第二章 唯花


 金曜日になった。ついに週末目前である。

 ただ依然として、俺が鳴海と言葉を交わしたのは数回だけだった。まともに話をする機会など持てていない。

 それは、彼女がとてもとても人気者で周囲と状況がそれを許さない……というのもないわけではないが、どちらかと言えば俺が意気地を出せずに尻込みしているということの方が、原因として大きかった。

 身体と意思を動かさなければ、日々は変化がないままにただ過ぎ去ってゆくものだ。

 しかし、この日は少しだけ、学校全体の雰囲気が違っていた。

 情けなくも俺がまったく行動を起こせずにいたから、何かが痺れを切らして勝手に動き始めてしまったのだろうか。だとすればそれは僥倖か、あるいは奇禍か。どちらにしても、僭越ながら俺も世界の歯車の一部を担っているわけであるからして、その影響をまったく受けないというのも難しい。

 早朝に教室で惰眠を貪っていたときは静かだったのに、ホームルーム前に目を覚ましてみると、何やら周りが騒々しかった。初め、俺はそのことに気づきすらしなかったが、次第に噂話が流れてきて、何かが起こっていることを知る。そして心の片隅で、その噂に対する興味をかき立てられた。

 やがて昼休みになると、そわそわしていた孝文に連れられて、騒動の渦中へと足を踏み入れることになる。その渦中とは、まさに噂のど真ん中。人の渦に他ならなかった。

「うーん……」

 高身長とはいえない孝文が、背伸びをしながら唸っている。

 俺はと言えば、隣で人に揉まれながら辟易しつつも、せめて流されないように現在位置を保持していた。

「……ねぇ、そっちはどう? 空の身長なら、見えたりしないかな?」

 俺たちは今、自分たちの教室の四つほど隣に位置する、別の一年生の教室前にやって来ている。噂の内容が、今日になってそのクラスに編入生が現れたというものだったからだ。こんな時期に編入生というのは若干妙な話なので、そこそこ野次馬をしたくなる気持ちも、まあ当然と言えば当然か。

 しかし今回、やたらと騒動が大きく、教室の前がこんなにも人で溢れかえっている所以は他にもあった。その編入生は、なんとあの天才美少女ギタリストと名高い唯花に似ているらしいのだ。

「……見えるぞ。大量の人の頭がな」

 ただし結果はこのザマである。

 俺の身長は平均よりも幾分高めだから、人に埋もれて前が見えないことはない。だが、状況はそれ以前の問題だった。想像以上に野次馬の生徒が多すぎて、編入生を拝むどころか、教室に近づくことすらできないのだ。今や全国民が知る有名人の集客力は凄まじいものだ。

 こりゃあ……駄目だな。

 連綿と続く人間の川をげんなり眺めてそう思い、俺は回れ右をして引き返す。

「あ、ちょっと空ー」

 孝文がすぐに小走りで追いかけてくる。

「帰っちゃうの?」

「だってな。近づけもしねーんじゃ、意味ないし」

 たぶんこの調子だと、昼休みが終わるまでここで押しくら饅頭に興じる羽目になるだろう。そんなのはごめんだ。

「うーん……まあねぇ。ちぇ……僕も見たかったなぁ。生唯花」

「……生って。外見が似てるだけなんだろ?」

「いーやー、本人だっていう噂だよ」

「嘘つけよ。そりゃ、いくらなんでも無理があるぞ」

 なんと。俺が今朝から耳にしている噂とは内容が異なっている。いつから唯花本人が編入してきたことになっているのだろう。随分と尾ひれが付いている。いやむしろ尾ひれが本体みたいな規模の噂になってるじゃねーか。

「千種さんっていうらしいよ。千種一華さん。可愛い名前だよね。やっぱり、髪はブロンドなのかな?」

「まさか。学校に来るなら黒に染めるんじゃないか」

「えー、染めちゃうのー? 黒髪の唯花って、僕、想像つかないなー」

「いやまあ、俺だってそうだけどさ。つっても、ここは芸能人学校とかでもないわけだし……やっぱ金髪は校則に引っかかるだろ」

「校則かぁ……でも、校則で唯花のビジュアルが変わったら、全国的にファンが泣くと思うんだよね。唯花の黒髪ってなんか逆にコスプレみたいだし、いっそ校則を変えた方がいいんじゃない?」

「お前、なかなかすごいこと言うな」

「でしょー。すごくごもっともでしょ」

「すごく無茶苦茶だよ」

 国民的アーティストの編入は、よもや校則まで覆すのか。だとすると将来的に生徒手帳にはこう書かれる。

『生徒心得。頭髪は整髪、清潔に留意し、高校生らしい身なりに心がけること。ただし金髪は可。』

 ありえん。

「いくら唯花でも、制服に金髪は似合わないだろ。むしろその方がコスプレだ」

「んー、そうかなー。まあ、確かにそうかもねぇ」

 孝文は俺の隣で首を捻り、名残惜しそうに後ろ歩きをしてみせる。

「あー。どっちにしても、早くこの目で見てみたいなー。何たって、稀代の天才美少女ギタリストだもんなー」

「本人かどうかはともかく、編入してきたのならそのうち顔くらい見られるだろ」

 今日は編入初日らしいが、何もこれからずっと、あんなに人が集り続けることはないはずだ。じきに騒動も収まるだろうし、一度と言わず、すぐに二度も三度も見られるようになる。同じ学校なのだから、他クラスといえど話す機会もあるかもしれない。

