第7話:≪ラストマン=スタンディング~前編~≫


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 ロマネスクの葬儀は、雨のそぼ降る中で行われた。現在は米国式の葬式が主流であり、彼の葬式も米国式であった。

広い教会を貸し切り、強面の男たちが所狭しとひしめきあい、睨みあっている。

葬儀の雨は涙雨と呼ばれるが、その目に涙を浮かべる者は誰一人としていない。


 雑談をするもの、棺桶へ礼をするものや献花するもの、今後の進退に頭を悩ませるもの。

ヤクザ者たちはその表情に、様々なものを宿らせている。


 場違いなまでにきらびやかなステンドグラスが、その一挙一動に光を投げかける。

十字架の前に立つヤクザたちの姿は異様であり、見方によっては滑稽でもあった。

そのヤクザたちが、一斉に色めき立った場面がある。それが、ラモンの来訪であった。


 教会の入り口が開いた瞬間、皆の視線はそこへと集中する。そして驚愕の表情で、ラモンを迎え入れた。

あろうことかラモンは、いつもの黒いジャージ姿で教会へやって来ていたのである。


 そのあまりにも礼を欠いた姿に、座っていた幹部までもが立ち上がって彼を威嚇した。

ラモンは傘を閉じて教会の入り口に立て掛けると、非難の眼を軽く受け流して、棺桶の前へやってきた。



「……」



 ラモンは、ロマネスクの顔を一度だけ見ると、そのまま踵を返して立ち去ろうとした。

献花も、一礼さえもしなかった。


 その鷹揚な態度に、その場に居合わせた誰しもが激怒した。

どう省みても、組織のトップの死へ対する態度に相応しいとは言い難い。



「ラモン待てコラァ!!」


「なんだその格好は?舐めてんのかオォ!?」



 今にも掴みかからんばかりの筋者たちを制して、ラモンの前に立ちふさがった者がいた。

組織の上級幹部、ゴードンである。


 弔問の場であることを配慮してか、いつものようなきらびやかな装飾品を身に着けてはいない。

だが、そのスーツ一着だけを見ても、常人の稼ぎでは到底届かなそうな高級感を漂わせている。



「ラモン、なんだその汚ならしい身なりはよ。テメェには常識ってモンが備わっちゃいねぇのか?」



 ゴードンはその厳つい肉体を震わせて、ラモンを恫喝した。

口調は静かだが、その陰に隠された怒気は、ラモンへ掴みかかるのをかろうじて押さえている気配を感じさせる。

それを察してか、二人の間に割って入ったのは、もう一人の上級幹部アルフレドであった。



「ゴードン、止めろ。葬式で揉め事を起こすな」


「バカ言ってんじゃねぇぞ!!ボスを舐めてやがるのはこいつの方だろうが!!」



 一触即発の空気に、周囲のヤクザたちさえ萎縮して、成り行きを見守っていた。

この二人が前へ出ていなければ、今頃ラモンは、血の気の多い構成員たちに囲まれていたことだろう。



「ラモン、お前もだ。そんな格好じゃあ、ボスへの不敬を疑われても仕方ないぞ」



 アルフレドはラモンを諌めると、その場を穏便に取りなそうとした。

だがラモンは、興味のないものを見る冷たい目をして、それをさらに煽るように言葉を返した。



「下らないな。お前ら節穴の目に、付き合ってやるヒマはないんだ」



 その答えに、抑えていた他の構成員たちも我慢の限界を迎えた。



「ぶち殺す!!」


「生きて帰れると思うな!!」



 口々にわめいては、ラモンを取り囲もうとした。

その波に最も早く乗ったのは、ゴードンである。


 彼はラモンの襟首を掴むと、ジャージごとその首を締め上げようとした。

しかしラモンは、まるでそれが予定調和であったかのように、簡単にその手首を捻る。

そして、ゴードンの顎へ下からの強烈な掌底打を放った。

ゴードンは意識を飛ばされ、無様にもその場で膝を着く。



「ラモン!!」



 アルフレドが銃を構えてラモンを威嚇する。

幹部へ手を出されては、穏健派のアルフレドといえど何もしないわけにはいかなかった。


 しかしラモンは、蛇のような俊敏さで飛びかかるとその銃身を絡め取り、アルフレドの顎を引っかけるように叩く。

脳震盪を起こしたアルフレドは、ゴードンの隣に崩れるように倒れた。


ラモンはアルフレドから奪った銃を構え、周囲を囲もうとする構成員を牽制した。


 ラモンはじりじりと囲いを狭めてくる構成員たちへ、律儀に応戦する構えを見せている。

たとえ全員が銃を持とうと、ただのヤクザ程度ではラモンにとって烏合の衆でしかない。

しかしそれを全員まともに相手するとなると、やはり正気の沙汰とは思えない行動である。

ラモン自身も、どこか捨て鉢になっているかのようなやり方だった。


 そしてじれたヤクザたちがラモンへ雪崩れこもうとした瞬間、教会の外から車のクラクションが鳴り響いた。

ラモンはそれが自分に向けられたものだと察し、後ろ向きのまま入り口まで後退して扉を開け放った。



「ラモンはん!!」



 野間が、教会の敷地内にワゴン車を乗り入れて叫んでいた。

逡巡する間もなく、ラモンは屋外へと移動しながらその車に乗り込む。

野間は思いきりアクセルを踏むと、華麗に180度のターンを決め、その場を後にした。

背後では組織のヤクザたちが、去って行く車へ罵詈雑言をがなり立てていた。



「いやー危なかったですなぁラモンはん。怒鳴り声聞こえてきたから、そのカッコ突っ込まれたんやろな思てましたよ」



 野間は運転しながら、飄々と軽口を叩く。

だがラモンは、それに応じようとしなかった。



「……もしかしてラモンはん、怒ってます?」



 ラモンの顔色を窺い、不安そうに野間は尋ねる。



「これが怒らずにいれると思うか?」



 ラモンにしては珍しく、不快な感情を顕わにして隠そうともしていなかった。

そして怒りの口調のまま、彼は拳銃を取り出して野間へと突きつけた。

対向車から見えないよう腰より下で銃を構え、ラモンは低い声で野間へ問うた。



「あんたがボスのお仲間ってことは、もう割れてる。ロマネスクの恩赦に一枚噛んでるのか?」


「正直に吐かないなら、このまま死んでもらう」


 冷酷な口調でもって、ラモンは野間へそう宣告する。

野間はそれに対して、申し訳なさそうに眉をしかめて応えた。



「……悪いけど、それは殺されても喋るな言われてますねん」


「そうか、分かった」



 ラモンは引き金にかけた指へ、力を込めた。



「……」



 野間は殉教者めいた表情で、それを真摯に受け止めている。

ラモンが殺すと宣言したからには、それが脅しの類いでないことは野間も知っているはずだった。

それに対してここまで抵抗するならば、殺されても喋らないという野間の意思は固いのだろう。

ラモンはその姿を見て、不可解だという態度そのままに銃を下ろした。



「分からんな……あんたは何のために、俺の側へ近寄って来た?」



 野間はホッと胸をなでおろすと、ラモンをなだめるように言葉を選んで話した。



「ラモンはんの怒りはごもっともやと思います。けど、もうちょいしたら全ての真相は明かされる」


「それまで、辛抱してもらえませんか?」



 そしてラモンは、野間の運転する車が、彼の三つのアジトのどれとも違う場所へ向かっていることに気づく。



「どこへ連れていくつもりだ?」


「たぶん、ラモンはんが思ってるのと同じ人のところへ」



 ラモンはその答えに、疑念よりもむしろ納得の表情で応じた。

そして車は雨の中を、ただ真っ直ぐに粛々とひた走った。



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 ラモンを乗せた車は、蕪新町の片隅にある外国人墓地で停車した。

