第六章 もう一度ここから……


 ギターを弾きたい。俺は、自分もギターを弾くべきだと思ったのだ。

 そして結論から言えば、千種は俺にギターを教えることを、渋々承諾してくれた。

 初めのうちは頼み込んでも

「嫌だよ。もう嫌だよ。私、人に教えるのとか絶対無理だし……下手にまた玲奈を誘いにいって、大嫌いって言われたくないもん」

 なんて具合でとりつく島もなかったが、鳴海はまだギターをやめていないはずだと何度も訴え頼み込むうち、千種が折れるのは比較的早かった。

「今度こそ上手くいく! そうしたらまた、鳴海とギターが弾けるんだ!」

 再三そう繰り返す俺の言葉に、半ば流されるようにして千種は頷いた。

 自分では嫌だと言っておきながら、もしかしたらというわずかな想いが捨てきれない。いつまでもその希望に縋ってしまうどうしようもない気持ちが、彼女からは見てとれる。この世の終わりのような絶望の表情の中に、鳴海の名を出すたびに混ざる頬の緩んだ淡い笑顔は、何とも絶妙な不気味さを孕んでいた。

 頭の中で鳴海と一緒の未来を想像して漏れ出る笑顔。

 千種が心の底から嬉しがっていることはわかるけれども、それを見るとなおのこと、こちらは彼女の甘さにつけ込んでいるという罪悪感を催してしまう。

 いや、実際にその通りなのだから言い訳などできはしないし、今更引き返すつもりだって別にないが……でも、やはり内心としては複雑だ。

 まるで千種は、何も知らない純真無垢な子供のよう。さらに言えば、鳴海という存在を盲信する子犬のようだ。

 聞けば千種は、学校を休んでいる間、ほとんど毎日、あの駅を訪れていたらしい。きっと鳴海との思い出に浸っていたのだろう。中には日に数時間もあの場所に立ち尽くしていたこともあったというが……駅前でそこまで直立待機って、どこぞの忠犬にでも張り合ったつもりか。

 ただやはり冷静に考えるなら、千種は俺の頼みを受けるべきではないだろう。なぜなら俺は一度、鳴海への接触に盛大にしくじり、派手に千種を巻き込んでいる。だから本来、千種は俺の提案など全力で拒否してしかるべきなのだ。俺だって今の立場でなかったなら、もっと人を疑うことを覚えるよう、彼女に言ったことだろう。

 それくらいに、彼女は危うく、そして甘い。

 とはいえ、とにもかくにも、俺にとって事が上手く運んだというのは事実だった。意気込みつつ週末を待ち、土曜日から千種の家に上がらせてもらって、ギターの練習を開始する。

 しかし本当の意味で甘いのは自分の方だったのではないかと、俺はそこで思い知ることになった。

 どうやら楽器の演奏というものは、おしなべて特に器用さを必要とするらしい。そして俺がサッカーで培った足の器用さは、塵ほどの役にも立たなかった。

 え? 何これ? 嘘でしょ? 難しすぎるでしょ? 本当にこれ、千種が使ってるのと同じ種類の楽器なの?

 これが俺の、記念すべき人生最初のギター演奏で心に抱いた感想だ。

 俺は練習のために彼女に借りたギター弾きながら、そのあまりの難しさに途方に暮れる。

「なんじゃこりゃあぁぁあぁ~……」

 貸してもらったのは、千種が今使っているギターの旧型モデルだ。形状はほとんど同じで、色まで一緒の黒いギター。しかもご丁寧にセットの黒いピックまでついている。装備としては申し分ないはずなのに、なぜこんなにも出る音が違うのかわからない。ギターって本当にこの弦から音が出ているのか? 実は真ん中の丸い穴の中に何かが入っていて、そこからちゃんとした音が出るはずだとか……そうだろ! 誰かそうだと言ってくれ!

 さらに、目の前には散逸した数枚の楽譜。二年前に千種と鳴海が駅前で演奏していた曲の中でも、俺が一番好きだった曲の楽譜だ。どうやら彼女たちのオリジナルらしく、二人が初めて書き上げた大切な曲だという。

「ぜんっぜんわかんねぇ~……」

 これまた内容は意味不明。

 音楽の授業で習ったことがあるから、楽譜くらいは俺にもわかるものと思っていた。だが実際に渡された楽譜を見てみたら、想像していたものとまったく違ったのだ。あのオタマジャクシみたいな音譜もあるにはあるが、ほとんどは数字の乗っている六本の線。手書きということを考慮しても、読めないのは俺の知識不足に問題がありそうだ。

「ちょっと大江、変な声ばっか出し過ぎ。そりゃそうだよ。初めてなのにこんなのできるわけないじゃん。やるならもっと簡単な曲じゃないと」

 広いリビングのフローリングにあぐらをかいて、俺と同じように千種は座る。薄手のパーカーにショートパンツというラフな格好。最近めっきり暑くなってきたからだろう。

 冷めた声で否定を飛ばす彼女に対し、俺は意気を込めて訴える。

「いや、だめだ! この曲がいい! 俺、この曲が一番好きだし! 鳴海が前に一人で弾いてたのもこの曲だった! だから、鳴海に聴かせるなら絶対この曲なんだ!」

 俺が思うに、たぶんこの曲が一番、鳴海の芯に届くはずだ。この曲以外には考えられない。

「だけど大江、本当にギター初めてなんでしょ? 触るのも初めてなんでしょ? 無理だよ。無理無理、絶対無理」

「おい、いっぺんに四回も無理って言うなよ」

「だって無理なんだもん」

 こいつ無理って何回言う気だ。

「……い、いや、でもさ。これ、パートが別れてるじゃないか。こっちの数字が少ない方なら、もしかしてなんとかなったりしないのか?」

 譜面を見る限り、この曲はギター二人用の曲なんだと思う。六本の線がギターの弦に対応しているのだとすると、数字が音符代わりのように見える。数字そのものに何の意味があるのかはわからないけれど、比較的少な目の方なら俺にも何とか……。

「そっちリードギターだよ。なんで難しい方やろうとすんの。この曲はどっちも難しいけど、それでもまだリズムのがマシなんだよ」

 しかし千種は呆れながら、俺が示した方とは違うパートを指でさした。

「だいたいさ。大江はどのくらいの時間かけて、これ練習するつもりなの」

 そして相変わらず、ぼそっと愛想ない声で尋ねてくる。

「え、えっと……いや、そりゃあじっくり練習したいけど……でも鳴海に聴かせるのもあんまり先延ばしにはしたくないし……一週間くらい?」

「馬鹿? 大江ってもしかして馬鹿? タブ譜も読めずにギターの持ち方から練習する人が、今から一週間でこの曲って……絶対無理だよ。できるわけないじゃん。そんなのできたらテレビ出れるよ」

 お願いだからもう無理って言わないで。

 しかも実際にテレビに出ていた千種に言われると、冗談ではなく本当に心に響く。せっかく鳴海を誘う良い方法を見つけたと思ったのに、悲しくも返す言葉が浮かばない。

 でも……それでも……。

「うっ……うっせーな! やってみなきゃわかんないだろ!」

 初めはサッカーもそうだった。一見無理だと思うことでも、まずはやってみることから始まるのだ。遠く見えないゴールだとしても、最初の一歩踏み出すことで、確かに道は拓かれる。

 一つの曲を二つのギターで演奏する場合、リードギターとリズムギターの二つのパートに分かれるらしい。前者が主旋律、後者が伴奏だと考えればいい。二つは比べようにも難しさの種類が違うらしいが、でも結局はどちらも難しく……そしてこの曲に限って言えば、リードの方がよりテクニカルだと、千種は言う。

 始終無理だと言い張る千種に対して俺はどうにか食い下がり、争いは最終的に、演奏箇所を限定することで決着した。今回鳴海に聴かせるのは、彼女たちの曲の、サビ部分だけとなった。この曲の一番盛り上がる部分。けれども同時に、一番難しい部分でもある。

