第四章 彼女たちの仮面の下


 たとえばこんな会話があったとしよう。

「鳴海」

「あら、大江君!」

「あのさ」

「ごめんね。私、これから少し用事があって」

 普通に考えるなら、まあまあ見知ったクラスメイト同士が雑談でもしようと思ったが、しかしたまたま都合が悪くてできなかった……みたいなパターンだと思うだろう。

 だが、俺と鳴海に限って言えば、事はそんなに単純ではない。

 何を隠そう、これは通算六回目なのだ。まったく同じ内容の会話が、既に六回にも上っている。

 よもや何事であろうか。いや、これには、俺と鳴海がどうにも噛み合わずにすれ違い続ける数奇な星の下に生まれたとか、そういうやんごとなき事情が……あるわけではなく。

 正直なところを言うと、俺は彼女に避けられるようになったのだ。しかもかなり露骨なくらいに。

 薄々ながらもそんな予兆は感じていた。残念ながら自意識過剰の思い過ごしではなかったらしい。

 ただ、いくら露骨とは言っても、これはあくまで、俺から見ればの話だった。

 何しろ彼女は、完全無欠の超優等生。学校で俺を明け透けに煙たがり、周りの雰囲気を害すようなことはしない。その素晴らしき立ち回りたるや、まるでカメラの回った映画女優のよう。

 俺が話しかけるとすぐさまパッと花の咲くような満面の笑みを浮かべ、一言二言残してはたちどころに姿を消してしまうのだ。

 どんなにタイミングを見計らっても、風に舞う花弁のごとくひらりとかわし、そもそも近づいて声をかけることすらままならない。徹底してしたたかに避けられている一方で、周囲にはそれがわかるはずもなく、かつ俺にだけはクリティカルに嫌煙の意思が伝わってくる。そんないたたまれない状態が、週末に至るまでもれなく続いた。

 とりあえず困った。泣きたくなった。途方に暮れた。

 サッカーをしていた頃は、むしろ活躍した際に知人から好意的な言葉を貰うこともままあったが、ここまではっきりとした拒絶を、しかも異性から向けられたことなどかつてなかった。幸か不幸かどちらにせよ、俺の人生では初体験だ。

 いったい何をやっているんだろう、俺は。大人しくしていようと思ったのに、入学早々からちょっと突っ走り過ぎてしまった。

 ギターの話は、鳴海にとってタブーだったということだろう。今更それを知ったところで、俺には為す術もへったくれもないのだけれど。

 そして、俺が鳴海に近づけずに右往左往している過程で、図らずも新たに知ったことが一つある。遠ざけられ気味の絶妙な距離から鳴海のことを目で追うにつけ、ちょくちょく視界をちらつく人物がいるのだ。

 千種一華だ。

 結論から言うと、どうやら千種は鳴海のことを尾行しているらしかった。

 朝、ホームルームが始まる前は、廊下側の窓の陰から鳴海のことを窺っている。昼休みになると、教室や学食で食事をする鳴海をこっそり見ている。放課後には用事で様々に出向く鳴海を、まるでどこぞの探偵のようにつけ回している。

 いったい何をやっているんだ、千種は。編入早々、奇行に及ぶにもほどがある。いや、この際、自分のことは棚に上げておくとして。

 ともあれ、随分と奇天烈な事実を目の当たりにしたものだと思った。

 気にかからないと言えば絶対に嘘になったし、他にも色々と話したいこともあったので、俺は日曜日の夜になるのを待ち、都心の駅に出向いていった。そうすることで千種に会える保証はないが、何となく俺には確信があったのだ。先週と同じ場所に、彼女はいる。

 駅の改札から地下街を抜けて地上に上がり、競うように高さを主張する駅ビルに背を向けて大通りに出る。するとだだっ広い往来の中、喧噪に交じってギターの音色が聴こえてくる。

 誘われるようにして音の方へ足を向けると、道の隅に数人の通行人と、フードを被ったコートの奏者が一人だけ見えた。

 何度耳にしても、アコースティックギター単一とは思えないほどに深みのある音楽だ。歌詞のない短めの曲がいくつか披露される過程で、足を止める人は後を絶たない。やがてその演奏に区切りがつくと、コートのギタリストは無言でぺこりと頭を下げた。

 観客は口々に感想を漏らしながら去っていく。やはりというか当然というか、かなりウケは良いようだった。

 俺はそれを横目にしながら、緩やかに人の流れを遡る。

 あちらは俺に気づくと、恐る恐るといった感じでフードをとった。毛先だけを金色に染めたショートヘアが露わになり、端正だが無愛想な千種一華の顔に街明かりが当たる。

 彼女はそっと口を開き、幼さの残る細い声で言った。

「また、来たんだ。大江……だっけ」

 どうやら彼女は、俺の名前を認知しているらしい。俺はまだ、彼女の前で直接名乗ったことはないはずだが。

「ああ。鳴海に頼んでみたんだ。ギターを、弾いてくれって」

「……知ってる」

「だよなぁ。千種、お前、鳴海のことストーキングしてるよな」

 しかしまあ、学校での千種の様子を見る限り、既に俺の名前を知っていても不思議はない。俺が教室で鳴海に演奏を頼んだときも、もしかしたら千種は近くにいたのかもしれない。

「す、ストーキングなんて……言いがかり」

「いや、あれは完全にストーキングだろ。他に言いようがないくらいに清々しくストーキングだろ。鳴海のことだから、もしかしたらそのストーキング、気がついてるかもしれないぞ」

 ていうか、たぶん気づいている。あんな露骨な尾行行為が、鳴海に感づかれないわけがない。むしろ鳴海は気づいた上で、まるで千種が存在していないかのように、完膚なきまでに無視している。

「あんまり、ストーキングって何回も言わないでよ……。別にいいんだもん。もともと私があの学校に入ったのも、玲奈を追いかけて入ったんだから……初めっから玲奈にはバレてるよ」

「お前……」

 初めっからって……別に本人にバレてればストーキングしてもいいわけじゃないだろ。

 まさか、千種の編入そのものが鳴海目当てだったなんて、んな無茶な。未だ学校では口々に、千種が本当にあの唯花なのかとか、だとしたらうちの学校へ編入してきた理由は何だとか、様々な疑問や噂が飛び交っているのだが……おそらく誰一人として、この真実は想像できまい。

