第2話 芳ばしい戦場

 頭がぐらりと揺れ、視界が暗転する。

 側頭部と手のひらの下に冷たい感触。横倒しになっているのに気付き、眩暈でも起こして倒れたのだろうとの考えは、その床が硬い石畳ということで否定された。

 控室のフローリングではない。

 すぐ側には同じく石の塀。


(ここは、どこだ?)


 視覚情報から認識したものを意識が理解できずに、そんな疑問が空々しく頭を過る。

 状況を把握しようと塀に手を伸ばし、ゆっくりと体を起こした。立ち上がってみれば、そう高さはない。途切れた石壁の向こうに見えたものは――星がぶちまけられたように広がる夜空と、赤い火の粉の舞だった。


 急激に意識と実感が焦点を結び、鼓動が高まっていく。次第に、こもっていた音がはっきりと意味を持ち始めた。

 鍋を叩くような金属がぶつかり合う音。

 風を切る音。

 がなり合う男達の声。

 そして、まるで聞いたことのない動物の唸り。


 特に耳につくのは聞きなれない音の正体だ。


(動物、なのか?)


 甲高い猿の鳴き声、犬の遠吠えといったものにも聞こえたが、どれもよく響き体に重く圧し掛かるようだった。

 それさえなければ、喧嘩をしている場に巻き込まれたとでも判断しただろう。

 しかし、これまでに体験したことなどない、恐ろしいほどの緊迫感に支配されているのを肌で感じられるようだった。


 ぞくりと、背筋が危険を伝える。

 塀には一定の間隔で隙間があり、無意識に頭を低くして、そこから恐る恐る下を覗いた。

 高さがある。深陽はマンションの三階に住んでいるが、そのベランダから下を見た感覚に近い。

 吹き上げる風は仄かに熱を帯びている。

 地面は赤々と燃えていた。空に流れる火の粉は、そこから噴き上がっているのだ。

 多くの篝火が辺りを照らし、燃え立つ黒い蠢きが押し寄せている光景が目に入った。


 重なり合う音と動きの正体は、戦いだった。

 喧嘩なんてものではない。

 まるで命がけの――。


「ど、どういう状況だ……これ、なんなんだよ」


 見る間に動かなくなっていく、未だ煙を上げる黒い塊を越えて、少し離れた森から次々と得体の知れない動物が押し寄せてくる。


 真下を見れば、消し炭となった他の塊を台にして、すでに壁を殴りつけているものもあった。太い丸太、いや、そこらの木を切り倒してきたものだろう。それで殴るだけでなく、壁に取り付いてよじ登ろうとしている。

 それらは矢を射かけられて落ちては、別のものが再び取り付いた。

 その一つがこちらを見上げ、目が合ったように思えた。


 思わず倒れるように後ずさる。

 その際に何かが空へと放たれ、弧を描くのが見えた。

 落ちてくる。


(上に……!)


 頭を庇うと同時に鈍い打撃音が目の前で弾け、小さな悲鳴が自分の口から漏れていた。

 だがそれは怒声でかき消される。


「死にてぇのか! 住人がこんなところでなにしてやがる!」


 はっとして顔を上げると、甲冑姿の男が槍を振っては飛来物を叩き落していた。

 地面に打ち付けられたものを見れば、ごろごろとした石の塊だ。

 血の気が引く。


 それが止んだのか男は足元に落ちた石を拾うと、真下に投げ落とした。「ギャッ」と喉が潰れたような声が届く。それで沈黙したのだろう、男はこちらを振り向き手を伸ばしてくる。