もとは寺だった場所だが、檀家が減って潰れたことで、基督教墓地へと改宗された場所であった。

野間はその入り口に車を横付けすると、ラモンへ降りるよう促した。



「ここから先は、ラモンはん一人で行くように言われてます。お願いできまっか?」



 ラモンはそれに良しとも悪しとも言わず車を降りて、野間の言葉に従った。

傘は先ほどのゴタゴタで忘れてきたが、もとより濡れることにさほどの抵抗もない。

それよりも彼は、そこで待ち受けるものへ集中しなければならなかった。


 墓地の中ほどまで進むと、とある墓の前に人影があった。

ラモンと同様に濡れることを厭わないその後ろ姿には、確かに見覚えがあった。



「……来たか、ラモン」


「……ボス」



 死んだはずのリチャード=ロマネスクが、幽鬼の如くそこへ佇んでいた。



「久しいな、ラモン。こうして会うのは何時以来だ?」



 ロマネスクは不敵なまでのにこやかさとは裏腹に、全く笑わない瞳でラモンへ話しかけた。

頬はやつれて黒ずみ、肌の血色は悪く、服の上からでも体の線が細くなったのが見て取れる。


 その立ち姿だけを見れば、どこにでもいる病み上がりの老人にしか見えない。

だがラモンの心中は、当然のように穏やかでは有り得なかった。



「どういうことだ。あんた、死んだんじゃあなかったのか」



 ラモンの問いかけに、ロマネスクは濡れた髪から雨をしたたらせながら答えた。



「まさか本当に、俺が死んだと思っていた訳ではあるまい?」


「謀(たばか)るのは先の見えぬ部下たちだけで十分ということよ」



その言葉に、ラモンは唇の端を噛んで答えた。



「やはり、あの死体はドクのロボットか」


「そういうことだ」



 ロマネスクはそれまでのにこやかさを潜め、唇の端を歪めて凶悪に笑った。

フェイクファー=ドクは、ボスが己を象ったロボットを作るよう依頼したと言っていた。

己の死を偽装するために用いるのだと考えれば、その用途は病床の自分の身代わりだと予測がつく。



「ドクの技術力なら、触れた程度じゃ気づかないレベルの偽装を施すことも可能だ」


「その通り。事実、訪れた幹部はベッドの俺が入れ替わっていても、寝ているものと思って気がつかなかった」



 ラモンが幹部たちへ向けた怒りは、誰もそれを看破出来なかったことへの怒りでもあった。



「だが、いくら精巧なロボットでも、医者までは騙せないだろう」


「そうだ。だから主治医と看護婦には金を掴ませた。職能の高い人間ほど、金の利点をよく知っているものだ」



ロマネスクは、その顔に乾いた笑みを張りつかせたままである。



「金にモノを言わせて、か。随分と回りくどい真似をするんだな」


「そうだ。全ては、ただこの一時を用意するためにな」



 ラモンは冷えきった両手をポケットへ入れると、ロマネスクの言葉を黙って聞いていた。



「逆に尋ねよう。ラモン、お前はいつから俺の意図に気がついていた?」


「最初からだ。あんたの思惑通りにな」



 そう言いながら、ラモンは濡れた手でジャージのポケットから、何かを取り出して投げつけた。

それは、くしゃくしゃになった恩赦の参加証明写真の、最後の一枚だった。


 その写真には、眼を潰され、両耳と鼻を削がれた無残な死体が写されている。

ロマネスクはそれを拾うと、濡れた箇所を濡れた指で拭い、じっと見つめた。

ラモンはそれを見ながら、ロマネスクの意図を解説しようと試みる。



「この殺し方は、昔あんたが俺に教えてくれた、裏切り者を粛清するための殺し方だ」


「だが組織の構成員は、この写真を見ても誰一人あんたを連想していなかった」



 本来残虐な殺害というのは、内部への見せしめか外部への示威行為のために行使される。

それを誰も知らないということは、特別な意味がない限りあり得ないのだ。



「つまりこの写真と殺し方は、最初から俺だけへ向けたメッセージだったってことだ」


「『恩赦を争えば、最後にボスへ行き当たる』、というな」



 ロマネスクの恩赦は、ラモンへ向けた大掛かりなメッセージであった。

それを知ればこそ、ラモンは巻き込まれた立場ながら、逃げることをしなかったのだ。


 かつてラモンが幹部アルフレドに語った、『身を隠して殺し屋同士の同士討ちを狙う』という策を実行しなかったのも、それが原因である。

合理的なラモンなら、最も効率のいいやり方だと思えば、逃げることすら躊躇はしない。

そうしなかったのは、写真のメッセージに気付き、是が非でもロマネスクの計画するところを知らなければならなかったからだ。



「ボス……あんた一体、何がしたいんだ?」


「ロマネスクの恩赦とは、何のための指令だったんだ」


「いつから種を仕込んで、俺に何をさせようとしてる?」



その言葉に対して返ってきたのは、ロマネスクの総躯から迸る、溢れんばかりの殺気だった。



「それを知りたくば、俺を殺すより他に方法はない」



 それはほんの一週間前まで、重病で寝たきりだった男の出せる殺気ではなかった。

修羅場を潜り続けたラモンですらが、密かに背筋を粟立てるほどの圧倒的な殺意だった。



「病床の老人を殺して誇るほど、墜ちちゃいないつもりだがな」



 常人ならば気圧される量の殺気を受け流し、ラモンはポケットの中で銃を握った。



「あくまでも屈さぬか……それでこそ、フォークロア=ラモンよ」


「天才、地才、人才。お前の授かった三才全てを持って、俺を殺してみせるがいい」


「そして、≪最後に立つべき者(ラストマン=スタンディング)≫を決するのだ」



 その言葉を聞くなり、ラモンは相手の反応を待たず、横っ飛びに大きく飛び退いていた。



「ククク……正解だ、ラモンよ」



 一瞬前までラモンの頭があった場所を、弾丸が通過していた。ロマネスクの手には、いつの間にか拳銃が握られている。

会話のどのタイミングで銃を抜いたか、そしていつ撃鉄を上げ、いつ引き金を引いたのか。

常人ではその全てを、関知することさえ出来なかっただろう。

