第一章 追憶の旋律


 ゆっくりと瞼を持ち上げる。すると、茶色い机と外の景色が目に入った。

 窓の向こう、すぐ近くには桜の木々が何本か植えられている。満開の時期は少し前に過ぎ去ったようで、今はもうほとんどが葉桜だ。育った緑が梢の先まで薄く広がり、散った花びらは地面に薄紅色の絨毯を作っている。

 今年は桜の散り時が早い。四月の二週目にして既にこんな調子。どこぞのやんちゃな鳥たちがここら一帯の桜の花弁を落として回ったのではないかと思うほど。それくらいに目に見えて、駆け足で季節は移ろうとしている。

 卒業、別れ、高校受験、そして入学。大きな節目は早々と過去の出来事となり、順応性の高い人間から、段々と新しい生活にも慣れていく。

 そんな中、俺の生活も、まあぼちぼちだ。息を詰まらせながら身を切る想いでサッカーと決別し、くしくも地元の公立高校に入学した俺は、一年生として新しく振り分けられた教室の机で惰眠を貪る。

 サッカーの朝練が日課だったせいで、どうしても朝早く目覚める癖が残っている。そのため遅刻とは無縁なほどの早朝に、余裕の登校を済ませる日々。しかしそんなに早く学校へ来たところですることもなく、結局は自席で寝るしか選択肢を持たない。昔とは違って虚無感から夜の寝付きが悪くなったこともあり、どうにも無為な時間潰しをしているのだ。

 そうしてしばらく誰もいない教室で寝ていると、次第に人が集まりだして話し声も増え、ホームルームが始まったところで俺はいつも目を覚ます。

 たまに嫌な夢を見るので、決してこういうルーチンを好んでいるわけではないのだが、如何せん変えようにも身体がなかなかついてこないのだ。

 ホームルームでは、眠りはしないが机に寄りかかりつつ、ただただボーッとして終わるのを待つ。最後列の席ゆえに先生の注意も受けにくい。出席をとるに際して、未だに覚えきれないクラスメイトの名前が呼ばれていくのを何となしに聞き流していると、いつの間にか先生からの連絡事項へと移っていた。

 なにぶん意識が半覚醒なため、内容が記憶に残ることはほとんどない。恒例のクラス委員や他の委員会、教科担当を決める雑事は先週にまとめて行われたし、そろそろ目新しいこともなくなってくる頃だろう。早くも退屈が俺の高校生を染め始めている。

 俺はぼんやりと頬杖をついて、風に揺れる桜の葉に視線を移した。

 だが今日はそのタイミングで、あるプリントが配られた。前の生徒から順々に回ってきたそれを何かと思って受け取ると、紙面には大きくこう書かれていた。

 部活動及び同好会所属申請用紙。

 そうか。そういえば、これについてはまだ決めていなかったか。

 表題に次いで下には、この学校における部活動と同好会について説明が書かれている。

 どうやら規則として、新入生は入学したこの時期に、必ずどこかの部活動か同好会に所属する義務があるようだ。これは学校側が、勉学だけではなくスポーツや文化的な活動にも力を注ぐべきという校風を掲げているかららしい。

 ただもちろん、選んだところが肌に合わなければ、あとから他に移ることもできるし、やめてしまうこともできる。大半の生徒は最初に選んだところに居着くそうだが、遊びや勉強のためにやめてしまったり、名前を残したまま幽霊部員になる生徒も少なくはないと耳にする。まあ、要は人それぞれなのだろう。

 ご丁寧に、プリントには既に存在する部活動と同好会がリストアップされていた。

 上から、オーケストラ部、声楽部、華道部、茶道部、書道部、演劇部、美術部、科学部など。

 これらは全て文化系の選択肢だ。その下に、運動系のものが続く。

 野球部、バスケットボール部、サッカー部、バレーボール部、テニス部、剣道部などなど。

 種類は多い。同好会まで含めればかなりの数がある。リストは紙の裏まで続いていた。

 一定の条件を満たせば、生徒の方から新しい部や会を立ち上げられるみたいだから、それも頷けるところであろう。

 ただ、リストアップの順番からも何となく伺い知れるが、この学校は文化系の活動により注力している傾向がある。部員も圧倒的に文化部の方が多いし、培われた成績のために待遇も良い。対して運動部は、少しばかり肩身の狭い想いをしているようだった。

