第4話:≪グラン=ウィッチ≫
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ラモンがロマネスクの恩赦に巻き込まれてから、早三日が経った。
名乗りを上げた七名のうち、すでに二名がこの世を去っている。
当初は傍観に徹するつもりだったラモンだが、結果的に二名とも彼が手を下した形となっていた。
先に手を出したトゥーンはともかく、ビルにこもっていたドクを殺したことで、もう言い訳は出来なくなっていた。
ドクを殺したのは、他の残虐な殺し屋に命を狙われることを哀れと思ったからである。
ラモンの認識では、ドクは技術屋であって殺し屋ではない。この戦いを勝ち抜くのは、到底無理だと思われた。
といって、本人にそう言って説き伏せるのは、馬に念仏を教えるより困難である。
故にラモンは、望まない殺しを甘んじて受け入れたのであった。
これでラモンは、自分が無関係であるというポーズを取ることは出来なくなった。
ドクのために何かしてやったというより、自分の拭えぬ甘さがそうさせたのだという意識が強い。
我ながら馬鹿な選択をしたと思うが、さりとて格段の悔いもない。
『やったことを取り消せぬなら、とことんやれ』
それは、ボスからの直々の教えであった。ボスの教えを、ボスによる理不尽な指令によって遂行するのは、笑えない皮肉である。
そして現在、ラモンはトゥーンと死闘を演じたボロアパートへ帰って来ている。
銃身の替えを持ってくるよう、野間に依頼していたからである。
現在の拠点としているのは変わらず雑居ビルだが、落ち合うだけならこちらの方が繁華街から近く、都合がいい。
野間とは、自室の前で待ち合わせていた。先に来ているか、それとも少し待つことになるかは先方次第だった。
ラモンはいつも通りのボロ階段を抜け、汚い廊下をゆったりと進んだ。
その確かな歩みが、ふとした拍子に止まる。人通りの皆無なはずのその廊下に、誰か立っているのが見えたからだ。
じっと凝視すると、薄暗い廊下の片隅に白い人影が見える。ラモンは、自分をつけ狙う刺客の可能性を考慮して、注意深く進んだ。
そして数歩歩いたところで、その白い影の正体が見えた。
「~♪」
そこにいたのは、鼻歌まじりにくるくると回転する一人の少女であった。
ラモンはわずかに警戒を解いて、そのそばを歩く。彼女は、人一人見かけることのないボロアパートで、ラモンがごく稀に遭遇する少女だった。
いつも廊下で一人遊びに興じて、ラモンに注意すら払わない。
常に白いワンピースを身につけ、足は季節に関わらずサンダル履きだった。
年齢は不明ながら、小学校高学年くらいだろうか。黒い髪はボサボサで、手入れしているようには見えない。
その格好の理由は、考慮する必要も想像する必要もない。彼にとって重要なのは、彼女が敵かどうかだけだ。
そして今回もまたいつもと同じように、彼女とラモンは交わることなく通りすぎるだけだと思われていた。
しかし、彼女の横を通りすぎようとしたその時、意外にもラモンへ向けて少女の方から声をかけて来た。
「お兄さん!お花はいりませんか?」
ラモンに向かって少女が話しかけて来るのは、これが初めてだ。少女は思いの外はっきりとした口調で、そう聞いてきたのだった。
「花?」
ラモンは一旦足を止め、声をかけてきた少女を見た。よく見ると、その右手に彼女の言う花らしきものが見える。
「はい!どうぞです!」
少女は廊下の暗がりから姿を見せると、右手をラモンに向けて差し出した。
そこに握られたのは、ずいぶん萎れて首の折れた、黄色い菊の花束だった。
この時ラモンは彼女の襲撃を警戒し、充分に感覚を研ぎ澄ませていた。花と見せかけた暗器や、小型爆弾の類いを持っていないとは言い切れなかったためだ。
「悪いが、金の持ち合わせがない。またにしてくれ」
そうしてラモンは彼女の追随をかわし、部屋へ向かおうとした。
その背後に、彼女は一定の距離を置いてピタリと張りついて来る。
ラモンは近づくなという警告のため、背後の彼女を右手で払おうとした。
その姿は見えないものの、ラモンほどの手練れが相手との距離感を見誤るはずはない。
しかし、背後に振られたラモンの手の甲は、空を薙いで空振りした。
「……!?」
偶然か、それとも意図されたものなのか。少女は膝を曲げ、態勢を低くしてラモンの手から体を逃がしていた。
(避けたのか……?)