 他に、正しい弦の押さえ方だとか、タブ譜という楽譜の読み方だとか、一通りまともな音を出すまでに必要なことを彼女に教わる。それを経てから、彼女は言った。

「んで、だから大江はリズム担当ね。とりあえずちょっとやってみるから、私の真似して」

 千種はギターを構えると、しれっと無表情で弾き始める。そのおっとりとした言動には似つかわしくない見事な動きで、リズムパートの弾き方を実演した。

 何というか、やはり目の前で見せられると、息を飲まずにはいられない。白い綺麗なピックが黒のギターの上で踊り、その周期的な動きが俺の意識を幻惑する。

「……すげぇ」

 無意識にそんな感想が、心の底から湧き上がってきた。吸い込まれるように魅入ってしまった。こんな演奏ができたらさぞ気持ちがいいだろうな。そう考えずにはいられなかった。

 俺は演奏を聴き終えてすぐ、言われた通りに真似ようとする。けれども当然、彼女のようにできるはずもなく……。

「違うよ。私の真似してって言ったじゃん」

「やってるよ! 超真似してるだろ! ほら!」

「えぇ……それで真似してるつもりなの? 全然見せたのと違うんだけど……」

 渋い顔をする千種の横で、俺はとにかくギターを弾いた。弾いて弾いて弾きまくった。

 そうして気づけばリビングに赤い光が射し込んできて、あっという間に外は暗くなってしまう。練習をしていると、一日過ぎるのがとても早く感じられた。何だかんだ言って、千種は一日中、俺の傍で練習に付き合ってくれたことになる。

 ただ、陽が落ちてからはさすがに近所迷惑だからと演奏をやめ、その日は仕方なく解散とした。

 千種宅から帰る間、俺は電車の中や歩くかたわら、懐かしさを伴う不思議な高揚感に満たされていた。その感覚が、眠る前まで心地よく後を引く。

 そうして明くる日曜日も、また彼女の家にやってきてギターを弾く。とにかくひたすら練習あるのみ。集中していると時間の経過は極めて早く、俺たちは昼食の時間も惜しんで弦を鳴らした。

 直近に期限を控えているこの状況で、暗くなったら音を出しての練習ができなくなるのはもどかしく、焦る気持ちがないとは言えない。サッカーみたく野外の練習というわけでもないのに……もっと言えば、サッカーならナイターライトで練習ができるのにと、歯痒い想いが胸をかすめる。

 やがて太陽は傾き、また沈でいく。

 その日の帰り際も、千種は玄関まで俺を見送ってくれた。

「音出せなくても、指だけでも練習しなよ。時間、全然ないんだからね」

「わかってるよ。明日は学校だから、練習は朝と休み時間と放課後だな。音楽室が使えるといいけど……ま、とにかくこの調子で頑張るぜ!」

 張り切って俺が答えると、しかし千種は途端に嫌そうな顔を見せた。露骨に表情を歪ませて下を向く。

「千種?」

「……」

 瞬間、もしかして……と俺は思った。

 別に、提案した練習スケジュールに不満があるわけではないのだろう。そうではない。

「……私、学校は行かない」

 やっぱり。

「お、おま……いや、もう十分休んだだろ?」

「やだよ。だって玲奈、まだ怒ってるし」

 千種は、ぼそぼそっと拗ねたように小さく零す。

 鳴海が怒ってるって……まあ確かに、あれは怒ってる内にはいるのかもしれないけど……。未だに俺は、彼女に避けられっぱなしでいるけど……。

「いやー、でもさ。千種はクラス離れてるし、別にそんなに関係ないんじゃ……」

 俺や鳴海のクラスと千種のクラスは、間にかなりの隔たりがある。校舎の構造上、普通に授業を受けている分には顔を合わせる機会がないのだ。以前は、千種の方がわざわざ鳴海のストーキングにきていただけの話。鳴海と同じ教室にいる俺と比べたら、千種なんてほとんど実害はないはずである。

 けれども千種は、めいっぱい深刻そうな顔で首を横に振る。

「でも……廊下でたまたますれ違ったら? そんで睨まれたら? 無視されたら? もし玲奈にそんなことされたら……私、今度こそほんとに死ぬ」

 死ぬって。

「ちょっ、待て千種」

「それに、前も離れてずっと見てたけど、やっぱり見てるだけだと我慢できない。玲奈の姿見たら私、今度は絶対触りたくなるもん。昔みたいに、抱きしめてほしくなるもん。我慢できなくなるんだもん!」

「え、えー……うーん……」

 ……何かこいつ、鳴海に対しては執念っていうか、執着っていうか……鬼気迫ってて、ちょっと怖いな。傾倒の度合いがとっくに友達の域を越えている気がするんだが……。

「さすがにそこまでいくと、鳴海が怒ってるかどうかはともかく、避けられるのは当然なんじゃ……」

 俺が思わず本音を言うと、千種の瞳に珠のような涙がぶわっと浮かんだ。

 あ……しまった。今のは失言だったか。

「……ぐすん。いいよ、もう。だから私は、学校には行かないの」

「けど、千種……」

「行かないったら行かないの!」

 ……こりゃだめっぽいな。

 学校では何とか俺一人で練習して、千種とは放課後にここで少しだけ……まあ、まだ聞きたいことはいっぱいあるし、二人で演奏するなら合わせたりもしないといけないんだろうけど……とにかく上手く予定を立てて……。

 いや、いやいや、冷静になれ! そんな悠長なこと言ってられないだろ!

 次の金曜には鳴海に演奏を聴かせたいから、その日にはどうにか千種も学校に連れ出すとして……だとしても明らかに練習量は足りないのだ。期限までのただでさえ少ない時間、最大限有効に活用してしかるべき。休日はまだ終日練習できてよかったけれど、学校に行くとなるとそうもいかないし、もっと無駄なくより効率的に…………ん? いや、待てよ?

 ……ちょっと待てよ?

「そうか! 行かなきゃいいんだ! なるほど! 千種お前、頭良い!」

「え?」

「俺も明日から学校休んで、そんでギターの練習する!」

「……え?」

 ぽかんとした顔の千種に向かって、俺は勢いのままに思いきり告げた。両手を伸ばし、彼女の肩を掴みながら、声高々に宣言する。

「そうだ、そうしよう! よし! つーわけで、明日も場所はここで頼む! 時間は朝から! これで練習時間、大幅アップだ!」

 途端に上がったテンションの中、俺は素晴らしい名案を見出したと思った。まるで、目の前の大きな難題に、まったく違う方向からの解決策を示したかのような、容易く卵を机上に立てたコロンブスのような、天地をひっくり返したコペルニクスのような……それくらいの発想の転換を、俺はやって見せた気がした。歴代の偉人に勝るとも劣らない天才的発想を今、咄嗟に打ち立ててやったのだ。

 けれども千種は、驚き見開いた瞳で俺を見つめ、数秒の沈黙ののちに冷めた声で呟いた。

「……大江ってやっぱり馬鹿だったんだ」



 まさか千種に二度も馬鹿認定を受けるなんて、いったいどういうことだ畜生。

 傷ついた。思いの外傷ついた。一人で盛り上がって先走った発言に対する見事なクリティカルカウンターだった。

 しかしまあ、それはともかく、日中に練習することに関しては千種も賛成してくれた。

 一応の処置として、俺は孝文に連絡をしておく。さすがにギターの練習をするから学校を休むなんて安易に言えたことではないし、だから先生には、彼の口から病欠とでも伝えてもらおうという腹積もりだ。これで家に連絡がいくのを、少しは先延ばしにできるだろう。

『え、何? 五月病でも発症したの?』

 ところが電話口の孝文は、俺の頼みを聞くなり笑いながらそう返した。如何せん付き合いが長いだけはある。おおよそサボリであることは見抜かれたらしい。

「お、おまっ……ちげーよ風邪だよ!」

『すごいねー! 時期ぴったりだねー!』

「いや、あの……孝文君? だから風邪……」

『ていうか、ぴったりすぎるよね。あんまりぴったりだと逆に疑わしいから、六月病とかにしとこうか?』

「聞けよ!」

 まあ確かに、新しい環境に適応できない鬱屈が出始めるのが基本的に五月くらい。だから人によっては六月とかでもいいわけだ。むしろその方がよりリアリティがある気がする。うるせーよ。

