第三章 放課後黄昏演奏会
1
「さて、じゃあ、始めるわよー」
ここは誰もいない放課後の音楽準備室。隣では、包み込む夕陽のように柔らかい声で、鳴海が快活に宣言する。
「お、おー」
俺もつられて、どぎまぎしながらノリを合わせた。
なぜ俺はこんな状況にいるのだろうか。いや、より正確に言うのなら、なぜ俺はこんな状況にいられるのだろうか、だ。
先週までは鳴海と話をするためにあれこれ滑稽なまでに奔走していたこの俺が、あろうことか今、放課後に音楽準備室で鳴海と二人きり。
その答えは、遡ること数分前に存在する。
週明けの月曜日、俺は駅前で知ったことを鳴海に聞いて確かめようと、そしてあわよくば彼女にギターの演奏を頼もうと、一日会話の機会を伺っていた。そんな折、またいつもの放浪癖で校舎の中をうろついていると、偶然にも廊下の曲がり角でばったり彼女と出くわしたのだ。
「あら、大江君。こんにちは」
「うおっ! な、鳴海!」
思いもよらないことだったから、俺は飛び跳ねるくらいに驚いた。
あはは、そんなに驚かなくてもいいのに、と鳴海。
「まだ学校に残っていたのね」
「あ、ああ。まあな。そう言う鳴海の方こそ」
「私は、ちょっと用があって」
「あ……そうなのか。部活の見学とかか?」
「ううん。来週から、選択授業が始まるでしょう? だから、それに使う備品の確認をしに行くの。先生に頼まれちゃって」
「今から?」
「ええ、今から。音楽準備室で」
それを聞いて、俺はほとんど条件反射で口を開いた。
「じゃあそれ、俺も手伝うよ!」
「え?」
「……だ、だめ、かな」
「あ、いえ、だめではないけど。でも、そんなの大江君に悪いわよ」
「いいんだ。手伝わせてくれ。選択授業なら、俺にだって関係ある」
鳴海は少し不思議そうに首を傾げたが、すぐに笑顔で頷いた。
「そう? じゃあ、そうね、お願いしようかしら」
うちの学校では、選択授業として美術と音楽が開かれており、美術ではカンバスやイーゼルを、音楽では数種の楽器を使用する。これから行うのは、音楽で使う楽器の状態確認だ。ちなみに美術の方は彼女が昼にやったらしい。教室でも学食でも見かけないと思ったが、なるほど、それもそのはずだ。
うっすらと埃の匂いを吸い込みながら、俺は準備室内の楽器を見渡す。驚いたことに、楽器にはなかなかの数と種類があった。
「へぇー、いっぱいあるな」
「ええ。出しっぱなしのものもあるし、間違って棚に入っているものもあるわね。一度取り出して状態を確認してから、数えて正しく棚に戻しましょう。使えないものは横によけてね」
「うぃーっす」
両腕の袖をまくりながら俺は答える。
横の鳴海は制服から取り出したヘアゴムで髪をまとめ、ポニーテールを結い上げている。長くしっとりとした黒髪が、まるで猫の尻尾のようになって揺れた。
作業としては、まずは部屋にある楽器を俺が並べ、鳴海が状態を確認するという形を取ることにした。重い楽器もあるから力仕事は俺の方がいいし、そもそも俺は、楽器が楽器としてしっかり機能するのかどうかを判断することができないからだ。
対して彼女は、それぞれの楽器の使い方をちゃんと知っていて、出る音に大きな問題がないかをチェックすることができるようだった。何というか、やはり流石は超優等生。まったく、感心してしまう。
運びながら、並べながら、俺は様々な楽器に触れていった。軽音楽系のギター、ベース、ドラム、キーボードといったものから、オーケストラ系のトランペットやホルン、フルート……あとは、ティンパニ? ハープなんてものまである。こんなの誰が使えるんだ。ていうか重い。さすがにちょっと膝にくる。