「でもさ、本当に本人だったら、これってすごいことだよねー。是非、生であのギターを聞いてみたいよ」

 本人だったら、ねぇ……。果たして、そんなことがあるだろうか。

 唯花は既に、俺たちとは違う世界の人間だ。テレビの向こう、ラジオの向こう、インターネットの向こう側。いくつものメディアを挟んだ反対側に生きていて、俺たちの世界には、その音楽だけが届いてくる。そういう存在だ。少なくとも俺はそう感じている。

 そんな彼女が、ある日突然、この学校に? そんなのまるで……まるで唯花が、俺たちと同じように登校して、授業を受けて、昼食を食べて、部活をして……そんな生活をするかのように、思えるではないか。

 ああ、いや、でも……もしかしたら、それはそれで当たり前なのかもしれないな。彼女もあくまで、歳は俺たちと同世代。立場はどうあれ年齢的には、一人の女子高生であることに変わりはない、はずなのだから。

 そんなことを考えてしまったからだろうか。俺はふと、編入生が唯花本人だと信じてもいないのに、こんなことを口にしていた。

「……もし、唯花みたいな有名人でも、こうやって俺たちみたく学校に通うんなら……例えば、部活とかやったりもすんのかな」

 きっとそれは、俺が心の片隅で部活動の選択に悩んでいたことも関係がある。

 編入生も一年生だから、基本的に一度は部活動に参加することになるだろう。別にそれは、彼女が唯花本人であっても、そうでなくても同じである。

 だが、しかしだ。

「え? 部活?」

「ああ。もし本当に編入生が唯花だったとして、それでも、この学校には軽音部がないだろう?」

 そうなのだ。現在、この学校には軽音部、もしくはそれに類する部は存在しない。

 だからといって俺には、ギターを手にせず別のことをしている唯花など、想像することができなかった。それは、俺自身がサッカー以外のことをしている自分を想像することができないのと、似たような思考回路なのかもしれなかった。

 もしも唯花がこの学校で部活動を選ぶのだとしたら、いったいどんな選択をするのだろう。もしかしたらとても迷うのではないだろうか。そう思えてならなかった。

「確かに、そうだね。うちにある音楽関連の部活で入るとするなら…… 声楽部、いや、それよりはオーケストラ部かな?  どっちみち、ギターは関係ない分野だけど」

「ギターのピックをヴァイオリンの弓に持ち替えるとか、そういう展開になりそうだな」

「び、微妙だね、それは……」

「微妙っつーか、無理だろうな。いっそピックでヴァイオリン弾けばいいんじゃねーか」

「うわー、空も相当無茶苦茶言うね」

 まあ極端な話、部活動でなければギターが弾けないわけでもない。もしそうやって悩む事態になったとしても、とりあえず幽霊部員としてどこかに所属し、学校の外で音楽活動をすることも可能なわけだ。そういう点で、俺とは状況が違うとも言える。

 いや、別に俺が気にすることでもないか。そもそも根本からして、編入生が唯花なわけがないのだし。こんな、もしもの中のもしも話をしても仕方がない。

 そんなことを考えながら廊下を歩いていると、やがて俺は自分の教室に到着した。

 室内はほとんどもぬけの殻だ。とっくに昼食も済んだ時間だし、いつも賑やかに雑談している生徒は皆、編入生の野次馬に向かったのだろう。

 室内に入ろうとしたところで、しかし一つだけ人影が目に入った。長い髪の流れる背中がぴんと伸び、前を向いて座っている。どうやら読書をしているようだ。

「あ、鳴海さんだね」

 隣で孝文がぽつりと呟く。

「クラス中が野次馬に行ったってのに、真面目だな」

 思うに、鳴海だって間違いなく友人から誘われたことだろう。それなのに一人でここにいるということは、誘いを断りでもしたのだろうか。珍しいこともあるものだ。確かに鳴海は、編入生の物見遊山を面白がるような性格には見えないけれど。

 俺が教室の入り口で立ち止まっていると、孝文がさきほどの続きとばかりに話を続ける。

「そういえばオーケストラ部で思い出したんだけど、鳴海さんって言えば、彼女も割と有名だよね」

「有名? 顔が広いっていう意味でか?」

「いや、それとはまた別で。何でも、オーケストラ部の先生が入れ込んでるらしいよ。部活に入らないかって何度も誘っているみたい」

「鳴海を?」

「うん。彼女の家、ヴァイオリン教室みたいなんだ。詳しくは知らないけど、彼女もヴァイオリンが弾けるのかな」

「……ふぅん」

 孝文のその話は、俺には少し意外だった。

 正直、俺は彼女のことを何も知らないので、家がヴァイオリン教室でも、実績あるオーケストラ部から逆指名を受けていても、珠玉のヴァイオリン名手でも、それを疑う道理はない。

 しかし俺は一度、彼女がギターを弾く姿を見ているのだ。あれはヴァイオリンではなく、確かにアコースティックギターだった。

 もしかして彼女は、ギターとヴァイオリンの両方を弾くことができるのだろうか。ピックと弓の二刀流か? それはそれで、本当なら随分な才能人だと言わざるを得ない。そりゃあ世の中には、そういう人もいくらかいるのかもしれないけれど。

 背後から眺めている俺たちの視線に、彼女は気づいていないのか、はたまたまったく意に介していないのか。振り向く様子はなく黙々と読書を続けている。

 邪魔するのは気が引けた俺は、彼女から目を離し、ゆっくりと足音をたてずに自席に戻った。

 ふっと一息つくのと同時に、昼休み終了を知らせるチャイムが鳴った。



 しまった! もしかすると、さっきのは鳴海に話しかける絶好のチャンスだったのではないだろうか。いや、もしかしなくてもきっとそうだ!