『あっははは。そもそもそんなに元気だと五月病すら疑わしいけど……ま、いいよ。口裏は合わせておく』

「だから五月病じゃな……」

『大丈夫大丈夫。僕、空より嘘は上手いつもりだから。じゃあ頑張ってね』

 聞き捨てならない台詞を最後に残すと、孝文は勝手に通話を切ってしまった。

 いまいちやりとりが噛み合ってない気もしたが、とりあえず根回しは完了した……のか? まあ、何もしないよりは幾分マシだろう。

 そして今日も、俺は千種の家を訪れる。

 インターホンを鳴らすと扉がわずかに開かれて、千種の顔だけが中からにゅっと現れた。

「……大江、来るの早すぎ」

 驚いたことに、目の前の彼女はまだパジャマ姿だった。薄手の可愛らしい部屋着が微妙にはだけて、髪の毛は若干ボサついている。

 こいつ、まさか……。

「……お前、さっきまで寝てたろ」

「だって、休みだし」

「休みではねぇよ」

 今日はれっきとした月曜日。紛れもない国民の平日だ。カレンダーにもそう書いてある。

「本当ならもう学校で机に座ってる時間なんだぞ」

 現在進行形で学校をサボっている俺が言っても説得力なんてないだろうが、しかし今の時刻は九時半である。確かに土日よりは早く来た。それでも特に早朝というわけではない。俺の早起き癖を差し引いても、さすがにもう起きていてほしい時間だろう。

「……眠い」

「頼む、しっかりしろ千種。だいたいお前、そんな格好で出てくるやつがあるかよ」

 話しているこの瞬間も、千種はふらついていて眠そうだ。あまりに無防備でパジャマの前のボタンが取れかかっているし、よく見たらズボンも地面にずっている。彼女の小さすぎる身体とか白い肌とか……おい、なんか危うく色々見え……。

「……眠い。勝手に入って練習して」

「ふ、ざ、け、ん、な!」

 俺はすんでのところで彼女の服装を襟元から直し、ズボンを捲ってやって中に入った。怠そうに丸まった背中を押してリビングへ向かう。

「お邪魔します!」

「邪魔だから帰って」

 そうはいくか。

「ほらほら、今日も楽しく練習だぜー」

「……大江の練習でしょ。一人でやってよ」

「い、いやいや、千種が教えてくれた方が、一千倍上手くなるんだよ」

「ゼロに千かけても万かけても同じだよ」

 んだとこのやろう! なんてこと言いやがる!

 いや、いやいや、落ち着け俺。俺だって少しずつ上手くなっているんだから。

 こんな言い合いをしていてもまったく無駄なので、俺は無理矢理に話を逸らす。

「てか千種の親は?」

「……仕事」

「二人とも?」

 千種はぶすっとしつつも、少ししてこくんと頷いた。

 なるほど。土日も千種の両親は不在だったが、どうやら今日も彼女と二人きりらしい。

 さすがにあのパジャマ姿は俺の気が散って仕方がないので、説得して部屋で着替えてもらった。緩く光の射し込むリビングの窓際、二人してギターを抱え、フローリングの上にあぐらをかく。

「目、覚めたか?」

「……大江がうるさいからね」

 ……まあ、今はそれでもいっこうに構わない。

「んでさ千種、とりあえず譜面を見ながら順番に音を出していってみたんだけど……」

 そうやって、俺たちはこの日も練習を始めた。

 しかし、である。

 ここ数日で、俺には段々とわかってきたことがあった。千種との練習は、あまり平穏には進まないということだ。

 彼女の言うことはよくわからない。わからないということが、ようやく俺にはわかってきた。

 それはきっと、俺に音楽の素養がないとか、断じてそういう問題ではない。初歩的なことならいざ知らず、複雑なこととなると、彼女の説明はいよいよ意味不明の極地なのだ。

 教えるなんて絶対無理だと、自分で言っていただけのことはある。本当に予想以上だった。たぶん千種は、俺から見ても人に教えるのがものすごく下手だ。それはもう、超が付くほど滅茶苦茶下手だ。

 たとえば、複数の弦を指で押さえながら出す和音をコードというらしいが、演奏の中で素早くこれを切り替えてしっかりと音を出すのが難しい。何かコツみたいなものはないかと尋ねたら、こんな風に返ってくるのだ。

「そこはこうやるの。こう!」

 千種は実際にギターを弾いて、俺に指の動きを見せる。彼女の教え方は基本的に、見せて真似させるということだけ。それ以外にはほとんど有益な情報がないと言っても過言ではない。

「えーっと、こう?」

「そうじゃない! もっとこう、シュッて!」

「しゅって何だよ」

「シュッって言ったらシュッなんだよ! シュッてやるの!」

「手首か? 手首がポイントか?」

「いいから何回もやるんだよ! ほら! シュッ! シュッ! シュッ! シュッ!」

「頼むから俺と会話して!」

 何だろうこの、シュッに対する絶対的信頼は……。

 凄まじいまでの擬音語ユーザーだ。こういった人種が現実にいることは知っていたが、彼女はどうやら、それの最たる存在らしい。

 彼女は身振り手振りで何とか自分の感覚を伝えようとする。しかし当然、俺には微塵も理解できはしない。

「大江のはなんか、動きがヘだ~っとしてるんだよ」

「また新しいのが増えたな……へだ~って……」

「そんなにへだ~って指動かしたら変な音出るのは当たり前なの。シュッってやんないと」

 確かに、俺が弾いても鈍いおかしな音が混ざってしまうが、千種が弾くと憎たらしいくらい澄んだ素晴らしい音が響く。何がいったいどうなってやがるのか。何度繰り返しやらせても、彼女のギターは綺麗に鳴る。

「あーもうっ! しゅっもへだ~もわかんねぇよ! こうかちくしょうっ!」

「あ! そう、それ! それだよ!」

 俺がヤケになってもう一度弾くと、今度は千種が食いつくように反応する。なるほど、今はまさしくいい音が出た。

 いったいさっきと何が違うんだ……。

 謎は深まるばかりである。

 しかし感覚は覚えたぞ。

「よくわかんねぇけど、こうか! ならここの部分も、こうか!」

 そして俺は調子に乗って、別のコードの切り替えにも果敢に挑戦。

「ちがーう! そこはシュッ! じゃなくて、シャッ! ってやるんだよ!」

「おいっ! しゅっとしゃっはどうちげーんだよ!!」

 シュッへの絶対的信頼はどこへいった。

 お願いだ千種。日本語で説明してくれ。ここは日本だ。千種国ではない。

「何でわかんないかなぁ……」

「んなもんわかるわけねぇだろ……どんだけ本能で生きてんだよ……」

「大江に言われたくないよ。いきなり駅にきてギター教えてくれって叫んだり、自分も学校休むとか言ったり……そっちも十分、脊髄反射で生きんじゃん」

「あ、あれは……なんかこう、うぉーってなったんだよ!」

「…………」

 あ、あれ? 伝わらないのか? 何言ってんだこいつみたいな目で見られたぞ。

 ま、まあ、ここは日本であって大江国でないのも確かである。

 こんな具合に、俺と千種のギター練習は困難を極めた。

 互いのコミュニケーションもさることながら、やはりこの楽器は俺にとってあまりに新感覚。サビだけというものの数十秒程度の演奏でも、なかなかどうしてそう簡単には上手くいかない。

 毎日とことんギターを弾いて、目覚めてから寝入るまで演奏のことを考え、千種と鳴海の作った曲を頭の中に流し続ける。それでも上達は一進一退、二進一退。楽譜や楽器といつもいつも睨めっこで、日々は消化されていく。

 曲がりなりにも金曜日には形にすることが目標なので、水曜あたりから千種と合わせての演奏も試し始めた。リードギターとリズムギターが重なって、やっと一つの曲になる。その感触を初めて自分の演奏で味わったときには、やはり心が踊ったものだ。

 しかし、今まで自分の出す音だけだったところに他の音まで混ざってくると、演奏の難易度が上がることも認識する。ただでさえ俺はまだコードを間違えるのに、さらに千種からは音の強弱やテンポのことまで口を出されて、いよいよ脳がパンクしそうだ。

 同時に演奏していても、俺は自分のことで手一杯。視線はずっと自分の手元で、千種の音を気にする余裕なんてほとんどない。

 一方、千種は練習中、ずっと俺の指の動きを見ていて、なのに自分の演奏は完璧だ。しっかりと俺の出す音まで聴き分けられているようで、上手になるとそんな芸当も可能なのだろうかと、内心感嘆してしまう。

 飛び出る指摘は相も変わらず奇々怪々で辛辣だが、何だかんだで木曜日を迎え、鳴海へのお披露目を明日に控えるまでに至る。

「大江、今の駄目。変な音出てた。迷って弾くからぼわっとした変な音になるんだよ。ちゃんと弦、抑えないと」

 練習の中で千種が言う。とりあえず千種語には何とか慣れた。

「お、おう。わかった。けどなぁ、指がいってーなぁ、これ」

「絆創膏貼ってるじゃん」

「それでも痛いもんは痛いんだよ。千種はよく平気だな」

 近頃、気づけば俺の指は弦に負けて切れ気味だ。どうやらこれも、初心者が一度は通る道らしい。

「私はもう、指の皮厚くなっちゃったし。いいから、ほら、もう一回いくよ」

「へぇーい」

 と、そんなときだった。

 バツンッ!