 とまあ、そんなことを入学して数日でちらほら聞いたものだったが、正直なところ、俺にとっては別段関係のない話である。

 申請用紙を受け取って一瞬だけ心臓の鼓動が速まったが、高校では部活動をやるつもりはなかった。ちらりとサッカー部なんて文字が目に入るも、当然、入部することなんて考えていない。

 あの怪我からは、一年と少しが経った。しかし未だに左膝は負傷中で、思い切り走ったり、踏み込んだりすることはできないまま。体育の授業だって、満足にこなせないことがほとんどなのだ。それも今となっては受け入れたつもりでいるのだけれど、それでも……心の隅のかさぶたがわずかに疼く、ような気がする。

 俺がプリントから目を離すと、同時に先生の話が終わりを迎えた。最後に「では、これで朝のホームルームを終わります」と告げてその姿が消えると、教室はにわかに落ち着きのなさを取り戻した。

 新学期が始まってまだ日も浅い教室には、独特の空気が流れている。

 早くも会話に花を咲かせている集団もあれば、ぎこちなく友人関係を結ぼうと試みている人もいる。

 やがて彼らは教科書を抱え、時間に追われるようにして教室をあとにしていく。

 時間割を確認すると、一限の科目は理科だった。理科の授業は理科室だ。移動の必要がある。

 けれども、俺はそれを知ってなお、まだ席を立とうとは思えなかった。眠気はもう感じないけれど、少しばかり腰が重く、ついでに何だか気も重い。授業が始まるまでにはいくらか時間もあることだし、だから俺は、依然頬杖をついてじっとしていた。

 しばらくの間そうしていると、ふと近くに声を感じる。

「よっ! 大江!」

 自分の名前か呼ばれたので、少し驚きつつも声のした方へと振り向いた。すると、そこには二人の男子生徒が立っていた。

 そのうち一人は、確か東山といったはずだ。やや長身で、スポーツマンらしい体躯をしている。

「あのさ、俺とこいつ、サッカー部に入ろうと思うんだ。大江って、確かサッカー上手いんだよな?」

 彼は爽やかな笑顔を浮かべながら、隣にいるもう一人の生徒を指して言った。そっちの名前は……何だっけ。まだ覚えていない。

「なんつーか、やっぱ文化部は性に合わなくってさ。俺たちほとんど初心者だけど、たまたま気が合って。そんで、今日から仮入部もできるみたいだし、行ってみようってことになったんだ。よかったら大江も一緒に来ないか?」

「え、ああ……仮入部、ね」

 困った。まさかこの時期に、初対面のクラスメイトからこんな誘いを受けるとは、露とも思っていなかった。

 もしかしたらこの東山と隣の生徒は、非常に良い社交性をお持ちなのかもしれない。いや、俺だって、そんなに人と話すのが苦手というわけではないし、むしろ声をかけてもらって嬉しいという想いもあるが、しかしこの場合はまた別だった。

 なにぶん、話題がよろしくない。

 察するにこの二人は、サッカー選手としての俺の名を、どこかで耳にしたことがあるのだろう。それでこんな提案をしてきたのだと思う。

 でも、おそらく俺の怪我については知らないのだ。俺が高校でも、当たり前のようにサッカー部に入ると考えている。俺がサッカーをできなくなったことを知らない。そういうことだ。

「えっと……」

 だから俺は、苦笑いでそう呟く。

 できれば、快く声をかけてくれたクラスメイトの誘いを断りたくはない。しかしだからといって、冷やかしで仮入部をするつもりも、毛頭なかった。なまじサッカー関連では名が通ってしまっている分、余計にそんなことはしたくない。またしかし、だからといって、ここで彼らに怪我のことを話すのも気が乗らなかった。