 そのことに、俺は放課後を迎えてからやっと気づいた。

 昼休み、鳴海は教室に一人だったのだ。妙な編入生のおかげで辺りに人はいなかったし、話をするにはまたとない絶好の環境だった。これほどまでに十分な機会に恵まれたのは、間違いなく今回が初めてだ。

 いや、まあ、そりゃあ、たとえ向こうが一人でも俺は孝文と二人だったし、欲を言えば一対一で話せた方がいいかもしれないけれど……。そりゃあ、あの時間から話し始めても、結果的にはすぐに授業が始まっていたけれど……。そりゃあ、俺だって予期せぬ好機に心の準備なんてできていなかったけれど……。

 でも待て。そんなことを延々とぐちぐち言っていたら、いつまで経っても鳴海とギターの話なんてできやしないではないか。一体全体、俺はさっきの昼休み以上の、どんな状況で鳴海と話そうというのだろう。果たして、俺が望む一番理想的な彼女との会話の形は何だろう。

 それを考えたとき、真っ先に俺の頭に浮かんだのは、数日前に彼女のギターを聴いたあの部屋――音楽準備室だった。

 紛れもなく一対一。かつ周りに人の気配はなく、放課後ならばほぼ時間の制約もないに等しい。そしてある程度偶然を装いつつも俺は心の準備ができ、ギターの話にも繋げやすい。

 つまるところ俺にとって、もう一度準備室で鳴海に会う以上に歓迎すべき状況はないということだ。そう結論できる。

 こうして俺は、この日の授業が終わってしばらく教室でぼんやりと時間を潰すと、いよいよ陽が赤くなる頃になって席を立った。向かう先は、もちろん音楽準備室だ。

 二度目の邂逅を狙った訪問はこれが初めてではないし、そもそも鳴海が再びあそこに現れる保証もないが、可能性を追うだけでも構わなかった。もう一度、あの美しい光の中の彼女を見てみたいという想いも、おそらくこの胸にはあったことだろう。

 ゆっくりと歩き、校舎を移し、階段を上る。最上階まで上り詰め、隅の方にある音楽室まで足を延ばす。

 部屋に入ると、窓からは既に知った通りグラウンドが見渡せる。けれど今日は、そこで足を止めることはせず、照る太陽から逃れるように目元を手で覆いながら、準備室に通じる扉へ向かった。

 ――どうせ鳴海はいるわけがない。

 ――いや、もしかしたら今日はいるかもしれない。

 二つの想いがきっかり平等に混ざり合わさり、まるで天秤のようにゆらゆらと揺れる。足の歩みに同調して、左右に忙しなく繰り返し。

 だがそれも、いざ扉の前までやってくると、瞬間的に一方に傾いた。

 ノブに手をかけようとしたとき、気づいたのだ。扉は、開いている。

 この場合、開いているというのは施錠されていないということではなく、文字通り明確に開いているという意味だ。わずかに隙間が存在していて、二つの部屋の空気が繋がっていた。

 人がいる。俺よりも先にここへ来た誰かがいる。物音はせず静かだったが、隣の部屋には確実に人の気配が感じられた。

 そうか、今日は――いや今日も――今日こそまた――ここに鳴海がいるのだ。

 それがわかると、トクン、と小さく、だが鋭く、一度だけ心臓が跳ねた。

 俺はゆっくりと長く一呼吸おき、今度こそ思惑通りに事を運ぶよう丁寧に心境を整えて扉を開いた。

「あの、鳴海――」

 直後、俺の視界は先客をとらえた。

 視線と視線が交差して、相手も俺も、互いを見つめる。

 しかし結論から言えば、その先客は鳴海ではなかった。

 そこにいたのは――そこにいて目の前にあるアコースティックギターにいざ手を伸ばそうとしていたのは、見たことのない女の子だった。

 随分と小柄で可愛らしく、制服から覗く手足は、触れれば折れてしまいそうなほどに細くて白い。少しだけ色の薄い黒のショートヘアが、大きな目の上で切り揃えられている。強い光の中に浮かぶ彼女は、陽の赤にうっすら染まりきっていて、異様な透明感を思わせる儚さを放っていた。

「…………」

 俺は驚いたまま沈黙する。てっきりそこにいるのは鳴海だと思っていた予想が外れて、身体が硬直してしまっていた。

 目の前の少女の、こちらを見つめる大きな瞳に意識を吸い込まれそうになりながら、しかし思考と神経を何とか動かすように努める。

 すると、彼女の容姿には何となく見覚えがあるように思われた。その覚束ない雰囲気のある、幼さを残した妖精のような外見に、重なる記憶があったのだ。

 それはちょうど、昼間に孝文と話題にしていた彼女――そう、唯花だ。目の前の少女は、あの唯花にそっくりだった。

 ということは、この子が例の編入生か?

 なるほど確かに、本人と言われても納得できるほどに、とても似ている。突然こんな子がクラスに来ようものならば、唯花当人だと思ってしまっても無理はないだろう。メディアに露出している唯花はブロンドで、目の前の少女は黒髪だが、それでもこれほど瓜二つの存在には驚きを隠せないものだった。

「えっと……」

 数秒して、俺は無意識に呟いていた。その呟きには戸惑いの他に、感嘆の想いもわずかに混じっていたことだろう。想像していたほど黒髪と制服に違和感はない。むしろこれはこれで、作り込まれた人形のような調和を感じる。

 けれども俺の硬直が解けて発した言葉を聞いて、彼女はぴくんと肩を弾ませ、一気に我に返ったらしい。伸ばしかけた手を素早く引っ込め、その両眼で俺を鋭く射抜いたかと思いきや、途端、翻って部屋から飛び出していってしまった。俺が来た方とは反対側にある、準備室から直接廊下へと繋がる扉を勢いよく開け放って、一目散に姿を消す。