 俺が再び弦を弾くと、途端に激しい音が辺りに響いた。

「うおっ! 何だ!?」

 一瞬、何が起こったのかわからなかったが、手元を見ると異変に気づく。弾いていたギターの弦が切れたのだ。

 俺と千種は二人して同時に「あ」と零す。

「……ぅ、うお――! こ、ここ、壊れたぞっ! どうしよ千種!」

 立ち上がってあたふたと叫ぶ俺の横で、千種は煩わしそうに耳を塞ぐ。呆れた顔をして、やがてゆっくりと口を開いた。

「うるさいよ大江。別に大丈夫、壊れてないから」

「いや! でもっ! ほら、弦が! ギターって弦五本でも弾けるのか? 今からの練習……いや、明日は大丈夫なのか!?」

「落ち着いて。だから大丈夫なんだって。弦はたまに切れることがあるの。明日が大丈夫かどうかは、大江の出来次第だよ」

 千種は自分のギターを持って立ち上がると、おもむろに俺の袖口を掴んで歩き出す。そしてリビングを出て、階段を上った。

「お、おい。どこ行くんだよ」

「部屋」

「部屋って、もしかして千種の部屋か?」

 千種は振り返って「当たり前でしょ」とでも言いたげにこくんと頷いた。

 ……え? 何でいきなり千種の部屋?

 俺は疑問に思ったが、とりあえず引っ張られて歩いていく。二階の端にある一室がどうやら彼女の部屋のようで、躊躇なく扉を開ける彼女に続いて俺も中に踏み入った。

 この千種の性格だ。自室なんてそりゃあもう、いったいどんな秘境魔境なのだろうかと想像したが、結論から言うと、案外印象は普通だった。

 四角い間取りに南向きの窓。無地のカーテン、ベッド、テーブル。普通というか、むしろ女の子の部屋としてはかなり質素な方だろう。

 部屋を眺める俺をよそに、千種は真っ先に壁のクローゼットを開けて俺を呼びつける。

「こっち」

 初めて部屋を訪れた異性相手に、入室十秒でクローゼット大解放。ものすごくアグレッシブなアピールだなとは思ったが、その中身を見て、俺はようやくここに連れてこられた意味を理解した。

「お、ギターがある」

 ハンガーにかけて収納された衣類の下、様々な棚や箱と一緒に、ギターやピック、ケースやスタンドといったものが見受けられる。ギターは二つで、両方とも色は黒だった。

 彼女はそのうち一つを手にとって外に出した。さらにいくつか小物を取り出し、俺の手に握らせてくる。

「弦は、張り替えれば問題ない。でも、それはちょっと時間かかるから、また今度にする。とりあえず今は切れた弦だけ取り外して」

 渡されたものは布とニッパー。これを使えということだろうか。

 それから千種はクローゼットを閉めると、テーブルを隅に寄せて床に座り込んだ。自分の持っていたギターは横に置いて、さきほどクローゼットから取り出した方のギターを抱えている。

「これ、貸す。ちょっと古いやつだけど、大江が弦の処理してる間に、チューニングしてみるから」

 千種は自分の座った前の床をぽんぽんと叩いて俺を促す。指示通り彼女に向かい合うようにして座ると、目の前ではもう素知らぬ顔で作業が開始されていた。楽器の先のねじのような部分――ペグを回しながら、音の調整をしているようだ。へぇ、チューニングってそうやるのか。

 一方俺は、ギターを傷つけないよう丁寧に切れた弦を取り外す。しかし、少しすると俺の作業は終わってしまって、千種のチューニングをただ凝視する姿勢に落ち着いた。まあ、たった一本の弦を取り外すだけよりも、チューニングの方がよほど繊細な作業なのだろう。

 弦を弾いては響く音を確認し、ペグを回してはまた弦を弾く。張り具合を調節して、意図した音程が出るようにしているらしい。たまにコードなんかを奏でたりして、千種の白くて小さな手が緩やかに動き回り、一定の間隔で澄んだ音を鳴らすその様子は、見ていて何だか心地が良かった。

 しばらく無言の時間が続き、揺れる弦の残像を無意識に目で追っていた。

 そんな中、ふと俺は彼女に尋ねてみたくなる。

「なあ、千種のギターって、全部同じ黒色だよな。何かこだわりでもあったりすんのか?」

「…………」

「アコースティックギターって、普通茶色だろ? 学校においてあるやつは全部そうだし、雑誌やテレビで見るのも、だいたいさ」

 実はこれは、少し前から気になっていたことだ。俺が今まで見たことのあるアコースティックギターというものは、茶色か、あるいは肌色などの暖色系が多かった。まあ正確には、昨今取り上げられている唯花関連の話でなければ、なのだけれど。

 とにかく、なぜ千種のギターはこうも全部が黒なのだろう?

 記憶を遡れば、俺が魅かれた千種と鳴海のストリートライブは、黒と白のギターがよく映えていたものだ。

 とすると、鳴海は白のギターを所持していることになる。でもだからって、千種みたいにこんなに一途に、白のギターばかり持っているのか?

 俺の質問に、やや間をおいて、彼女は答えた。

「……私が初めてギターを買ったときは、玲奈と一緒だったの。二人でお揃いを買ったんだ。そのとき黒いのを選んでから、私はずっと同じ色」

「お揃い?」

「うん、モデルがね。だから私は、ずっと同じシリーズを使ってるんだ。まあ、もともとかなり売れてるモデルだったし、持ってる人も結構いるとは思うけど」

「そういうもんなのか。でも黒と白で同じモデルなんて、なんかペアルックみたいだな」

 この場合はペアギターとでも呼ぶべきだろうか。

 過去、彼女たちのやっていた駅前のストリートライブにおいて、印象的なモノクロのギターは傑出した演奏と合わせて通行人の目をよく集める要因の一つだった。しかし、彼女たちにとっては、そんなものただの副産物に過ぎなかったのかもしれない。

「じゃあ千種が白いピックを使ってて、鳴海が黒いピックを使ってたのは……」

「あぁ、玲奈のピック、見たんだ。あれはね……昔、交換したんだよ」

 始めた頃からお揃いだった互いのギター。そしてピック。

 ただのお遊びでも陳腐な戯れでも、それは彼女たちにとって目に見える確かな繋がり。きっと様々な記憶が、感情が、願いが込められているのだろう。

 思えば鳴海は、俺にギターを聴かせてくれたとき、生徒手帳から黒いピックを取り出していた。肌身離さず宝物のように持っていたそのピックは、どう考えたって千種のものだ。

 千種だって、今まさに目の前で、白い鳴海のピックを使っている。

 彼女たちは、今もまだ繋がっている。

「千種と鳴海が知り合ったのは、千種の母さんがやってるヴァイオリン教室なんだってな。もしかしてギターとヴァイオリンの二刀流だったのか?」

「……二刀流って、別に同時に弾くわけじゃないけどね。玲奈のお母さんのヴァイオリン教室は、近くの公民館を借りてやってるんだ。公民館には色んな楽器がおいてあって、そこで私は初めてギターに触った。レッスンの待ち時間の、お遊戯みたいなもので……玲奈が誘ってくれたの」