 俺は曖昧な返答をしたまま、どうするべきか悩んでいた。

 と、そんなときだ。

 教室の前の方から、別の生徒が近づいてきた。

「おーい、東山君と日比野君!」

 割に小柄で中性的な顔立ちをしているが、彼も男子生徒である。俺の前に立つ二人に向かって、飛びつくようにその肩を叩き、随分と親しげに声をかける。

「君たち二人は、理科の教科担当でしょー! 授業のときは、先に理科室に行って準備をしなきゃ!」

 彼は二人の背中を押し、半ば強引に同行を促す。

 東山と、もう一人は日比野というそうだが、とにかく二人はその勢いに飲まれて「え? あ、あぁ」などと零しながら、彼に連れられていってしまった。

 そして去り際、突然現れた生徒は一瞬だけこちらへ視線を送り、へらっと笑顔を見せてから、俺を残して教室から出ていく。

「…………」

 その笑顔の意味を、俺はよくよく理解することができた。

 期せずして、俺は彼のおかげで気まずい状況から逃れられたように見えるが、実のところ、これはきっと偶然ではない。

 東山と日比野を連れていった彼は、俺の親しい友人だった。

 名前を、朝倉孝文という。

 中学時代、孝文は俺と同じくサッカー部に所属していた。ゆえに俺の怪我の事情も知っているのだ。

 彼はきっと、俺の内心を察して気を利かせてくれたのだろう。人当たりがよく、そういった配慮には長けている。

 優しいやつだ。俺がサッカーをできなくなってからも関係を気まずくしたりせずに、適度に励ましながら明るく接してくれている。高校になってからも同じクラスになることができて、変わらずその間柄は保たれていた。

 あいつはきっと、高校でもサッカー部に入るだろう。率直に言えば実力については及ばない部分が多く、中学校では卒業までずっと補欠だった。それでも本人はサッカーを好きでやっていたようで、練習で笑顔を絶やしたことはなかったと記憶している。そんな性格からか、部でのポジションは補欠もといムードメーカー。きっとそのうち上達するし、仮にそうでなくても上手くやっていけるだろう。

 一方で、問題なのは自分の方だ。

 もう教室にはほとんど人が残っていない。取り残され気味な俺はまた頬杖をつきながら、机上のプリントに目を落とした。

 所属申請用紙。その中のリストに、残念ながら帰宅部は含まれていない。

 新入生は最初、必ず一度は部もしくは会に所属するという決まりがある以上、この用紙は提出しなければならないのだろう。

 しかし俺には、所属を希望する宛などまったくなかった。全力で気乗りしないというのが正直なところの気持ちである。許されるのならば積極的に遠慮したい。

 仮入部も面倒といえば面倒だし、適当にどこかの同好会を書き殴って提出してしまおうかな、なんてことも思ったりするが……たとえば仮にそうしたとして、所属先に一度も顔を出さないというのはありなのだろうか。いや、これはこれで考えが姑息だろうか。

 でも、でもなぁ……。

 口からは無意識に溜息が漏れる。

 瞬間、にわかに窓から入り込んだ隙間風が、手元のプリントをふわりとさらった。

「あ」

 咄嗟に掴もうとしたが間に合わず、ひらひらと舞いながら音もなく床に着地する。

 俺は仕方なく回収のために腰を浮かせたが、すると思いがけず、それを拾い上げる白い手が目に入った。

「はい、大江君。落としたわよ」

 視線を上げると、優しいソプラノの声とともにプリントを差し出す女生徒が目の前に立っていた。

「あ、あぁ。わり、ありがと」

 俺はすぐに礼を言って受け取る。

 その女生徒には、見覚えがあった。まだ高校に入ってから出会った人の名前なんてろくに覚えていない俺だったが、しかし、彼女のことは知っていた。

 彼女の名前は、鳴海玲奈。

 先週、先生の推薦でクラスの委員長に就任した女の子だ。確か入学式では新入生代表の挨拶をしていたはずで、つまるところ入試トップの優等生。

 腰まで伸びる長く綺麗な黒髪を光らせ、淑やかな物腰と人当たりの良さが何とも際立つ、理知的な顔立ちの美人である。クラスの男子が早くも彼女のことで話を膨らませている光景を、何度か見たことがあるくらいだ。

 曰く、まるで天使か聖人のよう。

 そんな鳴海は、誰に対してもにこりと笑顔で接している。非常に大人びた分け隔てのない振る舞いで、入学してからこっち覇気もなく黙って目立たない俺相手でも、それは寸分の狂いなく同様だ。

「大江君、ホームルームの間、ずっとボーッとしてたでしょう」

「えっ? ……えーと、まあ……」

 意外なことを指摘されて、俺は少し戸惑った。委員長よろしく、不真面目な態度を注意しようということだろうか。その割には、随分と笑顔が眩しい気もするが。

「その申請用紙、書けたら私に提出してね。私がクラスのみんなの分をまとめて、先生に渡すことになっているから……って連絡を、ホームルームで言っていたんだけど、大江君、聞いてなさそうだなーって思って」

