第8話:≪ラストマン=スタンディング~後編~≫
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ラモンは墓石の陰で、足の怪我の程度をざっと確認した。
太い血管は切れていないが、長く放置すれば失血は免れない。
何より、要である機動力を殺されてしまったのが痛かった。
ラモンはジャージの袖をナイフで切ると、取り急ぎ患部を縛って止血した。
何もしないよりマシという程度の処置だったが、それでも出血は多少緩やかになる。
ロマネスクは、あえてラモンを追い詰めるような速度でゆっくりと迫って来ていた。
(次にボスが襲って来たときが、勝負の分かれ目だな……)
じくじくと脈打つ傷痕を抱え、ラモンは思案する。
自分にはいかなる手が残されているのか、そしてロマネスクはどのような行動を取るか。
しばし目を閉じると、ラモンはロマネスクの銃撃のフォームを、可能な限り鮮明に脳内で思い浮かべた。
(ボスは銃を撃つ時、常に腰だめに銃を構えて射撃する……)
(速射するにはそれが一番都合がいいからだ)
リボルバーを撃つためには逐一撃鉄を起こす必要があるため、利き手で銃を握って逆の手を撃鉄へ添えるのがセオリーである。
今回もその通りのフォームを取るなら、ラモンにはひとつだけ取れる策があった。
閉じていた目を開くと、ラモンは墓石の元へ腰を下ろし、足元に転がっていた砂利を幾つか拾った。
そしてロマネスクの足音がする方向へ、座りながら体全体を向ける。
腹は括った。覚悟はとうに出来ている。後は全てを、己の指へと託すのみである。
墓石の反対側から、ロマネスクが泥を跳ねて走る音が聞こえてきたのを確認し、ラモンは構えた。
一方のロマネスクは、猫のように光る瞳孔で、墓石の影まで走るラモンを目で追った。
銃にはすでに弾を装填したが、すぐにその背へ向けて発砲することはしない。
負傷した獲物を追い詰めるには、警戒しなければならないことが幾つかある。
まず第一に、先を急がない。獅子が兎をゆっくりと追い込むのには、それなりの理由がある。
こちらが早い動きで敵を追い詰めようとすれば、相手もがむしゃらな動きでそれに抗おうとするからだ。
それは時として予測出来ない動きとなり、逆転される可能性にすらなりうる。
背中から撃とうとすれば、それを察知したラモンがやたらな反撃に出ることも考えられた。
彼の行動が負傷で制限されている今、焦って機を逃す必要はない。
第二に、飛び道具は最も警戒する。これは銃だけに止まらない。
先ほどのように泥を跳ね上げ目潰しにする可能性もあれば、ナイフを投げつけてくる可能性もある。
墓石に隠れて何をしようと、対応できるだけの心構えは必要だった。
そして第三に、命乞いには耳を貸さず、無感情にその命を奪う。これは最大の基本にして行うのが最も難しい行動でもある。
この期に及んで、ラモンがみっともない醜態を見せるとは思わない。
ラモンがそのような人間であるなら、ロマネスクがここまで目にかけることもなかっただろう。
しかしロマネスクの動揺を誘うために、弱ったふりをして見せることくらいはあるかもしれない。
それを心の隙間に入れないために、ラモンの言葉は全てシャットアウトする。
それくらいの気構えをして、初めて仕留めうる相手だとロマネスクは認めていた。
ラモンのいる墓石まで残り1mほどの距離のところで、ロマネスクは走った。
動きに緩急をつけることで、ラモンを揺さぶるためである。
銃の撃鉄はすでに起こされており、いつでも弾を発射できる体勢は整えている。
ロマネスクは銃を構えつつ、反対の腕で顔を覆うような体勢を取った。
先ほどラモンのナイフを弾いたように、腕には鉄製のアームカバーが着けられている。
ラモンの銃の口径ならば、ギリギリで防ぎきることが出来るはずだ。
胴や足といった、顔以外のその他の部位に何が当たっても、意に介さずラモンを撃つ。
顔面の急所だけを最低限守り、攻撃のみを意識した構えである。
その構えを保ちながら、ロマネスクは墓石の裏へと躍り出た。
ラモンの姿を確認するや否や、ロマネスクは銃の引き金を引こうとした。
しかしロマネスクは、瞬時にある違和感へと気づく。
(片手撃ちだと……?)