なにぶん文化系の活動に特化した学校だけあって、備品の取り揃えはすこぶる良いようだ。サッカーばかりをやってきた俺にとっては、そのどれもが初めて出会うものばかり。小学校や中学校の授業では、こんなにたくさんの楽器は使わなかった。
しばらくすると、作業は弦楽器の確認をする段階に移った。コントラバス、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンと、大きいものから順に鳴海の元へ運んでいく。最後にヴァイオリンを手渡すときになって、俺はふと思い出したことが、あり口を開いた。
「そういや、鳴海ってオーケストラ部に誘われてるのか?」
彼女は一つ一つ楽器を見て、確かめながら穏やかに答える。
「んー? ええ、誘われてるわよー。なんかそれ、みんな知ってるみたいなのよねー」
慣れた回答だ。おそらく俺以外にも、たくさんの人に聞かれたことがあるのだろう。
「ああ、でも、大江君は前に職員室の廊下で、直接聞いたんだったわね。そんなこと聞いてどうするの? もしかして、あの先生の回し者、とか?」
冗談交じりに、若干の苦笑いで鳴海は言う。
あの先生というのは、オーケストラ部の顧問の先生のことだろう。以前に職員室で鳴海と話していた……というか少し揉めていた先生である。
「違う違う。そんなんじゃないよ。単純にすごいなと思って。この学校のオーケストラ部って、色んなところで賞とか取ってて、人数も多いし、部活では一番の花形なんだよな。そんなところにわざわざ誘われるなんてさ」
「わざわざ、ねぇ……」
素直に褒めたつもりだし、お世辞でもなく本心だったが、しかし彼女はあまり嬉しくなさそうだ。
「その様子だと、もしかしたら知ってるのかもしれないけど……私の家って、ヴァイオリン教室なのよ。母が開いている教室でね。昔は楽団にも所属していたみたいだから、知られている人には知られていて……それで、部の先生とも面識があるのよ」
作業を中断することもなく、彼女は話す。これもまた、口にするのは何度目だろうかというくらい、答え古した言葉なのかもしれない。そんな様子が伝わってくる。
「へぇ、だから鳴海を誘うのか。それって、鳴海のヴァイオリンが上手いからってことだよな?」
「上手くはないわよ。私は別に、ただ弾けるだけだもの。小さい頃に教えてもらったけど、今はもう、随分と弾いてないわ」
彼女は受け流すように控えめな苦笑いを続ける。確認を終えたのか、手元のヴァイオリンを床に並べて、ただ見つめていた。
「それに、なんていうか私、あの先生って苦手なのよね。いわゆる熱血系みたいな感じで、努力すれば誰でも必ず上手くなる! だからみんなで頑張ろー、的なノリが……ちょっと、合わないなかなーって」
「ふぅん。みんなでわいわいやるのとか、好きそうなのに」
「そんなことないわよ。地味子ちゃんだもの」
地味子ちゃんって……またすごいことを言うものだ。
何がすごいかって、本来なら誰が聞いても嫌味なくらいの発言なのに、彼女が言うと和やかな冗談に聞こえるところがすごいのだ。彼女はまったく地味などではない。可憐な容姿に明るい性格。大抵のことはそつなくこなし、常に人の輪の中心となる人徳まで備えている。どんなに謙遜したとしても、その謙遜すら彼女の非凡を際立たせる。
しかも、それでなおかつヴァイオリンまで弾けるとなれば、当然オーケストラ部の先生の目にも留まるだろう。
察するに彼女はオーケストラ部に入るつもりはないようだが、希望するしないに関わらず様々な声がかかるのは、目立つゆえの宿命といったところか。
「さて、全部確認し終わったわね。じゃあ次は棚に戻すから、手伝ってくれるかしら?」
しばらくすると、彼女は俺の方へ向いて朗らかに微笑み、声をかけた。