「さっさと戻れ!」


 乱暴に肩を掴まれ立たされたが、突然のことによろめいて壁を掴んだ。しかし足がもつれたのは、そのせいだけではなかったらしい。

 石の床から重いものを引き摺る振動が伝わってきたのだ。同時に号令が届く。


「撃てえぇ!」


 小さな爆発音と同時に、耳をつんざく叫びが獣たちから上がった。

 かなりの威力だ。衝撃でバランスを崩した深陽は、壁を掴んでいた手が隙間から向こうに出てしまった。

 そこから垣間見えたのは、塀から一部がはみ出るように出された武器。人間サイズの木組みの何かから、丸太のような火矢が撃ち出されていく。


「……バリスタ?」


 呟いたと同時。

 別の変化が訪れる。


 それも、自分から。


 手のひらが熱くなり、慌てて隙間から引っこめかけたところで固まった。

 その光景は、やけにゆっくりとして見えた。


 熱に炙られているような感触とともに、手から湯気が立ち昇り、風船のように何かが膨らんでいく。

 その黒く濁ったような物体は、火の灯りを受けて琥珀に透過する様は、まるで倒れる前に見た石を思わせるものだ。

 一定の大きさで止まると、手から離れるや自然と落ちて行き足元で弾けた。


「っつっ……!」

「うおッ!」


 湯煙を上げる黒い湯が足に掛かり、兵らしき男と一緒に叫んでいた。

 すぐに兵の顔色は困惑に変わる。


「これは、煮え湯魔法……あんた魔法使いだったのか! すまん、俺のせいで無駄撃ちさせちまった」


(に、煮え湯、まほう!? なんだそりゃ!!)


 少し離れた場所から、悲鳴のような声が上がる。思わず通路の向こうを見るが、石壁に遮られている。城壁は中心に向けて段々に迫り出すようになっており、ここは城壁の端に位置するようだ。門を目指して迫る獣たちを止めるために、人員は中心に集められているようだった。

 端にも少数ながら敵はいるが、中央と比べれば小物だ。

 ここにいれば、まだしも安全なのかもしれないという考えを断ち切るような声が轟く。


「一基破壊! これ以上は、意地でも近付かせるなぁ!」


 見れば木枠がひしゃげていた。壁も崩れていて、そこには岩の破片らしきものが幾つか転がっている。

 先ほど雨あられのように投げ込まれていた石礫の中には、巨大な岩も含まれていたらしい。

 とても人間業ではない。

 かといってゴリラや熊のようなものにでさえ無理なことだろう。

 頭が真っ白になる。


(このままじゃ、死ぬ……?)


「くそっ、来やがった。次撃てるか、援護する!」

「へ」


(撃つって何を……さっきの、あれ?)


 手のひらを見た。

 一体、何が起こったのか分からない。

 呆然とする深陽の前で、再び兵は槍を振り回す。


「今はあっちを守ってるから人を回せんのだ! 俺一人じゃ長く持たん! できるだけ急いでくれ!」


(急げって言われても、どうしろってんだ)


 そもそも初対面で魔法使いだとか大概失礼な話だ。まだその域には達してないだとか、思考は逸れていく。


(まほう……本当に、あの物語の中の魔法?)


 たとえ魔法だとしても、ただの熱湯でしかないようだった。

 先ほど床に散った跡を見れば黒い染みを作っているだけで、溶かしているだとか、そういった特別な変化はない。

 それでどうしろというのか。


 近くで鈍い音が響いた。

 兵の手甲がへこみ、苦悶の呻きが耳に届く。


(この人は、こっちに来る礫を弾いてくれているんだ……)


 奥歯を噛みしめ、深く息を吸う。

 訳が分からなくとも、なんでもいい。やらなければと気合いを入れる。


「たしか、バリスタを見たときに……来た!」


 どうもこれが呪文らしい。

 瞬く間に膨らんだ揺らぐ球体。それが落ちきる前に、頭を下げて壁の隙間から手をギリギリ出す。


「ひっ!」


 気が付けばすぐそこに異形の姿が迫っていた。

 だがそこで熱湯球が弾けた。


「ギャアアァァ!!!」


 壁に取り付いていたものは転げ落ちて行った。


「おお! いいぞ! この調子で頼めるか!」

「ああ……やってやる!」


 試しに両手を突き出せば、思う通りにどちらからも出てくれた。

 今は何も考えず、次々に熱湯を捻り出しては落としていく。


「ここはなんとかなったな……だが、向こうはまずい。来てくれるか」


 巨大弓が破壊された位置を兵達が自らを壁代わりに守っていたのだが、それが崩れそうになっている。

 今は身の危険のことなど考えられなかった。

 ここで隠れて生き延びたところで、恐らく門を抜かれれば、おしまいだという気がしたのだ。


「行こう」


 深陽は兵に頷き駆け出した。


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