ラモンは左手で銃を構え、右手は体に添えるようにして隠しているように見えた。
拳銃は本来両手で扱うものであり、安定を捨ててまで片手で扱うのには、何か理由があるはずである。
その違和感の正体に気づくより早く、引き金にかかったロマネスクの指に、鈍い痛みが走った。
(クッ……!?)
ロマネスクの指を直撃したのは、鋭利に尖った小石であった。
肉の外側ではなく、骨にまで響く鈍痛がロマネスクの指を襲う。
それは数秒、引き金を引く時間を遅らせるには十分な痛みだった。
刹那にして最大のその隙を、見逃すラモンではない。
ありったけの気力を込めて、ラモンはロマネスクへ、残る全ての弾丸を放った。
「チィッ……!!」
ロマネスクはかろうじて体をよじると、地面に倒れこむようにして銃撃を避ける。
しかしその動きも、弾丸からかろうじて急所を守っただけで終わる。
ラモンの決死の行動によって、ロマネスクの肩口に三発、銃弾が埋め込まれた。
関節は、動きを司る場所ゆえにガードのしにくい場所でもある。
それゆえアームカバーは、ロマネスクの肩まで覆ってはいなかった。
ラモンは荒い呼吸を落ち着けるために、空気を大きく吸った。
そして血の気の失せた体に鞭打って、ロマネスクと対峙する。
ロマネスクは流血する肩を押さえながら、ラモンを睨みつけた。
「やるではないか……まさか指弾を使うとは、思わなかったぞ……」
それはかつて、ラモンがダイヤモンド=トゥーンから受けた技であった。
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ラモンは、ロマネスクが力で自分を制しに来ることを知っていた。
彼の性格上、傷を負った相手へ余計な策を講じることは、これまでなかったからだ。
そして、ロマネスクの速射能力の前に、負傷した自分の反射神経で勝てるとは思えない。
ロマネスクの姿が見えてから狙うのでは、遅すぎるのである。
それでは良くても同士討ちか、悪くすればラモンだけが銃弾の餌食となってしまう。
逆に弾丸を早々に放っても、弾が早すぎてロマネスクへ直撃することはないだろう。
三発しか残っていない弾丸を、無為に浪費する訳にはいかない。
ロマネスクの姿が見えるより先に撃ち、姿が見えきった頃にボスの手元へ届く速さの弾丸。
それが、指弾による石の弾丸であった。
狙うのはただ一点。ロマネスクが銃を撃つために引き金へ掛けた、その人差し指である。
他の部位では、たとえ眼球に石が直撃したとて、ロマネスクの引き金を止めることは出来ない。
唯一指をピンポイントで狙うことだけが、ロマネスクに競り勝つ方法であった。
足音からして、ロマネスクがラモンの左側から来るのは分かっていた。
脳内に浮かべたロマネスクの射撃フォームを、そのまま墓石の横へ投影する。
タイミングと、石へ与える威力が要となる。そのいずれもが足りなければ、死あるのみであった。
ラモンはその危うい賭けに、見事勝って見せたのだ。
「その満身創痍の体で、俺を弾くとはな……」
ロマネスクは傷口を押さえていた手を離し、右腕をだらりと下げる。
ラモンはようやく、ロマネスクを自分の勝負の土俵に引きずり下ろしたと言えた。
問題は、ここからである。すでにラモンの弾丸の手持ちは尽きていた。
そしてロマネスクも、銃を満足に扱えるコンディションではなくなっている。
ここでロマネスクには、二つの選択肢が生まれたことになる。
ひとつは、右手に持った銃を左手に持ち換えること。
もうひとつは、銃を捨てナイフのみで戦うことである。
片腕が使えなくなった今、ナイフと銃とをスイッチして戦うのは困難となってしまった。
接近戦では、単発の拳銃よりもナイフの方が有利に働く場合が多い。