「クラスも玲奈と同じにしてって言ったのに……なんか、すっごい教室遠いし」

「お、お前……」

 誰に言ったんだ誰に。よもや編入に際して特定の在校生と同じクラスにしろだなんて、そんな要求を教師が受け入れるはずがない。挙げ句、ものすごく離れた別のクラスにされてちゃ、まったく世話がないとはこのことだ。無事編入できただけでも御の字というものではないだろうか。そもそも千種って、編入試験は受けたのか? うちの学校、偏差知的に決して低くはないレベルだけど……。

 と、まあ、突っ込みたいことは山ほど挙がるところだが、今はそんなことはさておいて……大事な本題の方を進めよう。

「その、鳴海に頼みはしたけれど……断られた。あと、最近ちょっと避けられ気味で」

「……知ってるよ。だから言ったのに。だいたいさ、あんなにしつこくしたら、そりゃあ避けられるよね。常識的に考えて」

「お、お前に常識云々言われたくないぞ」

 堂々とストーカーしてるやつに常識を諭された。俺の学校生活、早くも末に入ったかもしれん。いや、いやいや、俺はあくまで何気なさと潔さを保ってるはずだからセーフ……。

「ギター……やめたって言ってたんだ」

「それも、知ってる。中三になったときに、やめたんだってね。私がここを出ていって、すぐやめたってことだね」

 千種は俯き気味に、自分の提げているギターを見る。しょんぼりと寂しそうな表情をしている。きっと昔のことを思い出しているのだろう。

 俺がわざわざ報告しなくても、千種は結果を知っている。こうなることくらい初めからわかっていたと、そう言わんばかりの口調で答えた。

 しかし、今日俺が千種に伝えたいのは、ただ単に断られたという事実だけではなかった。俺は話の続きを小さく呟く。

「本当……かな」

「何が」

「鳴海がギターをやめたっていうの、本当かなって思って」

「どういうこと?」

 千種は怪訝そうに首をかしげ、ぶっきらぼうにこちらを見上げる。

「やめたって言ってたときの鳴海、何だかいつもと、様子が違った。だからちょっと、気になってさ」

「それは、大江が私の名前を出したから、だから玲奈は怒ったんだよ」

「名前? 千種の?」

「玲奈は私のこと……たぶん、嫌いだから」

 千種の言葉は、話すほどに弱く尻すぼみになり、肩は力なく下がっていく。

「嫌いって……そう、なのか?」

「……うん」

 嫌い……嫌いか。いや、あの様子を見る限りでは、俺にはそれを肯定することも否定することもできはしない。ただ二人の間には、確かに何かひとかたならないものがあって、複雑そうだと想いを巡らせることしかできない。二人の過去を知らない俺にできるのは、唯一、想像することだけだった。

「玲奈がギターをやめたのは、やっぱり私のせいなのかな……」

 目の前で千種がぽつりと零す。まるで母親を見失った迷子のように悲しそうで、どうしたらいいのかわからず途方に暮れているように見える。

 だからだろうか。俺はそんな彼女を見て、思わず口を開いていた。思い込みの域を出ない勝手で不確定な想像で、彼女を慰めるかのように。

「やめて……ないと思うんだ。鳴海はきっと、まだギターをやめてない。そんな気がする」

 実際に口にしてみて改めて知る。これは俺の本心だった。俺は鳴海がギターをやめたとは、まったく思っていないのだ。

「どうして」

「鳴海、ついこの間、学校でギターを弾いていたんだ。ちょっとだけど、聴かせてくれたこともある」

 だって、鳴海のギターは、衰えてなんていなかった。二年前のストリートライブと比べでも、遜色がないほど緻密で丁寧で、力強い演奏だった。音楽のことはあまり詳しくないけれど、あれはブランクのある演奏では、決してなかった。たとえばもしサッカーなら、二年もご無沙汰でベストパフォーマンスなんて、とても出来やしないのだ。そういうものではないだろうか。

「玲奈がギターを? それ、いつ?」

「初めに聴いたのは、千種が編入してくる前かな。あとは、この前の月曜日だ」

 ……あれ? もしかしたらその月曜にも、千種は鳴海の後をつけていたんじゃないか? だとすると、俺が音楽準備室で鳴海と一緒にいたことも知ってて、俺が歌ったのも聴いていたのでは……?