無論、ラモンも少女を傷つける意図があって手を振った訳ではない。だがそれが避けられたならば、ラモンはどのような場面でも、相手を敵と認知して攻撃態勢に入る。
それが子供であれ、女であれ、警戒を怠れば死に直結する世界にラモンは住んでいるのだ。
ラモンは少女に相対すると、彼女の下段からのカウンターに備えて拳を繰り出そうとした。
しかし、銃弾も拳撃も、彼女の方向からは飛んで来なかった。
その代わりとばかりに足元へ花束を置いて、彼女は立ち上がり、その場でくるりと一回転した。
「お兄さんはいい匂いがするから、お花タダであげるです!」
そんなことを言って、彼女は愉しげに階下へと走り去ってゆく。ラモンは花と彼女の背中を交互に見ながら、握られた拳を緩やかにほどいた。
「どうしましたん、ラモンはん?」
少女が立ち去ったそのタイミングで、野間が階下から姿を現した。
「……今の娘、お前の知り合いか?」
階段で少女とすれ違ったことを前提として、ラモンは野間へそう尋ねた。
「いや、全く知らん娘ですねぇ。花売りでもやってる子と違います?」
「……そうか、ならいいが」
ラモンが感じたのは、少女の一連の動きが何者かに鍛えられたものであったかのような感覚である。
ふわりと柔軟に動く関節は、本腰でなかったとはいえラモンの動きをかわして見せた。
もしも野間が見知った少女なら、その動きは組織の手によるものということになる。
違和感といえばそれだけだが、しかしラモンは、野間の言動にも微かな不審を感じていた。
「お前、なんであの娘が花売りだと思った?」
「えっ?」
「花はここに全て置いていった。花売りだと判断する材料はないはずだが」
狭い階段からは、こちらの様子は見えなかったはずだ。なのになぜ、野間は彼女を花売りだと思ったのか。
「だって、廊下で喋ってる声が聞こえてましたやん!お兄さんにお花あげるって!」
「……そうだったか」
辻褄は合う。だが、何かがおかしい。そんな違和感を噛みしめ、ラモンは野間と二人、自室へと歩いていった。
「ラモンはんのご注文の品、確かに持って来ましたでー」
「サプレッサーと銃身の替え、それとこれはサービスですわ」
部屋へ入るなり、野間は携行していたバッグから細長い箱を二つ、正方形の箱を二つ、取り出してラモンへ渡した。
「これは?」
「
「頼んでないものを持って来るな。恩に着るつもりはないぞ」
「ええんですええんです、これから贔屓にしてもらうのが目的なんで」
ラモンは呆れた顔で、その箱の中身を確認する。確かにその箱には、銃弾が大量に入れられていた。
「この弾、ちゃんとした正規品なんだろうな。安物で命を無くすのは真っ平だぞ?」
「当たり前ですやん!雑なもん渡して信用失ってたまりますかいな」
「分かった、それならもらっておこう。代金は?」
「三千ドルてとこで、どないですか?」
「あぁ、即金で払う」
ラモンは懐に手を突っ込むと、札束の入った封筒を渡した。
「ここに一万ドル用意してある。お前の必要な分だけ抜いていい」
「雑な勘定しますなぁ。うちが余分に抜いたらどうしますの?」
「これからの手間賃代わりだ。全額取っていっても別に構わん」
「さすが、仕事人は持ってるもん持ってるってことですか。けど一度言った手前信用に関わるんで、三千だけで結構ですわ」
野間は札束を弾くと、100ドル紙幣を三十枚数えて、懐に収めた。
「はい確かに。今後とも、うちをよろしゅうお願いします」
「律儀なもんだな。手付金くらいもらっても良さそうなものを」
野間は両手を上げると、それ以上は何も必要ないと言うようにラモンへ語って聞かせた。
「連絡員いうのもこれで面倒なもんでしてねぇ。金の出入りは、出来るだけクリーンにしとけ言われてるんですわ」
「代金ピン跳ねしてるなんて思われたら、それこそ命取りですんで」
軽口を叩いた後、野間はラモンの部屋を後にしようとした。その足が、彼に向けてくるりと反転する。
「あぁ、そやった!大事なこと忘れてましたわ!」
「なんだ?」
「うち、ラモンはん宛のパーティーの招待状を預かって来てましてん」
野間は金を受け取ったのと逆のポケットから、真っ白な封筒に入った手紙を取り出した。
ラモンはそれを、何とも言えない表情で受け取る。殺し屋を呼び出すパーティーが、まともなものであるはずがないからだ。
「……」
ラモンは無言のまま、手紙をくるりと返しその裏面を見る。その手紙の差出人の宛名には、流麗な筆記体で、こう記されていた。
『Grand Witch』と。
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≪グラン=ウィッチ≫と呼ばれる殺し屋がいる。それは、中国は黒竜江省の寒村を起源に持つ、暗殺者の末裔である。
中国北東部の寒冷地に属するこの地域は、昔から産業に乏しく、貧しい生活を余儀なくされる民が多かった。
その結果、人々は口に糊をするため、非合法な仕事に身をやつすことがままあったのである。
