭いてギターに手を伸ばす。

「心配だからか?」

「それもあるけど、本音は別で……」

 すると、すかさず千種が鳴海に寄り添って

「はい玲奈、あーん」

 と、スプーンにとったプリンを鳴海の口の前に差し出した。

 鳴海はあからさまに嫌そうな表情で顔を遠ざけたあと、根負けしたようにそれを食べる。

「……何してんの? お前ら」

「一華的には『こうすれば練習しながら食べられていいでしょ』ってことよ。私、こういう甘いもの苦手だから、どうせ食べさせられるんなら別のものの方がいいわ」

「……そういう行為をすることに関しては、抵抗はないのか?」

「もう……しばらくは諦めるわ。大江君のおかげで仲直りする前は、結構本気で邪険にしてたし、その反動がきてるのよ。鬱陶しがるとこの子泣くし、学校ではじゃれついてこないでっていう言いつけは守ってくれてるみたいだから、こういうときくらい黙っていないと」

「へ、へぇ……そ、そうなのか……」

 もはや深くは問うまい。尋ねたところでろくな答えは返ってこないだろう。

 しかし諦めると言う割に、度が過ぎると鳴海も怒って

「あーもう! ウザい! 何回食べさせる気よ! いつまでも下らないことしてないで、さっさと一華も練習しなさい!」

 その言葉に千種はしゅんとし、仕方なく練習を再開する。

 いつの間にか、これは様式美のようにお決まりの展開になっていた。

「大江君もほら! いつまでたらたらやってんの!」

「頼むからキレたまんまでこっちに話すのやめてくれ……」

 そしてこの、お手本のような清々しいとばっちり。正直言って泣きたくなる。

 練習の時間帯が遅くなればなるほど、このパターンは頻繁だった。ぶっちゃけそろそろ慣れてもいいくらいに数も見飽きた光景だったが、怒る鳴海がなかなかに怖くて、そこだけがまだ順応できない。美人が怒るとマジこえぇ。

「今日のノルマまで、まだ出来てないんでしょう? 遅いわ! この調子だと家に帰れないわよ!」

 それと、曲の練習を始めてから、鳴海は俺に、日毎のノルマを課すようになった。曲全体をいくつかのセクションに分割して、学園祭本番までに計画的に修得していくよう指示したのだ。実に鳴海らしい生真面目なスタイルである。

「やっべ、もうこんな時間かよ」

 俺は部屋の時計を見て驚く。

「そうよ。だから、ほら、早く練習!」

「待て、もう次の電車が終電だ! さすがにやべぇ!」

「何言ってるのよ! まだ今日の合格ラインには達してないわよ!」

「いや、でもな! 本当に帰れなくなっちまう! 明日も学校だぞ!」

「いいじゃないの! 帰れなくなったらここからそのまま行けばいいわ! 朝まで練習時間が増えて一石二鳥よ!」

「鬼かよ! 寝ないつもりかよ!」

「寝せるわけないでしょう! とことんやるのよ!」

 ……まさか異性からこんな言葉をもらっておきながら、微塵もいい気分にならないとは……現実ってそうそう甘くない。

「待て……頼むから待て。まだだ……まだ徹夜は早い……こんな段階から徹夜してたら死んでしまう」

「上等よ! 死ぬ気で弾くんでしょう? 死んでも弾きなさい!」

「んな無茶な……」

 結局、その日はどうにか鳴海をなだめて家に帰った。自宅で練習して、何とかできるようにしておくからと必死に訴え、眠気でフラフラしている千種を味方に巻き込んで説き伏せた。

 確かに予定よりは少しばかり遅れているが、それでも概ね順調だ。学園祭まではまだ一週間以上もある。こんな段階から徹夜でスパートしたって、当日までに倒れるのがオチである。

 たぶん時間が遅いこともあって、鳴海のテンションがおかしな方向へ高ぶっていたのだろう。深夜テンションって恐ろしい。俺はそれを、このときしみじみ痛感した。

 はてさて、そんなこんなで朝も夜も充実した練習の日々。当然、皺寄せの及ぶ先は昼間である。眠いわ気が散るわでどうしようもない。いやもう、ほんとに。

 ただ、学校生活の方も疎かにしないというのが鳴海との約束だ。俺は鳴海と同じクラスゆえ、授業で寝ようものなら一発でバレてしまう。遠く離れたクラスの千種は確実に爆睡だろうが……ちくしょう千種のやつ、今すぐ叩き起こしに行ってやりたい。この苦行に耐えるには道連れが必要だ。