 そう思って少し恥ずかしい気持ちになったが、俺が答えると千種は

「月曜日……編入のことで職員室に呼ばれた日だ……」

 と不満そうにボソッと零した。どうやら千種はあの日、俺たちの近くにいなかったらしい。

「玲奈のギター、聴いたんだ。いいな……ずるいよ。私も聴きたかった」

「ず、ずるいって言われてもな……」

 千種は、まるで子供のようにいじけた様子で、寂しげに口を尖らせる。

「私も……聴きたかった」

 弱々しく繰り返されるその声音は、喧噪の中にいるとかき消されてしまいそうだ。空気に溶けるほど小さな声を絞り出し、うわごとのように彼女は漏らす。

「……もう一度、玲奈と一緒に弾きたいな……」

 その言葉を聞いて、俺は思った。そうだ、是非一緒に弾いてくれ。あのときの曲を、二年前のライブの曲を、もう一度二人で弾いてくれ。そんな風に。

 俺が聴きたいのは、あの荒々しくて美しい、心が夢で満たされるような二人の曲だ。だからそれを、千種と鳴海でもう一度、もう一度だけ弾いてほしい。

 そして俺は、いつしか自分の思い込みを確信に変え、熱を込めながら彼女に告げる。

「ならさ、次は一緒に頼みにいこう!」

「え?」

「千種も一緒に、鳴海のところに行くんだよ。千種が直接誘った方が、きっと何倍も効果がある。千種だって、本当はそうしたいんだ。……ちがうか?」

 バレバレのストーキングまでしていたくらいなんだ。千種だって本当は、鳴海と話したがっているはずじゃないか。

 しかし彼女は、俺の誘いに対して、素気なくぷいっと横を向いた。

「……やだよ。私が行っても、どうせ聞いてくれないもん。玲奈は私と、話したがらないと思うし」

「だ、大丈夫だって。えっと、まあ、なんだ、その……俺が何とかする」

「思いっきり避けられてるくせに、よく言うよ」

「ぐっ……」

 一度拗ねた子供よろしく、なかなかどうして彼女は頑固だ。彼女の胸ほどの高さまで頭を屈めて訴えても、色よい答えをもらうことができない。

「本当に何とか……どうにかするから!」

「どうせまた上手いことあしらわれるよ」

「頑張るから! 俺がちゃんと、千種が鳴海と話せるようにするから!」

「玲奈って、怒ると怖いんだよ」

「そ……そこは、千種にも頑張ってもらうしかないけど……。てか、怒らせないようにするしさ」

「私、口じゃ玲奈に絶対勝てないし」

「こらこら。こっちが端から喧嘩腰でどうするんだ。穏便に、紳士的にだ」

「私、紳士じゃないし……淑女だし」

 いや……千種が淑女かどうかは結構怪しいけど……まあ、それはともかくとして。

 週明けにまた俺一人で鳴海にかけあってみたところで、結果は既に見えている。あの隙のない完璧な笑顔に阻まれて、きっと何も言うことすらできやしないのだ。

 でも、千種と行けば何かが変わる。千種と鳴海に、ちゃんと面と向かって話をさせてやれば、何かしら事は進展するはずだし、鳴海ももう少しギターのことを考えてくれそうだ。

「千種は難しいこと、考えなくていい。もう一度、一緒に弾きたいんだってことだけ、鳴海に伝えてくれればいいから。だから、頼むよ」

 俺は今一度、言葉を重ねて千種を拝んだ。どうにか千種の方からも鳴海を誘ってくれるようにと、低頭で両手を合わせてお願いした。

 路上でこんなことをしていては周囲から不審がられるかもしれないが、この際、気にしてはいられない。

 千種は俺を前に口を結んで無言だったが、しかしやがて、何かを考えるように目線を下に泳がせたあと、渋々といった感じで呟いた。無愛想な表情の中に、わずかだけの不安と、そして期待を思わせる感情を浮かべて、たどたどしく答えてくれた。

「……わかった」



 翌週は四月の末にしては肌寒く、濁った曇り空だった。寒の戻りというやつだ。

 しかしながらそれとは逆に、鳴海の様子はまったく戻ってなどいない。寸分違わず相変わらずだ。

 ま、まあ大丈夫さ。別にこんなの、全然予想の範囲内だ。本当に大丈夫。別に俺は傷ついてなんかいない。そう、傷ついてなんか……。

 と、とにかく、学校で始業前に一度千種と顔を合わせ、鳴海に声をかけるのは昼休みということにした。

 もちろんだが社交性溢れる鳴海は、昼休みはいつも友人と食事をする。特にここ最近では、以前と違って一秒たりとも一人になることはなかった。人の目の多い教室か学食で、時間いっぱいまで過ごしている。

 今日は教室で弁当のようだ。

 俺はといえば、普段は孝文と学食か購買に行くところを、断って教室に残っている。弁当を持たない俺が誘いを断ったことに、孝文は少し首を傾げていた。まあ自然な反応だ。

 しかし今は飯など食っている場合ではない。

 これまでの俺は鳴海に対して、彼女が誰かと話していたり、用事のあるときは邪魔をしないようにしてきたものだが、もうそんな悠長なことは言っていられないのだ。週末を経てなお変化のない鳴海の態度を見るにつけ、もはやしばらくは会話の好機など訪れないだろうと容易に想像できるわけだし、ならば多少の強行突破はやむを得ない。

 俺は深呼吸をしてゆっくりと席を立ち、鳴海のところへと歩いていった。

 彼女は友人二人と、一つの机で食事をしている。近づくと鳴海と他二人の視線が俺へ集まり、それに伴い教室全体が少しだけ静まった。するとさらに、欲しくもない周りの注目まで浴びることになる。

 なるべく意識しないようにして、俺は言った。

「鳴海、ちょっといいか」

 声が震えなくて幸いだ。

 鳴海は少し驚いたように俺を見上げたが、すぐに答えた。

「え? ……ええ、いいけど」

「じゃあ、こっちに来てくれるか」

 俺が同行を促して教室の出口まで移動すると、遅れて彼女もついてくる。

 背中には、この場にいる大半の人の視線が刺さっているのを感じ取れた。昼食に水を差された鳴海の友人二人の「何、どうしたの?」「さぁ、わかんない」という会話がかすかに聞こえる。

 振り返る勇気など毛頭なかったし、一足先に教室を出た俺は、鳴海がついてくることだけを確認して廊下を進んだ。

 彼女は俺との間に絶妙な距離を保ちながら、きっちり縦に並んで歩く。

 少し教室から遠のき、やがて中庭に面する渡り廊下へやってきた。こんな天候だからだろう、辺りに人影は見られなかった。

「えっと……どうしたの?」

 彼女が尋ねる。

「話が、あるんだ」

「大江君にそう言われるの、これで何回目かしら。クラスであんな風に声をかけたら、みんなに誤解されちゃうんじゃない?」

「そう……かもな。ごめん」

 渡り廊下を歩いていると、冷涼で湿った風が吹きつけてくる。会話がない間は、俺と鳴海の足音がよく聞こえる。彼女の足音の方が、俺のと比べてわずかに多い。

「それで、何?」

「……頼みがある。鳴海のギターを、聴かせてほしい」

 俺がそう言うと、彼女は小さくため息をつき、困ったような口調で零した。

「……その話はもうしないでって、言ったのに」

「ああ、悪いと思ってるよ。でも、少しだけ話を、聞いてほしいんだ」

「大江君、あなたもいい加減、諦めてほしいのだけれど……」

 会話をしながら渡り廊下を抜け、反対の校舎までたどり着く。迫ってくる曲がり角を折れると、俺はそこで振り返った。

 少し遅れてついてきていた鳴海は、曲がった先で俺と相対したことに気づく。

「……っ!」

 そして俺の後ろにいる人影を見てハッとしたかと思うと、直後、フッと鳴海の表情は失われた。さきほどまでの落ち着いた声とはとはまったく違う、冷えた抑揚のない声が漏れ出す。