 一人とり残された俺はまたしばらく固まって、彼女の去っていった方を見つめていた。何とか形にしようとしていた言葉の先は、実際にはほとんど音になることはなく、萎んだ溜息となって口から漏れた。

 静かに金色に輝く埃だけが、虚しく辺りに舞っている。



 なかなか希有な場面に出くわしたものだ。しかもタイミング的にかなりタイムリーである。

 何しろさきほどの少女は、おそらく本日この学校にやってきた編入生、千種一華さんその人なのだろうから。

 あの天才美少女ギタリスト唯花に似ていると噂だから、まあ、ほぼほぼ間違いないだろう。よもやあれほど似ている容姿の人間は他にいまい。世の中にはとても似た人間が三人いるという噂があるが、あんなものは真っ赤な嘘だ。あれほどそっくりとなると、他人かどうかもいよいよ怪しい。もしかしたら、本当に本当に、唯花本人なのかもしれない。

 一度件の編入生を目にしてしまった俺は、いつの間にかそんなことを思うようになっていた。孝文に聞いたばかりのときはほとんど疑ってかかっていたが、あれはなかなか、呆れ顔で頭ごなしの否定も言えなくなる。

 しかも俺が準備室で目撃したとき、彼女はいったい何をしていた? アコースティックギターに手を触れようとしてはいなかっただろうか?

 あの容姿で肩からギターを提げようものなら……ああ、もしや……これはいよいよ、ひょっとすると、いよいよである。

 できることなら声も聞いてみたかったと思うけれど……しかし相手には脱兎のごとき勢いで逃げられたので、今更無理な相談だ。

 きっと彼女が逃げたのは、今日一日中、他人からの奇異の視線に晒されてうんざりしていたからだろう。準備室でやっとこさ一人だと思っていたら、そこに突然俺が現れたので、話しかけられる前に逃げたのだ。

 その辺りは、今日という編入初日に、彼女がどんな空気の中にいたかを考えれば想像に難くない。あの編入生、もとい千種さんは、今や学校中の注目の的。一年生だけでなく二年生や三年生までその姿を一目見ようと彼女の教室を訪れているらしいのだから、そりゃあもういい加減、放課後くらい一人になりたくもなるだろう。

 俺はあれからしばらくボーっとしていたが、ぽつりと残された準備室に長々と居座る用もなく、さっさと立ち去ろうとした。しかしその際、開けっ放しの扉と、それから彼女が飛び出していった拍子に崩れたらしい楽譜の山を見て見ぬ振りすることも憚られ、元通りに整理するという過程を経て今に至る。準備室を出る頃には太陽もすっかり地平線に沈んでしまって、空の雲は残光だけを弱くぼんやりと跳ね返していた。グラウンドで行われている部活動は、軒並み整理運動に入っている。

 そうしてようやく帰路に就こうと、とっくにもぬけの殻と化した教室に寄り、荷物を持って昇降口へ向かう道すがら、そもそも何で彼女が準備室にいたのだろうかという疑問を抱いたのは、当然の流れのように思えた。

 彼女があの部屋にいた理由、それはいったい何だろう。放課後にもたもた教室にいてはまた見せ物のようになると考え、とりあえず人に会わなくてすみそうなところを探した、なんてところだろうか。でも、それならわざわざ学校には残らず、すぐに下校すればいい。放課後に部活や委員会なんかがなければ、普通の生徒は帰るものだ。まさか編入生に、俺のような放浪癖があるわけでもないだろうに。

 とすればやはり、ギターが目当てか? あるいはオーケストラ部に用があったとか。いや、それなら練習が行われている体育館に向かうはずか。

 うーん……まあ、今ここで俺が考えたって、すぐにわかるわけがないか。

 そういえば結局、鳴海に会うこともできなかったし、なんだかなぁ。どうにも腑に落ちない気分になる。

 そんなことを思いながら、昇降口に繋がる職員室前の廊下を通り過ぎようとしていたときだった。

「いい加減にしてください!」

 室内から突然、わずかに感情的な、張りのある声が耳に届いた。

 俺は思わず足を止め、磨り硝子の窓が隔てる向こう側に目を向ける。いくつか物音や話し声がしていた職員室は、途端に静まり返っていた。

「……その話は、もう何度もお断りしたではありませんか。せっかくのお誘いを、申し訳ないとは思いますが……私はオーケストラ部に入るつもりはありません」

 しばらくすると、荒げた声をおずおずと引っ込めるような、丁寧な断りの文句が聞こえてくる。その声音には、何だか聞き覚えがあるように思われた。

 対しては、凛々しく大人びた雰囲気の、女性の声が返される。

「……ごめんなさい。しつこく思ったのなら謝るわ。でも、あなたのヴァイオリンには技術があるし、それに……顧問の私が言うのも変かもしれないけれど、うちのオーケストラ部は活気があって、あなたが高校三年間を過ごす環境としても最適だと思うの。だからせめて、是非一度仮入部に」

「ヴァイオリンは、もう随分前にやめました。先生は、私を買い被り過ぎだと思います」

「そんなことないわ。だってあなたは……」

「先生。私はオーケストラ部には入りません。仮入部も、遠慮させてください」

「…………」

 室内の声は途切れて、また静かになる。余りに静かで、今俺が歩き出したら、その足音が中まで聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだった。窓越しの緊張した空気が伝わってきて、俺は一歩も動くことができない。