知られず銃を抜いたロマネスクも怪物なら、それを避けて見せたラモンも怪物である。


 飛び退くのがあと一秒遅ければ、弾丸はラモンの眉間を貫通していた。

ここから先は、その一秒の奪い合いとなる。

瞬きすら許されない闘争が、今始まろうとしていた。



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 リチャード=ロマネスク。組織の首領にして、希代の殺し屋。

一代で組織の基盤を造り上げ、そのカリスマ性と頭脳により、莫大な財を築き上げた男。


 二つ名は≪死神≫と称され、万人から畏怖と憎悪の対象として恐れられてきた。

彼の周りでは、まるで死が常態であるかのように横行する。それゆえの、死神の異名であった。

彼の意に背いた者は、組織の幹部ですら一人、また一人と消えていった。


 彼の息子夫婦ですらロマネスクに歯向かい、粛清されたと言われている。

真偽のほどは定かでないが、組織の構成員名簿から息子の名が消えていることだけは、確かな事実である。


 その≪死神≫ロマネスクの真骨頂とも言える技能が、銃の速射であった。

いつ銃を抜いたかさえ分からない神業的な抜き撃ちの早さを、ラモンは幾度も間近で目撃している。

それを知っているからこそ、彼はロマネスクが動く前に横へと飛んだのだ。


 ラモンは飛び退いた先にあった、墓石の陰に潜んでいた。

かろうじて見えた敵の銃は、旧式のリボルバーのようだった。

弾丸は六発。撃ちきった隙をついて攻撃することは可能である。


 問題はロマネスクがこの雨の中、どの程度の精度で精密射撃をこなせるかだ。

入院していたブランク、年齢、病による気力と体力の低下。

それら相手のマイナス要因は、頭から消し去らねばならない。

それが、敵と相対する時の最低限の心得というものだ。


 ロマネスクは現在、ベストコンディションを保って自分へ挑んでいる。

見た目で軽んじられるような相手では、断じてない。

墓石から少しでも身を乗り出せば、そこを狙われると思っていいだろう。

身じろぎさえ出来ないような緊張感の中、ラモンは動いた。


 墓地の外周に沿うように、ラモンは走った。

灌木や墓石があるお陰で、いかにロマネスクといえど簡単に銃を当てることは出来ない。


 とは言え、隠れて走るラモンを的確に追い、銃口を向けられるだけでも馬鹿げた反応と言える。

ラモンは発射された銃弾の数を数え、六発目を撃たせたところで反撃に転じた。

しかしそれを予見し、ロマネスクも直後に墓石の後ろへ隠れてしまい、弾は当たらない。


 その間に再び弾を込め直し、もう一度銃でラモンを追い立てるつもりだろう。

しかし双方の用意した弾丸には限りがある。

それが尽きた時、互いにどのような手が残されているのか、それが雌雄の分かれ目であった。


 ラモンは移動しつつ拳銃での牽制を加え、致命打を打ち込む機会を伺う。

ロマネスクは移動を最低限に抑え、ラモンを遠巻きに追うことに専念している。

状況は次第に、膠着しつつあった。


 決定的な隙は、まだどちらからも生まれていなかった。

膠着状態を望まないのは、強いて言うならばラモンの方である。

老いたロマネスクとの力の差を最も発揮しやすいのは、接近しての格闘戦だからだ。


 そしてそれを知ればこそ、ロマネスクが待ちに徹し、罠を張っている可能性も考慮せねばならない。

そのため、ラモンはジリジリと円を描くように、ロマネスクへと近づいていた。

這うように僅かずつ進むラモンは、ロマネスクの動向について思案する。



(このままだと埒が空かないな……)


(焦れったい状況が続くのは、ボスも望まないはず)


(どこで勝負を仕掛けてくる……?)



 そう思った瞬間、ロマネスクの影が墓石から墓石へと走る。

そしてその途中に、ラモンへ向けて何かを投げつけた。



「……!」



 その物体が何かを見極めた瞬間、ラモンは走り出していた。

ロマネスクの投げつけたそれは、小型の手榴弾であった。


 ラモンの元へ届く前に、それは空中で爆散し、轟音と熱波と鉄片を凄まじい勢いで飛び散らせる。

泥の中にスライディングで滑り込み、かろうじてラモンは爆破の範囲外に逃げ出した。

さすがのラモンも、逃げるしか出来ないタイミングでの投擲だった。



(パインまで持ち出すか……ボスはいよいよ、俺のことを殺すつもりらしいな)


(さて……)



 早い判断のおかげで爆破からは逃れられたものの、数秒ロマネスクから目線を切る時間が出来てしまった。

案の定、ラモンが見た先にロマネスクの姿はない。どうやら最初から、移動のための目眩ましとして手榴弾を使ったようだ。



(どこから来る?)



 ラモンは一旦墓石から離れると、墓地の外周に張り巡らされたフェンスへ背中を預けた。

ロマネスクに背後を取られないようにとの配慮である。

フェンスの向こうは雑木林になっており、外界から遮断された空間が広がっている。


 ラモンは油断なく周囲を見回し、ロマネスクの姿と気配を探る。

その背筋に、突如として強烈な悪寒が走った。


 ラモンは悪寒の正体を探る間もなく、前方へ大きく跳躍した。

それは直感に過ぎなかったが、振り向いたラモンはそれが正しかったことを知る。


 ロマネスクがフェンス越しに、ラモンの居た場所へナイフを突き立ようとしていた。

爆風に紛れて姿を消したロマネスクは、ラモンの視界から消えるとフェンスを乗り越え、敷地の外側から攻撃しようとしたのだ。


 背後を取られることを警戒して、フェンスを背にすることまで読みきっての行動である。

手榴弾の投擲と合わせて二度も先を取られることは、ラモンが経験したことのない出来事であった。

ロマネスクはそのまま素早くフェンスを駆け上ると、まだ態勢の整っていないラモンへ躍りかかる。


 ラモンは自身もナイフを抜いてそれを強くいなす。

そして、一連のロマネスクの動きに、言い知れない違和感を覚えていた。



(おかしい……早すぎる)