 彼女はそう言って、ふふっと笑みを零して見せた。

「そ、そうなのか。うん、聞いてなかったよ。ごめん。それは委員長の仕事なのか?」

「そんなところね。特に期限はないけれど、でもたぶん、決めるのは早い方がいいわ。だいたいみんな、二週間くらいで決めるみたい。学校祭もあることだしね」

「……二週間、か」

 提示された期間を、俺は声に出して呟いた。

 実際、見学や仮入部が頻繁に行われるのも、それくらいの期間らしい。

 ほとんどの生徒は四月いっぱいで所属先を決め、五月から正式なメンバーとして活動に参加する。というのも、六月の初めには学校祭が控えていて、どの部活や同好会も、そこで何かしらの出し物をするからだ。

 学校祭とは、つまるところ文化祭であって、うちの高校では秋ではなく春に行われる。

 五月の間、普段の活動と並行して行われる準備活動に、新たな仲間である一年生も参加するのだ。その時間を通して早々とコミュニティの雰囲気に慣れ、上級生や同級生との絆を深める。学校側としては、そうした意図があるのだろう。

 そしてもちろん、これは部活や同好会だけでなくクラスでも同様である。各クラスでも学校祭の出し物を準備するし、そのための時間も設けられ、クラスメイトとも親しくなる。

 ゆえに何にしても、五月に入れば新入生とはいえ忙しくなるのは避けられない。だから、自分の居場所はできる限り早く決めておくに越したことはない。鳴海の言う「期限はないけど早い方がいい」というのはそういうことだ。

 今からの二週間は、高校生活における最初の大きな選択の時間。長いようで、俺にとっては少し短い気がしてしまう。

「じっくり考えないとね。薔薇色の高校生活の、第一歩だもの」

 鳴海は穏やかにそう言うと、くるりときびすを返して歩き出す。そして自分の席に立ち寄り、教科書と筆記用具を胸に抱えてから教室の出口に立った。

「じゃあ、私、一限の前に職員室に用があるから、もう行くわね。大江君も、早く理科室に向かわないと授業に遅れちゃうわよ」

 黒髪が艶やかな残り香を散らして舞い、鳴海の姿は消えていく。

 彼女が去ってしまったあと、教室を見るとついに俺は一人だけになっていた。

 俺は喉元にくすぶっていた二つ目の溜息を今更のように口から吐くと、机の中にプリントを押し込み、代わりに理科の教科書を引っ張り出して教室から出た。



 午前中の授業という授業を全て頬杖任せの惰眠によってやり過ごすと、あっという間に昼休みにとなった。

 一緒に昼食をとる予定だった孝文がすぐに俺の机までやってきて、学食に行こうと提案する。普段彼は弁当を持参しているが、今日は学食で食べたくて、わざわざ持ってこなかったそうだ。

 俺は購買ばかり利用していて、実のところ学食についてはまだ見たこともなかったのだが、孝文の話ではとても充実しているらしい。

 それを聞いて興味も湧き、快諾して二人で向かう。

 訪れてみると、確かに彼の言葉通りだった。比較的大きくて設備も新しいこの高校に似つかわしい、スペースからメニューまで行き届いた学食だ。掃除がしっかりされていて、観葉植物なんか置かれており、景観への気遣いが感じられる。さらに新学期であることも手伝っているのか、隅から隅まで非常に盛況。

 メニューを選ぶ間、レジに並ぶ間、席を探す間、絶え間なく周りの生徒の話し声が耳に届いた。授業がどうだとか、部活がどうだとか、お気に入りのミュージシャンが最近不調だとか、駅前にできた新しい洋服の店が結構いいだとか。

 俺たちもそんな中で、テーブルに座り食事をしながら、他愛のない話をした。こういう場面では、いつも孝文は率先して話題を振ってくれるのだ。彼はとても色々なことを知っているので、雑談をするには事欠かない。俺に気を遣って、本来しやすいはずのサッカーの話題を持ち出さないようにしているのに、それでもネタは尽きないらしい。

 周りの話を聞いたためか、その日、彼が持ち出してきたのはこんな話だった。

「そういえば、ねえ知ってる? 唯花、新曲出すのやめちゃったんだってね」

「ああ、そういや、そんな噂聞いたな」

 唯花というのは、つい去年ばかりに登場し、瞬く間に流行した女性ミュージシャンの名前である。

 ソロでアコースティックギターを弾きながら歌うというスタイルの曲をいくつか出している。その中でも感傷的な雰囲気のバラードには出色の出来が多い。今をときめく注目の的だ。