その最たる例が、肖(シャオ)家と呼ばれる暗殺者の一族であった。
肖家の者は女人だけで構成され、男児は従僕としての生を強制される。
そして女児は幼少期から、様々な種類の毒物の服用を義務づけられているのだ。
服用するものは毒草や毒茸に始まり、蛇蠍(だかつ)、蟲の毒針、毒魚の肝等、山海を問わず多岐に渡る。
少量ずつ、死に至らないよう食事に混ぜ、嘔吐しては解毒薬を飲み、次第に服毒する量を増やしていく。
それを繰り返し、体が毒を吸収し、抗体を得るまでひたすらに待つのである。
長年そのような生活を続けた結果、彼女らの体液は血液も唾液も、粘液ですら強い毒性を帯びることとなる。
その過程で死ぬ者も、発狂する者もいるほどの過酷な試練を潜り、早い者は十代の後半に暗殺者としての頭角を現す。
その体毒を使い、彼女らは数百年もの永きに渡り、中国社会の裏で暗躍を続けていた。
そして現在、肖家の者は≪グラン=ウィッチ≫と呼ばれる彼女一人だけとなっている。
噂によれば、一族郎党皆殺しにしてロシアまで逃亡していた彼女を、組織の勧誘員が見初めたという話だった。
その鮮やかな毒殺の手口から、彼女がボスから≪
恩赦の証明写真も、誰の犯行かこの上なく分かりやすい、毒殺死体だった。
三枚目に位置する写真、チアノーゼで真っ青になった死体は、彼女の持つ神経毒で呼吸器に異常をきたした結果である。
そんな女が、自分のアジトにラモンを呼んでいる。タダで済むはずがない事件であった。
『フォークロア=ラモンへ』
『本日九時より、酒肴と僅かばかりの余興を持って貴殿を歓待致したいと存じております。』
『万が一お越しにならなかった場合、貴殿の殺しの証拠を携えて警察へ出頭することと相成るでしょう。』
『よくよくお考えの上、行動をご決定くださいますようご一考お願いいたします。』
『BAR ベラドンナにて、グラン=ウィッチより。』
野間から渡された手紙は、そのようなものだった。それは招待状というより、ほとんど脅迫のような内容である。
ラモンは殺しをする際、証拠を残さないよう細心の注意を払っている。まして同じ組織の人間が関わっている以上、隠蔽は完璧でなければならない。
それでなくても、殺し屋が警察を頼って出頭するなど有り得ないことだ。だが、どのような想定外の漏れがあるかは、さすがのラモンにも判断のしようがない。
証拠があると言われれば、それを確認しにいくより他にないのである。
ラモンは、招待状を寄越した野間を横目でチラリと睨んだ。
「まさか、あんたもあいつとグルなんじゃないだろうな?」
「んな訳ありますかいな!!うちは組織宛てに送られた手紙持ってきただけです~!!」
野間は不満げに唇を尖らせて怒るが、ラモンはそれに懐疑的な目を向ける。
殺し屋の間で連絡を取り合いたい場合、相手の連絡先を知らなければ組織のダミー会社へ依頼する必要がある。
そこを通せば手紙のやり取りくらいは出来るだろうが、野間とグラン=ウィッチが通じているならその必要もなくなるだろう。
「ラモンはんが潜伏場所コロコロ変えるから、うちが手紙預かるしかなかったんやで!!」
「どうだかな。誰がどこで繋がってるかなんざ、誰にも分からんもんだ」
ラモンは手紙をくしゃりと丸めると、無造作に床へ放り捨てた。
「まぁいい。お前が関与してるかどうかは、奴の口から直接聞くとするか」
「それ、クロやったらうちが殺される奴ちがいます?」
「俺に対してウソをつかなければいいだけだ。簡単だろ?」
当然ながらそれは、十中八九より高い確率でグラン=ウィッチの罠であろう。
そうと知りながら、ラモンは容易くそこに命を掛けることが出来る。
惜しむ物のないことは、ラモンの強みのひとつと言えるかもしれなかった。
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鳴き声のようにか細い風が吹きすさび、ラモンの肌をなぶっていた。いかにも冷たい、冬の風である。
グラン=ウィッチの住み処は、蕪新町の国道沿いにある一軒のバーだった。ラモンはその店まで、誰も連れずに徒歩で向かった。
国道とは言っても主道からは道一つ逸れた場所にあるため、車通りはほとんどない。
繁華街からもかなり離れた立地にあるので、一見すると知る人ぞ知る店といった様子に見える。
個人で営むには大きめの店舗であるが、中から客らしき人の気配は窺えない。
酒を飲ませることで稼ぐことを主体としていないのだから、それも当たり前だと言えた。
人の行き来が少ないということは、密事に使われても発見される可能性が低いという利点がある。
罠へ誘い込みさえすれば、たとえラモンであっても殺せるという自負があるのかもしれない。
稀代の毒使いグラン=ウィッチの罠とは、一体いかなるものか。
それを見極めるため、ラモンはまず外からの
現在の時刻は、午後八時半を回ったところである。約束の時間より三十分早く来たラモンは、店へ入る前に周囲を探索した。