 だがそんなことができるはずもなく、授業で睡魔に屈しそうになるたび、俺は曲の歌詞を考える作業に没頭した。

 ノートの隅に使えそうな単語やフレーズを書き込んでみる。作詞なんてやったことないので完全に我流でしかないが、こうなったらもう見よう見まね、破れかぶれだ。

 そしてある日の休み時間、出来上がった歌詞を記したノートを持って、鳴海の席の前に立つ。

「……あら、大江君。どうしたの?」

 ふわりと優しい声に笑顔。寸分の狂いのない外面の鳴海。しかし彼女の本性を知ったからだろう、俺はその裏に微妙な空気を感じ取ってしまう。まあ、彼女からしたら、教室で俺に話しかけてほしくはないのかもしれない。

「できた」

「……今、書き上げたの?」

 俺は頷く。授業の間に書いていたことは秘密だ。

 しかし鳴海は差し出されたノートをしばらく見つめ、中身も見ずにニコリと言った。

「真夜中のラブレターね」

「…え?」

「少し時間をおいて、見直すことをおすすめするわ」

 すぐに席を立ってどこかへ行ってしまう。

 な……なんだ? 今なんて言った? つーか、確かめもせずに再提出を命じられたぞ。透視したのか? いや、バカにしてんのか?

 俺は即座に肩でもつかんで、文句の一つや二つ、くれてやろうかと思った。

 けれども、実際にそうしようとしたときには彼女の姿をもうなくて、結局、放課後までノートを見せる機会は訪れなかった。

 ただ結論から言えば、それは俺にとってありがたいことだった。

 渋々ながら彼女の指示通りに歌詞を見直すと、まあひどい。眠気と勢いで突っ走ったためか、一度冷静になると、我ながらなんと恥ずかしい歌詞を書き上げたものだろうと血の気が引いた。

 なるほど……真夜中のラブレターってこういうことか。鳴海に見られる前でよかった。

 とりあえず無言で家に持ち帰り、羞恥心から机に頭突きをすること十三回。約三日を経てもう一度、直した歌詞を鳴海に見せる。学校だとまた嫌な視線をもらいそうなので、放課後に千種の家に集まってから。