 ラモンがロマネスクから目を切ったのは、ほんの数秒である。

それからロマネスクに襲撃されるまでに、一分とかかっていない。


 その数十秒の間にロマネスクはフェンスを乗り越え、ラモンに察知されず背後から攻撃してきたということになる。

侮りではなく、病み上がりの老人には物理的に不可能な速度である。


 それをこなすには、どう少なく見積もってもラモンと同等の瞬発力が必要だったはずだ。

ラモンはその違和感を、一旦心に押し留める。そしてロマネスクの攻撃をかわし、反撃しながらつぶさに彼の様子を観察していった。


 ロマネスクは無機物のように押し黙り、冷徹なナイフを振るっている。

その瞳は炯々とした光を宿し、見るもの全てを圧倒せんとしているようだ。

その異様な輝きは、意思の強さによる輝きとはまた別種のものであるように思えた。


 そしてラモンは、その違和感の正体にたどり着いた。

ロマネスクのナイフを大きく払うと、呼吸を整えながら攻撃の届かない距離まで後ずさる。

そして、よもやと思っていたことをはっきりと口にした。



「……あんたまさか、クスリに頼ったのか?」



 ロマネスクはそれに、妖しい笑みでもって応えた。



「そうだ。ゆえに肉体的なハンデは、一切ないものと思って挑むがいい」



 ロマネスクは愉快そうにナイフを揺らすと、ラモンとの間合いを図った。


 ラモンがそれを察知し得たのは、薬物中毒者の眼を見る機会が頻繁にあったからだ。

瞳孔の散大は、薬物使用者の大きな特徴である。

拡がりきった瞳孔は光をよく反射するため、瞳が輝いているように見えるのだ。


 確かに、覚醒剤を興奮剤や気付けとして使うのは、無くもない使用法である。

しかし弱った体でそれをすれば、どんな副作用があるか知れたものではない。

余命幾ばくもない身でなければ、本来は試そうとも思わない策であったろう。


 薬物を使用したということは、最初からロマネスクは待ちに徹するつもりなどなかったということになる。

何故なら、身体の能力を補完するためのドーピングは、薬の効果が切れれば即詰みであるからだ。

ハンデのない状態でラモンとの勝負へ臨める代わり、ロマネスクの負ったリスクはあまりに大きい。


 時間制限の上に薬物の肉体的負担まで背負い、それでもラモンを殺せる自負があるのだ。

それを考慮すれば、接近戦は有利というラモンの定義は、ここで崩れてしまったことになる。


 恐らくは手榴弾を使ったあの時に、「待ち」の作戦から「追い込み」の作戦へと変更したに違いない。

ラモンは、ロマネスクの底知れない執念に内心で舌を巻いていた。



(もしかしたら今日、俺は死ぬのかもしれないな)



 そんなことさえ、ラモンは考えてしまっていた。

自身の死に対して、ラモンが思うことは特にない。

人を殺すものが、自分の番になればみっともなく命乞いするところは何度となく見てきた。

それを摘み取る側だったラモンが、今回は摘み取られる側になった。

言語化してしまえば、これはただそれだけのことである。


 自分のしてきたことを考えれば、畳の上で死のうなどという思い上がりは消えて失せる。

だが自分が何のために殺されるのか、それすらも分からず的にされるのは御免だった。


 幸いなことに、ラモンはロマネスクのナイフを強引に払い除けることが出来た。

ということは、単純な腕力では流石にラモンが勝っているということになる。

そこに活路を見出だすとするなら、やはり接近戦で勝負するしかない。


 ラモンがナイフをゆるりと前へ突き出すと、ロマネスクも望むところとばかりにそれに応じた。


 ラモンたちの組織で修めるナイフ術は、本来何合も切り結ぶためのものではない。

動脈、心臓、その他急所を最小限の動きで狙い、短時間で確実に敵を仕留めることを旨としている。


 では双方共にその術の使い手だった場合、どのような光景が繰り広げられるのか。

急所を走るナイフを皮一枚の差で避け、切りつけ、また避ける。

その動作が最小限のため、切る側が意図して刃を当てていないように見えるのだ。


 見ようによっては、滑らかに動く人体は凄まじく美しい物にも見えるだろう。

ラモンはその動作の最中、ロマネスクが銃を使うことを警戒していた。

そもそも背後を取っておきながら、フェンス越しに銃を撃たなかったのも不可解である。



(銃の故障か?それとも他の意図があるのか……)



 さすがにこのタイミングで故障すると思うほど、都合の良い考えはあるまい。

だが、雨天で銃を連続使用すれば、目詰まりや不発を起こす確率が飛躍的に上がるのも事実である。

ロマネスクの使用している銃は旧式のリボルバーのため、その確率はさらに上がるだろう。


 銃は使えるものとして警戒しつつ、それを使わせないようラモンは休む間もなくロマネスクを切りつけ続けた。

次第にロマネスクは防戦一方となり、受けに回る場面が多くなってゆく。



(ここで決める……!)



 ラモンは強く足を踏み込むと、体当たりするようにロマネスクへ肩をぶつけた。



「チッ……」



 ロマネスクはよろめき、泥でバランスを崩して足を取られてしまう。

それを見逃さず、ラモンは覆い被さるようにして心臓へナイフを突き立てようと試みた。


 その軌道を塞ぐため、ロマネスクは右腕をナイフの前へと差し出す。

鋭利なナイフは腕の肉に潜り込むかと思われたが、予想外に固い感触が刃を弾く。



(服の下に何かあるな)



 恐らく、防御のために仕込んだ鉄製のカバーか何かがあるのだろう。

ナイフを持った右腕を防御のために捨てて、反対の腕でロマネスクは銃を抜いていた。


 片手で器用に撃鉄を起こし、ロマネスクは銃の引き金を引いた。

ラモンの優れた反射神経は、それさえも見越して回避しようとする。

だが、ガチンという撃鉄の金属音のみを残して、弾は発射されなかった。



「ムッ……」



 それは不測の事態だったのか、ロマネスクはラモンから外した目線を、銃口の先端に移していた。

その隙を見逃すほど、ラモンは甘い敵ではない。



(行ける……!)