「お遊戯って、それ、いつの話だ?」

「幼稚園の頃かな、年中さんの」

 幼稚園の年中……となると十年以上前の話か。幼馴染みだとは聞いていたが、実際に数字が出ると具体性が増すものだ。随分と長い付き合いらしい。

 加えて今の情報によると、鳴海もこの辺に住んでいると考えるのが普通である。

「私と玲奈、同じ幼稚園だったんだ。中でも玲奈のお母さんのヴァイオリン教室に通ってる子は結構いて、私もその一人だったんだよ。玲奈はみんなと仲がよかったから、私に声をかけてくれたのも、たぶん特に意図はなかったんだろうけど……何て言うの、平等精神的な」

 平等精神、ねぇ……。まあ確かに、今の鳴海を見る限りでは、そういった博愛主義的な行動も想像できる。自ら猫を被っているなんて言っていたものだが、意図的であろうとそうでなかろうと、彼女が人付き合いに長けているのは事実だろう。幼い頃から対人関係に気が回る性格だったと言われても無理はない。

 いや、しかし……平等精神なんて、幼稚園児が考えることだろうか? いくら何でもませすぎだろ。

「でも、私は嬉しかったんだ。私、あの頃から友達いなかったし……玲奈が初めてだった。今も、玲奈以外いないけど……」

「友達……作らなかったのか?」

「作れなかったの! 私は、玲奈みたく誰ともすぐ笑顔で話すなんて、できないもん。あんなに優しく綺麗に完璧に、他人に対して振る舞えない。玲奈みたいな人気者になんて、逆立ちしたってなれないんだよ。大江も、人と話すの得意でしょ。どうせ大江にだってわかんないよ、こんな気持ち」

「いや、別に俺は……得意ってほどじゃ」

 俺の言葉に千種は唇を尖らせる。

 鳴海みたいに……か。

 言わずもがな、鳴海はどんなコミュニティにおいても、その中心に立つことのできる人間だろう。現に今、入学したての高校においても既に結構な人望を集めている。

 対して千種があまり人付き合いを得意としないのは、ここまで一緒にいて、だいたいわかっていた。

 皮肉なことに、そんな千種は歌手として全国的に有名で、おそらく知らない人を数えた方が手っ取り早いくらいの人気者だというのは事実だが……千種が気にしているのはそういう話ではないのだろう。

「でも、いいんだ。私は玲奈だけでいい。玲奈さえいればそれでいいって思ってたし……今でも、そう思ってる」

 ……ものすごく極端な思考だとは思うが今は何も言うまい。

「鳴海とギターを弾くようになったのは、色々楽器を触ってるうちに、ヴァイオリンからギターに比重が移った……みたいな感じか」

「うん。たぶん理由は色々あってさ。テレビで見た人に憧れたとか、二人で一緒に弾くのが楽しかったとか……。最初は玲奈も楽しそうに弾いてくれてたんだよ。玲奈は丁寧に教えてくれたし、あの頃の私は、玲奈と一緒にいたくてギターをやっていたんだと思う」

「……夢っていうのは?」

「二人で真剣に弾くようになって、曲も作って、駅で弾いてみたりもして……そうやって、いつか二人で弾くギターがみんなに認められたらいいねって、玲奈は言ってた。スカウトされてプロになった人も、今までにたくさんいるから」

 なるほど。それが以前に鳴海が言っていた夢、か。

 確かに地方で活動していたバンドグループがスカウトされてメジャーデビューなんて話は、そんなに聞かない話でもない。

 ……というか。

「千種だってそうだったんだろ?」

「……」

 千種だってこの街からスカウトされて、唯花となった。だからこそ鳴海は、夢は千種が一人で叶えたと、そう言ったのだろう。

「本当は二人でデビューするはずだったんだけどな……」

 そのあたりの経緯は、鳴海からも少し聞いた。これに関しても、たぶん理由は色々あったのだと思う。俺は鳴海と千種、双方の心境を想像して口を噤んだ。

 二人の音楽に対する気持ちは、決して軽々しいものではない。互いに身を削るほどの強い想いを抱いている。ゆえに譲れないことも、許せないこともあるはずだ。

 部屋にはまた沈黙が降りて、ギターの音だけが単調に響く。

 しばらくすると、今度は千種の方から口を開いた。チューニングを続けながら、彼女は俯き気味に力なく零す。

「ねぇ大江……こんなことして、本当に意味あんの?」

「こんなことって?」

「大江がわざわざ学校休んでうちまできて、ギターの練習なんかして、玲奈に聴かせて……そんなことして、本当にもう一度、玲奈と弾けるのかな。今のこの行為って、本当に意味のあることなのかな」

 俺は小さく溜息をついた。

 本当ならこの質問は、もっと早くにされていてもおかしくなかった。もしかしたら、千種はこれまで、尋ねるのを躊躇っていたのかもしれない。

 もちろん俺は未来予知ができるわけでもないし、自分で言い出しておいて情けないが、不安もある。

 それでも、俺は静かに強く、言葉を返した。

「……意味はある」

 彼女は気休めを求めているわけではないだろう。俺だってそんなつもりは微塵もない。

 だから答える。繰り返し俺は答えるのだ。

 ただ、信じて。

「意味はある。俺は別に、惰性でやってるわけじゃないんだ。ちゃんと鳴海を引き戻すために……そのためにやってる」

 鳴海はあんなにも激しく真剣に、本気になって憤った。だから――だからこそ、まだあいつを音楽に引き戻すことは、できるはずだ。鳴海はまだ、その気になれば戻ってくることができる。もうサッカーに戻れない俺とは違って、まだ夢を追うことを、許されている。

「あのさ、千種。鳴海の心の中には、まだちゃんと、ギターと千種が住んでるよ。きっと揺るがないほどに大きく、鳴海の心を占めている。大丈夫。何も心配しなくていい」

「どうして、大江がそんなこと……」

「わかるよ」

 そう、俺にはわかる。一度でも大好きなものから離れたことがあるのなら、その苦しみを知っているのならば――そして、戻りたいと思う心を押し殺したことがあるのならば、わかるはずだ。

「明日、俺が証明してみせる。千種だって、曲がりなりにも俺のことを信じたから、ギターを教えてくれたんだろ? 俺、頑張るからさ」

 明日、俺は千種と二人でギターを弾く。それを鳴海に見せつける。

 彼女は音楽なんてもう嫌いだと言っていたけれど、本当のところはどうだろう? 俺たちを見て、どう思うだろう? かつて自分のいた千種の横で、自分の作った曲を弾く俺の姿を見て、どう思うだろう?

 ああ、きっと、たまらない気持ちを抱くはずだ。憎くて羨ましくて懐かしくて、痛いくらいに胸躍る。悔しくて惹かれて嫉ましくて、いても立ってもいられなくなるはずだ。

 自分が心の底から懸けていたものを不意に目の前にしたら、想いは理性の枷を振り払って奔流する。

 そうしたら今度こそ、鳴海の本当の気持ちが聞けるのだと思う。俺はそう思う。

 千種は俺の言葉に静かに頷くと、ぎこちなく、けれど穏やかに微笑んだ。優しくて儚げで、不器用な印象を与えるその笑顔。俺の知る初めての、千種の笑顔だった。

 やがて彼女はおずおずと、チューニングを終えたらしき黒いギターを差し出した。

 そして、そのときだ。俺は目の前にあるそれを受け取って、咄嗟にあることを思いついた。

 いや、思いついてしまった、と言った方があるいは適切かもしれない。これはそれくらいに、意地の悪い思いつき。

 でも間違いなく、鳴海をいっそうかき立てるのに一役買うだろう、ジャストアイディア。明日の鳴海への演奏をより効果的にするための、趣向を凝らしたスパイスだ。

 気づくと手に持った黒いギターの艶めいた表面に、自分の顔が映っていた。漏れ出る邪な笑みが抑えきれずに、口元の引き上がった俺の顔。その目と見つめ合ってから、俺はポケットの携帯に手を伸ばした。