「お騒がせしてすみません。失礼しました」

 やがてそんな言葉が聞こえ、傍にある扉がゆっくりと開かれた。必然的に俺は、中から出てきたその人物と目が合うことになる。既に何となく予想はついていたが、現れたのは鳴海だった。

「あ……」

 ほとんど吐息そのもののような反応だ。いつも彼女が見せる笑顔はそこにはなく、消沈の雰囲気が漂っている。

「よ、よう」

 空気が気まずくなるのを避けようと、俺はあえて何でもなさそうに声をかけた。まるで、あたかも今し方、たまたまここを通りかかったような感じで気軽な挨拶を……いや、さすがにそれは無理だとしても、とにかく自分は何も聞いていない。そんな体を装いたかった。

 盗み聞きというのは、一般的には故意でなくともそれに該当するのだろうか。決してそんなつもりはなかったし、実際にはほとんど最後の方しか聞いていないから、できればセーフ判定をもらいたいところだ。誰に対してというわけでもなく、俺は心の中でそんな言い訳を訴えた。

「……大江君。帰るの、随分遅いのね。もう、外も暗くなるのに」

 鳴海は踵を返し、俺に背を向けながらそう言った。表情は長い髪に隠れて見えなくなる。

「ああ、まあな。鳴海は……」

「私は、ちょっと……」

 ちょっと、か。

 気になるかどうかで言えば、当然、気になる。とはいえ、ここで下手に尋ねてしまっては、わかりやすい露骨な墓穴を掘るだけだ。迂闊な質問をしてはいけない。

 俺がそうやって発言をためらっていると、彼女は早々とまた口を開いた。

「あ、そうだ……私、まだ教室に荷物置きっぱなしなの。もうすぐ最終下校時刻だから、大江君も急いで帰った方がいいわね。門、閉められちゃうから」

 そしてそのまま、彼女はこちらを振り向くことなく「じゃあね」と残して走り去る。別れ際に振られた白い手を何となく目で追っていると、すぐにその姿は廊下の曲がり角に消えてしまった。

「…………」

 俺は一人、わずかに音を取り戻した職員室前の廊下で立ち尽くす。生徒の下校を促すチャイムが校舎に響く中、胸にはよりいっそう、鳴海のことを気にする感情が巡っていた。

 彼女は音楽準備室で寂しそうにギターを弾いていた。彼女はオーケストラ部に誘われている。彼女はヴァイオリンが上手だが、もうやめてしまったらしい。他にも色々、彼女に関することがいくつか、頭に浮かんでは消えていく。

 ただ、このとき俺が一番に気になったのは、もっと単純なことだった。それがチャイムの鳴り終わる余韻に混じって、無意識に口から零れ落ちる。

「…………教室、そっちじゃないんだけどな……」

 鳴海の向かった先は、俺たちの教室とは正反対だ。教室に向かうのなら、俺とすれ違って、俺の来た道を逆に辿る必要がある。だって俺は、今まさにそこから歩いて来たのだし、他のルートではかなり遠回りだ。

 それに、さきほど俺が立ち寄った際、教室にはもう誰もおらず、誰の荷物も残っていなかった。だから、鳴海がそこに荷物を取りに戻るというのは、いささかおかしな発言でもある。

 となると、さっきの鳴海は少し様子がおかしかったし、やはり俺と顔を合わせたのが気まずかったのかもしれない。

 でもそれにしたって、あんな見え透いたその場しのぎの嘘を残して立ち去るなんて、あまり彼女らしくない。少なくとも、俺がこれまでに抱いた彼女の印象と比べると、どうしても違和感を覚えずにはいられなかった。

 完璧に見えたはずの彼女の中に、ぽつりぽつりと、見え隠れする小さな違和感。

 そう、それは違和感だ。今の俺では、その気持ちを別の言葉で表すことも、もっと詳しく表すことも、できはしない。ただ何となく、鳴海の様子が明らかにいつもと違っていたことだけが、如実に胸に引っかかった。

 外の景色は朱色から藍色に移り変わっていて、その変化はきっと、好奇心や猜疑心、興味や不安が入り交じるほどに色を変えていく俺の感情と似ている気がした。太陽が消えて温度の下がった外界から入り込む風が、ひやりと俺の心を撫でた。



 土曜日、俺はほとんど自分の部屋から出ることなしに一日を終えた。究極の暇人の成せる技であることを否定しない。それくらいに、俺の肉体活動は最小限に抑えられていた。

 しかし何も別に、これは珍しいことではなかった。左膝を怪我してからというもの、俺は基本的に安静にすることを義務づけられているのだ。昔から馬鹿の一つ覚えみたいにやっていたリフティングも、シュートやパスの練習も、ランニングさえももうできない。その上、特に勉学に興味もなければ、俺が取り立てて休みにすることなんて皆無と言っても過言ではなかった。

 新しく通い始めた高校でできた友人は数人いるが、悲しきかな、今の彼らには俺と休日を謳歌している暇はないだろう。高校というコミュニティで新たな居場所を得るために、せっせと仮入部員として部活動に参加中だ。

 思い返せば、中学の頃の俺もそうだった。平日も休日も関係なく、サッカーばかりやっていた。きっとあの頃は、サッカーボールが俺の生活を導いてくれていたのだろう。土で薄く汚れた白黒の玉を追いかけているだけで、何をするべきか全部わかったし、迷うことなんて考えられなかったのだ。

 でも今、もう俺はそのボールを追うことができない。自慢だった人生の羅針盤を失ってしまって、日々の過ごし方がわからないままに生きている。

 そんなわけで無為に過ごしてばかりいるからこそ、どうしても身体のエネルギーが行き場をなくして、余計なことばかり頭に浮かぶ。これは本当にどうしようもなく、至極当然と言ってよかった。