「ああ、わかった」
今度は二人がかりで、整然と並んだ楽器たちを片づけていく。低い棚から順番に埋めていって、高い棚に仕舞うには脚立を使った。鳴海が上に登り、下で支える俺の方から楽器を手渡す。
「えっと……できればあんまり、上、見ないでね」
彼女が恥ずかしそうに言うので、俺は意識的に視線を下方へと向ける。まあ、そこはあれだ。彼女は制服ゆえにスカートであるからして、致し方ない。俺だって先に釘を差されてなお、堂々と覗く度胸はない。
再び楽器を扱うにあたり、俺はさきほど見た鳴海のやり方を参考にした。彼女の所作はとても丁寧で、極めて繊細であろう楽器たちに対し、大きな気遣いを感じさせるものがあった。
きっと彼女には、音楽についての豊富な知識が備わっているのだと、俺は思った。手つきには妙な親近感を覚える。それはもしかしたら、楽器を扱う彼女の姿が、サッカーの備品を扱っていた自分と重なって見えるからなのかもしれない。彼女の音楽に対する好意が感じられるような光景だった。
しかし、彼女はもう、ヴァイオリンは長く弾いていないと言う。それを聞いた上で、俺が彼女について知っていること――以前にこの部屋で、夕陽に包まれてギターを抱きしめていたことや、駅前でストリートライブをしていたことを考えると、自然と言葉が口をついた。
俺は同時に楽器を持ち上げて彼女に渡す。折しも、その楽器はアコースティックギターだった。
「今はヴァイオリンじゃなくて、ギターをやっているのか?」
「えっ……? ――あっ!」
すると突然、脚立の上から驚いたような声がしたかと思うと、いきなり手渡したばかりのアコースティックギターが降ってきた。俺は咄嗟に右手を伸ばす。ネックの部分を少し荒めに握ってしまったが、何とか落下は免れた。
けれど今度は、左手で支える脚立の方が大きくぐらつく。上に乗る鳴海がギターを落とした拍子に身体のバランスを崩したようで、俺が見上げたときにはもう、既に手遅れ。完全に身体は空中へと乗り出していて、立て直せる姿勢ではなかった。
「あっ! きゃ!」
「おわっ! 鳴海! 危なっ!」
脚立は鳴海が乗り出した方向と反対に傾いていく。俺は無意識に彼女を受け止めるため手を広げていて、舞い上がる埃とともに、俺と彼女は二人で床へと倒れ込んだ。
やがて傍らでは、ガシャンと脚立の倒れる音が虚しく響く。
「いっつつ……」
思わず目をつむってしまった俺は、ゆっくりと瞼を開きながら呟いた。
「あ、あの……大丈夫? ごめんなさい。驚いて手が滑っちゃったわ」
そんな声が、吐息と一緒に感じられる。気づくと彼女の顔は、鼻先が触れ合うくらい近くにあった。
心拍数と体温が急速に上がっていく。俺はそれを表に出さないよう、目を逸らしつつ平静を装う。
「足の方も、滑ってたようだけどな。そっちこそ、大丈夫か?」
「ええ、落ちるギターに手を伸ばそうとしたら、私まで一緒に落っこちちゃった。大丈夫よ。受け止めてくれてありがとう」
「……そうか。よかった」
冷静な振りをしているだけの俺に対し、彼女は本当に落ち着いているように見えた。まつげの本数が数えられそうなほど目の前に顔を合わせていても、変わらず穏やかに笑っている。
密着する彼女の身体が思考を阻み、俺は沈黙することしかできない。伝わる柔らかな感触が、俺の緊張を高めてやまない。そのまま無言の硬直状態が、数十秒くらい続く。
「あ、あの……ところで、そろそろ退いてくれないか」
下敷きになっている俺は、たまらず彼女にそう頼んだ。
整った桃色の唇を動かし、彼女は答える。
「ええ、もちろん退いてあげたいのだけれど……でも、随分きつく抱きしめられているみたいで、このままだと私、動けないのよね」