「大江君。あなたもいい加減、諦めが悪いわね。いったい何を聞けと言うの」

 能面のような鳴海の顔が、真っ直ぐ俺に向けられていた。静かに睨みつけられているのだと思った。

 無感情な声音に背筋が震える。しかし当然、ここで逃げ出すわけにもいかない。

「千種の話を、聞いてほしい」

 そう、だって今、俺の後ろには千種がいるのだ。俺を間に挟んで鳴海から数メートルほど離れた位置に、千種一華が立っている。両手を緩く正面で組み、俯きながら身体を丸めて、弱々しく縮こまっている。

 俺が軽く視線を送ると、千種はおずおずと口を開いた。

「あの……玲奈……」

「どうして戻ってきたの」

「っ!」

 対して鳴海は、すぐに視線を千種に移し、睥睨しながらぴしゃりと言い放った。尋ねているというよりは、咎めているような語調だった。

 千種の肩が、怯えたようにビクッと跳ねる。

 鳴海は続けた。

「あなた、どうしてこんなところにいるの? 稀代の天才美少女ギタリストなんでしょう? 上手くいっているように見えたけど?」

「……ご、ごめんなさい。でも、私、寂しくて……一人でギターを弾くのは、寂しかったから……だから」

「何よそれ。そんな理由で逃げ帰ってきたの?」

「玲奈と一緒に弾けないのが、耐えられなかった。私、もう一度玲奈と一緒に弾きたくて……」

 鳴海は大きな溜息とともに、吐き捨てるように言葉を返す。

「呆れた。せっかくあなたの音楽が認められて、あなたの演奏をたくさんの人が聴いてくれていたのに。たくさんの人が、あなたを認め始めていたのに。それなのに、全部台無しにして逃げてきたのね」

 そのただならぬ物言いに、俺は驚きを通り越して呆然とし、動くことができなかった。本来なら口を挟むべきだったのかもしれない。しかし、以前に教室で話したときよりもいっそう冷え切った鳴海の様子に、この手も足も、そして口さえも、氷漬けにされた気分だった。

「だって……私にはやっぱり、無理だったんだよ。私一人じゃだめなんだ。玲奈と一緒じゃないと……昔みたいに、玲奈が隣にいてくれないとさ……」

「今更、何を言っているの。馬鹿じゃないの。私があなたの隣にいたことなんて、ただの一度もなかったわ。一華、あなたは初めから一人だった。あなたは一人で、この街を出ていったの。そのくせみっともなく逃げ帰ってきて、挙げ句の果てに、また私とギターをやろうだなんて……それはいくらなんでも、都合良すぎるんじゃない?」

 千種はさらに小さく縮こまってしまう。その儚げな声が、だんだんと震え出す。

「……ごめんなさい。逃げ帰ってきて、ごめんなさい。わがまま言って、ごめんなさい。でも……それでも私、どうしても玲奈と……玲奈ともう一度、ギターが弾きたいんだ。玲奈に教えてもらって、二人で上手になっていくのが楽しかったあの頃みたいに……二人で夢を追っていたあの頃みたいに……もう一度……」

「……夢、ね。その夢を、あなたは一人で掴み取ったわけだけどね」

 鳴海は千種を見据えながら、わずかに一瞬だけ、虚ろな目を切なげに細めた。しかしすぐに元の無表情に戻って淡々と答えた。

「私は一緒にやりたくないわ。もう二度と、あなたと二人で弾くつもりはない。だって私は、もうギターなんてやめたんだから」

 千種はそこで顔を上げる。

「やめ、た……? でも……でも私、大江に聞いたよ。大江の前で弾いたんでしょ? 大江にギターを聴かせてあげたんでしょ?」

「だったら何?」

「だ、だから……玲奈はギターをやめてないはずだって……」

「……やめてないはずだって、大江君が?」

 鳴海の顔がこちらに向けられた。その鋭い視線に突然晒され、俺はたじろぐ。

「あんなのただの気紛れじゃない。ねぇ大江君。私、あなたに言ったわよね? ギターはもうやめたって、言ったはずよね? 一華に伝えないならまだしも、嘘を伝えるなんて、どうかしてるわ」

 どうかしている。確かに、俺はどうかしていると思う。

 だがそれを言うのなら、今の鳴海も、十分どうかしているに違いない。清楚で穏やかな、暖かな普段の彼女の面影はどこにもなく、同じ容姿を被った別人にしか思えない。

「私はもう、ギターはやめたの。そんなものもうやめたのよ。音楽なんて、とっくの昔にやめたんだから」

 平坦に、でも強くはっきりと鳴海が断じる。

 千種の口からは、縋りつくような声が漏れた。

「そんな……お願い、玲奈。やめたなんて、言わないで。玲奈は、私にギターを教えてくれたのに……あんなに上手なのに……玲奈はギターが、好きなはずなのに……どうして」

「……何ですって」

 そして、そのときだ。

 ずっと単調だった鳴海の言動に、明らかな変化が訪れた。今の今まで、感情の浮かんでいなかった鳴海の顔。そこに、まるで何かが染み出すかのようにして、じわりと表情が現れていた。

