第五章 導き出した答え


 あれから千種は、学校に顔を出さなくなった。それは別段、予想に難くない未来だった。

 千種のクラスにわざわざ出向かずとも、自然と話は耳に入ってきてしまう。五月に入ると、それぞれのクラスや部活で学校祭の準備が始まるから、彼女の不在はよく目立った。

「クラスの出し物で主役をやってほしかった」だとか「是非うちの部活へ誘いたいのに」という声をそこかしこで聞く。小柄で可愛らしい彼女には、外見だけとってもそれだけのものがあるのだろうが、挙げ句には「学校祭で唯花のカバーを演奏するステージに加わってほしい」なんて話もあるようで、さすがに俺は首を傾げずにはいられなかった。カバー? 何を言っているんだ。むしろ中身そのものだ。

 対して、鳴海も鳴海である。何やら学校祭実行委員なるものに就いたらしく、非常に多忙な業務を日々こなしているようだ。しかもクラスでは、委員長として出し物の指揮も執るのだろう。

 鳴海だって、千種とは方向性が違うものの容姿に花があることには変わりがなく、さらにこれでもかというほどの人望もあるので、各所でどんなポジションに収まるのかは推して知るべしといったところ。

 そしてそして、俺はと言えばどうだろう。教室で学校祭の話になっても上の空で、未だ所属する部活も決めていないためか、気づけば完全に乗り遅れていた。校舎がだんだん華やかに装飾され、周りの生徒を取り巻く空気が活気づいていくのを見ていて、まるで自分だけ、別世界にいるかのような気分になる。学校を休み続ける千種を気にし、鳴海にはいっそう避けられっぱなしで、俺はただ一人、悩み続けるだけの時間を過ごしていた。

 千種は言った。鳴海が望めばギターをやめると。才有る音楽も惜しくはないと。

 鳴海は言った。自分の音楽に価値などないと。だからそんなものやめたのだと。

 音楽の才能なんて、俺にはわかるべくもないのだろう。それぞれの言葉の真偽だってわからないのだ。

 けれども、俺は二人にもう一度弾いてほしい。それは断じて、自身の慰めのためなどではないはずだった。

 ならば俺は、その想いを彼女たちに、どう伝えたらいいのだろうか。

 考えて考えて、昼も夜もなく考えて、他のことは全部頭から滑り落ちてしまったみたいにひたすら、眠る以外は休みなく考えた。

 そうしてついに結論は出ず、二人と最後に話した日からどれだけの時間が過ぎただろう。

 いよいよ進退窮まった俺は、あるとき放課後になって、学校のグラウンドに足を踏み入れていた。サッカー部が練習を終えた後のその場所に、たまたま一つ残されたサッカーボールを見つけたからだ。