ロマネスクは、ここで敢えて弾の残った銃を捨てる選択を選んだ。
ラモンが足を負傷していることを考慮しても、銃ではラモンの先を取れないからだ。
ロマネスクが銃を地面に落としたのを確認し、ラモンも銃を投げ捨てた。
そして双方共に、ナイフを握って体の前面で構える。
残ったのはその身一つと、ナイフの一本のみである。
窮地はどちらに取っても、等しく同じだった。
「つくづく楽しませてくれる男だな、お前は……まるでこちらが試されているようだ」
「楽しませるつもりも、試すつもりもない。こんな面倒は、さっさと終わらせたいだけだ」
二人はナイフを構えて、円の軌道を描く。
ラモンの方が足の負傷のぶん、やや歪な円を描いている。
その円は徐々に縮まり、二人の距離が半歩ずつ近づいてゆく。
そして数度の牽制の後、勝負を掛けたのはロマネスクからだった。
足を負傷したラモンと肩を負傷したロマネスク。
文章にすれば、不利な条件はどちらも同じように見える。
しかし、足の殺されたラモンの方が、初手が遅れるのは必然である。
ロマネスクはそれを見越して、まだナイフが届かない距離のうちに、目潰しを仕掛けた。
走り寄ると見せかけて突如体を寝かせ、スライディングしたのである。
「クッ……」
泥の幕が高く跳ね、ラモンの目線まで飛び散る。
ロマネスクはその低い体勢のまま、ラモンの足へ蹴りを入れようと試みた。
無論、負傷した箇所を狙っての蹴りである。
ラモンは、強く歯を食いしばると、負傷した方の足を上げ、ロマネスクを踏みつけにしようとした。
しかしロマネスクも、ただで踏まれるはずがない。
素早く横に転がると、踏みつけから逃げながら立ち上がり、ラモンのナイフの射程圏内へと入った。
「シャアッ!!」
「オォオッ!!」
双方声を上げ、気合いを入れたのは、負傷を忘れるためである。
声を出すと一時的にだが痛みが和らぐことを、どちらも知っているのだ。
ここへ来ても、二人の断ち筋は衰えない。
特にロマネスクは、片腕を欠いたバランスにも関わらず、先ほどまでと変わらないナイフの速度を維持している。
片腕を封じて激しい運動をしてみれば、それがいかに困難な挙動か理解出来るだろう。
互いにかなりの出血が見えるものの、それが原因で致命傷を負うことはなかった。
卓越したナイフのやりとりは、一個の芸術品のように昇華されていった。
気力と気力。
技と技。
力と力。
拮抗したそれらは一歩も譲ることなく、途轍もない高みへと昇ってゆく。
もはや怪我などしておらず、限界すら越えて無限に体が動くような錯覚さえ覚える。
しかし、先にその幻想から目覚めたのは、ロマネスクだった。
彼の体は、意思に反して徐々に重く、冷たくなりつつあった。薬の効果が、ついに切れ始めたのだ。
このままでは五分と持たず、ラモンのナイフの餌食となってしまうだろう。
(その前に、片をつける……!!)
ロマネスクは気概を新たに、ナイフの柄をより一層強く握る。
そのため、ラモンに起こりつつあった変化に、この時はまだ気づいていなかった。
ロマネスクが「それ」に気づいたのは、そこからさらに数度、ナイフを合わせてからだった。
右、左、フェイント、右、下。
素早く、正確に、力強く。
そんな動きのはずだったが、ロマネスクは唐突に、ラモンの動きに違和感を覚えた。
何かが先ほどまでと、決定的に違う。それまでと何が違うのかは説明できない、僅かな差異である。
だがその僅かな差異が、たった数秒後には明確な差となるような、そんな予感がしたのだ。
そしてロマネスクは、その違和感の正体をすぐに知ることとなる。
ロマネスクがナイフを動かすのと同時に……否、それよりも早く。
ラモンのナイフが先回りして、ロマネスクの動きを制しているのだ。
(これは……なんだ、何が起こっている……?)