「えっ!?」
彼女に言われて、ようやく気づいた。どうやら俺は、下敷きになりながらも彼女のことを強く抱きしめたままでいたらしい。自分の身体にとても力が入っていたことも、今更のように自覚した。
「わ、わりっ!」
俺が力を抜いて両腕を開くと、彼女はゆっくり立ち上がって、服装と髪を整える。身だしなみが崩れたのは俺のせいではないはずだけど……なぜか罪悪感が拭いきれない。乱れた髪や服から覗く肌色に、なぜか胸がドキドキして……いや、何を考えているんだ俺。
「いいえ。大怪我していたかもしれないし、助かったわ」
そんな俺の心境などつゆ知らず、彼女はこちらの手元に視線を向ける。
俺の右手は、まだギターを握り締めていた。
「でも、ほんとにびっくりしちゃった。大江君ったら、いきなりあんなこと言うんだもの。私、大江君にギターの話なんて、したことあったかしら」
「いや、その……前にここで、鳴海がギターを弾いているのを、聴いたから……」
彼女に続いて、立ち上がりながら俺は答える。
すると、彼女の表情は一瞬だけ驚きを呈したあと、やがて伏し目がちの、切なげなものに変わった。
「そう……前のあれは、大江君だったの……」
彼女はそのときのことを思い出しているのか、部屋の入り口に目を向ける。
「ごめん。覗き見するつもりはなかった……って、わけでもないけど。たまたま音楽室に来てみたら、隣のこの部屋から演奏が聞こえてきて……すげー上手だなって思ったから、つい気になって」
「……お世辞が上手ね」
「そんなんじゃないよ。本当に上手だったよ」
俺が慌てて答えても、彼女は浮かない表情のまま。窓から照らす夕焼けが、横顔を悲しげに染め上げる。
部屋の中から言葉が消える。
俺はその静寂に耐えられなくて、何でもいいから喋ろうと思って口を開く。
「あ、あのさ。よかったら、もう一度聴かせてくれないか。ほら、楽器の整理も、もうほとんど終わったしさ」
「でも……」
「頼むよ。もう一度聴きたいんだ」
俺は手に握るギターを、鳴海の前にゆっくりと差し出した。
鳴海はそれに視線を落とすと、逡巡する様子を見せつつもしばらくして言った。
「じゃあ、弾くから……そしたら大江君、私がここでギターを弾いてたこと、他の人には内緒にしておいてくれる……?」
不安げな声音が印象的だった。
俺は、もともと誰にも言うつもりなどなかったけれど、肯定の意味を込めて強く頷く。
すると彼女は「仕方ないなぁ」とでも言いたげな淡い苦笑いを浮かべてギターを受け取った。胸ポケットの生徒手帳から黒いピックを取り出すと、近くの椅子に座って構える。
「そうね……せっかくだから、大江君の知ってそうな曲にしようかしら。もし歌えたら、是非、歌って」
一息つき、慣れた手つきで軽やかに演奏を始めた。曲のイントロを少し弾いたところで一度手を止め、俺を見上げながら表情で尋ねてくる。「知ってる?」と。
俺は、その曲を知っていた。というか、ほとんどの人が知っているはずの曲だとも思った。
鳴海が弾いたのは、あの唯花の曲だったのだ。確か、唯花のセカンドシングル。ゆったりとした儚げな印象のバラードであり、歌い手の雰囲気とも相まって、当時唯花の人気を全国的なものにした名曲である。
駅前で聴いた千種一華の演奏が無意識に脳裏をよぎったが、似ているようで、比べると少しだけ印象が違った。
「うん、知ってる」
何度か聴いたことがあるし、歌うこと自体は、たぶんできる。でも……。
「知ってるけど……それ結構、音程高いし、ちょっとなぁ」
「あ、そうだったわね。男の子だと辛いかしら。なら、低く歌ってくれていいから、頑張って」