「よく言うわ、一華。あなたに私の何がわかるの。私がギターを好き? 私のギターが上手?」

 その“何か”とは、何だったのか。おそらくそれは、怒りだった。憎悪だった。俺の直感が、拒絶するほどの負の感情だ。

「そんなこともわからないから、だからあなたは昔から、いつまでたっても一人なのよ」

 けれども、目の前の鳴海は笑っている。綺麗な花を握り潰したかのような、涼しく凄惨な笑みを浮かべている。

「私はギターなんて嫌い。音楽なんて、嫌い。大嫌いなの」

 ゾクッとして、反射的に一歩引いた。こんな笑い方をする人間がいるなんて、俺には信じられなかった。

 鳴海がその胸に何を抱いているのかわからない。渦巻く暗闇が恐怖を掻き立て、その先を見てはいけないと警告する。

 鳴海の言葉は次第に威圧的な迫力を増し、ひどく濁った感情を乗せ、千種に向かって告げられた。

「ねぇ、一華。私はね、あなたのことだって……大嫌いよ」

 千種は瞬間、蒼白した顔で大きくその目を見開いた。やがて潤んだ瞳を隠すように伏せ、踵を返して走り去る。そのまま校舎の奥へと続く曲がり角に消えて見えなくなった。

 俺と鳴海が残されたあとには、居心地の悪い沈黙が落ちる。静かに雨の降り始める音が耳に届いた。

「お、おい鳴海……今のはちょっと」

 俺がふらふらと口を開くと、千種の走り去ったあとを鋭く見つめる鳴海が、その瞳だけを動かして俺を睨む。

「それと大江君。あなたは、私相手なら頼み倒せば何とかなると思っていたのかもしれないけれど、残念ながら見当違いよ。あんまりしつこいと私、怒るから」

 鳴海の綺麗な色白の顔に、真っ黒い絵の具を塗りつけたような影が落ちていた。

「まあ、面倒だからあなたには言っておくわね。私、普段は猫被ってるだけで、本当はあんなに穏やかでも、優しくもないのよ。だからいい加減、もう私に関わらないで。我慢にだって限度がある。これ以上は、何をするかわからないわ」

「でも、でもさ鳴海。俺も思うんだ。鳴海はギターが上手なのに、やめるなんてもったいないじゃないか。千種も真剣に言ってるんだし、何もあそこまで……」

 俺が言うと、鳴海はまた大きく溜息をついた。こめかみに指をあてがい、呆れたように彼女は答える。

「はぁ……あなたも一華に負けず劣らず、本当に人の神経を逆撫でするのが上手いのね。もしかして、あなたもあの子と同じ人種なのかしら」

「お、同じ……?」

「ああ、そうね。そうかもしれないわね。だってあなたも少し前までは、天才サッカー少年だったんだものね」

「ど、どういう意味だよ」

「どうもこうも……わからない?」

 投げかけられたその問いには、いくらかの苛立ちが含まれている。

 俺が答えず黙っていると、彼女は続けた。

「私の音楽とあの子の音楽。その間には、誰もが認める明確な差があるわ。あなたはそういうものには鈍いようだけれど、でも、比べてちゃんと聴けばすぐにわかる。わかっていないのは、それこそあの子くらいのものよ。あの子の才能は、唯一無二の本物で……代わりのない、他を寄せ付けない絶対的なもの。たった一年の間に、途方もない数の人を魅了する力がある。私なんかとは、全然違う」

「た、確かに千種はすごいやつだ。でも、違うかどうかわかんないだろ。鳴海だって――」

「わかるわよ」

 鳴海は俺の言葉を阻んだ。強くなり出した雨音の中で、冷たく乾いた声を響かせる。

「みんなわかっていることよ、初めから」

 鳴海の瞳に、小さくなった俺の姿が映っている。まるで縫いつけられたかのように、俺は彼女から目を逸らすことができなかった。

「私と一華が出会ったのは、母のやっていたヴァイオリン教室だったわ。幼い頃、私とあの子はヴァイオリンを弾いていて、きっとそのときから、あの子は才の片鱗を見せていたの。母ももちろんそれに気づいていたんでしょう。いつも私の演奏を褒めてくれはしたけれど、ふとしたときに、よく寂しげな表情をしていたわ。無意識に私と一華を比べていたのだと思う。隠し事には、向かない人だったから」

 彼女の声は平坦なまま、しかしわずかな綻びが、震えとなって見え隠れする。

「そのうち私はギターを始めて、一華も真似してついてきて、二人で弾くようになって、よくわかった。あの子の持つ天賦の才が、私との違いが、価値の差が……よくわかった。私は、あの子には到底及ばなかった。初めから、一緒になんて弾けるわけがなかったのよ。あの子は一人で、ずっと先を歩き続けている。私には手の届かない、ずっと先を」

 鳴海は流すように、窓の外へと視線を移した。その先の中庭は白雨で煙っている。

「だから、駅でレコード会社の人に声をかけられたときも、嬉しいなんて思わなかった。目当ては当然のように一華みたいだったし……二人でデビューなんて言われたって、私は断るに決まってるじゃない。だって所詮、凡才の私はあの子のおまけでしかなくて……それどころか、邪魔ですらあったのかもしれなくて……私の音楽に、一切価値などないのだもの」

 冷たい怒りを溶かした表情に、今度は嫌悪と、諦めの色が浮かび上がる。鳴海の目に、涙はない。でも泣いているように、俺には思えた。

 やがて気怠げに踵を返し、俺の方へ背を向ける。

「あなたや一華みたいに、選ばれた人間にはわからないのかもしれないけれど、この世界には、たくさんの平凡な人がいるの。大した才能のない、とるに足らない人がいっぱいいるの。選ばれなかった人たちがね。そして私もその一人。だから私は、そんな自分に正しく見合う選択をしたのよ。一華とは違って才能を持たない凡庸な私は、もっと普通の選択をしたの。ギター片手に夢なんて追わない。ありきたりでいい。ありふれていていい。普通にちゃんと勉強をして、普通にちゃんと社会に溶け込んで……たとえ逃げたと罵られたとしても、割り切って笑顔を返すように努める。それでいいじゃない。そうすることに、どこにも罪なんてないのだもの」

 鳴海は自分を守るために、言葉の刃を振るっている。俺へ向けて、俺を退けようとして、とにかく斬りつけ、吐き出している。けれどもその実、振るった刃は鳴海自身を最も深く傷つけているのではないか。

 語る彼女の背は痛々しく、見ていられないとすら感じてしまった。漂う悲壮が、彼女の抱える闇をいっそう濃く塗り重ねる。

「ねぇ、あなただって、もうサッカーはやめたんでしょう? それと似たようなものじゃない。私はヴァイオリンから逃げて、ギターだってもうやめたけれど、別に口を出されるいわれはないわ。やめる理由なんて、人それぞれあるものよ。昔聴いた私と一華の演奏に、あなたは何を求めているの? 懐かしさや、あるいは慰めでも求めているの? もしそうなら、そんなのはただのわがままよ。迷惑だから、本気でやめて。私はもう二度と、音楽に戻るつもりはないわ」