「鳴海、これ」

「あら、見てもいいの?」

 俺は頷く。

「本当に? きちんと見直した? 納得できるまで推敲した?」

「おう」

 大丈夫。しっかりと時間をかけて書いた歌詞だ。冷静な俺の太鼓判付き。

「じゃあ、そうね……心に消えない傷を負ったりしない?」

「それはどういう質問だよ!」

「どうって……さあ、どうかしらね?」

 澄まして笑うと、ついに鳴海は俺の手からノートを受け取った。

 一読して、すかさず千種に声をかける。

「一華、ちょっと。これ、どう思う?」

 呼ばれると千種は、可愛らしくパタパタと歩いてきてノートを覗いた。

「んー……ここ、もう少し」

「うん、そうね。そこはもう少しテンポよくしたいわね」

「あと、ここも……」

 何やらペンを持って、二人して上から書き込んでいる。

「お、おい……」

 そうしてしばらくの間、話しかけてもうんともすんとも返ってこない。かなり盛大に無視された挙げ句、やがて

「はい。これで歌って」

 鳴海にノートを突っ返させれた。パラパラとページをめくる。

「って、おい! めちゃめちゃ変わってるじゃねぇか! 原形留めてねーぞ!」

「そんなことないわよ。全体のテーマは変えてないもの。ねぇ、一華?」

「うん」

 テーマだぁ? 何だいそりゃ。

 修正ばかりが入った紙面を見ながら、俺はどうにも腑に落ちない気持ちを抱く。

「……おい……これ、本当に俺が歌うのか?」

「何よ」

「いや、なんつーか、すっげー格好つけた歌詞になってるなって思って」

「歌詞なんてそんなものよ。ちょっと臭いくらいがちょうどいいの」

「そんなもんかぁ?」

 けどそれにしたってこれは……。

「そんなものよ。ていうか、むしろ大江君のは単調過ぎたわ。もう少し言葉遣いを何とかしてほしかった」

 それを聞いて千種まで乗っかる。

「そうそう。大江、ボキャ貧だよ。ボキャ貧」

「るっせぇなお前にだけは言われたくねーよ!」

 俺が反論すると、千種は鳴海の背に隠れて威嚇してきた。

「私は違うよ。私は大江よりも全然ボキャ豊だもん! ねぇ、玲奈?」

 ボキャ豊って何だ、ボキャ豊って。語呂悪ぃよ。

 千種に同意を求められた鳴海は華麗にそれをスルーしつつ、呆れたようにして俺に言う。

「だいたいね、大江君。あなたこの前、同じくらい臭いこと、学校の屋上から私に向かって叫んだのよ? それも、ものすっごい大声で」

「お、おぉ……」

 まあ確かに……それを言われると返す言葉はない。

「もう一回やっちゃったんだから、二回も三回も変わらないわよ。だからそれで歌って」

 結局、二対一の多数決で押し切られた。三人での多数決って、思えばかなり暴力的だ。

 そうして貴重な一日一日が少しずつ消化され、本番の日が近づいてきた。

 我が校の学校祭は三日間のスケジュールで行われる。計画実行は最終日だ。開催中、出席は取られないが、しかしクラスの出し物があるので初日と二日目を休むわけにもいかない。

 だからというわけではないが、いよいよ前日の練習は徹夜という名の最終手段を発動した。何となく予感はしていたけれど、詰め込みすぎて終電を逃した瞬間、案外と俺の脳はすんなりと寝ることを放棄したのだった。

 鳴海の指導のおかげで、それなりに弾けるようにはなっていた。でもまあ、駄目押しのラストスパートと思っておこう。

 やがて迎えた学校祭三日目の翌朝、午前五時。微妙に冴えない曇り空へと朝の太陽が顔を出し、滲む光が拭えぬ身体の疲労を照らす。隣の千種はもう既にフラフラ。このまま床に突っ伏したら、いったいどれだけ幸せだろうか。