まるで予知のようなその動きに、百戦錬磨のロマネスクですら薄ら寒いものを覚えた。
そして、鈍る体の感覚を奮い立たせ、もう一度ラモンの様子を観察しようと試みる。
ナイフの動き、足捌き、攻撃をかわす仕草。全てがロマネスクのそれと一致している。
ラモンの瞳は、ロマネスクの一部でなく全体を見ているように感じる。
しかしそれだけで、こうも正確に動きをトレース出来るはずがない。
息を吸って吐く、そのタイミングすらが、全く同じなのである。
そこまで考えた時、ロマネスクは唐突に、ラモンのしていることが何なのかに気づいた。
(いや、違う……『合わせている』のだ。呼吸を、俺に……!!)
そう理解したとき、ロマネスクは戦慄に打ちのめされていた。
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ラモンはこの時、動きながら自らの脳内にあるものを漁っていた。
気の遠くなりそうな傷の痛みと、心臓の破裂しそうな苦しみの中。
それらを打開するような何かを、そこに探していた。
ロマネスクの動きは鋭く、血液を失った視界では、もはや半ばぼやけてしか見えない。
致命傷に至らないのは、経験と勘でなんとか避けているだけだ。
意識は冴え冴えとしているが、決め手となるものが自分にはない。
ロマネスクのような経験則も。
ロマネスクのような技の冴えも。
ロマネスクのような執念も。
自分には、存在しなかった。
では、自分の中には何があるのだろう。
果たしてロマネスクを倒しうる何かが、そこにあるのだろうか。
脳の奥深くを探り、そこに何があるのかを再度確認する。
これまで培ったトレーニングでは、ロマネスクを越えることは出来ない。
潜った死線も、ロマネスクには遠く及ばない。
策も小細工も、全ては彼の慧眼に看破されてしまう。
それでも必死に探し求め、最後に残ったものは、彼の最も奥深くに刻まれた記憶だった。
『やったことを取り消せぬなら、とことんやれ』
『生死の天秤の傾きは、必死に足掻き続けたその結果でしかない』
それは、ロマネスクの放った言葉であった。
これまでラモンはその教えの通り、いかなる窮地においても一度も諦めなかった。
ならばたとえどんな絶望的な状況にあっても、自分はそれをするしかない。
技術で劣ろうと。
力で翻弄されようと。
早さで遅れを取ろうと。
生死を超越して、己の全てを出し切ること。それでしか、自分はロマネスクに対抗しえない。
ロマネスクを越える術は、ロマネスクが教えた言葉の中に存在した。
それを知った瞬間、ラモンは脳の一部が、カチリと音を立てて切り替わるのを感じた。
ラモンの耳は、あるひとつの音を捉えていた。
『スゥー……ハァー……スゥー……ハァー……』
そこには、何者かの吐息の音があった。
雨の中にあって、その吐息の音だけはやけにハッキリと鮮明に聞こえた。
ラモンは無意識に、その吐息へ自分の呼吸を合わせようと試みた。
なぜそうしようとしたのかは分からない。
強いて言うならばそれは、ラモンの第六感としか言い様がなかった。
すると、不思議なことが起こった。
半ば霞んでぼやけていた目前のロマネスクの動きが、鮮明に捉えられるようになったのである。
それどころか、ロマネスクの動きの軌道が、動き出す前から読めるまでになっていた。
これこそが、故・春日音哉の得意とする、呼吸を介した敵との同調法。通称『同期』であった。
恐らくそれは、ラモンが春日音哉に標的として見られていた時。
感応力の高いラモンは、同期の感覚にすでに目覚めかけていたのだろう。
音哉がラモンと感応しえたのならば、その感覚をラモンも共有する可能性は十分にあった。
同期が本来、相互作用的に起こりうる事象だとするならば、見られていたラモンが無意識に呼吸を読むことを覚えても、何ら不思議ではない。
