第2話:≪ダイヤモンド=トゥーン≫



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 平日の昼下がり。ラモンは一人、アジトの壁の前に立って、気息を整えている。

前日のようなジャージではなく、ハーフパンツに上半身は裸という出で立ちである。

アジトといってもそこは例のボロアパートではなく、いくつかある拠点のうちの一つに過ぎない。


 蕪新町の商業経済区から離れた、高級住宅街の片隅に位置する家屋である。その立地に恥じない程度には、豪華な一軒家だった。


 元は組織の上層部が、要人を軟禁するために建築させた家屋である。その用途から、ある程度の設備と品は備えていなければならない。

そのため先のアジトと違い、室内には調度品も充実しており、明かり取りの窓も大きく取られいる。


壁は白く清潔で、何かの死骸が放つ不衛生な臭いもしない。まさしくそこは、件のアパートとは天と地ほどの差があった。


 現在は使われていないためラモンに払い下げられているが、必要となれば再び本来の用途に使われるだろう。

あちらの拠点で殺しを行ったため、ラモンは潜伏も兼ねて、しばらくこちらのアジトを使うことに決めていた。


 組織の連絡員から聞いた話によると、あれだけの騒ぎを起こしたのに、アパートの住人は誰一人気にも留めていなかったという。

その治安では、殺し屋が身を隠すのに使うのも必然と言えた。

とはいえ、万が一のことを考えれば、やはり潜伏場所は変えておくのが正しい選択だろう。


 そして今、ラモンの立つ白い壁の前には、1から9までの番号が振られた紙が貼ってあった。

位置はラモンの肩幅から頭頂程度の高さまで。ナンバーの割り振りは順不同のようだ。


 その紙の場所を目で確認しながら、ラモンは浅く呼吸をする。やがて彼は、傍らの机に置いてあったスマホのボタンを押した。



『3秒後にカウントを開始します。構え……3、2、1、スタート』



 どうやら彼は、何かのアプリを起動させていたようである。その音声に合わせて、彼は両手を体の前に構えた。



『7、1、3、8、6、0、5、4、1、3、3、0、2……』



 アプリは無機質な合成音で、数字を読み上げていった。ラモンはそれに合わせて、読み上げられたものと同じ壁の数字を素早く殴る。

壁は固い建材のはずだが、ラモンの拳に躊躇はない。拳が壁を打つ度に、小気味良い音を鳴らしている。


 やがてアプリは、数字を読み上げるスピードを早くしていった。それに合わせて、ラモンの手数も増える。

タン、タン、タンだった読み上げのリズムが、タンタンタンになり、最終的にはタタタの速度にまで上がっていった。

ラモンは一切速度を落とすことなく、そのカウントに着いていった。


 これはボクシングのトレーニングを応用した、彼独自の鍛練法である。本来のやり方は、サンドバッグやボクシングミットに番号を割り振り、コールされた場所をパンチする。

それを限りなく早く行うことで、瞬発力と反射神経を養うのである。


 これを1セット3分間、インターバルを1分挟み3セット行う。もちろん、全ての打撃が全力である。

本来ならコールの役目はデルにやらせていたのだが、人力では番号が規則的になりやすかったため、アプリを使うことになった。


 やってみると分かるが、このトレーニングの肉体への負荷は、想像するより遥かに大きい。

素人がこれをこなそうとすれば、インターバルの間に息を整えるのにも時間を要するだろう。

そしてもうひとつ、このトレーニングには特徴がある。競技では反則を取られる箇所、つまり急所に番号が振られていることだった。


 頸動脈、肋間神経、金的、咽、眉間、鳩尾、鎖骨、眼球。メジャーなものから知られざるものまで、俗に急所と呼ばれる箇所は無数にある。

だが、動きながらそこへ適切な打撃を加えるには、常人が思う以上の鍛練が必要なのである。


 ラモンはあえてそこへ番号を置き、どのような体勢からでも急所への攻撃を加えられるよう鍛え上げていた。

しかもそれだけでは終わらない。割り振られた番号は1から9までだが、アプリは0から9をコールするよう設定されている。

0をコールされた場合は敵からの攻撃を想定し、避ける動作まで加えなければならないのだ。


 相手が素手ばかりとは限らない。横薙ぎのナイフ。至近距離の拳銃。振り回される鉄パイプ。

それらを事前に想定して、適切な距離を取って避け、捌くのである。

それを易々と行い、致死の打撃を無数に打ち込むラモンの身体能力は、プロのボクサーを遥かに越えている。


 必然、動きは複雑なものとなり、求められる能力も高くなってゆく。常人が行えば、3セット目にはパンチの精度も落ち、必殺の威力とは到底呼べなくなっている。

ラモンはそれを最後までペースを落とさずに実行出来るだけでなく、最中に呼吸を乱すことさえない。

3セット9分、インターバルを含め12分。うっすらと汗をかいてはいるものの、その動きに疲労の影は見られなかった。



「フゥゥー……」