 彼女の圧力に、俺は何も言えず立ち尽くしていた。ただただ彼女の深淵が恐ろしく、その失意と慟哭に、味わったことのない苦しみを見た。

 やがて彼女は歩き出して、来た道を引き返そうとする。千種が消えたのとは反対の方向へ進もうとする。

 同時に校舎にはチャイムが響いた。昼休みの終了を告げる合図だ。

 俺はその音に意識を取り戻し、咄嗟に足を動かした。鳴海を追うつもりで前へ踏み出したが、しかし彼女は首だけで振り返って、突き放すように言う。

「追いかけるなら私じゃなくて、一華を追ったらどうかしら。あなたが連れてきたんでしょう? あのまま放っておいていいの?」

 俺は結局、数秒迷い、歩き去る鳴海の背を見つめながら唇を噛む想いで引き返して走った。



 雨で冷え始めた空気の中、上気した頭では上手く身体を制御できず、ほぼ全力疾走で俺は駆けた。

 左膝が悲鳴を上げている。踏み込むたび、床を蹴るたびに嫌な感覚が身体に走る。痛いはずなのに、でも足が止まらない。速度を落とさず、とにかく前に進んでいく。

 特別教室棟の奥へと消えた千種の姿は、すぐ近くには見られなかった。だいぶショックの大きい顔をしていたし、闇雲に走っていってしまったのだろう。方向からして教室に戻ったとも思えない。どこかに一人でいるはずだ。

 もしかしたら……いや、もしかしなくても、泣いているかもしれない。

 まさか鳴海が、千種に対してあんなにも強く当たるなんて思ってもみなかった。二つ返事の承諾は無理でも、俺が一方的に頼むよりはいくらか揺れるだろうしマシだと思った。

 でも違った。大間違いだった。甘い目測で動いたのがこのザマだ。俺は鳴海にだけでなく、千種に対しても悪いことをした。ひどく軽率だったのだ。

 ただそれでも、今は千種を捜すのが先だ。弁明も後悔も、あとで好きなだけしたらいい。

 校舎一階の廊下と教室、どこを探しても千種はいない。ならば階段で上へ行ったのかもしれない。

 とっくに授業は始まっている。二階には使われている部屋もあるので、そこにいる教師や生徒に見つからないよう気を払いながら先を急ぐ。

 一階と同じく二階も、行けるところの全てを確認して千種がいないとわかると、俺は吹き出てきた汗と膝の痛みを無視して三階へ上がった。

「はぁ……はぁ……」

 真剣に走ったのなんて、思えばいつぶりなのだろう。随分と息切れが激しい。手すりや壁を伝いながら何とか進む。もはや体力は、サッカーをしていた頃と比べるべくもない。

 空いた部屋を調べながら廊下を進むと、角を曲がったところで千種の背中が視界に入った。壁に片手をかけながら、床にしゃがみ込んでいる。

「うっ……あぁ、うっ……っ」

 やはり泣いているようだ。

 俺は一回だけ深呼吸をしてゆっくりと近づく。驚かせないように、わざと足音を立てて。

「千種……その、ごめん……」

 千種はすぐには振り向かなかった。より深くその背中を曲げ、しゃがむというよりはうずくまるような格好でいる。

 不審に思ってやや駆け足で彼女のもとへ急ぐと、耳には不規則な掠れた息遣いが届いた。

「……れ、玲奈、ぁ……。あっ……う、ぁ……」

 浅い呼吸に混じってうわごとのような声を漏らし、辛そうに繰り返し喘いでいる。

 そこで俺は彼女の異常に気づく。

「ど、どうしたんだ!?」

 肩に手を添えて呼びかけるが、答えはない。かわりに倒れ込むようにして、彼女は俺にもたれかかってきた。

「はっ……う……れっあぁ……」

「お、おい! 千種!」

 ほとんど意識を失う寸前。上手く呼吸ができていない。

 これは……そう、過呼吸だ!

 やけに呼吸が速くなって息苦しく、胸が押さえつけられるように痛むあの症状。

 中学の部活の練習でチームメイトがなっているのを見たことがあるし、俺自身も一回だけ経験がある。目の前の千種は、まさにそれだ。

 彼女を抱き抱えながら、俺は混乱する頭でどうするべきか考える。過呼吸への対処法……当時、自分がどうしてもらったか。

 そして、ハッとして思い出すと、俺はすぐに自分の制服の上着を脱いだ。丸めて袋のようにして千種の口にあてがう。

「千種! とにかくこれ持て! 自分の吐いた息を吸うんだ! ゆっくりだぞ!」

 なぜだか知らないがこうするといいらしい。俺のときは紙袋でそうしてもらった。急場凌ぎくらいにはなるはずだ。

 彼女は覚束ない手で俺の上着を持つ。

 しばらくして状態が多少落ち着くと、俺は彼女を背負って保健室に連れていった。

 彼女はとても軽かった。幼い子供のような体躯に相応の質量のなさ。女性だからというよりは、放っておいたら空気に溶けて消えてしまいそうな儚さゆえに、それを感じた。

 背中から聞こえる細い泣き声は弱々しい。聞いていると、どうしようもない気持ちばかりがわいてきて、俺まで一緒に泣き出しそうになるのを、奥歯を噛みしめて我慢した。

 保健室の先生は駆け込んできた俺を見て少し驚いたようだが、落ち着いて対処をしてくれた。薄化粧の顔が、闊達な表情を形作る。

 千種の症状はやはり過呼吸で、どうやら突発的なストレス性のものらしい。

 先生はベッドを用意し、そこに千種を横たえる。授業中だったにも関わらず事情を尋ねてこなかったのは、おそらく俺への配慮なのだろう。実際、こちらとしてはありがたかった。

「あとは私が処置しておくから、君は授業に戻りなさい」

 ベッドのカーテンをカシャっと閉め、先生は言う。

「あ、あの……でも、俺も何か……」

「服を脱がせて汗を拭くんだぞ? だとしても君は手伝うか?」

「あ、いえ……それは、ちょっと」

「だろう? 大丈夫さ。過呼吸で死ぬことはないし、もうかなり落ち着いている」

 先生の声は穏やかだった。

「そこのタオルを使っていいから、君も汗を拭いておくんだな。上着は……この子が手放しそうにないから、薄着で風邪を引かないように注意しなさい。放課後になったら、また様子を見に来ればいい」