音哉の超感覚が、ラモンの鋭敏な感覚すらも呼び起こしたのである。
そして現在、それはロマネスクを追い詰める大きな武器となりつつあった。
あれほど早く、予測不可能だったロマネスクの動きが、怖いほどによく見えた。
ロマネスクの攻撃しようとする箇所が、事前に予測出来るのである。
(右、左、右、喉、足、心臓、肝臓、膵臓、右肺、眼球……)
攻撃を察知した箇所をガードし、同じ箇所を攻撃する。するとロマネスクも、それとそっくり同じ動きをした。
ラモンはまだ、自分がロマネスクの動きより早く動いていることを知らない。
いや、知ったとて今日を境に、これをまた再現出来るかは定かではないだろう。
ロマネスクもまた、己の攻撃を読まれ切っているという事実を受け止めねばならなかった。
フェイントも、死角からの攻撃も、意味を成さなかった。
それでもロマネスクは、攻め手を絶やすことなくナイフを振るい続ける。
手を止めれば待っているのは、ラモンからの一方的な猛攻である。
ひとつでも読み間違えば、死は確実にどちらかの身に降りかかる。
現在二人を包んでいるのは、そんな揺るがせに出来ない緊張感である。
そしてロマネスクは、この現象に聞き覚えがあることを思い出していた。
(『鏡身』……まさか、お前がそんな境地に至っていようとはな……)
鏡身(きょうしん)。
それは古い武術家の間で語られる、伝説のような話だった。
互いに体術の上級者である場合、敵の動きを先読みすることは常識とすら言える。
それが高じると、次第に敵が次に何をするのか、手を取るように分かってしまうことがあるという。
その動きに対処するためには、まるで鏡写しのように互いに同じ動きをしなければならなくなる。
達人同士でしか起きない稀有なるその境地を、先人たちは「鏡身の位」と呼んで畏れ敬った。
現在、ロマネスクを襲っているこの現象はまさにそれである。
極限の先読みで、ロマネスクの動きの自由が封じられているのだ。
彼が鏡身を知っていたのは、かつて懇意にしていた武道家から聞き及んでいたためである。
それですらロマネスクの認識は、眉唾か錯覚の類いだと思っていた。
しかしラモンは、現実にその境地へと至り、ロマネスクを追い詰めている。
(だがこのロマネスク、只では死なん……)
(貴様が呼吸を読むなら、俺もその境地に至るまでよ!)
重くなり、鈍りつつある体を奮い立たせて、ロマネスクは再度集中した。
ラモンの鏡身が弟者との同期により覚醒したものなら、ロマネスクにもそれが起こる可能性はある。
残る短い猶予の中、ロマネスクはその僅かな可能性に、自らの能力の全てを賭けた。
「スゥー…ハァー…」
ロマネスクは意識的にラモンと呼吸を合わせ、再度動きを調律する。
それまで先を取られていたラモンの動きに呼応し、徐々に対応できるようになっていった。
恐るべきはロマネスクの戦闘への才と、その適応力の高さである。
吸い付くように滑らかに、二人の動きがみるみる合致してゆく。
それはまるで、ツープラトンで技を掛け合っているかのような優雅ささえあった。
しかしラモンは、対応しつつあったロマネスクを嘲笑うかのように、早くもその一歩前へ先んじていた。
ロマネスクはそこで、急ブレーキをかけられたような失速を覚えた。
(呼吸が読めん……!?)
それまで一致していたラモンの呼吸が、突然読めなくなったのである。
急な変化にとらわれ、ロマネスクはラモンのナイフを浅く受けてしまう。
その原因は至極単純ながら、誰の予想をも越えたものだった。
いや、ただ一人。地獄へ先んじて旅立ったグラン=ウィッチなら、その結果を予測出来たかもしれない。
(止めたのか、呼吸を……咄嗟に……!)