 何となしにボールに歩み寄り、俺は軽くリフティングをし始める。思いの外、左膝に痛みはなかった。

 やっぱり懐かしいなと思う。ここ最近は、まったくボールに触れていなかった。

 陽の暮れかけた中、ボールを蹴り上げるぽーんぽーんという音を周期的に響かせていると、後ろから声をかけられた。

「なんだ空か。誰かと思っちゃったよ」

 振り返るとそこには、サッカーボールのたくさん入ったネットを引きずる孝文が、ジャージ姿で立っていた。片づけ忘れたこのボールを取りにでもきたのだろう。

「あぁ、わり。ボール、借りてたわ」

「うん、それはいいけど……」

 真横から夕陽に照らされた孝文の顔が、薄い影の中で優しく微笑む。

「どうか、したの?」

「どうかって、どういう意味だよ?」

「いや、悩み事でもあるのかなって」

 その鋭い質問に、俺は思わず目を逸らした。

「……何でそう思った?」

「ボールの音がそう言ってるよ」

「お前……超能力者かよ」

「空はわかり易いんだよ。ま、これでも空の友達だからね。親しき友であり真なる友であり、そして心の友でもあるね」

「心の友ってのは、相手の心も読めるもんなのか?」

「時と場合によっては、かな。あれでしょ? 最近空がご執心の鳴海さん。それか、ぱったり学校に来なくなった編入生の千種さん」

「ぅぐ……マジで心読めるのかよ。かなわねぇなぁ」

 俺はバツの悪さを紛らわすために、リフティングをする足へと意識を向けた。ふと思いつき、昔練習した技を試みようとする。

 左右の足の甲で交互に跳ね上げ、空中のボールを中心に右足を一周。そのまま左足で受け取ってまた蹴り上げ、すぐに同じ足で跨ぐ。さらに膝を経由して背面で踵。最後は肩からヘディングで孝文にパス。うん、スムーズな成功だ。

 そのボールを、孝文は綺麗に足で受け取って見せた。

「相変わらず、上手いね。リフティング」

「まだできるとは、自分でも意外だったな。一時期夢中で練習した身体の記憶は、そう簡単には消えないみたいだ」

「僕も結構練習してるけど、まだ空には及ばないなぁ」

 孝文は控え目に微笑むとボールの入ったネットを手放し、その場でリフティングをし始めた。いくつか技に挑戦しながら、上手くいくものもあればしくじるものもあり、時折ボールは彼の足から地面に落ちる。何度かそれを繰り返してから、やがて孝文はまたこちらを向いた。

「それで? 悩んでるのは鳴海さん絡み? それとも千種さん?」

 ただ、その尋ね方はどうなんだろうか。いくら心が読めるとはいえ直接的だし、そして断定的でもある。しかし図星であるからして反論の余地もなく、俺はしばらく黙り込んだ。

 孝文がリフティングを止めたのを見て、答えを急かされているような気分になる。全部彼の思い通りというのも癪だったから、俺はあえて挙がった二人の名前を出さずに答えた。

「なぁ孝文。お前、ずっとサッカーやってるよな。やめようと思ったことって……あるのか?」

「あれ? 僕の話なんだ?」

「いやまあ、たとえばの話だよ。たとえばお前は、才能とかそういうのについて考えたこと、あるのかなって。それでやめようと思ったこととか、さ」

 俺がそうきりだすと、孝文は足下のボールを見つめて言った。

「……へぇ。空がそんなこと聞いてくるなんて、意外だな。逆に聞くけど、空には今までそういうことあったの?」

 少し考え、俺は無言で首を横に振る。

「あはは、だよねー。だと思ったよ。ある意味じゃ、それこそが本物の才能なのかもしれないけど……どうしたのさ。そんな質問、空らしくないよ」

 その言葉を境に、孝文の声のトーンが大きく下がる。

「……僕はね……あるよ」

 いつもの明るい口調ではない。久しく聞いた覚えのない声音だった。

「でも、僕だけじゃない。誰にだって一度くらいは、才能がどうとか、考えることあると思うよ。たとえばサッカーじゃなくてもね。空が今した質問は、たぶんそれくらい、ベタベタで当たり前の質問だよ」

「そう……なのか?」

「そりゃね。だから、こう言っちゃなんだけどさ……空にはきっと、わかんないと思うよ?」

 俺にはわからない。確か鳴海も、あのときそう言ったのだ。俺には、そして千種には、わからないと。

「僕は、ある。サッカーをやめようと思ったこと、何度もあるよ。数え切れないくらいね。空、知らなかったでしょ」

「数え切れないくらい……?」

「うん、そう。空の横で、僕だっていつもサッカーをやっていたんだ。誰の目にも留まらなくてもね。ただ、僕は空には全然かなわなかった。いつも光が当たるのは空の方で、才能っていうものをまざまざと見せつけられている気がして……眩しくて、とても見ていられなかった。本当に思うようにいかないときは、色々考えたりもしてさ。こんなの全部無駄なんじゃないかとか、いったい何の意味があるんだとか……」