「……はい」

 俺は言われた通り、大人しく授業に戻った。

 左膝に熱がこもって、身体中に疲労が充満していた。それに、大丈夫と言われはしたが、それでも千種のことは心配だ。教室にいたらいたで鳴海のことも気にかかるし、とても授業なんて頭に入ってこない。

 俺は結局、上の空で午後の授業を全部受け流し、放課後になってから再び保健室を訪れた。

「失礼します」と言って扉を開けたところで、出てくる先生とすれ違う。

「ああ、君か。ちょうどよかった。しばらく留守を頼まれてくれるかな」

「え? は、はぁ……先生は?」

「私はちょっと、燃料補給だ」

 そう言って先生は、唇に人差し指と中指を添える独特の仕草を見せた。

「……マジすか」

 煙草? それって煙草? もしかして煙草?

 養護教諭が勤務時間中に煙草?

 おいおい大丈夫なのかよ。燃料補給っていうか、むしろ燃料燃やしてるんですけど。

「すぐ戻るよ。私が留守のうちに、彼女と話しておいたらどうだい」

 俺の代わりに扉を閉め、先生はフラッとどこかへ消えた。

 ……まあ確かに、二人だけの方が千種と話はし易いけど。

「千種、開けるぞ」

 俺はベッドを囲むカーテンの前でそう告げる。だが、しばらく待っても返事がない。結局迷った末に、恐る恐るカーテンを開いた。

「もしかしてまだ寝て……いや、起きてたか」

 千種はベッドに仰向けになっていた。俺の制服を両手で握りしめて掛け布団代わりにしている。赤い目で俺の方を一瞥すると、もぞもぞと寝返りを打って背を向けた。

「玲奈が来てくれたのかと思った」

「……悪かったな、俺で」

 彼女は少し間をおいて、呟くように返事をする。

「……ううん。大江が、ここまで運んでくれたんだよね。ありがとね」

「あ、あぁ……」

 そして俺たちの間から、言葉が消えた。

 きっと言いたいこと、考えていることはいっぱいあって、千種の方もそうなんだと思う。でも、心の中がどうにもこうにも散らかっていて、何から口にしたらいいのかわからない。

 俺はその散らかった想いの中から最初に言わなくてはならないものを見つけ出し、おずおずと一言ずつ声にする。

「その、悪かったよ……色々とさ。大丈夫か」

「…………ううん」

 千種は首を横に振った。

「千種?」

「……ううん……大丈夫じゃ……ない。大丈夫、じゃ、ないよ。全然……大丈夫じゃない……」

 彼女の声はところどころ掠れていた。

「玲奈に……嫌いって言われた。大嫌いだって。玲奈、私のこと嫌いだって……ギターも、嫌いだって……」

 背中を丸めて小さくなり、震えながら嗚咽を漏らす。

「そうかもしれないって、わかってた。玲奈はもう、きっとギターをやめていて……それは私のせいなんだって。でも……でも……」

 そして堰を切ったかのように、彼女は泣いた。

「……ぅ、ぅわあぁぁん。玲奈、私のこと、嫌いだって……大嫌いだってぇ。やだよぉ! 玲奈に嫌われたくないよぉ! 前は、あんなに優しくしてくれて、二人で一緒に弾いてくれたのに! 私がギター始めたのは、玲奈と一緒にいるためなのに! なのにっ!」

 両手で必死に自分の身体を掻い抱いて、涙を抑え、声を抑え、それでも抑えきれずに溢れ出る想いが彼女の瞼の裏を焼き、その喉をすり減らしていく。

「私は、れっ、玲奈のこと、大好きなのに……なのに玲奈は、私の目の前で、私のこと嫌いだって……あんな、に、怖い目で、冷た、い声で、きら、嫌いだってぇ。やだよぉ。玲奈と一緒に、いられるなら、私、何でもする、するから……だから、お願いだから、玲奈と一緒にいさせてよ。じゃ、じゃないと、私、生きて、ひっ、けない。玲奈に捨て、捨てられたら、私、生きて、生きてけない、よ。一人で弾いてなんて、いけるわけないんだ! そんなんじゃ私、し、死んじゃうもん! ぅ、うわあぁぁ――ぁ、あぁぁ――!」

 まるで火がついたような激しい泣きように、俺は慌てた。痛々しくて見ていられない。

 でも、かける言葉なんて俺は一つも持っていなかった。ただ傍に立っていることしかできなかった。

 だって俺は、わかっていたのだ。彼女の悲涙を、拭ってやれるのは俺ではない。

「お、落ち着け千種! あんまり泣くとまた……」

 落ちる雫が次々とシーツに吸い込まれ、薄い染みとなって儚く消えていく。

 俺がベッドの周りであたふたしていると、横から場違いな冷やかしが飛んだ。

「あーあ、まったく君は。また泣かせてー」

「ぅお! せ、先生。いつの間に」

 知らないうちに先生が戻ってきていた。ベッド脇の壁にもたれて俺を見ている。

「ちょっと。またって何ですか、またって。別に俺は初めから、千種を泣かせたわけじゃ……」

 ただそこで、ふと思う。実際のところ、どうなのだろう。俺は反射的に言い返そうとしたものの、やがて言葉を失った。

 確かに俺は、直接的に千種を泣かせたわけではない。でも、だからといって責任がないというわけでは、決してないのだ。彼女の涙の原因に、少なからず俺は含まれている。

「いや……俺が泣かせた……のかも、しれません、けど……」

 ベッドで泣き続ける千種を前にして、俺は力なく呟いた。

「…………ふぅ。まあ、私は事情を知らないし、特に首を突っ込むつもりもないが……」

 俺が気落ちしたのを見てからかう気が失せたのか、先生は軽い溜息とともに机に戻った。保健室の窓際にある、養護教諭の特等席。そこに片肘をひっかけ、流し目を送りながら脱力して言う。

「ただ、その子を一人で帰らせるのは、ちょっとどうかと思っていてな。私が車で送ってやってもいいんだが、それだとまだかなり待ってもらうことになるし……だから、君が送って行きなさい」