ロマネスクの額を、雨の滴に混ざって冷たい汗が流れていた。
この究極とも呼べる戦いの最中、息を止めるという無謀。
酸素は血中から欠乏し、動きはすぐに続かなくなるだろう。
しかし、ラモンの無意識は知っていた。
毒使いグランウィッチのアジトで見せた、強靭な肺活力。
特殊なトレーニングを積むことで増加した、ヘモグロビン群。
それらが可能とする、九十秒間の無呼吸運動が、今、意外な方向で役立っていた。
ラモンの動きはさらに鋭く、ロマネスクの動きは逆に弱々しくなってゆく。
呼吸を止めた以上ラモンの同期も使えないはずなのだが、その早さは衰えることはない。
鏡身は知らずのうちに終わり、ほぼ一方的にラモンが攻める時間が増えていった。
この時ロマネスクは、ひとつの決断に至る。
ロマネスクはラモンを殺す覚悟ではなく、刺し違える覚悟で臨む決断へと走ったのだった。
もはや戦いの趨勢は、決まったと言っても過言ではなかった。
追い詰めても、追い詰めても、なお不死鳥のごとく息を吹き返すラモン。
それに比べ、ロマネスクは薬が切れてしまえば、立つことすら困難となった。
そしてそのタイムリミットは、じりじりと燃える導火線のように確実に短くなっている。
望むのは、たった一度ラモンの意表をつく一撃。
急所をえぐり、その命を絶つことの出来る技。
そのためにはこの命さえ、惜しむつもりはない。
ロマネスクは覚悟を決め、最後の一撃を繰り出す機会を執念深く窺った。
鈍色の空はその雨脚をますます強め、二人の体を重く濡らしていった。
ラモンは現在、その攻撃の大半を無意識に行っている。つけ入る隙があるならそこだろう。
ロマネスクはこの時、わざと両手を下ろして唐突にガードを下げた。
本来なら不自然すぎるそのノーガードに、逆に警戒が走るところである。
だが、無意識に行動するラモンが、その隙を見逃すはずはない。
それこそがロマネスクの仕掛けた、最後の罠だった。
(かかった……!)
ロマネスクはラモンの踏み込みに合わせて、ぽんと柔らかく右足を前へ突き出した。
靴の先端からは刃が伸び、ラモンの足の向こう脛に突き刺さる。
ここまであえて使わなかった、靴に潜めた隠しナイフである。
ラモンはそのダメージに、体が泳いでナイフを当てることが出来なかった。
「勝機ッ!!」
ロマネスクはその唯一の勝機に、ナイフを全力で前へ突き出した。
「オオォォォッ!!!」
ラモンも一瞬遅れで体を立て直し、ロマネスクへ向かってナイフを差し出す。
その一瞬の差で、ロマネスクのナイフはラモンの心臓を刺し貫くはずであった。
その時。
二人の戦う場所から程近い墓石の上へ、天啓のように轟雷が一筋、鳴り響いて落ちた。
稲光が収まった後、二人はナイフを互いに差し向けたままの格好で対峙していた。
ロマネスクの刺し出したナイフは、ラモンの左肩を。
ラモンの刺し出したナイフは、ロマネスクの頸動脈を。
それぞれ抉り、刺し貫いていた。
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「がはぁっ……!」
ロマネスクは肩で息をすると、がくりと膝から崩れ落ちた。
「う、ぐっ……」
同時にラモンも、前のめりに倒れそうになる。
それをギリギリのところで踏み堪えると、ラモンはロマネスクの前に立ち、彼を上から見下ろした。
「見事なり、ラモン……」
ロマネスクは荒い息を吐いて、止めどなく流れる血液に手を濡らしながら、そう答えた。
「ふざけるな……何が、見事だ……雷がなければ、あんたの勝ちだったろうが」
勝者の身でありながら、ラモンはどこか悔しげに見える瞳で、ロマネスクを見下ろしていた。
ラモンとロマネスク、その勝敗を分けた物は、傍らに落ちた雷であった。
普段の二人ならば、たとえ雷が直撃しようと、敵から目を離すような真似はしない。
少なくともラモンはそうしていたし、そう出来ただろう。
だが、ロマネスクは違った。薬物の副作用で開いた瞳孔は、光を網膜に素通りさせてしまう。
例えるならそれは、シャッターが開きっぱなしのカメラのようなものだ。