 腕の防御からして、胴にも何らかの仕込みをしている可能性は高い。

ラモンはそれを考慮し、ロマネスクの首の動脈を切り裂こうと狙った。



「……愚かなり、ラモン」



 不発だった銃の撃鉄が再び起こされていることに、ラモンはその時気づいた。

火薬の爆ぜる轟音と共に、ラモンの腹部に重い衝撃が走る。

鉛の弾が、彼の黒いジャージに風穴を空けていた。



「ぐっ……!」


「よもや、こんな古典的な罠にかかるとは思わなかったぞ」



 ラモンは横倒しに倒れ、代わりにロマネスクは立ち上がる。

彼の仕掛けた罠とは、リボルバーならではの古来から存在する罠だった。


 リボルバーはその構造上、弾倉に一発ずつ弾をこめる造りになっている。

それを利用して一発目にあえて弾を入れず、二発目から弾丸をこめるのだ。

こうすることで初弾で弾切れを演出し、敵の油断を誘うのである。


 ラモンが迂闊にもそれを信じた理由は二つ。

普段リボルバーを使わないことと、雨によって銃の不調が起こりやすいと誤認させられたためであった。



「さぁ、立つがいい。まさかこれで終わりではあるまい?」



 ロマネスクは引き続き銃を構えると、ラモンの脳天へ向けて引き金を引く。

意外にもラモンは軽やかに体を起こすと、引き金が完全に引かれる前に銃口の前から体を逃がしていた。



「フ……やはりな。腹に何か入れていたか」



 ラモンがジャージをめくると、その下から分厚い雑誌が音を立てて落ちてきた。

雑誌には穴が空いており、その穴の奥には鉛の銃弾が食い込んでいる。


 これもまた昔からある、一種の弾除けである。

教会へ参じる前から、ラモンはこうなることを予見して下準備を怠らなかった。


 時間さえ許せばちゃんとした防弾チョッキを用意出来たが、その間もなくの戦闘である。

それでも銃を防ぎえたのには、理由があった。


 ロマネスクの使う銃は、比較的威力を落としてある口径の小さな銃である。

あまり反動の強い銃では、衰えた筋力で支えることが出来ないからだ。

そうでなければ、雑誌程度で防ぐことは出来なかったに違いない。

その用意周到さが、ラモンの命を救った一場面であった。


 とはいえ、ラモンが精神的なショックを受けたことは否定できない事実である。

フェンス越しに銃を使わなかったことも、ナイフでの小競り合いに負けて地面に倒れたことも。

使い勝手の悪いリボルバーを敢えて使っていたことすら、全てはこの適切なタイミングで銃を抜くための罠だったのだ。


 もしも雑誌の備えがなければ、ラモンは致命的な傷を負う羽目になっていた。

ロマネスクの一挙手一投足が罠であるような、そんな錯覚さえラモンは覚える。



(呑まれてるな……)



 一つの組織を牽引し続けた者の底知れなさに、ラモンは喉を鳴らして唾液を飲む。

この最悪のイメージを払拭するには、自ら果敢に死地へと飛び込む他に方法はなかった。



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 終始ラモンを圧倒しているかに見えるロマネスクだが、実を言うと彼もギリギリの瀬戸際を歩いていた。


フェンス越しの攻防。


ナイフでのやり取り。


拳銃の罠。


 ラモン以外の人間なら、そのいずれかの段階ですでに死んでいただろう。

しかしラモンは、その全てに最適解を導き、見事に対処してみせた。

仕留めきれないのはラモンの若さゆえのしぶとさか、ロマネスクの老いゆえの衰えか。



(……いいや、違うな)



 ロマネスクは人の生死を分かつ物が、ただの天秤であると知っている。

最善を尽くして望もうが、その秤はふとしたことでバランスを崩し、死の側へ重りを傾ける。

その偏りを意図的に動かすことは、何人にも叶わない。ただそれだけのことなのだ。


 ロマネスクは組織内外、老若男女問わず、様々な人間の心の在り方を観察してきた。

それは組織の長として必要な能でもあり、彼の特技でもあり実益を兼ねた趣味でもあった。


 人の善性を垣間見ることもあれば、どす黒く燃え上がる人の悪意を知ることもあった。

負の感情に触れる機会の方が多かったが、それで世を悲観するほど馬鹿でもない。

むしろ悪党の方が正しく世を理解しているとさえ、ロマネスクには思えた。

その結果、生死の天秤は、人のどのような思惑とも無関係に動くと悟るに至った。


 そうして人を見る中で、ロマネスクは次第に人の感情を重視するようになった。

人はどのような感情で動くのか、利害に揺らぐか情を重んじるか、感情に振り回される人間かそうでないか。


 それを知り適材を適所に置けば、組織は驚くほどスムーズに運営することが出来た。

その中にあって、ラモンとの出会いは一種特別な意味を含んでいたように思う。


 ラモンは、孤児の一員として組織に拾われた一人である。

ミックスチャイルド政策の残滓であり、親も分からない混血児であった。


 ロマネスクが初めてラモンと出会ったのは、彼が四歳の時だ。

他の孤児たちと同様に、潰れかけた施設から青田買いしたうちの一人に過ぎなかった。


 引き取られた子供は、まず見知らぬ大人への不安と怯えを見せるのが常である。

だがラモンに関しては、どのような心の揺れも見えなかった。

感情の乏しい、平坦な表情をした子供であった。


 代わりに、教えた殺しの技はすぐさまその身に体得していった。

銃もナイフも徒手格闘も、全てがその年齢における高水準をマークしていた。

そして何より、殺しに対するストレス耐性が、ラモンは群を抜いていた。


 聞いた話によると、この少年は呼吸さえ乱すことなく、初めての殺しを遂行したという。

だが、感情のないロボットに、ロマネスクは興味を示さない。

そういう人間は結果として、与えられた仕事をこなすだけに留まるためである。


 ロマネスクがラモンに興味を示し、直系の殺し屋として育てるまでには、ひとつのエピソードが絡んでいた。

それは、ラモンが組織の一員となってから六年後、十歳の頃のことである。

ロマネスクは腕の鈍りがないよう、忙しい合間を縫って定期的に射撃の訓練を行っている。


 その時日本にいたロマネスクは、蕪新町の射撃訓練施設を使用する機会があった。

組織が運営するその訓練施設で、ロマネスクは偶然にも、訓練に訪れたラモンと顔を合わせた。


 ラモンはぺこりと一礼だけすると、銃に弾をこめて射撃の体勢に入る。

興味を覚えたロマネスクは、しばしその後ろ姿を観察した。


 この時ラモンはすでに、初めての殺しを終えている。

それだけに、銃を構える姿は幼いながらも堂に入っていた。

そして、全ての弾丸は的の中心部へ鮮やかに吸い込まれていく。



(惜しい才能だな……)