「俺が……ですか」

「責任を感じているのなら、それくらいしてやってもよかろう? その子の荷物は、ここに持ってきてあるしな」

 先生はどこからともなく鞄を取り出し「ほら」と持ち上げてこちらに示した。それは千種の鞄のようで、さきほど席を外したときにとってきたらしい。

「……わかりました」

 俺は先生の提案を承諾した。

 確かに、全部先生の言う通りなのだ。今の千種を一人で帰らせるのは極めて心配だし、俺は大きく責任を感じている。

 昼から降り始めた雨は依然として弱まることなく、一向に止む気配を見せなかった。

 俺も千種も傘を持っていなかったので、先生から大きめのものを借り受けた。

 千種の状態が落ち着くのを待ってから、二人で学校をあとにする。

「ちゃんとそこの子が玄関をくぐるまで見届けるんだぞ。わかったな」

「はい」

 帰りがけ、千種の家の住所と、先生の携帯のメールアドレスが書かれた紙を渡された。無事に送り届けて、俺も自宅に着いたら、連絡をせよとのことだった。

 雨の中、オレンジ色をした花柄の傘を片手に持ち、もう一方の手は千種と繋いで、俺が先導しながら歩く。肩には自分と千種の二人分の鞄。教えてもらった住所をもとに、携帯で行き方を調べながらゆっくり進む。

 千種の家は、どうやら学校からかなり離れているようだった。地下鉄などの在来線を三回ほど乗り換え、都心から外れた小さな駅で降りるらしい。俺の家とは真逆の方向だ。

 何でこんなにも遠くからあの学校に通っているのかと思ったが、しかし理由は既に聞いている。千種は鳴海と同じ学校がよかったからだ。

 千種はとぼとぼと、焦点の定まらない目で俺の後ろをついてきていた。泣き疲れたようで、異様に静かな半覚醒。常に気にしてやらないと傘からはみ出て濡れてしまうし、転んでしまうかもしれなかった。

 端から見たら、俺たちはどんな二人に見えるだろう。妙に明るい傘を差し、暗い顔で会話なく歩く様子は、喧嘩をした兄妹のようにも見えるのだろうか。

 もやもやした想いを胸に抱え、気の利いた話などできるわけもなく、止まぬ雨やおかしな趣味の傘を渡した先生にいくつか文句を言いたくもなり……でもそれはただの八つ当たりで、本当に文句を言いたい相手は自分なのだと、俺は気づいた。

 傘を打つ雨粒の音は、不気味なほどに大きく響く。道を行く車の音も、周りの賑やかな店の音も聞こえやしない。

 その代わり俺の頭に繰り返し浮かんでいたのは、無性に聴きたいギターの音と、学校で聞いた胸を抉るような千種の泣き声と、そして……。

 ――私はもう二度と、音楽に戻るつもりはないわ

 そんな鳴海の言葉だった。

 駅に着くと、ちょうど乗るべき電車の出発の時刻だった。

 千種と緩く手を繋いだまま、俺は電車に揺られながら深い思考の海を巡る。鳴海の言葉の意味を、その言葉の裏に隠された感情を、彼女の想いを考える。

 なぜ彼女は音楽を遠ざけるのか。なぜあんなにも、必死で見て見ぬ振りをして音楽を嫌うのか。自分の音楽に価値などないと言った彼女は、どんな想いでその言葉を口にしたのか。

 やはり俺には、あれが彼女の本心だなんて思えなかった。

 だって、きっと……いや絶対、彼女はギターをやめてない。俺はそう信じているから。俺にはわからないことばかりだけれど、それだけは確かに、わかる気がするから。

 彼女のギターを、俺は本当に上手いと感じた。生き生きとした美しい音だと、心底から心地良い音だと感じたのだ。あの演奏は、音楽を嫌う人間にできるようなものではないはずだ。

 そして俺も、本当に好きだからこそ、鳴海と千種のギターを聴きたいのだ。こんなにも聴きたいと思うことに、それ以上の理由が必要だろうか。少なくとも鳴海が言うような身勝手な慰めなんかでは、決してないはずなのに……。

 俺は雨に煙る外界を見ながら、ただぼんやりと考える。

 やがて、ついに一つの言葉のやりとりもないまま、俺たちは目的の駅までたどり着いた。こじんまりとした綺麗な駅で、ほどほどのペデストリアンデッキらしきものが設けられている。見たこともない場所ゆえ土地勘もなかったが、千種に道を聞くことはせず、携帯で地図を見て先に進んだ。

 辺りはもう暗い。まばらな街灯が住宅街への道を照らす。雨音がうるさい。

 次第に人影も見なくなって、足音は俺と千種のものだけになった。まるでずっと雨の止まない世界の中に、二人だけ取り残されてしまったような気分だった。

 相変わらず千種は、人形のように表情を変えない。ガラス玉の目でただただ俺についてきている。そして、ようやく彼女の自宅が見えようかというときになって、口を開いた。

「……玲奈、もう私と一緒に、弾いてくれないのかな……。私と一緒に、いてくれないのかな……」

 その声は切れ切れだったが、俺には全て、しっかり聞こえた。

「もし玲奈が嫌だって言うなら……私、ギター弾くの、やめるから……何だってするから……だから、昔みたいに、私と一緒にいてほしいな……」

 俺は奥歯を噛みしめて、口から出そうな曖昧な言葉の数々を飲み込んだ。千種が今欲しがっているのは、俺の無責任な慰めなどではないはずだった。やり場のない悔しさが身体の内側に潜っていく。

 彼女はみたび、悲しく零す。

「一人で上手くなったって、しょうがないよ。一人でいるのは、ずっと毎日、苦しかった。息をするごとに、苦しかった。きっと私、そのうち一人じゃ、息もできないようになっちゃうよ……」

 雨でかじかんだ指先が冷たい。もう千種の手をちゃんと握っているのかすらも、よくわからない。

 俺は寒さと、そして情けなさから走り出したい気持ちになったがそれもかなわず、無言で千種を送り届けて家に帰った。

 一人になると思ったよりもいっそう寂しくて、身体に広がる疲労と倦怠に耐えきれず、夕飯も食べずにすぐに眠った。

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