「何の価値があるんだ、とか……?」

「そうそう。ああ、もしかして、こういう話、誰かに聞いたことあった?」

 俺は鳴海の言葉を使って孝文に尋ねる。借り物の言葉であることは、半分くらい彼には見抜かれていたのかもしれない。

「才能って言葉を口にするのは、いつだってそれを持たない人たちだ。憧憬や羨望、そして嫉妬の対象は、結局のところ僕ら側の人間が作り出す。だから空は才能なんて、きっとそんな言葉、知らなくていい」

 知らなくていい。彼の言葉は、慰めているようにも、突き放しているようにも聞こえた。孝文は今、その胸に、俺に対するどんな感情を抱いているのだろう。変わらず落ち着いた声からは、そういうものが読み取れない。

「実はね、空に出会ってサッカーをやめていった人も、結構いたりするんだよ。僕もそうしようかと思ったこと、何回かあったかな。でもこれも、空は知らなくていいことだ」

 知らなくていい。彼はまた、そう繰り返す。なぜ、そんなことを言う?

 いや、違う。そうじゃない。

 彼が当たり前に知っていることを、あるいは知ってしまったことを、どうして俺は知らないのだろう。俺と孝文の何がそんなにも違うのか。考えたことは、一度もなかった。

 でも俺は、今、知らなければいけないのだ。鳴海が俺へ向けて放った言葉を、ちゃんと理解するために。そしてその先へ進むために。

 孝文の言う通り、俺はずっと、日の当たる道を歩いてきたのかもしれない。周りを見ずにただ前だけを向いて、俺が作った影となる場所に何があったのかを、知ることなしに。

 そうなのだ。だからこそ俺は今ここで、やっと初めて、立ち止まって振り返る。俺の見逃してきたものたちを探して。

 俺は心からの疑問と、そして恐れを抱きながら、彼に尋ねた。

「じゃあ何で……お前は今もサッカーを続けるんだ?」

「……そうだね、何でだと思う?」

 そのときだ。目の前に突然、ものすごい勢いの何かが飛んできた。

「うぉっ!」

 瞬間、俺は身体を強ばらせ、無意識に手を出してそれを受け止める。しかしバランスを崩して尻餅をついた。何のことはない。飛んできたのは、孝文が蹴ったボールだった。

「あ、空、ハンド」

 見上げると、そう言ってからからと笑う孝文の姿が目に映る。

「おま……いきなり今のはあぶねーよ」

「なかなかいいシュート、打つようになったでしょ?」

「いやまあ、確かにいい球だったけどさ。シュートは味方に打つもんじゃねーよ。オウンゴールになっちまうだろ!」

「あっははは」

 孝文はひとしきり笑うと、ゆっくりと傍に歩いてきて手を差し伸べた。

 その様子に呆れながら、俺は引っ張ってもらって立ち上がる。

「好きだからだよ」

「え?」

「空の質問への答えだよ。僕がサッカーを続けるのは、好きだからだよ。楽しいから、僕はサッカーをやってるんだ」

「……何かそれ、さっきまでの話と矛盾してないか?」

「あはは、そうだね。そうかもしれない。でも……本当にそういうものなんだよ」

 孝文はいやに改まった口調になって、両眼で俺を正視していた。彼の穏やかな声音が、茜色の空気の中にゆっくりと溶ける。

「僕は空に憧れた。夢を追いかけている空の姿は、本当に格好よかった。それで僕もサッカーを始めたんだ。でもだからって、空みたいにずっとまっすぐ進んでいける人ばかりじゃない。好きなら好きなだけ、ちょっとしたことが辛くて、負けたくなくて……ときには意地になって、自棄にだってなる。本当に好きだからこそ、どうしようもなく嫌いになるってことも、あるんだよ。まあ綺麗事ばかりじゃないからね。立ち止まって、振り返って……才能とか、色んなこと気にしちゃう人は、いっぱいいるんだ。進むことをやめてしまう人もね。けど、さ……」