「さて。ちょっと早いけど、私はそろそろ学校に行くから。あとよろしく」

 朦朧とする頭を抱えて床に手をつく俺の頭上から、鳴海の冷静な声が聞こえた。

「あなたと一華は、仮眠をとってから来るといいわ」

「お前……学校って……今からか?」

「そりゃそうよ。実行委員の仕事があるもの」

「……マジかよ」

「マジよ。一華の携帯が時間になったら鳴るようにしておくから、昼過ぎには学校に来て、私の携帯に連絡を頂戴。くれぐれも寝過ごしたりしないようにね」

 鳴海は俺の傍にタイマーを設定したらしき携帯を置いた。そしてちゃきちゃきと身だしなみを整え、最後に胸元のリボンをきゅっと締めて深呼吸をする。

「よし。じゃあ、学校でね」

 鳴海が扉を閉めると同時に、俺は床にバタンと倒れた。

「なあ、千種……鳴海って……」

「んー……」

「すげぇっつーか……何者だよ……」

「んー……」

 もはや千種はほとんど意識を保っていない。無軌道に頭を揺らし、やがて俺に重なるようにして倒れ込んでくる。

 彼女の頭が、ぴったり俺の腰を打ちすえる。

「ぐえ」

「んー……」

 俺たちは揃って呆気なく眠りに落ちた。



 目覚めると、いつの間にか外には雨が降っていた。

 何となしに寝ぼけ眼を時計に向け、そして、俺は思わず飛び上がる。

「うおっ!」

 示されていた時刻は午後三時。とても昼過ぎとは言い難い時刻だった。

「やべぇ! おい千種! 学校行くぞ!」

「んー……」

 俺は信じられないほど寝起きの悪い千種を何とか起こし、ボサボサの髪やクタクタの制服を可能な限り整えてやって、彼女の手を引き急いで学校まで向かった。

 千種の家からは遠く離れた俺たちの学校。四十分ほどかけて到着し、すぐに鳴海の携帯に連絡する。

『ちょっと大江君! あなた、今何時だと思ってるの!』

「わりぃ! じゃなくて、ほんとごめんなさい!」

『まあいいわ! さっさと一華連れて屋上に来なさい!』

「え? 屋上? 何で?」

『いいから早く!』

 彼女は短く文句と用件だけを告げると、そのまま電話を切ってしまった。

 何やらよくわからなかったが、俺は言われた通りに屋上へと出向く。

 すると、広い空間のど真ん中に鳴海がいた。降りしきる雨の中、赤い大きな傘を差して立っている。俺の開いた扉の音に気づいたのか、その場でくるりと振り向いた。

「ほんと、遅すぎよ。おかげで準備万端だわ」

 彼女の周りにはいくつもの傘があった。大きいもの、小さいもの。黒、青、白、オレンジ、ピンク。花柄、チェック、果てはビニールのものまで。それら全てが、開いた状態で地面に蒔いたように置かれていた。そしてその下には、黒いコードや筐体が見える。

「な……なんだ、これ?」

「アンプよ。ギターとマイクの。ここの真下って放送室なのよ。窓からコード延ばして電源引いて、校内放送に繋いである。スイッチを入れれば流せるわ。傘はクラスの人とか、知り合いに借りた」

 鳴海は澄ました顔で答えつつ、手元で鍵をくるくると弄んでいた。おそらく放送室のものだろう。

「時間も時間だし、こんな天候だからか、みんな体育館のステージに釘付け。おかげで色々やり易かったわ。本当はあなたにも手伝ってほしかったけどね」

 奇怪な光景。見渡す限りの傘の花。でも、すぐに理解する。

 これは、どう見たってライブの準備だ。

「まさか……ここでやるのか?」

「あら、違うの? てっきり私は、ここでやるのだと思っていたけれど」

 いや、正直、今の今まで場所のことなんて考えていなかった。

 鳴海は続ける。

「実際、やるならここが一番適した場所よ。体育館はそもそも学校祭のステージになってるから、私たちが使うことはできないし、運動場は模擬店でひしめき合ってるもの。だからと言って、狭っ苦しい空き教室でやるなんて御免だし」

 俺は唖然として、返す言葉が見つからない。

「でも、そういう理由がなくったって、私はここでやる以外にはないと思ってたけどね。だってあなた、言ったじゃない。ここから新しい夢を追うって。これは、その第一歩なんでしょう?」

 鳴海の目は、まっすぐに俺を見ていた。そして次の瞬間、不適な笑みでニヤリと告げる。

「まあ、私は別に、中止にしたって構わないけれど。生憎と、ほら、雨も降ってるし……ねぇ?」

 しかしその笑みからは、言葉通り中止にしようなんて意図は、微塵も感じられなかった。彼女はその口と表情で、まったく反対のことを語っている。きっと彼女の真意は、こうだ。

 まさか今更、やめるなんて言わないわよね?

 隣の千種も、同じように感じたのだろう。既に背負ったギターを下ろし、ごそごそとケースから取り出している。

そのとき、俺は思わず心が躍った。顔がにやけるのが我慢できない。震える声を抑えながら、ようやく鳴海に、力強く答えを返した。

「やるよ。もちろんやるさ!」

 俺も背負ったギターを取り出す。

 鳴海曰く、これはゲリラライブ、ではないとのことだった。

 学校祭の三日目は、ステージ兼閉会式を経て本来は三時半に終わる予定で、四時から片づけの時間になっていたらしい。間の三十分はバッファーだ。どうせ押し気味のスケジュールになるだろうからという、要は調整時間といったところ。実際、今日の予定は二十分押していて、三時五十分に終了、四時から片づけに変更されているのだとか。

 俺たちが演奏を目論んでいるのは、その十分の間だった。

「つまり私たちは、何も学校祭のスケジュールに割り込んで、ゲリラライブをやるってわけじゃないのよ。閉会式後の余剰時間に、盛り上がった学校祭の熱気に当てられて、ちょっとギターの演奏をするだけ。それだけよ」

 だから悪いことをするわけじゃあないわ、と鳴海は言う。

 それを聞いて、俺はある意味呆れた。

「お前……それ完全に悪党の理論じゃねぇかよ」

「正しいことを言ったまでよ」

 正しくない。

 いきなり何を言い出すのかと思えば、随分と言い訳じみた論理である。自分の荷担している悪事に理屈で苦しい弁護を垂れているあたり、本当に律儀なんだなぁ、こいつ。そう思わされる。