 不思議そうな表情をする千種を前に、はやる想いでコールする。



 金曜日、俺は一週間ぶりの学校へ出向いた。

 ただし時間は既に放課後。赤い夕陽に騒がしい校舎。こんな登校は何とも新鮮な経験だ。

 真っ先に自分の教室に足を運ぶと、学校祭の準備のためか、そこには多くの生徒が残っていた。今の時期は部活と学校祭の準備活動を個人で選択できるようになっている。

 窓際に孝文の姿を発見すると、こちらに気づいた彼はすぐに声をかけてきた。

「あっ! 空!」

「おう、孝文」

「えっと……もしかして、今来た?」

「ああ、もしかしなくても今来たぞ。さすがもうそろそろ登校しようと思ってな」

「……登校、ねぇ。でも、もう放課後だよ? こんな時間に登校するって、いったいどういう神経してるのさ。ていうかそれって登校したことにならなくない?」

「なるよ。なるなる。ちょっと遅くなっただけさ」

「ちょっとって……もう授業全部終わってるけど……」

 俺は今日も、朝から千種の家でギターの練習をしていた。お披露目直前ゆえ、より丹念に合わせたつもりだ。

 渋い顔をする千種を連れてここまで来て、今、彼女には廊下で待ってもらっている。

「それはそうと孝文。頼んだものは?」

「ああ、そうそう。それなんだけどさ。びっくりしたよ。いきなり昨日、空があんな電話してくるから」

「悪い悪い。でも、あったんだよな?」

「あったよ、あったけどさぁ。そんな軽々しく言わないでよー。突然白いギター貸してくれとか言われても、普通は用意できないよ? 大変だったんだからね、探すの」

 実は昨日、俺が千種の家から咄嗟の思いつきで電話をした相手は、孝文だった。

 その用件はまさしく彼の言う通り。千種の持っている黒いギターと同じモデルシリーズの白いギターを、俺に一日だけ貸してほしいというものだ。

 突然電話でそんなことを言い、しかもギターの形も色も指定となれば、もちろんそう簡単には見つからない。都合よく孝文が持っているなんてこともなくて、彼はわざわざ何人もの人に聞いて、ギターを探してくれたのだ。

 結果、サッカー部の友人の、大学生の兄が持っていたものを、どうにか貸してもらえるように手を回してくれた。何も考えずに駄目元で尋ねた俺としては、これ以上にない感謝と賞賛を彼に送って差し上げたい。

「ブラボー孝文! 愛してるぜ!」

「うわー、ちょっと受け取れない告白だね。それと、ちゃんと見返りはもらうからね」

 彼は笑いながらそう言って、教室の奥で机に座っている友人を呼んだ。

 見覚えのあるがたいのいい男子生徒が、傍にあったギターケースを抱えてやってくる。

「はい! ギターはこちらの東山君が貸してくれます! ま、正しくは東山君のお兄さんのものだけど」

 孝文がこれ見よがしにジャーンと効果音をつけて紹介する。

「よぉ大江。これ、兄貴のギターだ。ほとんど新品だぜ」

 東山はケースを少しだけ開けて中身を見せる。

「おー! すっげぇ! 真っ白だ! ピカピカだ!」

「半年前くらいに兄貴が買ったんだけど、すぐに弾かなくなっちまってさ。残念ながら、今じゃ押し入れの肥やしだわな」

 その純白のギターは、千種のギターとほとんど同じ形をしていた。聞けばこのモデルは確かに有名なそれのようで、普及率もそこそこだが、こんな身近に所持者がいた理由はもう一つあった。

 何を隠そう、これは千種の使用モデルであり、つまりは唯花の使用モデルなのだ。唯花の人気が全国的なものになった時期から、そこら中の楽器店で同モデルのタイアップをしているらしい。恐るべし唯花ブーム。

「本当に借りていいのか?」

「いいけど、あんまり長くは貸せないな。兄貴には半ば内緒でかっぱらってきたから」

「それは大丈夫だ。今日のうちに返せる」

「あと、朝倉からは、大江に何でも一つ頼み事ができるって聞いたんだけど」

「え?」

 東山のその言葉に、俺は少しだけ驚いた。まったく予想だにしていなかった発言だ。

 固まる俺を前に、東山は精悍な顔を綻ばせて先を続ける。

「っはは。そんなに身構えるなよ。今度、リフティング教えてくれないか。これも朝倉に聞いたんだけど、すげー技できるんだってな」

 数秒の間、俺は何を言われたのかわからなかった。

 けれども、しばらくして孝文の方を見やると、したり顔の目が答えていた。『ま、それくらいはね』と。

 おそらくギターの貸与のために、彼が提案したことなのだろう。何となくそのやりとりを想像し、孝文ならやりそうだな、なんて自然と思った。

 俺は東山に笑顔を返す。

「ああ、いいぜ。安いもんだ」

 すると彼は嬉しそうに「よっしゃ!」と軽くガッツポーズをした。

 横では孝文がニヤついている。まったく、こいつもなかなか喰えないやつである。

「でもよ。今からそのギター使って何するんだ? 俺はてっきり、学校祭に出るつもりなのかと思ってたんだけど」

 俺がギターケースを受け取って肩に回すと、再び東山が問いかけてくる。

「学校祭?」

「ああ。今週、学校祭のステージでやる雄志発表の審査をやるって話だったろ?」

「へぇ、そうだったのか」

 何だそりゃ。全然記憶にない話だ。初耳も初耳。いや、もしかしたら俺が惚けていただけで、先週あたりに連絡があったのかもしれないけれど。

「へぇって……知らなかったのか。学校祭の最後にやる目玉のイベントだよ。まあその分、出場希望者も多くて競争率も高いし、審査もかなり厳しいらしいけどな」

「面白そうだな」

「だろ? だから俺は、てっきり大江もそのステージに出るんだと思ってたけど……でも、審査、今日の昼休みまでだったんだぞ。なのに今頃になって学校に来るから、いったい何なのかと思って……ほんとお前、そのギターで今から何するつもりなんだ?」

 心底不思議そうに尋ねる東山。

 確かに、他人から見たら今の俺は、何をしようとしているのかまったく想像もつかないだろう。ぶっちゃけ俺だって、ここまでしている自分が自分で信じられない。

 でも、これもなかなか不思議なもので、後悔も迷いも一切なかった。昔から俺は、一度走り始めたら、後先考えない性格だ。

 東山に対しては曖昧に言葉を濁し、けれどもはっきりとした意志を持って、俺は自らに言い聞かせるようにこう答えた。

「いや、まあ、ちょっとな。学校祭のステージじゃないけど、発表会みたいなもんだよ」

 そう、決してライブやショーではない。大きなステージでもなければ、待ち望んでくれる観客がいるわけでもない。

 でも、そんなの全然、関係ない。

 俺は今日、たった一人のために演奏をする。そのためにここまで、この日までやってきたのだ。だから俺にとっては、大事な大事な決戦の日。

 今から俺は、彼女のために――鳴海玲奈のためだけに、千種とギターを弾いてやるんだ。

 よくわからないという顔をしている東山に礼を言い、孝文に鳴海の居場所を聞いてから、俺は教室をあとにした。

 廊下で待たせていた千種を呼んで、急いで移動を開始する。彼女の手を取って廊下を行き、階段を上がる。ギターが重いのか、千種が途中で息を切らしたので、俺が二つまとめて担いで進む。膝の怪我さえなければ本当は走るのだが、大事なギターが壊れても困るので、早歩きでよしとしよう。

 弾く場所はもう既に決めてあった。

 たどり着いたのは校舎の一番上、屋上だ。学校祭が近いためか、いくらか装飾が施されていたり、用具がおいてあったりする。フェンス際に寄ると、この時期にしては冷たい風が吹き付ける。

「はぁ……はぁ……大江、何で歩いてるのに、そんなに速いの……」

 隣では、千種が膝に手をついて息を荒くしている。

 そこそこ背のある俺と比べて千種は極めて小柄なので、その歩幅は俺の半分くらいだろう。俺が早歩きで、結果オーライといったところだ。

 千種が復帰するのを待つ間に、俺はケースからギターを取り出し、音の調子を確認する。さすがにずっとほったらかしだっただけあって激しく音がズレていたので、千種のやっていたようにペグを回してチューニングした。