 彼女の宣伝文句は、なんと「稀代の天才美少女ギタリスト」。そして実際に、その肩書きに相違ないギターの実力と美しい容姿を併せ持っている。聞くところによると、どうやら俺たちと同世代らしい。

 デビュー当初、名が広まる前は、若くして掲げられた広告があまりに大仰かつ安直なため、誰もが苦笑いを浮かべたものだったが、しかし、そんな印象はメディアに出始めて数日で払拭された。

 彼女の奏でる音は、明らかに他の音楽とは別格だったのだ。緻密で繊細な楽器捌き、そのスキルには天性の才能を感じずにはいられない。アコースティックギター一本で、無限にも近いほど多彩な音を響かせる。彼女の曲は、まさしく彼女にしか再現し得ない完成度を誇っていた。

 そして一方で、容姿は可愛らしくも儚げで、それがいっそう聴衆を魅了し幻惑する。華奢な体つきに淡い金に染めたショートヘアという、まるで妖精のような姿をしているところも人気を博した要因の一つだった。

 その音で、その姿で、彼女が悲恋を語れば聞き手は涙し、声援を送れば立ち上がる元気をもらう。そういう存在として、幅広い世代の人々から愛されている。

 しかし、そんな唯花はデビュー一周年を目前に控え、新曲のリリースをやめるらしいとの噂だった。これは今、世間ではかなりホットなニュースである。

「でもそれ、ちょっと前から言われてただろ?」

「改めて正式発表があったんだよ。最近、あんまり調子よくないみたいだし……スランプなのかな? なんか、一部では引退の噂まであるらしいんだけど」

「それはまた……本当なら随分と騒がれそうだな」

「だよねー。空もさ、唯花好きでしょ? 僕はちょっと心配かなー」

「まあ、確かに好きだけど」

 俺は目の前のAランチをパクパクと口に運びながら返答する。このペースだとすぐに胃の中に収まりそうだ。

 孝文のやつは味わっているのか、ゆっくりとだらだら食べている。

「……だけど、あの人の曲聞くと、どうしてもな」

 ただ、唯花の話をすると、俺の中には必ずと言っていいほど浮かんでしまう記憶があった。

「あー、えっと、あれでしょ。昔、駅前でやってた二人組の……だよね?」

 そう。俺が夜の駅前を夢追いながら走っていた頃、よく耳にしていたストリートライブ。フードを被った二人組のギタリストで、演奏が始まるとちょっとしたイベントみたいに人が足を止めて集まっていた、あのストリートライブだ。

 唯花とその二人組は、楽器の種類が同じこともあってか、本質的に曲の雰囲気が似ているのだ。だからこそ比べずにはいられない。そして俺個人としては、しおらしくて穏やかな唯花の曲より、凛々しくエネルギッシュなあの二人組の曲の方が好みだった。

 俺が頷いて見せると、孝文は微笑む。

「そうだね。それ、僕も少し聞いたことがあるよ。まあ、確かに空はあっちのが好きかもねー」

 ちなみにそのストリートライブは、最近ではもう行われていない。

 俺が中二の冬に膝を怪我して、しばらく駅前に行くことがない間に、いつしか終わってしまったらしい。明確に二人の解散を聞いたわけではないが、あるときパッタリと現れなくなったのだと、風の噂に耳にした。

 孝文はそのことには触れなかったが、でもおそらくは知っているだろう。彼がそこで話題を転換したので、何となくだがそう思えた。

 そうして雑談混じりの食事を終え、俺たちは初めての食堂に満足して教室へ戻った。



 午後の授業が終わり放課後になると、俺は校舎の中をさまよっていた。何となしにふらふらと歩いて、校舎三階の音楽室へとたどり着く。

 本来、この音楽室はオーケストラ部が練習をする場所だが、あの部はかなり大所帯であるため、週に何回かは体育館を使って活動するそうだ。ゆえにここは、彼らのテリトリーでありながら、放課後にはこうしてもぬけの殻になることが多い。誰もこの部屋を訪れない空白の時間。俺はそんな時間を狙って、音楽室に踏み入っていた。