 ロマネスクはその美しい弾丸の軌跡を見ながら、ラモンの才能を手放しで惜しんだ。

そして射撃を終える切れ目で、ロマネスクは彼へ声をかけた。



「お前、名は何といったか」


「……ラモン」



 ラモンは緊張するでもなく、淡々とロマネスクへ受け答えをした。

組織のトップの顔は分からなくとも、何かしらの重役ということは雰囲気で知れたはずだ。

にも関わらず、ラモンの態度は常のそれと何も変わらなかった。

ロマネスクはラモンの射撃の改善点を二、三注意した後に、こんなことを尋ねた。



「お前は人を撃つ時、その命を刈る時、何を考えて引き金を引く?」


「人の命を、人生を奪うときに何を思う?」



 それは、感情の機微に重きを置くロマネスクならではの質問である。

果たしてラモンはただの無感情なロボットなのか、興味が湧いたのだ。

ラモンは、相変わらずの平坦な顔で、その問いを思案している。


 命を奪うという行為は、非常にストレスのかかる行動である。

屠殺業へ携わる人間でさえ、慣れるまでは家畜の死に様を夢に見るという。


 ましてやそれが人間なら、与えられるストレスも甚大なものになるのは想像に難くない。

人によってはトラウマにさえなりかねないそれを、子供の彼がどう処理しているのか。


 快楽か、それとも割り切りか、あるいは何も感じはしないのか。

しかしラモンの答えは、そのいずれでもなかった。



「……知りたいから」


「知りたい?何を知りたいのだ?」


「……人は、何を考えながら死んでいくのかを」


「……続けよ、ラモン」



 ロマネスクはそこに、常人とは違うラモンなりの法があるように感じた。



「……俺はずっと、人が何を考えてるか、よく分からなかった」


「人がツラいと思うことも……寂しいと思う気持ちも、怖がってるのも、全部分からなかった……」


「生きるのがつらいなら、死ねばいいんだ……死ねば苦しいのも痛いのもツラいのも終わるから……」


「でも、普通の人間はそうは思わないんだって……だったら俺は、人間じゃないんだと思った……」


「だから俺は……自分の考える死ぬことと、人の考える死ぬことの違いを知りたかった……」


「そのためには……人の死ぬ前を見ないと、分からない……自分が死んだら、そこで終わりだから……」


「俺は人の気持ちは分からないけど……でも、死ぬ前の人間の気持ちなら……少し、分かる気がする……」



 ラモンはそこで、少し言葉を切った。

頭の中で伝えたいことが上手くまとまらないのだろう。

ロマネスクは、急かさぬよう辛抱強く、ラモンの思考を導いた。



「……例えばそれは、どのような理解なのだ?」



 ラモンはそれを聞いて、再びぽつりぽつりと語り始める。



「殺す前にわざと泣く奴や……怒る奴は、自分も悪いことをしてきたと思ってない……」


「だから、自分を殺しに来た俺に、怒鳴ったりわめいたり命乞いしたりする……」


「あとは……自分が死ぬと分かっていない人間は、ニヤニヤ笑ったりすることもある……」


「そういう奴は、頭が混乱して何も分からなくなってる……気が狂ってるやつもいた……」


「けど、たまに……本当の本気で、楽しいから笑ってる人間もいる……」


「そういう奴を殺すのは……とても難しい……」



 ロマネスクは、彼を感情のないロボットだと断じていた考えを改めた。

むしろラモンは、誰よりも感情豊かで多感な少年だった。

そしてロマネスクは、ラモンの次に発した言葉に、頭を殴られたような強いショックを覚えた。



「俺は、人間になりたい……人間になるには、人間の考えを知らなきゃいけない……」


「知らなきゃ俺は、人間になれない……だから俺は、人を殺すんだと思う……」


「……!!」



 この世には時として、人との共感性を全く持たない人間が産まれることがある。

いわゆるサイコパスとも呼ばれる人種である。


 そういった人種は、同じ人間をまるで虫けらのように扱うことを厭わない場合が多い。

他者を同族と認知する感覚が、生まれつき麻痺しているのである。


 だが、彼は……ラモンは、人を理解したいがために、人を殺すと言う。

自分の欠けた部分を誰よりも理解し、それを埋めるために殺しを行うと、ラモンはそう言っているのだ。

それはあまりに危うく、常人から外れており、そしてあまりに無垢な思想だと言えた。

幾千もの人の内面を見続けたロマネスクにしてからが、初めて出会う殺しの動機であった。


 ロマネスクの持論のひとつに、殺し屋の人生は消耗品である、というものがある。

普通の人間ならば、人生をプラスに充足させるために労働に赴き、休暇を取り、家庭や社会に居場所を作る。

だが、望むと望まぬとに関わらず殺しに手を染めたものは、それ以降マイナスの人生を送るしか出来なくなるのだ。


 一見派手な暮らしぶりで生きているように見える殺し屋がいたとしても、一皮剥けば本質は同じである。

家族、蓄財、老後の保証、魂の平穏。殺し屋がその人生で諦めなければならないものは、枚挙に暇がない。

快楽殺人鬼の晩年が、後悔と懺悔に彩られたものになるのと、基本的には同じ仕組みである。


 例えるならそれは、一本の鉛筆を消え去るギリギリまで使い潰すようなものだ。

だが、削ぎ落とし、削り落とせばそれは、痩せ細って元に戻ることはない。

そして人生を消耗しきれば、待っているのは死あるのみである。


 それだけに、タフで豊かな精神性を持つ者の方が、磨耗しきるまでに時間がかかり、殺し屋としての耐用年数は長くなる。

しかし感受性豊かな人間ほど、逆に殺しのプレッシャーに負けて自死を選んでしまうという矛盾もある。


 その点、ラモンはその矛盾を包括しながら、自身を補完する道として殺しを選択している。

若冠十歳にしてそんな複雑な精神構造を持つ人間を、ロマネスクはラモンの他に知らなかった。



「お前、俺の元へ来るつもりはないか?」


「え……?」


「組織のヒエラルキーの上部、ボス直属の殺し屋たち。その一員になるつもりはないかと聞いているのだ」


「……あんたは……?」


「リチャード=ロマネスク。お前たち組織全ての頂点に立つ、悪どい親玉よ」


「……!」



 ロマネスクはポケットからメモ帳とペンを取り出すと、さらさらとそこへ番号を書いた。



「訓練は熾烈を極めるが、それだけにお前は間違いなく人間へと近づくだろう」


「心が決まったなら、明日までにこの番号へ連絡を寄越すがいい」



 そしてロマネスクは、幹部ですら一部しか知らない自身のホットラインの番号を、ラモンへメモして渡したのであった。


 その後ラモンはロマネスクの元で、ボスの直系としての激しい訓練を受けた。

時として人道を踏み外すような訓練も、何度となくさせたことがある。


 誰に恨まれ、憎まれようが、ロマネスクにとってはどうということもなかった。

だがラモンにとっては、それすらも人間性の獲得の一環なのだと思うと、不思議な感覚がした。

そうやってラモンを強く育てるにつけ、ロマネスクは彼を、自身の立てる計画の中枢へ据えることを決定した。


しなやかに闇に溶ける、黒豹のごとき強靭さ。


臨機応変に変化する、柳のような柔軟性。


そして無表情の中に潜む、驚くべき感情の奔流。


 そのどれもが、ロマネスクと共に歩むに相応しいと言えた。

後は彼が経験値を積み重ね、殺し屋としてのみならず、多方に力を発揮出来るようになる日を待つばかりのはずであった。

ロマネスクが、癌に犯されたことが判明するまでは。



────

  ─────

     ─────



 ラモンは、ぬかるむ地面を蹴ってロマネスクへ突進する。

能力だけで言えば、ラモンは決してロマネスクに劣らない。

むしろ若さの分だけ、ラモンは優位に立っていると言える。


 だが、ラモンが感じていたのは、ジリジリと焼けつくようなただならぬ焦燥であった。

何をしても勝てないような、腕の中を勝利がすり抜けていく感覚だけがある。

何を仕掛けようと、ロマネスクに必ずその一枚上手を取られてしまうという絶望感は、簡単には拭いされない。



(そういえば、この人とやり合う時はいつもこんな感覚を味わってたな……)