「ねぇ大江。こんなところに来て、どうすんの……」

「こっから鳴海に向けてギター弾くんだよ。さっき孝文に、鳴海の居場所を聞いたんだ。あいつ、今は講堂で委員会の仕事してて、もうすぐ戻ってくるらしい」

「孝文って誰……。ていうか、それなら講堂に行けばいいんじゃないの?」

「こっちの方がインパクトあんだろ? っと、噂をすればご登場だ」

 俺は講堂と校舎を繋ぐ眼下のテラスを指で示す。鳴海はそこを、委員会のメンバーと一緒ににこやかに歩いてきていた。

「ほら千種、準備準備! 鳴海が校舎の下まで来たら、いつでも始められるようにしといてくれよ」

 フェンス際に低く屈んで身を隠し、ギターとピックを握りしめながら数秒待つ。高鳴る胸に上気する頬。きたるべき絶好のタイミングをやがて迎え、俺は勢いよく立ち上がる。

 大きく息を吸い、そして吐き出す。

「鳴海――――――!」

 俯角六十度、距離二十メートル。その先にいる、笑顔の仮面を付けた彼女――音楽などもうやめたのだと、そんな仮面を付けている彼女に向かって。

 テラスを歩いていた数人は、鳴海を含めて全員がこちらを見上げた。一年生から三年生まで男女様々。俺にとっては知らぬ顔ばかり。何だ何だとざわつきながら俺を見ている。

「頼む! そのまま聞いてくれ!」

 けれども、俺の目線の先のたった一人、鳴海だけはハッとした表情で固まっていた。

 よし、最初の掴みはオッケーだ。

「鳴海の言う通り、俺は、今はサッカーをしていない。もしかしたら、もうこの先ずっとできないかもしれない。俺はもう、サッカーで夢を追うことは、ないんだと思う。それを逃げたって、諦めたって言うのだとしても、俺には否定もできないよ」

 風にはためく制服がバタバタと鳴る。その音にかき消されないよう、俺はいっそう声を張る。

「でも、でもさ……だったら、だからこそ……俺はやっぱり、鳴海にギターを弾いてほしい! 鳴海には諦めてほしくない! 鳴海にはまだ、夢を見失ってほしくないんだ! だってお前は、まだ音楽をやめてなんかいない。そうだろ!? 戻ってこられるはずなんだよ。戻ってきたいって、思ってるはずなんだよ!」

 自分が心から入れ込んでいたもの。それをやめてしまったなんて、ただ口で言うのは簡単だ。でも、本当に未練なく清々しく、何の執着も強がりもなく切り捨てるのは、本人が思うよりも、ずっとずっと難しい。

 俺もそうだった。

 一度は離れたのだとしても、それでも完全に忘れるなんて、とても無理だ。その身体が、その心が、無視できないほどに覚えている。覚えてしまっている。

「鳴海のギターに価値がないなんて、そんなこと言わないでくれ! 俺はお前の演奏が聴きたい。あの演奏が好きだから、千種と、そして鳴海のギターが聴きたいんだ! もしかしたら最初は、ただ慰めのためだったのかもしれないけど……でも今は違う。わかったんだ。二人のギターが聴きたい理由。それは、俺が二人に憧れたからで……二人の夢と、それを追う姿と、許された可能性に、憧れたからなんだ! 俺が鳴海に声をかけたのは、二人の夢が、このまま消えてほしくなかったからだ!」

 たぶん俺は、無意識に色んな感情を彼女に重ねていたのだと思った。羨望とか共感とか、同情とか嫉妬とか……他にもきっと、もっと、たくさん。

「価値はある。お前の音楽に、価値はある! 俺はそう思う! それでも、誘う俺が口ばっかりで訴えても、説得力なんてまったくないよな。だだの身勝手な慰めに思われても、仕方ないよな。そんなんじゃ……全然だめだ」

 そこで俺は、肩に提げた白いギターを少し持ち上げ、掲げて見せる。

「だから……だからさ、俺も一緒にやることにしたんだ! 二人の夢を、一緒に追うことに決めたんだ! 俺はもう一度、ここから新しい夢を追う。千種と、そして鳴海と一緒に追う!」

 言い切って、俺は千種に合図を送る。

 強く叫ぶ。

「俺の決意を聴いてくれ!」

 そして思いっきり、弦を鳴らした。

 練習通り、入りは上々。

 未だに動きを見せない鳴海は、瞬きも忘れたように視線をこちらに向けている。その横では、訝しげだったり面白がっていたり、様々な様子の生徒が動き回って、真逆の光景が印象的だ。

 しかし俺が手元の方を気にしたとき、瞬間、鳴海の姿が視界から消える。彼女が今までいた場所には、ノートや筆箱、下敷きなんかが落ちているだけになった。

 目で追った先、ものすごい勢いで滑走するかのごとく校舎に飛び込んでいく鳴海。

 隣にいた生徒が、校舎に向かってその名を叫ぶ。

 おっと、もしかして逃げたか!?

 俺は聴かせる相手を見失いながらもギターの演奏に気を配る。動揺してミスが出ないように気をつける。

 どうするべきか迷った。

 演奏を中断して追いかけるか? でもどこに? 鳴海はどこへ行ったのだ?

 千種に尋ねようとして首をひねると、そこには演奏を続けるものの、何だか怯えた表情の彼女が立っていた。かと思うと、彼女はすぐに俺から離れるようにして後ずさる。

 すると、突如、屋上の入り口が開け放たれた。決して軽くない金属の扉。それが勢いよく、反対の壁に跳ね返るくらいに思いっきり。

 派手な音に驚いた俺がそちらを振り向くと、目の前には既に何かが迫っていて……何か――いや、ものすごい形相の鳴海の顔が、迫っていて。

 意識が追いつくよりも早く胸ぐらを捕まれ、右の頬に思い切り拳を当てられた。俺は盛大にふっ飛ばされ、フェンスの土台で背中を打つ。

「ふっざけんじゃないわよ!」

 鳴海の怒声が響き渡る。今までの彼女からは聞いたこともないような激しい声だった。

 こちらを見下ろす彼女はいつの間にか俺からギターを奪い取ったようで、片手にそれを携えている。

「あなた、全然なってないわ! 下手! 超下手! あり得ないくらい下手! ただ弦押さえて弾けばいいってもんじゃないのよ! しかもちょっと音ズレた弦もあるし、そんなんでよく、一華の横で弾けたものね! てんでトチ狂った身の程知らず! その曲のサビはね、こう弾くのよ!」

 彼女は鋭い目をしてそんな罵声を放つと、俺の目の前で構えて見せた。

 そのままギターを弾き始める。俺がさっきまで鳴海に向かって弾いていた曲だ。でも確かに、彼女が弾くとまるで違う。

 彼女はしばらく夢中で奏で、そしてやがて、ふと我に返ったようにその手を止める。荒く切れた息は戻っていない。焦点の外れた目で手元を見つめ、ギリッと奥歯を噛みしめる。

 俺は黙って彼女を見つめていた。色々と驚いていたのは事実だった。

 沈黙を経て、俺はようやく身体を起こし、口を開いた。

「いっつつ……。平手までは覚悟してたけど、まさか全力ノータイムのグーパンとは……」

「……はぁ、はぁ……当たり、前でしょ。こんなこと……こんな私が嫌がること、そうと知ってやったんだから。だいたいね、平手で済むと思ってる覚悟が甘いのよ。やるんなら、屋上から突き落とされるくらいの覚悟でやんなさいよ」

「ま、マジかよ……」

「マジよ。やるんなら、指ちぎれるくらい練習する覚悟でやんなさいよ」

 彼女は軽くせき込んだあとに息を整えると、改めて俺を見下ろし、キッと睨んだ。

「……悪い。これが俺の精一杯だった」

「白いギターで、一華の横で、あの曲を自慢げに演奏したら、まんまと私が釣れるとでも思ったのかしらね。ほんと、すっごい嫌がらせ。何? だったら私は、あなたの前でサッカーボールでも蹴ってあげたらいいのかしら?」