 なぜ、音楽室なのか。

 答えは、窓際に立って外を見下ろすとそこにある。

 眼下に広がっているのはグラウンドだ。この音楽室の大きな窓から、綺麗に一望できるグラウンド。そこではサッカー部の練習が行われていた。

 赤い陽の光を横薙ぎに受けながら、俺は窓ガラス越しに、白黒のボールと人の影を目で追いかける。

 少人数だが和気藹々としていて楽しそうだ。一年生の仮入部者も何人かいて、中には孝文の姿も見受けられる。どうやら、今朝俺を誘った東山や日比野と一緒らしい。

 しばらくの間、俺は無言でその光景を眺めていた。

「…………」

 俺が音楽室にやってきたのは、サッカー部の練習風景を見るためだった。

 自分がもうサッカーをできないことは既に受け入れたつもりでいるが、それでもたまに、こうして旧懐の想いに浸りたくなることがあるのだ。もしかしたら昼休みに孝文と話した中で、中学時代の記憶に触れたのが、きっかけになったのかもしれない。

 音楽室は静かだった。その寂々たる空気は、窓の外から聞こえる活気付いた掛け声を、よりいっそう意識させる。夕焼けの中で音に溢れるグラウンドと、海の底のように音のないこの音楽室は、窓ガラス一枚を隔ててまるで別の世界みたいに思えた。

「……今更、何をしてるんだろうな。俺は」

 口からそんな言葉が零れたのは、あまりの静けさに耐えられなかったからだろう。同時に左膝が、少しだけ疼く。

 現実を受け入れて、半ば諦めてしまった俺はもう、あのグラウンドに立つことはないのかもしれない。無音を貫くこの世界は、あの賑やかな世界から弾き出されて空っぽになってしまった俺の心と、同調しているように思われてならなかった。

「いつまでもこんなんじゃ……駄目だよな」

 サッカーとはもう決別した。苦しみも乗り越えて、前を向いたつもりでいる。

 でも、懐かしさに捕らわれて前へ歩き出せないままでは、新たに何かを得ることはできないだろう。あの頃のように、夢中になって心躍ることには、もう二度と出会えない。

 伏し目がちになり、踵を返す。単なる気晴らし目的の散歩のはずが、部屋の柱にかけられた時計を見やると、かなり時間が経過していた。

 俺はそろそろ帰ろうと思い、部屋の出口に向かって歩く。

 しかし、そのときだ。

 ひたすら静寂だった空気の中に、何やら微かな音が流れていることに気づいた。耳を澄ますと、それは隣の部屋から聞こえてくる。隣は音楽準備室だ。

 ゆっくりと一つ一つ確かめるような速度で、音が奏でられている。そうして連なるメロディに、俺は不思議な親しみを覚えた。

 何だろう。俺がここへ来たときには、そんなもの聞こえていなかったはずだけれど。

 そう思うと、足先は自然と音の方へ向かってしまう。この部屋と準備室を繋ぐ扉は施錠されておらず、ノブを捻るとすんなり開いた。

 わずかに隙間を作って、そっと向こう側の様子を伺う。

 瞬間、クリアになった音が耳に入り、埃の匂いが鼻をついた。そして俺がこの目に捉えたのは、逆光の中でギターの弦を弾く女の子の姿だった。

 狭い部屋で一人だからか、短い制服のスカートなのに座って足を組んでいる。すらっとしていて、音を鳴らす度に長い髪先が優雅に揺れる。目を細めて見定めると、その容姿には見覚えがあった。

 鳴海玲奈だ。

 燃えるように赤く染まった部屋の真ん中で、鳴海は俯き気味に、大きなアコースティックギターを弾いていた。

 彼女はどうやら、俺の存在に気づいていないようだった。音が乱れることはなく、ゆっくりと深く、リズムを刻む。

 そんな彼女に、俺は魅入ってしまっていた。知らず知らずのうちに意識を吸い込まれ、光の中の彼女に、ただ釘付けになっていたのだ。

 なぜならそれは、彼女のギターがあまりに繊麗で美しかったから。そして彼女の表情が、その凛とした音と相反するくらい、苦しくて辛そうだったから。

 少しすると、やがて彼女は手を休め、消え入るような声で呟く。

「……今更、何だっていうのよ……」

 まるで冬空の下で寒さに耐えるかのように身を縮め、彼女はギターを抱きしめた。唇はきつく閉じられて、長いまつげが瞳を覆う。埃が光を散らしただけかもしれないが、目元はわずかに、きらりと濡れているようにも見えた。

 完成された名画のような光景だと思った。

 俺はその光景を目の前にして、間違いなく陶酔し、深く深く飲み込まれた。神経伝達が完全に麻痺して、身体の制御を忘れていたのだ。

 だから、意識を取り戻したときには、少しばかり遅かった。

 不意にもたれかかっていた扉がギイッと鳴って、時の止まった空間に割り込んでしまった。

 あっ……やべ!