 ロマネスクと対峙する時、ラモンは圧倒的な実力差から来る無力感に襲われることがよくあった。

そして、その無力から訪れる諦念を最も否定していた人間が、当のロマネスクだった。


 有り体な言葉を使うならば、ラモンはロマネスクを天才と称して憚らない。

それは、殺しの才のみを指してそう言っているのではない。


 あまり知られていないが、ロマネスクは多方面に、様々な才能を有していた。

彼は表向き、日本在住の米国人資産家として世界を股にかけている。

そのコネもあってか、学術や芸術方面に秀でていることも、ラモンは知っていた。


 直系としての殺しの訓練の合間に、ロマネスクがバイオリンを弾いている姿を見たことがある。

語学は英語のみならず多言語に精通し、和洋中問わず絵画の観賞が趣味だと漏らしているのも聞いた。


 アメリカに解体された日本の旧皇族一家とも、親交があると言われたこともあった。

それが誇張であれ真実であれ、そういった噂が立ち上ること自体が、ロマネスクの底知れなさを示していた。


 どこまでもスケールの大きな巨人。ラモンがロマネスクに抱くイメージは、そんな途方もない物であった。

そんなロマネスクに、ラモンは一度だけ殺されかけたことがある。

それは組織が、日本に版図を広げようとするチャイニーズマフィアと戦争を繰り広げた時のことだ。


 米国の保養地となった日本は、現在アジアの中でも特異な立ち位置となっている。

その利権に食い込めば、時をかけずアメリカへ進出する手がかりとなると考えたのだろう。


 利の食い合いが起こると判断したロマネスクは、ラモンを含めた数名の殺し屋を抗争の尖兵として送り込んだ。

敵を排除するだけの仕事だったが、思いの外彼らはしぶとかった。


 それはひとえに、彼らが中華思想という中国人独自の思考に、慣れていなかったこともある。

中華思想とは極端に言えば、大のために小を捨てることを厭わない思想である。

そのため、彼らは幾らでも人員の代えを用意し、勝つまで増員を与え続けた。


 その処理に手間取っている間に思わぬ罠にかかり、ラモンは単独での逃走を余儀なくされることとなる。

分断されている間に、他の仲間はみな殺されてしまった。

銃弾は尽き、ナイフも折れ、武器は懐の手榴弾一発のみ。

そんな厳しい状況の中、ラモンはなんとかギリギリで生き残ることが出来た。


 だが、この抗争で組織の被った損失は計り知れない。

ロマネスクが手塩にかけて育てた直系の殺し屋たちも、何人も亡くなった。

理不尽な話ではあるが、生き残ったラモンがその責を負わされたとしても、何ら疑問ではなかった。


 それが証拠に、事が一通り済むとラモンは、ロマネスクに呼び出しを受けた。

険しい顔をするロマネスクの様子を見ると、ラモンは覚悟を決めて、彼へ首を差し出した。



「……罠にかかって皆を死なせたのは、俺の責任だ。罰は受ける、一思いにやってくれ」


「……」



 ロマネスクはラモンのその言葉を受けて、懐から銃を取り出した。

そして、無造作に照準を合わせると、その引き金を彼へ向けて引いた。



「……ッ!?」



 しかし、その銃弾は、ラモンの右の耳朶を吹き飛ばすのみに止まった。

鋭い激痛が襲い、ラモンは思わず膝をついて耳を押さえる。

そんなラモンに、ロマネスクは努めて冷酷に言い放った。



「なぜ自ら死を望む」


「たとえ俺が相手だろうと、死を受け入れるな」


「やったことを取り消せぬなら、とことんやれ」


「生死の天秤の傾きは、必死に足掻き続けたその結果でしかない」


「貴様の負うべき責任は、生きる中でしか返せぬと知れ」



 ロマネスクはラモンを叱責すると踵を返し、部屋を後にした。

それが、ラモンのこれまでの人生の、唯一にして最大の失態である。

そのせいで、今でもラモンの右耳は、他の人間より短くねじくれていた。


 ラモンはこれまで、ロマネスクが自分を殺さなかったのは、ただの気まぐれだと思っていた。

組織にとって益にならないのならば、どんな相手だろうと例外なく粛清されている事実を、ラモンは知っているからだ。


 ラモンだけそこから除外されたのは、ロマネスクの気紛れと運以外に有り得ないと、そう思い込んでいた。

しかし今回のことで、ロマネスクにはロマネスクなりの思惑があることを、何となしにラモンは察していた。


 ラモンに何かをさせるために、ロマネスクは彼を生かさなければならなかったのだ。

そしてロマネスクは、口では生きろと言いながら、自ら恩赦に参加してラモンを殺しにやって来ている。

その矛盾がより一層、ロマネスクの真意を計り難くさせている。


 ≪死神≫の異名は、ロマネスクが老いてなお、不気味な輝きを増しているかのようである。

もしも今回の件が、ロマネスクの長い構想の果てに結実した物なのだとしたら。

ロマネスクの恩赦とは、一体いつから考案され、何のために始動し、幾人の人を巻き込んで蠢くのだろう。

その深慮は、ラモンの推し量ることの出来る深さを、とうに越えているのかもしれなかった。



────

  ─────

     ─────



 ラモンは走ると同時に足元の泥を高く跳ね上げ、ロマネスクの顔を狙った。最も原始的な目潰しの方法である。

効果があるとは思えなかったが、一瞬でもロマネスクの視線を遮れれば、それだけでラモンの有利になる。

しかしロマネスクはそれを見越して、腕を上げて泥をガードした。


 ラモンはガードが上がって隙の出来た腹部を狙い、死角からナイフを振るう。