え、低くって、キーを下げて歌うってことか? 元が儚げなバラードなのにそんなことして俺が歌ったって、雰囲気は似ても似つかないんじゃ……。
しかし、せっかく俺の頼みで弾いてくれる彼女の言うことだし、あまり無下にするわけにもいかない。俺は若干どころかかなり恥ずかしい想いで小さく咳払いをし、やがておずおずと歌い出す。
まあ、要はカラオケみたいなものだと思えばいいわけだ。ギターの音がある分、アカペラよりはかなり歌い易いではないか。
鳴海の演奏は、俺の声を追うようにしてすぐに再開した。
そして俺は、そこで大いに驚くことになる。
どうしたことだろう。鳴海の奏でる音が、さっきまでとはまるで別物のように違ったのだ。しっとりとした柔らかい音ではなく、快活で軽快な小気味良い音になっている。心なしかテンポも速い。
俺は戸惑いながら、追いかけてきたはずのギターにつられるようにして、曲の歌詞を口にしていった。
ただ、それは急かされるといった感じではなく、不思議ととても、心地がよかった。歌っているうちに自然とリズムに合わせることができて、奏でられる音に乗っていると、まるで身体が勝手に踊り出すような気分になった。
ふと鳴海の方に視線を向ければ、彼女も気づいて俺を見上げる。少し前まで浮かない表情だった彼女は、今はほんの少しだけ、微笑んでいた。
しばらくそうして、鳴海は弾き、俺は歌う。やがて二度目のサビに入り、曲一番の盛り上がりを見せる山場に続いていく。
俺は今、久しく忘れた興奮の中にいると感じていた。その興奮からエネルギーをもらい、心臓が、心が脈打つ。溢れ出る感情が、抑え切れなくなっていく。
こみ上げる想いを抱えながら、俺は再び鳴海の方を見やる。すると彼女はすぐ隣で、真摯にギターに向かいながら、生き生きとした表情で弾いていた。
俺は思った。その表情こそ、彼女が本来、ギターを弾いているときに見せるものなのだと。
ところが、次の瞬間、異変は起こった。
何の前触れもなく、華僑を迎える寸前で、パタリと演奏が止まったのだ。目の前で、まるで金縛りにでもあったかのように、鳴海の指が硬直する。同時に、その顔にはもはや笑顔はなく、能面のような無表情が張り付いていた。
「……鳴海……?」
俺は歌うのを止め、彼女に声をかける。
それでも彼女の口からは、何の言葉も出てこない。
少しの間、不気味なほどの静寂が続き、やがて彼女は勢いよく立ち上がった。
「……大江君……ごめんなさい、私……」
消え入るような震えた声だった。
彼女は俺に、押しつけるようにしてギターを渡す。そしてそのまま、音楽準備室から飛び出していった。
「…………」
残された俺は一人、沈みかけの赤黒い夕陽に照らされて、混乱ばかりを胸に抱いた。
楽しい演奏会から真っ逆さま。突然の出来事を上手く飲み込むことができず、どうしようもなく立ち尽くした。ただただ呆然として、いったい何が起こったのかもわからないまま、彼女の置き去っていったギターに、かすかな温度を感じながら。
2
興奮と困惑が、頭の中で入り交じっていた。一人になった音楽準備室から帰宅する間、歩くたびに、ぐるぐる、ぐるぐる。家に帰って何をするにも、動くたびに、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ。ベッドに仰向けで倒れ込むと、バタッと勢いで思考がひっくり返る。眠ったら眠ったで、寝返りのたびに夢の中でかき回される。
今の俺の半分を占める、冷めやらぬ心の昂ぶり。
鳴海のギターは、俺の身体の芯まで響いた。まさか唯花のバラードをあんな風に、リズミカルで躍動的にアレンジするなんて、思ってもみなかった。音楽って、弾き方一つであんなにも変わるものなんだ。まるで、昔聴いたストリートライブのようにエネルギッシュな演奏だった。やはり鳴海は、あのころ駅にいたギタリストの一人に相違ない。