 いけないと思って、俺は咄嗟にノブを引く。できるだけ静かに扉を閉め、そしてひとまず、そこに背中を預けて座り込んだ。

 一秒、二秒、息を止め――。

 やがてせり上がってきた焦りを押し込め、溜息をつく暇もなく、すぐに腰を上げてそそくさと音楽室から立ち去った。



 俺は早足で教室まで戻ってくると、そのまま荷物を持って学校を出た。

 まあ、率直に言って逃げてきたことになるわけだが……でも、あんな状況で鳴海と向かい合う心の準備は、到底できていなかった。出会ってまだ二週間も経っていないが、これまでずっと笑顔の彼女しか見たことがなかった俺にとって、あの光景はいささか、いや、かなり衝撃的だったのだ。

 光の中、淑やかにギターを弾く彼女。凄絶なまでに美しい姿。でもだからこそ、その苦い表情がより印象的に刻まれて、この頭から離れない。

 歩いて高校の最寄り駅まで向かう間、俺はまだ半分くらい惚けたように、あの瞬間を思い起こしていた。

 そしてその記憶は、やはり同時に耳にした音楽を伴っている。

 初めは、どうして少し聴いただけで、そんなにも覚えていたのか疑問だった。けれども、考えながら駅に着き、ぼんやりと電車に揺られているとき、俺はふと思い出したのだ。

 鳴海が準備室で弾いていたメロディ。それは俺のよく知る、ある曲とまるっきり重なった。俺は過去、あの旋律を聴いたことがある。

 テンポと曲調はどう考えたって全然違うが、リズムと音階は確かに同じ。昔耳にした、都心の駅前でのストリートライブと同じだった。

 そして、一度それを認識してしまうと、俺の思考回りは早かった。準備室で鳴海がギターを弾いていて、弾いていた曲がライブの曲と同じということは……かつて、あのとき、あの場所で、演奏していたフードのギタリストのうちの一人が、鳴海玲奈と同一人物。そういうことに、ならないだろうか?

 ああ、そうだ。その可能性は、十分にある。もちろん百パーセントと断定できるはずはないが、何となく確率は高い気がした。

 では、もし本当にそうだったら、いったいどうだというのだろう。

 俺は、あのストリートライブで聴くギターが好きだった。中でも鳴海が準備室で弾いていたのは、ダントツで一番に好きな曲だ。それは、昔駅を走り抜けていた頃に俺の心を躍らせ続けていた曲で……今聴いても、変わらずこの心は高揚する。

 そうだ。だからつまり、どうだというのだろう。

 少しずつ心がざわつき出す中で、俺は答えを求めて自分に問う。

 すると意外にも、結論は瞬時に弾き出された。

 俺の心は訴える。

 もう一度、あの曲を聴きたい。

 最初から最後まで、全部通してちゃんと聴きたい。

 あのギターを、あの旋律を、あの音を……俺はもう一度、聴いてみたい。

 そんな風に。

 そしてこの日の夜、俺は結局、ベッドに入っても波立つ心を抑えきれず、上手く眠れないまま横になっていたら、次の日の朝が来てしまった。

 翌日、学校に来た俺は、機会を見て鳴海にギターの話を持ちかけてみようと考えていた。彼女が一人で暇そうにしているときにでも、何気なさ、さりげなさを装って、上手い具合に問いかけてみようと考えていた。

 しかし、いざそうしようと横目で彼女を追っていると、一つ問題が発生した。

 いつまでもその好機がやってこないのだ。

 気にしてみて初めてわかったことなのだが、彼女は学校では、常に何かをしてばかりだった。

 そう例えば、クラス委員の仕事をしているとか、本を読んだり授業の予復習をしているとか、友人や先輩、先生と会話をしているとか。

 特に三つ目に関しては、正直、驚愕以外の感想が浮かばなかった。

 まだ入学して間もないのに、まるで彼女には、学校中のありとあらゆるところに知人がいるような錯覚に囚われた。

 彼女の社交性は極めて高い。その上、美人で聡明となれば、そりゃあまあ容易に知人も増えるのかもしれないが……。

 何だろう。友達百人作るとか、学校にいる人間全員と話すゲームとか、そんなことでもしているのだろうか。もしかしたら、先日俺に声をかけたのも、その行為の一環だったのかもしれない。