結果、強烈な稲光はロマネスクの瞳の中で乱反射し、彼の視界を奪ったのだ。
皮肉にも、ラモンと対等に戦うための備えが、彼の敗北を決定づけてしまったと言えた。
「ククク……先に言うたろうが……」
「天才、地才、人才。その全てを賭けよ、と……」
「貴様には、文字通り天が味方した。ただそれだけの、こと……」
「ぐふっ……!」
ロマネスクは吐血し、地面にその体を横たえた。
その顔は、ほんの数十分前まで殺し合いをしていたとは思えないほどに、蒼白になっていた。
ラモンはそれが、死ぬ間際の人間の顔色だということを知っている。
「ボス……」
それゆえに、彼へ何と声を掛ければいいのか、判じかねていた。
それがただ殺すためだけに存在するターゲットならば、物言わず殺すことを躊躇わなかっただろう。
あるいは、一日千秋の思いで追い詰めた憎き仇なら、悪罵の限りをつくし、喜色満面で復讐の余韻に浸っただろう。
だが、目の前のこの男は、自らの師である。
何の悪意も、恨みも、綻びもない。運命ですらない。
そんな人間を殺めた時に、彼は如何なる感情で接すればいいのか、未だ知らなかった。
「なんという顔をしているのだ、ラモンよ……まるで、叱られた子供のようではないか……」
ロマネスクはくっくっと喉の奥で笑い、ラモンの瞳を下から見つめていた。
ラモンは頬についた血と泥を拭うと、へたりこむようにロマネスクの前に尻をついた。
これまでのラモンの大きな傷は、ほぼ足に集中している。
立っているだけでも相当な意思の力が必要だったに違いない。
「どうだっていいんだよ、今となっては、そんなこと……」
「問題なのは、ロマネスクの恩赦とは何だったのか。ただ、それだけだ……」
「教えてくれ、あんたの本当の目的を……人を混乱させるために、こんなことを始めたのか?」
ラモンはロマネスクへ、純粋な疑問を叩きつけた。
その問いかけに呼応するかのように、雨は急速に弱まり、雲は晴れ間を覗かせ始めた。
「それは俺が死んだ後、野間に聞いてみるがいい……」
「野間に……?」
「俺の死んだ後のことは、全て奴に託してある……」
「やはり、あいつもグルだったのか」
ラモンのその言葉に、ロマネスクは苦笑混じりに答えた。
「グルというよりは、あいつも俺の被害者かもしれんな……」
「なに?」
「奴には可哀想なことをしたが……全てを汲み拾うことは不可能……誰かの犠牲は、必ずや必要だったのだ……」
「どういうことだ……そんな言葉じゃ、何も伝わらないぞ」
「ククク……好きなだけ悩め。そして、答え合わせに胸踊らせるがいい……」
そしてロマネスクは、焦点の合わない目で虚空を見上げた。
「さて、そろそろ……逝かねばな……瞼が重く……なってきた……」
「待て。まだ話は終わってないぞ」
「おお……見よ、ラモン。虹がかかっておるわ……!」
「虹……?」
ラモンはつられて、まだ僅かに雲の残る空を見上げた。
だが、ラモンの霞む視界では、その微妙な採光まで視認することは叶わなかった。
「今生の最後に見るものが……お前の勇姿とあの虹ならば……よい旅立ちではないか……」
「雨も上がり……死ぬには、これほどよい日和もない……」
「なぁ、ラモン……虹を掴めよ……お前だけが……掴むことの出来る虹を……な………」
そしてロマネスクの体から、あらゆる力が抜け落ちていった。
「……ボス?」
その呼び掛けに、もはや返答はなかった。
リチャード=ロマネスク。
その五体が物言わぬ骸と化したそのとき、ラモンもまた限界を迎え、倒れるように気絶した。
雨はその血と硝煙の痕跡をことごとく洗い流し、後には何も残っていない。
たとえこれから人が訪れても、ここで殺し合いが行われたとは夢にも思わないだろう。
こうしてロマネスクの恩赦は、発案者の死という壮絶なる幕引きを見せて、終結することとなった。
天に翔る龍の如き巨大な虹だけが、二人の男の戦いの末期を、見守っていた。
≪続く≫
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