 この日、俺がまったく身体を動かさない代わりに終日をかけて考えていたのは、二年前の都心駅のライブ、フードのギタリストによるストリートライブについてだった。

 まあ、そりゃ、そうなのだ。

 鳴海のギターを聴いてから、俺はほとんどずっと、そのことばかり考えている。つまるところ、俺はこの日、ひたすらに鳴海のことを考えていたのだ。

 彼女の弾いていたあの曲を、なぜだか無性にもう一度聴きたい。彼女が当時のギタリスト本人なのかどうか知りたい。そして彼女に伴うわずかな違和感に、ほんの少しだけ、惹かれている。

 ただ、それを解決する方法は初めから既にわかっていて、鳴海に直接聞けばよい。一見簡単なお話で、けれどなかなかどうして難しい。何とも歯がゆいことである。ついに週末になってしまったし、いよいよ気になるばかりでどうすることもできずに耐えるしかなく……そうして一日晴れぬ想いを抱えたまま、俺は悶々と土曜を過ごすしかなかった。

 しかしてその反動か、日曜日には、俺は外出を試みた。収束しえぬ疑問に半日くらい体内時計をずらされて、夕方になってからずるずると自室を這い出した。

 特に目的があったわけではない。ただの散歩のつもりだった。要するに気分転換だ。

 けれど、それなのに俺の身体は思考から無自覚に指図を受け、陽が落ちた頃に気づいてみたら、都心の駅にたどり着いていた。

 溜息とともに、やはりどうしても自分は、自分から逃げられないらしいと知る。何を隠そう、俺は現実逃避が苦手なのだ。

 俺は潔く気分転換を諦めて、慣れた足取りで迷路のような地下街を出たあと、そのまま駅前の大通りへと向かった。

 絶え間のない人や車の波。高くそびえ立つオフィスビル。見慣れてもなお視線を向けてしまうおかしな形のモニュメント。二年前からほとんど変わらない賑やかな街並みと往来が、そこにはある。俺の記憶に色濃く残る、ストリートライブの会場だ。

 昔と違うのは、ここを走り抜ける力が俺にないこと。そしてライブの人集りが見られないこと。

 俺の夢はもう潰えたし、夢を抱かせるあの音楽も、もう一切聴こえてはこない。

「……」

 ああ、俺は本当に、いったいどうしてここへ来たのだろう。何をしにここへ来たのだろう。ここはもう、疑問の答えが見つかる場所でもなければ、思い出の光景を眺められる場所でもない。得られるものがないことは、初めからわかりきっていたはずなのに、いったいなぜ……。

 ふと冷静になってそう思うと、途端に自分に嫌気がさした。目を細めて、せり上がってきた二つ目の溜息を無理矢理に飲み込む。

 そうして、もう考えるのはやめようと、さっさと帰って寝てしまおうと踵を返したとき、偶然にも視界の端に映ったものに、俺の意識は強く吸い寄せられたのだった。

 無機質なくすんだ景色の中、そこにあったのは、シックな黒い輝きを放つ一つのアコースティックギターだった。

 瞬間、俺は跳ね上がるくらいに、ひどく驚く。

 しかもよく見るとそのギターは、目立たない灰色のフード付きコートを着た人物の肩に提げられている。その人物は今まさに、俺が注目している目の前で、ゆっくりと構えて弾き出そうとしていたのだ。色白の指先によく馴染む白いピックが、黒のギターの上で踊り出す。

 この広く騒がしい大通りで、ギターの音は余りに小さく、ただ雑踏に混じる喧噪の一つでしかない。しかし俺は、弦が弾かれ音楽が紡がれたその瞬間、確かな音色を耳にすることができた。

 知らず知らずのうちに、足はもう前へと進んでいた。周りに歩いている人をかき分け、音のする方へと近づいてゆく。

 近くで見れば見るほど、そのフードのギタリストは、俺の記憶の中の姿とぴったり綺麗に重なった。

 全身を覆う控えめな服装。わずかに毛先だけ覗く金の髪。ピックを使って弾くギタースタイル。

 間違いない。間違いなく本人だ。俺はそう確信し、高揚する気持ちを抑えながらも、周りが見えなくなっている自分に気づけないでいた。

 夢中で歩み寄った俺は、勢いよくその人物の正面に出る。無理に動かすと痛む左膝を庇いながら急いだので、発汗して脳を巡る血流が増し、若干ボーッとした心地で口を開く。

「……鳴海」

 すると、ぴたりと演奏が止み、目の前にあるフードの中から訝しげな視線が向けられた。

 細身で長身のすらっとした姿。今日一日考えていたこともあってか、このときの俺には、眼前のギタリストが鳴海に思えて仕方がなかった。

「鳴海?」

 けれども、帰ってきたのは疑問詞を伴っただけの同じワード。しかもそれを伝えるのが、思い描いていた穏やかでふわりとした優しげな声――俺の知る鳴海の声ではなく、儚げで細いガラスのように透き通ったものであることに、上気した俺の頭は冷やされた。声の調子から女性であることは間違いないが、あまりに鳴海のそれとはかけ離れている。

「あっ、いや……す、すみません!」

 俺は咄嗟に正気を取り戻し、大変な居心地の悪さを感じて、慌ててその場を立ち去ろうとする。振り返って歩き出そうとしたところで、しかし意外にも、フードの彼女に呼び止められた。