今日聴いた鳴海のギターが頭の中で反響し、俺の過去の記憶に触れる。サッカーをしていた頃、一番気に入っていたあの音楽に重なる。毎日が輝いていて、夢を追いかけていた時間を思い起こさせる。
だからこそ俺は、どうしてももう一度、その曲を聴きたくなってしまうのだ。
一方で、今の俺の残りの半分を占めるのは、この心をかき乱す不安。
唐突に俺の前から去った鳴海。ギターを弾いていたときの笑顔に反し、去り際、声を震わせ表情を失っていた鳴海。ただならぬ空気をまとっていた鳴海。
普段の彼女は、そんな姿など一切見せない完璧な女生徒だ。しかし今、俺は心のどこかで彼女に対し、優等生以外の印象を抱いている。考えるたび、彼女という存在がわからなくなる。
俺は結局、混ざり合う二つの気持ちを抱えたまま、翌日になって登校した。
もう一度鳴海と話がしたい。そう思うが、なかなか上手くタイミングが見出せない。昨日あんなことがあったからか、避けられているような雰囲気も感じてしまう。
そして放課後、十二分の尻込みを経たあとで、俺はようやく鳴海に声をかけた。
俺以外に誰もいなくなってしまった教室。そこへ、何かの用事を終えたらしき彼女が戻ってくる。
「鳴海」
「あ……大江君」
俺の姿に気づくと、彼女は一瞬だけバツの悪そうな表情を見せた。
「昨日は、その……ごめんなさい」
「いいよ。いいんだ。全然気にしてない」
「そっか……よかった」
俺が首を左右に振るのを見て、彼女は普段通り穏やかに微笑む。
「あ、あのさ――」
「ところで、大江君」
やがて俺が話を切り出そうとすると、しかしあちらも、それに被せるようにして口を開いた。そのまま自席へ戻って着席したが、こちらを振り向くことはなかった。
「部活動の、所属申請用紙の締め切りが、今週いっぱいなのだけれど」
「え? あ、あぁ」
「大江君は、まだ部活は決めていないの? あるいは同好会でもいいのだけれど」
「えっと……うん。まだ、決めてない」
部活動所属申請用紙。確かに、そんなものあった気がする。あれ、どこにしまったんだっけ。
一年生はこの時期、必ず一つ以上の部活動か同好会に所属しなければならない規則がある。正直、今聞かれるまで完全に失念していた。
「そろそろ決めた人も多いみたいよ。もうほとんどは提出してもらってるの。大江君は、ちゃんと考えてる?」
「そっか。鳴海に提出するんだったな」
「正確には、私がクラスのみんなの分を集めて、先生に提出するんだけどね。見学や仮入部はもうしてみた? 面倒でも、ちゃんとした方がいいわよ。もし迷っているのなら、なおさらね」
「うん……そうだな。申請用紙の件は、早めに何とかするよ。手間とらせて悪い」
「いいえ」
何とかする、とは言ったものの、さてどうだろう。今の俺に、本当にその気があるのかは自分でも疑わしかった。そんなことを気にするだけの隙間が、今の俺の中にあるとは思えない。
だって最近の俺は、もっぱら一つのことばかり考えている。無性に聴きたい曲があるのだ。
「それより、鳴海に頼みがあるんだ」
机に向かって何やらペンを走らせている鳴海の背に、意を決して俺は問いかけた。
「どうしたの、改まって。ええ、私にできることだったら、力になるけど」
彼女は首だけで振り向き、俺を見る。
俺は彼女の視線に、自分のそれを重ねて告げる。
「鳴海のギターを聴きたいんだ」
そんな俺の言葉は、室内に明らかな沈黙をもたらした。
彼女は笑顔だが、しかし、何を言われたのか理解できないといったように硬直している。俺の頼みは、彼女の予想だにしないものだったのだと思う。