「まあ……何でもいいけどさ。これがライブでも、そうじゃなくても」

「あら、そうなの。あれだけ言ってたんだから、こだわりでもあるのかと思ったけど」

「別に俺は、ライブをすることにこだわったんじゃないよ。三人で弾くことにこだわったんだ。大事なのは、俺たち三人が、ここで一緒に弾くことだろ」

「へぇ、いいこと言うじゃない」

「本当だぞ? たとえ上手くいかなくても、意味はある。価値はあるって思ってる」

 俺は、演奏直前のギターの微調整をしながら鳴海と話す。

 彼女の方はもう既に済ませてあるのだろう。両手の塞がった俺の頭上に、傘を差してくれている。

「そこは嘘でも、必ず上手くいくって、言ってほしいわね。ねぇ、一華?」

 鳴海が千種に声をかける。

 千種も早々と調整を終えたようで、気づくと傘を持ちながら突っ立って雨雲を見上げていた。そしてそのまま、ただ微笑む。

「うん。きっと、大丈夫だよ」

 俺は再び鳴海の顔を見る。すると、彼女も同じように微笑んでいた。

 心地良い時が刻一刻と進む。

 止まない雨。果てしない曇天。

 やがて屋上に、俺と鳴海と千種が立つ。ギターを構え、まるで合図のように三人で互いの顔を見る。

 時計の針が三時五十分を指し、そして、俺たちは一斉に手に持った傘を投げ捨てた。

 勢いよく弦を弾くと、校内に突然、何の前触れもなくギターの音色が響き渡った。音量調整はあらかじめ鳴海がしたのだろうが、随分と大きくて少し驚く。校内放送にしてはかなりのボリュームだ。

 でも、一つの動揺もなく、指先が自然と曲を奏でてくれた。

 出だしは軽快に駆け出すような早々としたリズム。何度も練習した最初のフレーズ。じめりとしけった空気の中、静寂を切って広がる音に乗り、揺れる身体が弦の間を、五線譜の上を走り出す。

 短いイントロを経て、俺の歌うべき一つ目の言葉が訪れた。

『さあ、夢の音色を奏でよう』

 校内に流れる自分の声。マイクに拾われ、曲と共鳴し、やがて天に吸い込まれてゆく。不思議な感覚だ。まるで声に自分の意識が乗っているかのように、視界が広がる。

 そして、歌い出したそのときだった。

 離れて見える体育館の扉が開き、中から生徒が溢れ出してくる。ステージと閉会式を終えた直後だからか、随分と騒がしい感じがした。鳴海の言い訳じゃないが、たぶん彼らも、祭りの熱気に当てられているのだろう。興奮冷めやらぬ、といった様子だ。

 俺はフェンスに近寄り、眼下の彼らに向かって叫ぶ。

『前へ前へ、憧れを胸にただ駆ける。遠い遠い空の彼方の君に惹かれて』

 放送からではない俺の地声が、いくらか届いたことだろう。生徒の塊の中で数人が上を見上げ、こちらに気づく。位置的に、鳴海や千種の存在に気づいた人もいるはずだ。

 体育館から校舎へ向かって、人の流れが加速する。雨は変わらず降っているが、我先にと屋根のない道を通ってくる生徒まで現れた。たちまち校舎の下は人間の波で埋め尽くされる。

 それを見て、俺はよりいっそう、弦を弾く手に力を込めた。

 これは、余剰時間のお遊び演奏。その表現はこれ以上にないほど的確で、過不足なく俺たちの行為を表している。

 別にそれでもいいのだと、俺は答えた。その言葉にまったくもって嘘はない。仮にこの演奏を、他の誰が聴いていなくても、確かに意味はあるのだから。揺るぎない価値があるのだから。