「待って。鳴海って……鳴海玲奈のこと?」

「……え?」

 思わぬことを尋ねられ、俺はきょとんとして彼女を見る。

 彼女は深々と被った灰色のフードをおもむろに取り払った。

 同時に俺は声を上げる。

「あっ……君は……」

 そこにいたのは、先日学校の音楽準備室で見たあの女の子――透明で華奢な体躯をした編入生の少女だった。

 今は前と違って制服ではなくコートを着ていて、黒いショートヘアの毛先だけが、うっすらと金色に染まっている。しかもなぜだか少し背丈が高い。

 髪の方は、おそらく色のついた整髪料だろう。さらによく見ると足下は底の厚いウェッジソールで、その分だけ身長が伸びて見えるのだと、遅れて気づいた。

 ――唯花がいる。

 俺はそう思った。外見がいくらかカジュアルになっており、さらにギターを提げているせいか、もうまるっきり本人にしか見えない。

 直後には、脊髄反射でただ呟いていた。

「唯、花……」

 質問にすらほど遠い俺のそんな言葉に対し、目の前の彼女は素っ気なく答える。

「……そうだよ。学校でも会ったね」

 そうだよって……いや、マジかよ。

 それって、今ここにいるこの子が、あの稀代の天才美少女ギタリストとして全国的に有名な唯花本人だと――学校で聞いた噂は本当に本当だったと、つまりはそういうことなのか?

 ま、まあ確かに、俺も半分くらいは信じ始めていたけれど……孝文の噂に、学校に漂う雰囲気に、彼女の容姿に飲まれて信じ始めていたけれど……でもいざ事実として固まると、また驚きも一味違う。そういえば、少し前から唯花の活動休止が騒がれていたっけ。それも一応、彼女がここにいることを否定させない要素の一つにはなる。

 別世界の人間だと思っていた存在が、今まさに自分の眼前にいると知り、情けなくも俺の脳内処理は盛大にパンク。事実の認識を思いっきり投げ出して、正常な活動を怠り始めていた。

 動揺から上手く声を出せないでいると、彼女が再び口を開く。

「ねぇ、それでさ。私も聞いてるんだけど、鳴海って鳴海玲奈のこと?」

「え……あ、ああ……そうだけど……」

 俺は半分くらい無意識のまま反応し、結果として、しどろもどろになる。

 可愛らしい外見をしている割に、彼女の言葉はかなりぶっきらぼうだった。その視線には、他人と初めて会話をするときに持ち得る負の感情――不安や警戒心といったものがいくらか見られる。俺という他人との間に、薄い壁を一枚と言わず二枚も三枚も作っている。彼女と話していることに対して妙に実感が持てない俺は、ふとそんな客観的認識を抱いていた。

「どうして君は、鳴海のことを知っているんだ?」

 俺が尋ねると、彼女は少し迷うような仕草を見せたが、やがて俯きながら返答する。

「……昔、ここで一緒に……やってたから」

 それが、自分の投げかけた疑問への答えであることに、俺はすぐに気づけなかった。少しだけ考えて、彼女の言葉に足りていない部分を想像で補う。

「やってたって……ひょっとして、ストリートライブをか?」

 彼女はこちらを見据えたまま、こくんと頷いた。

 こくんって……いや、マジかよ。って、あれ? おいこれ二回目だぞ。

 しかし、二回目だろうと二十回目だろうと、これが驚かずにいられるだろうか。いやいや無理だ。大ニュースだ。唯花の正体に続き、またも衝撃の事実を明かされて、俺の鼓動はワンテンポ遅れながら徐々に早回しになっていく。あんまり日に何度も驚きすぎると、心臓が跳ねまくった挙げ句に血流過多でどうにかなってしまいそうだ。

 さきほどから一向に落ち着かない頭の中で、俺は状況を理解しようと奔走する。脈拍を下げ、絡まり乱れる神経信号を丁寧に解きほぐし、事実を飲み込もうと努力する。

「じ、じゃあ……その黒いギターってやっぱり、ここでよく弾いてた二人組の……?」

「うん」

「ってことは、もう一人の白いギターを弾いてたのが、あの鳴海……?」

「うん」

 心の奥底には、もしかしたら、なんて想いもあった。だがこれもまた、いざ事実として固まると一味違う驚愕である。

 何せ、あの鳴海だ。あの淑やかで清楚な優等生であるところの鳴海玲奈が、まさか駅前でギターのストリートライブ……自分で想像しておきながら、これほどミスマッチな組み合わせもなかなかない。

 ただ、目の前のこの子が嘘を言っているようにも見えないし、疑うよりは受け入れる方が、状況証拠からしても正しいような気がしてくる。

 つまりこの子と鳴海がその昔――今から遡ると約二年前、この駅前でストリートライブをしていたギタリストの正体だということだ。

 季節も天気も関係なくフード付きのコートで身を隠し、当時ここらではちょっとした有名人だった彼女たち。鮮やかな手捌きと白黒のギターで聴衆を魅了し、生き生きとした快活な、夢に満ち溢れた音楽を響かせていた彼女たち。まるで世界の秘密と希望を、そのまま映し出したかのようにすら見えた彼女たち――。

 それは、俺がこれまで生きてきた中で最も幸せだったと思える頃――ひたすらサッカーにのめり込んでいた中学時代に形作られた記である。だから、どうしても彼女たちの音楽は、俺の中でサッカーに繋がっている。毎日自分の輝かしい未来を想い描きながら生きる幸福を、心の中に蘇らせてくれる。

 しかしそんな彼女たちは、あるときを境にぱったりと、突然現れなくなってしまった。今思えば、あれはまるで予兆のようで、俺の方もそのあとすぐ、駅前に通うことはなくなったのだ。