ロマネスクはそれすらも読みきり、足を振り上げてラモンの顔面へ、蹴りを見舞おうとした。


 たとえ腹部にナイフが刺さろうと、ラモンの顎を砕ければダメージは五分五分である。

ラモンはそれを察知して、咄嗟に上体を反らす。


 ロマネスクの蹴りが、鼻の数ミリ先を掠めていった。

そして上体を反らした分だけ、ラモンのナイフはロマネスクへと届かなかくなる。

防御と攻撃を兼ね備えた、高度な攻防であった。



「目潰しか、狙いは悪くない。だがその程度、読めぬ俺だと思うな」



 そう宣言するとロマネスクは、ラモンの喉笛を切り裂こうと、ナイフを横に鋭く薙ぐ。



「何だってやってやるさ。生き延びるためならな」



 ラモンはそれを受け、一旦ロマネスクのリーチの外へ出ると、再度その懐へステップインする。

互いに急所狙いの一撃を、紙一重でかわす攻防が繰り広げられる。

息をするのも忘れそうな密度の中で、その攻防に変化が訪れたことにラモンは気づいた。



(……?)



 それは百度以上にも及ぶ、ナイフでの攻撃のある瞬間に起こった。

避け損ねたのか、ラモンのナイフがロマネスクの頬を裂いた場面があったのだ。

そしてロマネスクのナイフも、浅くではあるがラモンのジャージを切り裂いていた。

ラモンは最初、疲労からロマネスクの目視が鈍ったのかと思ったが、そうではなかった。



(まさか……あえて俺に切らせてるのか……)



 それは、これまでの見切りとナイフ術を駆使した、恐るべきロマネスクの戦法であった。

ロマネスクはラモンのナイフの断ち筋を読み、その軌道の上に敢えて自分の体を置いているのである。


 もちろん致命傷は負わないよう、細心の注意を払ってかすらせる程度に止めているのだろう。

そしてラモンのナイフが届くその場所は、ロマネスクのナイフが届く距離でもある。


 皮一枚削がせる代わりに、より深く相手の懐へ潜り込み、致命傷を与える。

そんな手品のようなことを、事も無げにやって見せようというのだ。


 ロマネスクがやろうとしているのは、日本武道で言うところの「後の先」という概念に近い。

相手を先に動かしてから、後手を取った自分がそれよりも早い動きで行動を制する。

後の先とは簡単に言えば、それだけの原理に過ぎない。


 無論それが言葉にするより遥かに難しいことは、ラモンも充分すぎるほど理解していた。

高度な読みと技の切れが無ければ、それはただの自殺行為として終わってしまう。


 それをロマネスクは、ラモンという超一流の殺し屋相手にやってのけているのだ。

その技量は衰えるどころか、ラモンとの戦いでさらに磨かれているようにも見える。

そしてここで逃げてしまえば、ロマネスクの優位は揺るがなくなってしまうことにも、ラモンは勘づいていた。


 ナイフ術は、数多ある暗殺術の中でもラモンが得手とするところである。

ここで後塵を拝することは、技術的にも精神的にも、ロマネスクに遅れを取るのと同義なのだ。

そして一度戦いの天秤が傾けば、それを再び元へ戻すのは困難となるだろう。


 ラモンはロマネスクとの技の掛け合いに、あえて乗ることにした。

相手がわざわざ攻撃の通る場所へいてくれるのを、見逃す必要もない。

その利を生かすことが出来れば、形勢逆転も不可能ではないだろう。


 ラモンはそれまでよりも半歩、踏み込みを強くした。

その分ロマネスクのナイフは、ラモンの肌を数ミリ深く切り裂く。


 代わりに振り上げたラモンのナイフは、ロマネスクの髪の毛を数本、宙へと切り飛ばした。


 致命傷こそないものの、次第に二人の体には、不可避の傷が多く刻まれていった。

しかしそれでもなお、ロマネスクという高すぎる壁は、ラモンの前へ雄々しく立ちはだかった。

彼は二人の距離がジリジリと近づいているのを感じるや、トリッキーな戦術を敢行した。

ナイフを持っていない方の手で、ラモンの顔を覆い目隠しをしようとしたのだ。


 それはほんの一瞬の間だったが、必然ラモンは視界を確保するために、一歩退こうと無意識に足を引く。

その引き足に向かって、ロマネスクのナイフがぎらりと閃いた。



「痛ッ……!」



 初めて肉まで届いた痛みに、ラモンは一瞬顔をひきつらせる。

そして無事な方の足を使い大きく飛びずさると、片膝をついてその痛みに耐えた。



「よくぞここまで食らいついた。だが、ここまでが限界のようだな」


「その傷んだ足では、満足に攻撃をかわすことも出来まい」



 ラモンに反撃の余力がないと見るや、ロマネスクはナイフを収めてリボルバーを取り出し、ゆっくりと弾丸を装填した。



「これが正真正銘、最後の六発。そこからどう足掻くか、見せてみるがいい」



 もちろんラモンも、それを黙って見ているだけではない。

ロマネスクが弾を込める間に、痛みを堪えて墓石の陰まで走る。


 ほんの数分前と違い、痛みで呼吸は荒くなり、脈拍はなかなか整わない。

足に力をこめれば血が滲み、雨は容赦なく傷口を洗ってゆく。


 ラモンは墓石に背を預けると、銃の弾倉を確認した。

弾は残り三発。これをどう生かせるかが、ラモンの進退を分けるだろう。


 ついに自分の番が来たかという思いが、ラモンの胸の真ん中を射抜く。

いつか来るこの時のため、ラモンは何一つとして後悔を残してはいない。

だがそれでも、何もせぬままに死を受け入れるわけには、いかなかった。



≪続く≫

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