 そこで彼はきびすを返すと、くるりと回って俺に背を向けた。

「だけどやっぱり、僕がサッカーを続けるのは、楽しいからなんじゃないかな。そう思うよ。なんか、意味わかんないよね、ほんと。どんなにふてくされても、結局好きなんじゃないかよって。ぐるぐるぐるぐる、同じ葛藤の繰り返しなんだよ。だから僕は、少なくとも今は……才能とかそういうの、気にしないことにしたんだ。だって実際のところは、そんなのよくわからないしさ」

 孝文の言葉を、俺は最後まで真剣に聞いていた。俺の知らないこと、わからないこと……けれども確かに、多くの人が当たり前に抱いている悲壮や苦悩。この身に抱いたことのないその感情に、俺はそっと寄り添って、そして触れたいとすら思う。

 そのために今の俺は……どうしたらいいのだろう。

「空……僕も一つ、聞いてもいい?」

 孝文は動かぬまま、沈みかけの夕陽を眺めながら尋ねる。

「あ、あぁ……何だ?」

「あのさ……空は今、僕のこと、サッカーのこと……どう思ってる? 空ができなくなったサッカーを、傍で平気な顔をして続けている僕を見て……」

 声は小さく震えているような気がした。表情は見えなくても、不安がっているのがわかる。

 俺もさっき孝文に尋ねるとき、そんな声を出していたのかもしれないと思った。だから今度は俺の方が、胸の中の気持ちを偽ることなく、ありのままにまっすぐ告げる。

「……んなもん、決まってら。俺ができなくなったサッカーを目の前でお前がやってたら、めちゃめちゃやりたくなるもんさ。羨ましくも思うもんさ。聞かなくたって、当然だろ。俺はサッカーができなくなって、消えてしまいたいくらい、苦しかったんだ」

 孝文の肩が少しだけ跳ねて、やがて下がる。

 俺は続ける。

「でもお前、平気な顔なんてしてなかったぞ。俺の怪我のこと、他人事なのに超気にして、今までずっと気遣って……なんつーか、ちょっと絡み辛かったんだからな」

「…………」

「えっと、つまりさ……別にお前が、そんなに気にすることないんだよ。お前はもう、俺に余計な気なんて遣ってないで、思う存分、サッカーやれよ。それでいいんだ。心配するなって。確かにすごく辛かったけど、今でもまだ辛いけど……それでも俺は、お前からもサッカーからも離れることはできなかったし、たぶんこれからも、離れようなんて思わないよ」

 俺の言葉に、孝文はすぐには答えなかったが、少しの沈黙の末、振り返ってぽつりと言う。

「……そっか。ありがと」

 見ると、彼は嬉しそうに笑っていた。

 つられて俺も一緒に笑う。そして地面に転がったボールを拾い上げ、孝文に手渡した。

 携帯で時刻を確かめる。

「よし。俺、ちょっとこれから用事できたわ」

「あはは、だよねー。そう言うと思ったよ」

「なんだ、そんなことまでバレバレか。やっぱ心の友は違うな」

 歩き出して孝文とすれ違い、俺はグラウンドをあとにしようとする。

「ねぇ、空。今の空は、サッカーをしていた昔みたいに、僕には見えるよ。一途に夢を追いかけているあのときみたい。僕の憧れた空、そのものだ」

「はは。そりゃ、どーも」

「ここしばらくはちょっと沈んでたみたいだけど、もう大丈夫そうだね。空は本当に……前に進んでいくのが上手だね」

 俺は振り返らないで片手を振る。

「ありがとう、孝文。今度、ちゃんと全部話すよ」

「うん。気が向いたらでいいよ」

「そっか。じゃあ、気が向いたらまた、ここに来るよ」

 学校を出て、俺は駆ける。



 膝に気を遣いながら走るのは慣れていない。怪我をしてからは、そもそも走らないように注意してきたのだ。

 以前に思わず全力で走ってしまったときの痛みが頭の片隅で思い起こされる。リフティングくらいなら問題はなくても、地面を蹴って進むとなると負荷は大きい。

 しかしそれでも、俺は焦らずにいられなかった。早歩きのような駆け足のような、左足を庇った歪な走り方は我ながら滑稽だ。かすかな痛みから下半身は勢いをセーブするも、上半身はやたらと急いて前へ傾く。