 驚きのさなか、そして回顧のさなかで俺が黙り込んでいると、彼女は小声でぼそっと呟く。

「もう……解散しちゃったけどね」

 解散。

 チームを解消したということ。

 どこからともなく流れてきた風の噂で、そういう話を耳にしたことはあった。きっとそれが、あの頃何の前触れもなく、二人がここに現れなくなった理由なのだろう。

「……あれか? よく言う、音楽性の違いってやつ」

「音楽性? 何それ、違うよ。よくわかんないけど……たぶん、色々、あったんだよ」

 色々……か。一度組んで、それなりに長く続いていたペアを解消するくらいだから、まあ事情は様々あるんだろうけれど……でも、目の前の彼女はあからさまに、放つ雰囲気でそれを聞くなと物語っている。

 正直なところ知りたい気持ちは否めなかったが、俺が逡巡しているうちに、いつの間にか彼女はフードを被り直していた。質問から逃れるためなのか、あるいはまた別の理由か。

 そしてふと周りを見渡すと、いくらかこちらを見ている人たちがいることに、俺は気づく。彼女の唯花としての容姿が、知らず知らずのうちに人目を集めていたのかもしれない。

「ちょっと、あのさ。さっきから私ばっかり質問されてる。ずるだよこれ。いいから早く、そっちはなんで玲奈のこと知ってるのか教えなよ。玲奈とはどういう関係なの」

 彼女は浅めにフードを被ると、相変わらずの刺のあるトーンで俺に尋ねた。

「え、うーん……なんでって言われてもな……。鳴海は学校じゃあ有名人だ。超優等生だし、名前くらいはみんな知ってる。俺はクラスメイトだから、少し話したことがある程度かな」

「クラスメイト……? それだけ……?」

「それだけ、だけど」

 彼女の両眼が鋭く俺を射抜く。

「……本当?」

「う、嘘ついてどうする」

「ふぅん……」

 俺は思わず、気圧されて一歩後ずさった。

 彼女はフードの影の中から異様に尖った視線を向けてくる。それはさきほどの、知らない人間に対してちょっと不信心を抱いている、なんて生易しいものではない。まるで割れたガラスの先でも突き立てるかのように、冷ややかな敵意を感じさせる。

 何だ……? やたらとしつこく問い詰めてくると思ったら、突然思いっきり睨んできて……何かあるのか?

「クラスメイト、ね……」

 彼女はもう一度、単語の意味を確かめるように低く、そして深く独りごちた。それを最後に口を閉ざし、やがてくるりと回って俺に背を向ける。慣れた動作でギターを外し、足下にあったケースにしまい込む。

「あ、あの……」

 俺が言葉に迷っていると、彼女は大きなギターケースを背負って言った。

「今日は……もういいや。私、そろそろ帰るよ」

 彼女が歩き去ろうとするのを見て、俺は今更のように慌て出す。何か……何か言わないといけない気がする。

 そうだ。よく考えたら、俺は今ここでやっと、最近ずっと自分を悩ませ続けていた疑問の答えに出会ったんじゃないか。もう今更、何も得るものはないと、既に過去の場所でしかないと思っていたこの駅前で、彼女たちのライブの会場だった、この場所で――。

 しかもその答えは、明かされた事実は、俺の想像を具現化したものに極めて近い。自分すら半信半疑だった俺の理想に、まるで現実の方が吸い寄せられたようにさえ感じるくらいに。

 ああ、だったら俺は、もっとその先に手を伸ばしたい。彼女たち二人の演奏を、俺の大好きだったサッカーと繋がるあの曲を、もう一度聴いてみたい。強く、心の底から強く、俺はそう思う。

「あっ……あのさっ!」

 思いの外張ってしまい裏返る寸前だった俺の声に、彼女はゆっくりと立ち止まった。しかし振り返ることはない。こちらに背中を、向けたまま。

「その、俺……昔ここで聴いた曲、すごく好きだったんだ。い、いや、今でも好きなんだ。一番よく弾いてた曲だよ。だから……よかったら、是非もう一度聴かせてくれないか」

「……だめ」

「え……ど、どうして」

「一人じゃ、弾けないから」

 彼女の言葉が、一連の音となって頭の中で反芻される。その短い音階から意図を見極めようと、俺は草の根を分ける想いで神経を巡らせる。

「あの曲は、二人じゃないと弾けない。玲奈とじゃないと、弾けないんだよ」

 二人じゃないと……ああ、そういうことか。例えば、ピアノで言う連弾みたいな……いや、少し違うか。けどまあ、とにかく、譜面上二人の奏者が必要であるということは考えられる。そりゃあそうか。もともと二人で弾いていたんだもんな。

「じゃあさ、鳴海にも頼んでみるから。そしたら……」

 俺は咄嗟に提案をし、何とか食い下がろうとする。

 けれども彼女は、抑揚のない細い声で、あっさりとそれを切り捨てた。

「玲奈はやってくれないよ」

 一言だけ言うと、しばらくしてまたゆっくりと彼女は歩き出す。もはや口から吐き出す言葉を持たない俺を置き去って、ここから離れていってしまう。

 そうして雑踏に紛れる寸前、まるで溶け消える刹那の雪のように淡い声色で、儚く零す。

「……玲奈は、もう私とは一緒に弾いてくれない」

 本来なら、俺がそれを耳にできるはずはなかっただろう。周りは依然、溢れる人のざわめきで満たされている。

 けれども、このとき俺は、彼女の言葉を確かに聞くことができたのだ。彼女の背に、声に、まとう空気に、聞き過ごすことなどできない何かを感じたのだ。

 その何かを、俺は一人残されたあとになって、ようやくぼんやりと理解する。

 俺が彼女の言葉に感じたのは、その胸に滲む、冷たい悲愴の切れ端だったのだと。

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