正面の入り口には、鍵がかかっていないようである。その証拠に、黒い扉には次のような張り紙が貼られている。
『本日、貸し切りのため閉店致します。悪しからず。』
つまり、入るなら正面から入れとラモンへ告げているのだ。
次にラモンは、店舗の裏口へ周り侵入経路の確認をする。
そこには、エアコンの室外機と、ゴミを捨てるための大きめのポリバケツが二つ、据えられていた。
店の裏口には、当然のように厳重に鍵がかけられている。
設置された窓はどれも小さく、割って入るには困難な形である。
店の裏手はフェンスで隔たれ、その先には松の木の防風林が繁っていた。
裏口の鍵を壊して侵入することも出来るが、バーの体裁を取っている以上、防犯登録が成されているかもしれない。
警備会社へ通報されて捕まるような愚は、避けねばならないだろう。
ラモンはしばし黙考した後に、店舗裏のとある場所へ視線を流した。
(……なるほどな)
数秒そこを眺めると、ラモンは何かに気づいたかのように思案する。
そのまま店舗の外周を一周すると、裏から侵入するのを諦め、店の正面入り口へ戻ってきた。
どうやら彼は、正面から堂々と入ることに決めたようである。
ラモンは両手を組んで高く上げると、左右に振って冷えた肩をほぐした。
しばし体の各所をストレッチしながら、人目がないことを確認してポツリと呟く。
「九十秒、だな」
そして息を肺の限界まで吸い込むと、魔女の住み処へ足を踏み入れたのである。
店内は屋外と違い、じっとりと重く生暖かい空気に包まれてていた。
湿度が異様に高く、店内に流れる小粋なジャズも、それを些かも軽くはしない。
照明の暗い店内と相まって、まるで深海の水底を歩いているかのようであった。
そんな中ラモンは、初手から恐るべき颶風のような速さを見せた。机の合間を縫うように、店の奥まで一気に走ったのである。
最初からたどり着くべき目的地を決めていたような、一切の迷いのない足取りだった。
そんなラモンを射抜くべく、機械仕掛けのボウガンが天井から彼を狙っていた。
そこから矢が放たれるや、ラモンは前転してそれを素早く避ける。
次々に発射される矢のどれも、ラモンの体へ触れることはなかった。
避けた先は店の奥へと通じる通路であり、そこにはピンと張られた鋼線が幾重にも張り巡らされている。
鋼線は視覚的に見えにくいようグレーで塗られていたが、ラモンはそれを容易く看破する。
素早い動作でナイフを取り出すと、鋼線を両断しボウガンの死角へと逃げ込んだ。
鋼線に足を取られれば、体を切り刻まれた上にボウガンの餌食となっていただろう。
だがラモンはそれに安堵せず、足を止めることをしなかった。
奥の通路は狭く、暗さもあって先の見通しがあまり効かない。
しかしラモンは、そんな事を一切気にすることなく一心に走った。
道中、天井からポタポタと水が滴っているところが幾つもあった。
屋内の異様な湿気の原因はそれかとも思えたが、ラモンはその水滴に当たらぬよう、慎重に体を動かした。
ラモンは直感的にそれを避けただけだったが、実はそれもグラン=ウィッチの仕掛けた罠の一つだった。
天井から滴っていたのは、管を介して流れる強アルカリ水溶液だった。簡単に言えばそれは、洗剤の一種である。
グラン=ウィッチが天井から垂らしていたのは、業務用の調理器具等の洗浄に使われる、強力な洗剤だった。
強アルカリ性を示す溶液は、油やたんぱく質と反応してそれを溶かし、人体に触れれば火傷のような炎症を引き起こす。
量が少ないので致命にこそなりにくいが、皮膚や粘膜に付着しただけで大惨事になることは間違いない。
これも広義には、一種の毒と捉えることができる。ラモンは見えづらい通路にも関わらず、丁寧にそれを避けきった。
そしてラモンは、店の奥のとある一室へ、するりと潜入した。
そこはどうやら、鍵のかかっていない物品倉庫のようである。
雑多な品物が、適当に据えられたラックの上へ煩雑に放置されている。
ラモンは暗い室内をざっと見回すと、壁際に設置されたラックに注目した。
走り寄り、それを強く引っ張ると、簡素な造りのラックは音を立てて簡単に倒れた。
その裏には、巧妙に隠された秘密のドアが存在した。
ラモンはその扉を開けると、堂々たる足取りで中へ侵入した。
「……!」
そこにいたのは、正真正銘のグラン=ウィッチ本人であった。
長い黒髪は湿気を帯びて艶やかな光彩を放ち、美しいドレスに映えている。
しかしその顔には、それら全てを台無しにするような、無骨なガスマスクが取り付けられていた。
そして彼女は、マスクを取り付けてさえ分かるほど、あからさまな驚愕の表情をしていた。
ラモンは彼女へ向けて走ると、本人ではなくその横に置かれた機械に触れようとした。
その機械は、大量の蒸気を黙々と吐き出し続けている。
どうやらその機械が、室内全てに行き渡るほどの湿気の原因であるらしい。
それを止めようとしたグラン=ウィッチの動きを制し、ラモンは機械の胴体部分に蹴りで大きな凹みを穿った。