 嫌がらせ。そう、まさしくこれは嫌がらせだ。あるいは挑発と言ってもいい。どうだ、お前のポジションを奪ってやったぞ、と。

「ごめん。悪かった。でも、来てくれてよかった。俺は鳴海が来てくれて、とても嬉しい」

「はっ……そうよね! 上手いこと私を、誘き出せたんだもんね! 全部作戦通りだもんね!」

 吐き捨てるように鳴海は言う。怒った彼女は、予想に反して数段怖かった。視界の端の千種なんか、相当怖いのか、どんどん後ずさって離れていく。

 しかしそれ以外は、確かに概ね、俺の目論見通りだった。はは、ははは……ざまーみろ。

 鳴海は尻餅をついている俺に向かって、憎々しい表情とともに携えたギターを振りかぶった。

 俺は咄嗟に顔を背けて目を瞑る。投げつけられると思ったのだ。

 けれども次に聞こえたのは、ギターが地面に弱々しく落ちる、コトンという小さな音。再び目を開けると、俯きながら両手で顔を覆った鳴海の姿が、そこにはあった。

「……どうして……どうしてよ。音楽なんて、もうやめたのに……やめたはずなのに……」

 さっきまでとは打って変わった、絞り出すような悲痛な声。嗚咽混じりで薄弱で、きっと彼女は、泣いていた。

「……知っていたの。やめたなんて言っておきながら、本当は未練がましく縋っていたこと。諦め切れていなかったこと。自分でも全部、わかってた。でも、それでも私は……嘘でも偽りでも強がりでも……私は音楽をやめたつもりだったのよ! いいじゃない! だって別に、誰にも咎められる筋合いなんてないはずよ!」

「ああ、それ自体は、他人がどうこう言えることじゃない。俺に口を出す権利なんてないよ。でも、でもさ……他の誰が咎めなくても、責めなくても……お前自身が、一番お前を許せてないよ。鳴海自身が、ずっと鳴海を、苦しめている」

 俺が言うと、鳴海は膝を折って地面に崩れた。

「全部諦めてしまえば、楽になると思ったのに……もうこれ以上、苦しむことはないと思ったのに……なのに……」

「いいや、違うよ鳴海。諦めたって、楽になんかならないんだ。本当はやりたいのにやめたって、やめたふりしたって……ただ辛いだけ。だって、鳴海がどれだけギターに本気だったかは……鳴海が一番、よくわかってるだろ」

 ああ、わかっていた。俺だってよく、わかっていた。どれだけ自分が、あのサッカーという競技に本気だったのか。どれだけの生きる意味を求めていたのか。委ねていたのか。

 そして、それを失う苦しみと、見限ることの悔しさを、痛いくらいにわかっている。

 だから俺はこんなことをした。彼女には、音楽を失ってほしくなかったから。

「……わかっているわよ。だって私は、諦めるなんて言っておきながら、本当は……本当はずっと、一華に嫉妬していたのだもの。ずっとずっと、一華みたいに、なりたかったんだものっ!」

 鳴海は拳で地面を叩く。やがてその瞳で――大粒の涙の滲む瞳で、俺を見る。

「でも、無理だった! 足掻いて藻掻いても、私は一華には追いつけなかった! どうせ私は、一華みたいになんてなれないの!」

 零れる透明な涙には、鳴海の苦しみが溶けているのだと、俺は思った。涙は雫となって次々と落ち、夕陽に照らされて光を放ち、そして最後には、地面に吸い込まれて消えていく。

「一華は私の憧れだった。大嫌いなんて大嘘よ。音楽が好き。一華が大好き。私が本当に大嫌いだったのは、一華に醜く嫉妬する気持ちが抑えられない、私自身なの。まだ一華と一緒に弾いていた頃、あるとき私は、ふとそれに気づいてしまって……このままじゃいつか、本当に音楽も一華も嫌いになる。心の底から嫌いになる。そんな自分が、私はどうしようもなく怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。こんな私は、きっと一華には相応しくない。傍にいてはいけないんだって、罪悪感が止まらなくて……だからもういっそ、私は一華から離れよう。もう全部、なかったことにしようって……そう思ったの」

 鳴海は自分の身体をかき抱くようにして震えている。

「……一華、ごめんね。信じてもらえないかもしれないけど、私にとってあなたは、とても大事な、音楽そのものだったのよ。大事だから、何よりも大事だから、誰も触れられないようガラスケースの中にしまっておく。それと同じなの。誰も一華に触れてほしくない。誰も彼も、私でさえも、一華には触れてはいけないの。だって私がこれ以上一華に触れてしまったら、真っ白で美しい一華を汚してしまう。どす黒く歪んだ私の手が、一華を汚してしまうから……」

 静かに紡がれる鳴海の言葉は、ところどころ掠れながらゆっくりと空気を伝う。

 それを離れて耳にしていた千種は、よろよろと不安げな足取りで歩き始めた。

「玲奈……」

「耐えられるわけないじゃない。私の大事な一華が、目指した一華が、憧れた一華が……私のせいで消えてしまう。そんなの絶対、許されない。たとえ一華に嫌われたとしても、一緒にいられなくなったとしても……それでも私は、一華のことを、嫌いになんてなりたくなかった。一華の持つ才能を、可能性を……駄目にしてしまいたくなかったの」

 鳴海の言葉が終わるやいなや、千種は突然、駆け出した。鳴海に駆け寄り、夢中でその胸の中に飛び込んで強く叫ぶ。

「違う! 違うよ玲奈! 才能とか、可能性とか……私はそんなものよりも、玲奈と一緒にいることの方が、ずっとずっと大事だった! 玲奈の傍にいたいんだ! 一緒にいたいんだ! それに、もし……私はそんな風には思わないけどもし仮に、玲奈の手が汚れているのだとしても、それでも……私は玲奈になら、汚されたってよかったんだよ!」

 見ると、千種もぼろぼろと泣いていた。

「玲奈の隣にいられるなら、私はなんにもいらないの。他の何を差し出してもいい。玲奈が……玲奈だけが、いてくれさえすればよかったの。ギターだって、玲奈が嫌がるならやめようと思った。でも、玲奈がギターを弾く私を好きでいてくれるなら、私は玲奈のために、弾き続けるよ。ずっとずっと弾き続けるよ」

「一華……あぁ、一華……ごめんなさい。本当にごめんなさい」

「うわあぁん! 玲奈、玲奈ぁ!」

 鳴海と千種は、それから二人で抱き合って泣いた。涙を流し、互いの涙が互いを濡らし、それ以上言葉にならない気持ちを確かめ合う。そんな風にして、ただただ泣いた。

 赤く染まる広い空の中、屋上を乾いた風が吹き抜けていく。横薙ぎの光。重なる影。一つになって、長く伸びる。

 俺はそっと口を開く。

「……なかったことになんて、ならないよ。全部、何一つだって、なかったことになんてならないんだ。鳴海の弾いてきた音楽も、千種と過ごしてきた記憶も……嫉妬も憎しみも、羨望も喜びもなくならない」

 千種を胸に抱きしめる鳴海は、溢れ出る涙を拭うこともせずに顔を上げて、俺を見た。

「大江、君……」

「いいじゃないか。俺はさ、そんな鳴海のギターが好きだよ。だからもう一度、千種と一緒に弾いてくれ。できるなら今度は、俺も一緒に」

 そして鳴海は、繰り返し頷いた。

「……ええ、弾くわ。私も弾く。ありがとう、大江君……ありがとう」

 泣きじゃくる鳴海の表情は、不格好に歪んだ笑顔だった。でも、その笑顔は俺が今まで見てきた完璧で隙のない笑顔よりも、いっそう美しくて心地良い。作り物の仮面のような笑顔ではない、心からの本音。本物の笑顔だった。

 俺はそんな鳴海を見られたことが嬉しくて、それでフッと力が抜けて、仰向けに倒れた。地面が背中から熱を奪っていく。ひんやりとして気持ちがいい。それから大の字に開いた腕の先で、拳を握ってガッツポーズ。

 思わず引き上がった頬に伝った一粒の雫は、傍で泣く彼女たちに感化されて出た涙かもしれなかった。

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