 そういうわけで、とにもかくにも、鳴海は俺のように頬杖をついて外の景色をぼーっと眺めたり、何となくふらふらと校舎を歩き回ったりはしないらしいのだ。考えてみれば当たり前なのかもしれないが、俺にとって、それはかなり意外だった。

 これでは話を持ち出しにくい。

 それに、そうやって鳴海のことを気にしていて、俺はまた一つ、新たな問題を発見してしまった。

 やはりというか何というか、鳴海は学校で何をするときも始終、人当たりの良さそうな表情を浮かべていたのだ。一人のときは穏やかそうに、人と話しているときは楽しそうに振る舞っている。一つ一つの挙動に余裕があって、まるでどこにも隙がない。三百六十度上下左右、どこから見ても、そこに綻びはあろうはずもなかった。

 しかしそれゆえ、俺はそんな彼女に疑問を抱くことになる。

 普段の彼女は、つまるところ完璧だ。あまりに隙がなさすぎる。容姿端麗、品行方正、非常に聡明で人望も厚く、いつも明るくて頼りになる。それが今の彼女に対する、俺を含めた周囲の人間の評価である。

 では、それならば……先日の音楽準備室にいた鳴海玲奈は、いったい何だったのだろう。

 夕陽の中でギターを抱き、何かに耐えているように苦しがっていた鳴海。見ていると、胸がぎゅっと締め付けられるような表情をしていた鳴海。涙を零していたようにさえ見えた鳴海。

 彼女に伴う二つの印象は、比べてもまるで別人のそれでしかなく、イメージの乖離が極めて激しく、俺は迷わざるをえなかった。もしかしたら彼女の中には、二人の鳴海玲奈がいるのかもしれない。そんな風にさえ、思えてしまう。

 だからだろうか、とてもではないがギターのこと、準備室でのことは、ふらりと尋ねてはいけないような気になってくる。

 こうして俺は、とうとうその日は鳴海と言葉を交わすことなく家に帰った。帰宅の前に駄目元で音楽準備室まで足を運び、あまつさえ都心の駅に寄り道までしてみたが、何も得られるものはなかった。胸の中のもやもやした感覚は、何一つ解消されなかった。

 そして結論から言えば、次の日もその次の日も、俺は彼女に話を切り出すことができなかった。

 気になる気持ちはどんどん膨らんでいくのに、彼女を目の前にすると、どうしても身体が動かない。場合によっては向こうから話しかけてきてくれるなんてこともあったけれども、それでも話題を上手くギターの話に繋げられない始末だった。

 日常の中で俺に接する彼女は、底抜けに明るく、眩しい笑顔を咲かせている。

「おはよう、大江君」

 朝早く、教室でそう挨拶をされたときは

「お、おう……えっと、おはよう」

 とだけ返し、次の言葉を探している間に、彼女はどこかへ行ってしまった。そのときは、教室の後ろにいつも飾られている花の水を入れ替えていたようだった。

 また、昼休みに孝文と訪れた食堂で会ったときは

「あ、大江君。ここ、もうすぐ空くから、次どうぞ」

 と言って、席を探す俺たちに場所を提供してくれたが、俺は

「お、おう……えっと、ありがと」

 と返すだけで、友人と一緒に去っていく彼女を呼び止めることはできなかった。

 まったく。俺って意外とシャイだったのかな。いや、この場合はヘタレっていうのか……。

 思わずそんな感想を抱いて、自分で自分が情けなくなってしまうほどだ。

 でも、冗談抜きで真面目に思案したとしても、やはり安易な気持ちでこちらから切り出せるような話ではない。それも明らかなのだ。

 いつ何時も、彼女と同じ空間にあるときはチャンスを狙ったつもりでいるが、そのたびに俺の視界にダブる光景が邪魔をした。赤々とした夕陽の中、絶世の美しさを湛えてギターを奏でていたあの姿が、俺に、彼女には触れてはならないと脅しをかける。

 だって彼女のその姿は、もし不用意に触れようものなら、途端に壊れてしまいそうなほど脆く、深く傷ついているように見えたから。大きな苦悩と悲壮を抱え、でも必死にそれを押し隠し、ギリギリのバランスの上に危うく成り立っているような存在。そんな風にさえ、思えたから。

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