機械は沈黙し、次にラモンは室内奥の窓へと走ると、それを勢いよく肘打ちで打ち壊した。
蒸気は割られた窓から抜けていき、外から清廉な空気がなだれ込んだ。
ラモンは室内の空気が入れ替わったのを確認すると、振り返ってグラン=ウィッチへ銃を向けた。
間髪入れずに発射された弾丸は、彼女のマスクを掠めて弾き飛ばす。
「くっ……」
口を覆い、顔をそむけると、彼女は浅い呼吸を繰り返した。
それを見てラモンも、浅く息を吐いては吸うを、幾度となく繰り返す。
「スゥゥー…ハァァ……」
その様子を見て、彼女はハッと何かに気づいたような顔を伺わせた。
「まさかあんた……ずっと息を止めてたの!?」
「あぁ。安全と分かるまでな」
「あり得ない……どんな心肺機能してるのよ……」
驚愕の顔を浮かべる彼女であるが、ラモンはそれを意に介してすらいない。
グラン=ウィッチの仕掛けた罠は、極めて単純にして悪辣なものであった。
ラモンが部屋に入るなり壊した機械は、結婚式場などで使われる大型の加湿器だった。
通常のものと違い、ドライアイスを使ってスモークも焚ける特別製品である。
彼女はそれに水ではなく、アルコール度数の極めて高いウォッカを入れて使用していた。
ウォッカと、強力な神経作用を持つ自らの毒血を仕込んでいたのだ。
これにより、毒血はアルコールと共に気化され空気中に散布される。
それを吸い込めば、体は数分で酩酊し意識を失うという、凶悪な代物であった。
ボウガンも鋼線も強アルカリ水も、全てはそれを生かすためのフェイクである。
それら全てをかわすための動作をすれば、必然息は荒くなり、吸気も激しくなる。
そうなれば、泥酔した体は瞬時に毒に蝕まれ、簡単に命を落としていただろう。
ではなぜその罠は、ラモンに効果を成さなかったのか?
グラン=ウィッチの述べた通り、呼吸を止めていたまでは理解できる。問題はどの段階で、それを看破していたのかである。
その答えは、ラモンが侵入する前、店の裏口に回った時であった。
ラモンは侵入経路を確認する際、あることに気づいていた。
店外に置かれていたエアコンの室外機が、動いていなかったのである。
暖房を着けずに店を回すには、まだまだ寒さの厳しい季節である。
ましてや今日は彼女にとって、ラモンを誘き寄せ仕留めるための特別な日なのだ。
そんな日に完璧主義のグラン=ウィッチが、空調を疎かにしようはずがない。
つまりこれは、仕込んだ罠を阻害しないようにするための仕掛けである、とラモンは考えた。
エアコンが邪魔になるトラップ、加えて相手は毒物のプロフェッショナル。
となれば何かしらの毒が、空気中に撒かれている可能性は十分にあり得た。
ラモンが侵入する前に呟いた「九十秒」とは、呼吸を止めて活動できる時間のことだったのだ。
正確には呼吸していなかったのではなく、息を吸う動作だけをラモンは止めていた。
外で吸った空気を、少しずつ消費して吐き出していたということだ。
しかしそれでも、激しく動きながらの九十秒である。普通であればいかに身体能力に優れていようと、呼吸を保てる時間ではない。
人体には、血中酸素飽和度という数値がある。血液中のヘモグロビンに、酸素が何割結び付いているかを表す数値である。
これが高いほど、肺から取り込んだ酸素を血液に取り込む能力が高いことになる。
そして科学分析の結果、人間の血中酸素飽和度は、他の生物に比べて大きく劣っていることが判明している。
その結果、低酸素下での肉体の動きに制限がかかってしまうのだ。
それを向上させるため、現在のプロスポーツでは低酸素トレーニングや高所トレーニングを取り入れている。
それによりヘモグロビン数を増やし、結果的に血中酸素飽和度を上げるのである。
だが、ラモンのボスであるロマネスクが課したのは、そんな生易しいトレーニングではなかった。
『ガスや火災で、呼吸が制限されマスクもない場合、何もしなければただ死を待つだけだ』
『ならば、心肺能力を極限まで鍛え抜くしかあるまい』
そう言って、低酸素下での戦闘を強制したのである。
組織のトレーニング施設のひとつに、減圧室というものが存在する。
サウナルームほどの広さのそれは、外部からの操作で気圧を変動させることができる。
本来の用途は裏切り者への拷問粛清のためのものだったが、ロマネスクはそこで、気圧を下げながら模擬戦闘を行わせた。
嘔吐し、気絶し、覚醒させ、また戦闘を行う。その繰り返しによって、常人を遥か凌駕する強靭な心肺能力を養わせたのだ。
無論、本来の用途が用途なため、その過程で生じる苦しみは並大抵のものではない。
死の一歩手前まで己を追い込まなければ、減圧室を出ることすら叶わないのだ。
その訓練において、最後まで戦う意思を絶やさなかったのはラモンのみであった。
そのような常軌を逸した修行の結果、ラモンは現在、富士山頂ほどの空気の薄さでも平常に行動することが可能である。