広がった静寂の中、やがて答えが返ってくる。同時に彼女は前を向いて作業に戻ってしまい、また表情が見えなくなった。
「えっと……それなら昨日、聴かせてあげたじゃない。途中までだったけれど、でも……あれで十分でしょう?」
「聴きたい曲があるんだ。鳴海が前に、ストリートライブでやっていた曲を……聴かせてほしい」
「――!」
鳴海は一瞬、ハッとしたように背筋を伸ばす。ペンを握る彼女の手は止まっていた。
再び辺りに沈黙が落ちる。さきほどよりもさらに長く深い、空気の張りつめた沈黙が。
「……どうして、大江君がそのことを知っているの?」
彼女は否定を返さない。代わりに、異様なほど平静を装ったような、まるで抑揚のない声で俺に問う。
「二年前くらい、だよな。実は俺もその頃、よく都心の駅にいたんだ。いい曲だったから気に入ってたし、だからこそ、意識して聴いてた」
「そうじゃなくて、どうしてストリートライブをしていたのが、私であることを知っているの? おかしいわ。顔、隠してたし、誰にも言ってないはずなんだけど……」
「聞いたんだ。前に向こうのクラスに転校してきた……鳴海と一緒に弾いていた、千種一華っていう女の子に」
俺は続けて、ここに至るまでの過程をかいつまんで鳴海に話した。
鳴海が音楽準備室で弾いていたギターを耳にして、既知感を覚えたこと。同じ場所で千種一華とたまたま知り合ったこと。駅前で千種を鳴海と取り違えて話しかけ、結果として千種がミュージシャンの唯花であり、鳴海と千種が昔ストリートライブをしていたギタリストであると知ったこと。そして俺は過去のストリートライブの曲が好きで、だからもう一度、聴きたいこと。
俺はゆっくりと、ありったけの想いで彼女に伝えた。思わず身を乗り出すほどに真剣に訴えた。
それでも、鳴海は一度もこちらを向くことはない。
「……ふぅん、あの子のことも知っているの。そうだったんだ」
あの子……千種のことか。随分と親しげな呼び方だ。鳴海が言うと、なおのこと特にそう聞こえる。
「じゃあもしかして、昨日あなたが私の用事を手伝って、私にギターを弾かせたのは……それを確認するためだったの?」
声とは裏腹に、かなり直接的な物言いだった。
ただ、なにぶん事実であるからして否定もできない。駄目押しの確認という意図があったのは本当だ。俺の無言は肯定を意味し、彼女もそれを感じ取ったらしい。
「ごめんなさい。そういうことなら、断らせて」
彼女は淡白に、そしてきっぱりと言い放つ。
あまりに付け入る余地のない即答に、俺はうろたえながら不完全な二の句を継いだ。
「え……そ、そう言わずに。頼むよ。もう一度聴いてみたいんだ。千種が言ってた。あの曲は二人で弾く曲なんだって。鳴海と一緒じゃないと弾けないって」
「そう。でも私、もう音楽はやめたの。ヴァイオリンだけじゃなくて、ギターもやめたのよ。中学三年生になったときに、もうやめたの。もしよかったら、あの子にもそう伝えてくれるかしら」
「やめたって……どうして……」
「別に、そろそろ遊んでいられないなって思ったからよ。去年は受験だったし、今年からはもう高校生だもの。授業はもちろん、生徒会や委員会のこともあるから、案外普段から忙しいのよね」
鳴海はさらりと、当たり前のようにそう答えた。まるで、昼食時に友人と昨夜のテレビの話でもするみたいな……そんなとるに足らない話にでも興じるかのように。
音楽をやめたこと。それは自分にとって、大したことではない些細なこと。言外に、彼女はそう告げている。
「でも……昨日は弾いてくれたじゃないか。それに前だって、弾いていただろう? あの部屋で」
「…………」
俺は食い下がるが、彼女はそれでも黙ったままだ。