 俺たち三人がこの屋上でギターを弾くこと。千種と鳴海が手を取り合って、そして彼女らと一緒に俺が弾くこと。それが今、全てなのだという想いに偽りはない。

 だけど――。

 俺は忘れていた。

 俺と一緒に弾いている二人が誰なのか。彼女たちが誰なのか。彼女たちの弾くギターが、どんな力を持っているのか。

 彼女たちはその昔、毎夜あの駅前で、途方もなくたくさんの人々を魅了したのだ。あのストリートライブで、この曲で、どんな人の足をも止めて見せたのだ。

 俺もその一人だった。

 だからこそ俺は、二人の演奏を失いたくなかった。

 だからこそ俺は、もう一度二人の演奏を聴きたかった。

 だからこそ俺は、彼女たちに心から惹かれた。

 二人は俺に夢を見せた。サッカーという夢を失い、もはや何も持たなかった俺に、もう一度新しい夢を見せてくれた。

 そんなギターが、今、ここで流れている。誰も彼も、魅了されて、聴きたがって、押し寄せてきて当然なのだ。

『綺麗事ばかりじゃない世界。不条理ばかり溢れる世界。叶わない届かないたどり着けない。それでも……』

 全体として快活な曲調も、ここで少し勢いを潜める。それでも、それでも、と絞り出すように俺は歌う。

 ああ、それでも。

 忘れられない想いが、譲ることのできない想いが、確かにあって。だけど苦しみも悲しみも、憎しみだって、もちろんあるはずで。

 何かをひたすらに追い続けることはとても難しい。ときには道の途中で諦めてしまって、手をついて倒れ、立ち止まってしまうこともあるのだろう。

 それでも。

 俺は再び前へ進む。きっと何度だって、今度は彼女たちと一緒に進もう。そう決意して、だから歌う。

 やがて、背後から扉の開く音が大きく響いた。振り返ると、下に集まった生徒の一部がこの屋上にまでなだれ込んでいる。

 千種は驚きながらも嬉々としてギターを弾いている。

 鳴海はやれやれと呆れた様子で微笑みながら弾いている。

 俺も彼女たちも、押し寄せた生徒も雨に濡れて、しかし、熱気が雨雲を押し退けるように、気づけば雨足は弱まっていた。

 地上では生徒に紛れて、教師の姿も目に入った。険しい表情でこちらに向かって何かを告げている。しかし聞こえるはずはない。周りは音楽と生徒の歓声でいっぱいだ。おそらく俺たちを止めようとしているのだろうが、屋上まで埋め尽くされた人の波がそれを邪魔して通さない。

 一瞬のうちに屋上は生徒で溢れ返った。それぞれ思い思いに叫んだり飛び跳ねたり、燃え上がる炎のように収拾がつかなくなっていた。

 俺はそれに負けないよう、マイクに向かって声を張る。

『何十回何千回何万回。躓いて倒れて立ち止まっても、何度でも進み、輝く』

 演奏は終盤に差し掛かった。観客のムードも高まる一方だ。このまま最後まで弾ききれる。

 千種と鳴海も同じ想いを感じたのか、そのとき一瞬だけ目が合った。パラパラと降る雨水さえも一瞬で沸騰に導くように、三人で観客の興奮を引っ張っていく。

 たった数分の短い曲。気づけばもう、終わりはすぐそこまで迫っている。

 でも俺は、長い長い旅の果てを見るような気分だった。これ以上ない充足感に手が伸びるとともに、限界まで叫んだ喉が悲鳴を上げる。

 たどり着いたという感覚。まだ終わってほしくないという感覚。心にある全ての感覚を纏め上げ、余さず歌に込めて紡ぐ。

 この曲は、鳴海と千種の大切な曲だ。だから俺は、それに見合うような歌詞を与えたつもりだった。悩んで悩んで、もしかしたら生まれてこの方、こんなにも悩んだことはないのかもしれないと思うほどに、悩んでこの曲の歌詞を書いた。俺の思いつく限りの、彼女たちへの感謝の言葉。俺を救った曲の形。俺の憧れた彼女たちそのもの。

 その曲を締めくくる最後を、ついに叫ぶ。

『夢見た空を、君の手を引いて翔ける』

 止まない歓声。沸き立つ周りの生徒たち。演奏を終えて立ち尽くす三人と対称的に、いつまでも熱気は冷めていかない。

 あとはもう、なるようになればいいかな。

 そんな風に思ったとき、ふと雨が止んでいることに、俺は気づいた。

 緩慢な動作で天を見上げる。雲間から差し込む太陽の光。赤くなり始めた朱色の光が、俺と鳴海と千種を照らす。

 三人の長い影が、寄り添うように彼方まで延びている。俺はそれを、満たされた想いで眺めていた。

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