現在でも月に数度、減圧室を借りて心肺に負荷をかけるトレーニングを行っている。
それが結果的に、グラン=ウィッチの罠を退ける要因となったのだ。
「普通じゃないとは思ってたけど、まさかこんな脳ミソまで筋肉みたいな方法で攻略されるとはね……」
銃を向けられた彼女は、ラモンから一定の距離を置いて立っていた。
「武器を捨てろ。でなければ、お前の命はない」
「ふふ、そうね。絶体絶命ってこういうことかしら。でもあなたは私を殺すことは出来ない。違う?」
その問いかけに、ラモンは答えることをしなかった。沈黙、即ち否定出来ない事実ということだ。
「そりゃそうよね。だって私は、あなたの殺しの証拠を握ってるかもしれないんだもの」
残念なことに、それは彼女の言うとおりだった。ラモンが最も警戒しているのは、彼女に協力者がいるパターンである。
その場合、単純に彼女を殺害してめでたしとする訳にはいかない。殺したことを合図として、外部へ連絡が行くことがあるためだ。
もちろん、名実共に一流の殺し屋である彼女が、警察へたれ込む確率はほぼ0である。
だが、直接殺しの手を下さない組織の連絡員ならば、彼女に協力する可能性は十分に有り得た。
「お前の掴んだ証拠とやらは、一体どんなものだ?」
「それが言えないなら全て虚偽と見なして、お前を殺す」
ラモンはかまをかけるために、言葉で揺さぶりをかけた。グラン=ウィッチはそれに応じて、不気味なほどに柔らかな微笑みを湛える。
「フェイクファー=ドクのアジトよ。あそこには、あなたの気づかない隠しカメラが仕掛けられていたの」
ラモンはその言葉を、即座に否定した。
「有り得ないな。映像機器の類いは、全て確認して処分した」
「そうかしら?何か盲点はなぁい?」
「盲点だと……?」
「フェイクファー=ドクは名うてのロボット技師でもある。その彼が、ロボットにカメラを仕込まないなんてあるかしら?」
「……!」
確かに、ドクを模したロボットはあり、それを最後に確認することまではしなかった。
映像端末さえ積んでいれば、ラモンの犯行の一部始終を記録することは可能である。
そしてドクの性格を考慮するなら、自分を殺した者を記録することも十分に考えられた。
だが、死体の遺棄と事後処理は野間に一任してあった。もしその後にグラン=ウィッチの関与があったのなら、やはり野間は彼女の側の人間ということになる。
(新参の連絡員を安易に信用した俺が悪かったか……)
ラモンは胸中で、誰にも聞かれない舌打ちをした。
状況が状況だっただけに仕方ないが、本来なら野間の身辺を洗うことくらいすべきだったかもしれない。
鯉衣がトゥーンに殺されて以来、ラモンに時間の猶予がなかったせいでもあるが……。
(……ん?)
その時、ラモンの脳裡に引っ掛かった物があった。
「シャオ。ドクのアジトまでは、誰に手引きしてもらった? まさか、お前一人で全てこなしたなんて言うつもりはないだろうな」
「私の懇意にしてる連絡員が教えてくれたわ。ドクのアジトだけなら、武器のやり取りで知られてたから」
「嘘だな。それなら、こっちの連絡員の鯉衣と鉢合わせてるはずだ。あいつが俺に、そんな重要なこと黙ってるはずがない」
「フフフ……でもあなたこそ、そんなに鯉衣さんを信用していいのかしら。誰がいつ人を裏切るかなんて、分からないものよ?」
「それが、そうでもない」
「……!」
ラモンは、無情にも銃の引き金を引いた。彼女はとっさに、大型加湿器の陰へ飛び込み難を逃れる。
ラモンの放つ空気の微細な変化を、敏感に感じ取ったようだった。
「鯉衣はトゥーンに殺られて、すでに死んでる。今の連絡員は全くの別人だ」
「こっちの連絡員を裏切らせたなら、なぜそれを指摘しなかった?」
「死人だけはどう足掻いても、人を裏切らないんだよ」
そしてラモンは威嚇のため、加湿器へ向かって二発、銃弾を撃ち込んだ。
「あらそう……それは迂闊だったわね」
ラモンはじりじりと、加湿器までの距離を詰めていく。
「大人しく出てくるなら、なるべく死体が傷まないよう殺してやる。殺し屋といえど、醜い姿で死んでいくのは嫌だろう?」
出てくれば、ラモンの正確な射撃の的とされる。
出てこなければ、ラモン自ら手を下しに近寄っていく。
これはただそれだけの、二者択一である。
「おあいにくさま。私は私以外の誰にも殺させはしないわ。あなたこそ、窮鼠猫を噛むって言葉を知った方がいいわよ?」
それは、あまりにも無理のある強がりだった。ラモンとグラン=ウィッチの距離は、10メートルも離れていない。
加えて部屋にある遮蔽物は、壊れた大型加湿器のみである。どう考えても戦局は、彼女に不利としか言えなかった。
だが、そこで彼女は、ラモンの思いもよらない行動に出た。
「……ねぇ、ラモン。私と一緒に逃げない?」
「何?」
「気が変わったわ。殺し合いなんて止めて、私と逃げましょう?」
「これだけの罠を仕掛けておいて、どの口がほざく」
「だから、気が変わったのよ。私あなたのこと、気に入っちゃった」