 そうして、頭に浮かべた目的地を一心に目指してただ進んだ。いや正確には、思い浮かべたのは人の顔だったが、この際大きな違いはないだろう。

 おかしなほどに確かな予感が、胸にはある。あいつはどうせ、あの駅前にいるはずだと。

 孝文と話して、俺は答えを見つけた気がした。探し求めた末の答え。俺が、鳴海と千種に伝えるべき答え。だから絶対、この想いは二人に伝えきってみせる。

 大丈夫だ。鳴海はまだ千種を、ギターを見限ってなんていない。全然諦めてなんていないんだ。

 だって鳴海は、あんなにも必死になって無視をして、徹底的に嫌ったのだ。普段はとても淑やかで、何があっても動じずに穏やかな笑顔を浮かべて……そんな風に振る舞える鳴海が、俺と千種の言葉に対して、あんなにも我を忘れて怒ったのだ。激しく真剣に、本気になって憤ったのだ。そこに一切、建前はない。彼女の奥底にある本音を全部、ひたすらに鋭い眼差しでぶつけてきた。

 それでよかったのだ。

 誰だって人は、自分が本気でないものに、あそこまで大きな想いを抱かない。悲しいのも、許せないのも、本気だからこそ抱く感情に他ならない。自分の全てだと言える存在に捧ぐ想いは、魂にも等しき重みを持っている。それは自分がサッカーを失ったとき、否応なく感じたことでもあったのだ。

 見ないようにするというのは、その実、見るのと同じであり、意識して視界に捕らえるのと何ら変わりない。まったく反対の行為に見えて、根ざす本質的な想いは一緒だったりするのかもしれない。

 だとするならば、もし逆に何の波風も滞りもなく、激情もなく笑顔であっさりと断られ続けたら、本当に望みはなかっただろう。考えてみればみるほど、今の状況はいくらか楽観的である。十分に前進の可能性を秘めていると言える。

 いや、まあ、おめでたい思考回路をしていることは否定できない。そんなのは全部先刻承知、自覚の上だ。

 俺はどうしても、何が何でも鳴海と千種のギターを聴きたい。それはやっぱり好きだからで……でもなぜそう思ったのか、今ならわかる。俺の中に眠っていた感情に、孝文が気づかせてくれたのだ。

 決して慰めなどではない。確かな理由を、胸を張って主張できる。もう絶対、迷ったりなんてしない。

 だから俺はもう一度……どんなにしつこくても、滑稽でも、愚かしくても……もう一度鳴海に手を伸ばそう。この声を鳴海の心に響かせてみせよう。

 そのための秘策が、俺にはあった。というよりも今思いついたのだが、そんなことは構うものか。以前は届かなかった俺の言葉を、鳴海に届けるための、そのための秘策。今の俺にできる、考え得る限り精一杯の選択。

 頭を使って考える時間は、もう終わった。進むべき道を定めたのだから、次は夢中で前を目指して進むだけだ。足を回し、手でもがき、信じた道をただ前へ進む。

 俺は逸る想いを必死に押さえ、ようやく目的の場所までたどり着いた。

 訪れ慣れた都心の駅。地下の改札から、最短ルートで地上へ上がる。代わり映えしない風景を全部いっさい素通りして、大通りに出て周りを見渡す。

 そして俺は人混みの向こう側に立ち尽くす少女を――千種を見つけた。

 彼女はいつもギターを弾いていた壁際ではなく、そこから少し離れた通りの隅に立っている。部屋着のような地味な私服。コートではないし底の高い靴でもない。髪だって普通の状態で、何よりギターを持っていない。ひどく疲れきった目で消沈して、そのためか本来放つべき輝きを失った彼女は、小さく雑踏に埋没していた。

「千種っ!」

 俺が駆け寄ると彼女の肩がびくりと跳ねる。

 驚いた表情を目の前にして、そのまま構わず叫ぶように、俺は告げた。

「ギターを、俺に教えてくれ!」

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