無反応がもどかしくて、俺は力なく肩を落とす。
「……あんなに上手なのに、もったいないよ」
がらんとした室内に声が響いた。
彼女は静かに、何かをあやすような、あしらうような調子で呟く。
「……だから、お世辞はやめてよ」
まったく取り合ってくれない彼女の態度に、どうにも俺の心は焦れる。
世辞でこんなこと言うもんか。世辞で上手いとはやし立てる音楽を、俺はこんなにも聴きたいと願ったりしない。そもそも、俺は根っから世辞など言わない性格だ。自分でも不思議なくらい、鳴海と、そして千種の演奏を求めている。
「違うさ。本当に上手だって思ってるって、昨日も――」
「よく……そんなこと言えるわね」
しかし直後、俺の訴えは鳴海の言葉によって遮られた。
俺は驚いた。突然聞こえたその声が、とても鳴海のものとは思えなかったからだ。
普段の彼女の声と比べて、明らかに低く重い声。背を貫く緊張感を運ぶ冷たい声音。
俺は口を開いたままで静止していた。
無意識に感じる。彼女が冷えていくのがわかる。
そして彼女はここにきて、ようやく再び俺へと振り向く。その横顔には、いつもの華やかで上品な笑顔は見えず、氷のように空虚な瞳が浮かんでいた。
「あの子の……一華の……いえ、唯花のギターを実際に聴いたことのある人が、よくそんなこと言えるわね」
しらけて呆れたような表情だった。長い睫毛のかかった伏し目が、視界の端で俺をとらえて睨んでいる。
彼女は一呼吸、大きなため息をついて立ち上がると、手早く机上の片付けを始めた。
「大江君。申し訳ないけれど、やっぱりあなたの頼みは聞けそうにないわ」
すぐにノートやペンをしまい込み、鞄のチャックを閉じて出口まで歩いていく。揺れる長い黒髪が、窓からの赤い光を反射して俺の目を眩ます。
「それと、もうこの話はしないでもらえるかしら」
教室の外に一歩出て後ろ手に扉を閉めるとき、鳴海は背を向けたままで強く言った。
ガラリと耳障りな音が、俺と鳴海を素気なく隔てる。
俺は結局、最後まで何も言えず、動くことすらできずに固まっていた。
やがて少し前に感じた驚愕が、そして衝撃が、引いてまた押し寄せる波のようにぶり返す。
刺すような悪寒。息の詰まる緊迫。たまらなく凍てついたあの戦慄。
まるで別人のような鳴海の声と表情は、ただただこの脳裏にこびりつき、俺を明確に機能停止へと追い込んだ。
わからない。彼女がわからない。鳴海という存在がわからない。
笑っていない鳴海。穏やかでない鳴海。優しげでない鳴海。俺の知らない、そしておそらく皆も知らない、鳴海玲奈。そんな彼女を、今はっきりと見てしまった。
俺は初め、たまたま彼女のギターを聴いて、単にそれをもう一度聴きたいと思ったに過ぎなかった。
ちょっと一曲。
そんな軽い頼みのつもりで、誰にでも優しい彼女なら、容易く快諾してくれると思っていた。 心に残るあの曲を、しかも唯花とのペアギターで聴かせてもらえるなんて、最高じゃないかと思っていた。
だが、それはとんだ思い違いで……思いの外に深いところまで、見てはいけないところまで覗き込んでしまった気分になる。
彼女のギターの上手さを知ったまではよかったが、その上ストリートライブのこと、千種一華との関係を知って、あんなにも冷え切った鳴海を見て……。
俺の頭で組み立てていた事の運びは、どうにもこうにも甘過ぎたらしく、重ね上げた積み木のようにあっけなく崩れた。
俺が演奏を頼み込む過程で、きっと何かが、彼女の中のトリガーを引いた。彼女の中には、俺の知るいつもの優等生とは違う、もっと別の鳴海がいるのだ。そう、感じた。
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