そして彼女はあろうことか、加湿器の陰から立ち上がったのである。
むろん、そんな大それた隙を見逃すラモンではない。グラン=ウィッチの眉間に狙いをつけ、すぐさま引き金を引く。
しかしそれよりも早く、彼女は自分の隠れていた加湿器を強く蹴っていた。
加湿器にはキャスターがついており、彼女は陰に隠れながらそのストッパーを外していたのだ。
猛然と転がって来る加湿器に、ラモンの照準は数秒狂わされる。
その隙に、彼女は部屋の対角線へと逃げていた。ラモンは加湿器を避けると、銃を向け直し再び引き金を引こうとした。
「この組織は、もうすぐ瓦解するわよ」
彼女が、そんな不吉なセリフを吐くまでは。
「……」
ラモンは無言を貫き、彼女の脳天に照準を合わせていた。だが、今度は引き金を引くことをしなかった。
グラン=ウィッチが次に言う言葉を、聞き届けようとしているようだった。それを見て、彼女は僅かに胸を撫で下ろす。
「少しだけ、昔話をしましょうか」
「私ね、これから滅びへ進むものが、何となく分かるの」
「この組織も、これから壊滅の運命を辿るはずよ」
「私たち、肖家の一族と同じようにね」
そして彼女は、自らの過去を粛々と語り始めた。
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肖家は、暗殺を生業としていた殺し屋の一族。殺す者を選り好みすることなんて当然なかったわ。
たとえどんなお偉いさんでも、軍の屈強な将軍だろうと、私達の毒牙にかかればイチコロだった。色仕掛けだろうと正攻法だろうと、ね?
ただ、中国共産党の大幹部を暗殺してほしいって依頼だけは断るべきだったと思った。中国の共産党員ってね、年寄りほど執念深くてヤバいのが多いのよ。
血の一滴でも流させようものなら、一族皆殺しにしても足りないってくらいのね。その辺はやっぱり、毛主席の思想筋ってことなのかしら……。
ま、そんなヤバい敵を相手にして、ただの殺し屋が生き残れるはずがないわね。なのに、暗殺を取り止めて逃げようとしたのは私だけだった。
それどころか奴らは私を面罵して、腰抜けだの恥だの罵ったの。
だから私が、みんなを殺してあげたのよ。一族皆殺しにされるより、私一人でも生き残った方がいいでしょう?
私の毒は特別製でね、私以外の誰も抗体を持ってないの。油断した殺し屋なんて猫を殺すより簡単に殺れたわ。
そこをこの組織に拾われて、今に至るってワケ。
そしてね……この組織からは、あの時の肖一族と同じ匂いがするのよ。要を失って荒れる寸前の、キナ臭い滅びの香り……。
だから私は、恩赦に参加したの。このままだと組織といっしょに共倒れになっちゃうから。
あなたも、それを感じない?ラモン。
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そこまで語り、彼女はラモンへと話の矛先を向けた。
「知ったことか。たとえ組織が滅びに向かおうと、俺の関知する範疇じゃあない」
「フフ……古風な男ね、でも嫌いじゃないわよ。そういう古臭いとこが、私のやり方と通じるのよ」
グラン=ウィッチは、まるでラモンを迎え入れるかのように両腕を広げた。
「ねぇ、ラモン。あなたは自分が必要とされなくなった後の世界を、考えたことある?」
「ないな。そんなものに興味はない」
「私はあるわよ。いつでもそんなことばかり考えてた」
しばし遠い目をして、彼女は僅かに悲しげな表情を見せる。
「私の毒より強くて検出されにくい毒なんて、今の科学ならいくらでも合成出来るわ」
「あなたもそう。格闘と拳銃のヒットマンスタイルなんて、いつまで通用すると思っていて?」
「要するに時代遅れなのよ、あなたも私も。いつか私たちの殺しの技は、必ず通用しなくなる時が来る」
「そうなる前に、私もあなたも自分を生かせる新天地を探すべきだと思わない?」
「沈む船に乗り続けなきゃいけない道理なんてないわ。私たちがその気になれば、これからどんな所へでも行けるのよ」
それはまるで、あどけない少女の語る夢物語のようだ。
ラモンは、事がそう簡単に運ぶはずがないと知っている。
グラン=ウィッチは、ゆっくりとラモンへと近づいていった。ラモンは、あえてそれを撃つことをしなかった。
情に流された訳でも、彼女に気圧された訳でもない。ただその話の行き着く先を、最後まで聞き届けようとしただけである。
そしてグラン=ウィッチは、ラモンに触れることの出来る間合いまで接近した。
「殺しの内情を知る人間を、組織が黙って逃がすと思うか?」
ラモンの言い方に、それでも彼女は怯む様子すら見せない。
「だから恩赦を使うのよ。あなたなら、最後の一人になるくらい簡単でしょう?」
「私があなたに殺されたことにして、一緒に組織から逃げるの」
「ほとぼりが冷めるまで、海外でもどこでも身を隠せばいいわ」
そう言って彼女はラモンの腕に手を絡ませ、構えた銃を下ろさせた。
「ねぇ聞いてラモン。あなたに私の、一番大事なものをあげる」
「私の戸籍上の名前は、シャオ=ペイニー。でも、本当の名前は別にあるの」
彼女は、ラモンの体に自らの体を押し付け、ひたりと寄り添った。
たわわな二つの塊が、ラモンの腕の付け根に当たって柔和に形を変化させる。
「中国人って、
「私の本当の名前は、肖大花。大きい花って書いて、シャオ=ターファって読むの。かわいいでしょ?」
口角を持ち上げて、彼女はひどく妖艶な笑みを見せる。いつの間にかその腕は、蛇のごとくラモンの両腕へ絡みついていた。
シャオは、ラモンの耳元へ口を寄せた。ラモンはされるがままになり、反抗しようともしない。
「ねぇ、ラモン。私を見て……?今日から私のこと、あなたの好きにしていいのよ……?」
そうして、彼女の瞳にラモンの顔が写るほど近づいたその時、彼女の表情は妖しく変貌した。
ラモンの体に顔を寄せ、その首筋に歯を立てようとしたのである。
毒の体液は、傷口から僅かでも入れば致命傷となる。甘言を弄して近づいたのは、逃げられないこの距離に踏み込むためだった。
ラモンの両腕は、彼女の腕に取られて咄嗟には動かせない。たとえ蹴りを入れようと、彼女は噛みつきを止めようとしないだろう。
絶体絶命の身でありながら、しかしラモンは極めて冷静そのものだった。
ラモンは足を無理やり一歩前へ出すと、それとは反対に後方へ首を大きく振った。
そして噛みつこうと口を開けたシャオの鼻筋へ、強烈な頭突きを叩き込む。
「がぁっ……!」
その美しい鼻梁を歪ませて、シャオはよろめく。彼女の美しい顔は、あっという間に鼻血で汚される。
密着した体が離れると、ラモンは逆手でナイフを取り出し、シャオの喉元へ走らせた。
「あっ……」
なまめかしさすら感じる声を上げて、彼女は倒れる。ナイフの切り口は、あくまでも鋭利で、かつ無情である。
それは、偉大なる魔女とまで呼ばれた殺し屋にしては、あまりにもあっけない最期であった。
ラモンが彼女のされるがままになっていたのは、彼女の殺しの決め手が毒の体液だったためだ。
唾液にしろ血液にしろ他の分泌液にしろ、ラモンへ作用させるには彼の体に接触する必要がある。
しかもそれは体表でなく、最低でも粘膜には届かないと効果を発揮できない。
ラモンならそれを狙って近づいてきた彼女へ、カウンターを与える程度は容易くやってのける。
ある意味で、彼女の言った時代遅れという言葉が、そのまま彼女の敗因になったとも言えた。
「……」
ラモンは彼女の生死を確認するため、その死体へと近づく。
一歩の距離をあけて観察したが、彼女が動く気配はない。
彼女の生死を判別し、どこかへ連絡を送っているような様子も見られない。
ラモンの殺しの証拠があったというのも、罠へかけるためのブラフだったのだろう。
ラモンは彼女の死を見届け、野間へ事後処理の依頼をするために立ち去ろうとした。
その時だった。
彼女は不意にのそりと立ち上がり、血まみれの腕をふりかざし、精気のない瞳でラモンへ躍りかかったのである。
ラモンはそれを察知し、振り向き様に拳をあびせようと腕を上げた。だが、その拳が彼女へ届くことはなかった。
「私……あんたの子供なら、産んでも良かったけどな……」
ラモンの耳に口を寄せてそれだけ言い残し、彼女は再び引きずられるように床へ倒れた。
血液は大量に床へこぼれ、まるで彼女の本当の名のような、大輪の赤い花を咲かせていた。
ラモンのジャージには、彼女の最後の足掻きによってふりまかれた血液が付着していた。毒の影響こそなかったが、素人が見れば卒倒しかねない有り様である。
それは、殺しに臨むにあたり着衣を汚すことすらなかったラモンが、久しく受けたことのなかった帰り血であった。
後の連絡員の調べによると、彼女の出血はショック死するのに十分すぎる量だと結論づけられた。
立ち上がることさえ不可能だったはずだ、とも。
そしてラモンは血まみれのまま、彼女の末期の言葉を反芻する。
『私……あんたの子供なら、産んでも良かったけどな……』
その願いが叶えられないことは、彼女が最もよく知っていたはずだ。
彼女とまぐわう男は、その毒の体液により全員命を落とすからだ。
肖家の一族が女性しかおらず、男児が従僕として扱われるのはそのためである。
そうと知りながらラモンの子を欲したのは、死に際に望んだ最後の夢だったのだろうか。
「……女の執念てのは、恐ろしいもんだな」
ラモンの耳には、彼女の精一杯の最期の言葉は、荒まく呪詛のようにしか聞こえなかった。
≪続く≫
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※本編で登場した加湿器アルコールは、実践して救急車で運ばれた方もいる非常に危険な行為です。
懸命な読者諸氏におかれましては、決して真似することのないようよろしくお願いいたします。
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