 ラモンは丹田に力を込めて腹式呼吸をすると、傍らに置いていたタオルを取り、汗を拭った。

平時はこれを数セット続けてトレーニングとしているが、今日は1セットで終了した。

「ロマネスクの恩赦」のことを、念頭に置いていたためだった。


 彼の一存では、あくまで自分はこの騒動に巻き込まれた側の人間である。

しかし、恩赦への参加を表明したと思われた以上、上層部から反目を買う可能性も大いにあった。

ボスからの指令を不服とする層も、間違いなく存在するためである。


 念のため、デルの裏切りについては連絡員を通して上へ話しはしていた。

だからといって、彼のしでかしたことがなかったことになる訳ではない。

極めて理不尽な話だが、事態の収束を望むなら、デルが事を起こす前に始末するしかなかったのだ。


 それが叶わなかったからには、どれだけ御託を並べたところで聞き入れてはもらえない。

穿った見方をするならば、デルに代理で参加表明させ、当人は怖じ気づいて逃げたと捉えられることさえ有り得る。

そうなれば、ラモンの築き上げてきたこれまでの信頼は、失墜してしまうだろう。


 それだけに、彼は自分から行動を起こすことをしなかった。まずは静観し、事の成り行きを見守る。

動きがあればそれに乗じ、なければ最後まで動じない。それだけに徹するつもりでいた。


 トレーニングを軽めに切り上げたのも、他の殺し屋からの急襲を考えてのことだった。

本来なら仕事のない期間、ラモンは肉体に鈍りが出ないよう厳しく追い込みを掛けている。

それをしないのは、僅かな肉体の傷みが致命傷になる可能性を考慮しているからだ。


 どう転ぶかは未だ不明だが、参加した殺し屋たちは皆一筋縄では行かない者ばかりのようだ。彼もまた万全の体勢を作り上げておかねばならない。

ラモンはタオルを机の上へ放ると、その隣に置かれていた茶封筒から写真を取り出した。


 それは、恩赦の参加者意思を示す、殺しの写真であった。ラモンはそれを改めて眺め、誰の仕業かを推測する。


 一枚目の写真は、脛椎を折られ、胸に穴を穿たれた男の写真である。

直接の死因は首を折られたことだろうが、不自然に空いた胸の穴が銃創でないことは、ラモンの目にはハッキリしている。


 二枚目の写真は、死因の特定できない女性の死体の写真だった。

恩赦への参加意思を表明しなければならない特性上、誰が殺したか判別出来ないこれはあり得ない写真と言えた。


 三枚目、顔を真っ青にして、喉を掻きむしって死んだ男の写真。

何かしらの原因で、呼吸困難に陥っただろうことは推測できる。体に傷のないことから、ラモンは毒物の使用を疑った。


 四枚目は、胸部を爆破され、無惨にも内臓を飛び散らせている青年の死体。

組織には細分化されたいくつもの部署があり、その中に爆発物製造班も存在する。この写真は、その関係者が参戦した可能性を示唆している。


 五枚目は、遠間から望遠レンズで撮影された写真である。標的はこめかみを撃ち抜かれて息絶えていた。

ラモンの観察眼は、その銃創がライフル弾二発を正確に撃ち込んだ傷と看破した。そんなことが出来る狙撃手は、組織でも数少ない。


 六枚目はデルがラモンを騙った写真、そして最後の七枚目は、耳と鼻を削がれ、眼を潰された男の写真だった。

ラモンはその写真だけじっくりと眺めることをせず、さっと茶封筒の中へしまった。


 殺す手段だけでなく、誰を標的としたかまで考慮に入れて、ラモンは推理する。

これだけのヒントを与えられれば、誰がどのように殺したかは大まかに理解できる。



(そして十中八九、一番最初に動くのはあいつだろう)



ラモンがそう考えた時、タイミングを同じくするかのように、傍らのスマホが着信を報せた。


 スマホの画面に表示された番号は、組織の連絡員、鯉衣(こいぎぬ)のものだった。以前、ラモンを食堂に呼び出し、写真を渡した男が鯉衣である。

ラモンはスマホを取ると、画面に指で触れて通話に移行する。



「もしもし、俺だ。どうした」



 しかし、画面の向こうからは一向に返事がない。代わりに、低く擦りあげるような笑い声が聞こえて来た。



『……クククッ……ラモン……分かるか、俺だよ……』



 電話越しに聞こえて来たのは、鯉衣の声ではなかった。



「……その声。トゥーンか」


『あぁ、そうだ』



 それは、やけに耳に残る、ざらついた不快な笑い声だった。



「鯉衣はどうした?」


『野暮なことを聞くなよ。俺が電話に出たってことは、予測くらいつくだろ?』



 このスマホは、ラモンが組織と連絡を取るための数少ないガジェットだ。

それが他人に奪われているということは、鯉衣はすでに的にされている可能性が高い。



「やはり一番最初に動いたのは、あんただったか。気狂いトゥーンが、俺に何の用だ?」


『惚けるにしちゃセンスがないな。用なんざ「ロマネスクの恩赦」に決まってるだろ?』


『今からそっちへ向かう。首洗って待っとくんだな』



 そうして電話の相手、トゥーンは通話を切った。断る間も与えない、一方的な会話劇である。

殺す対象へ向けて今から向かうと宣言する殺し屋を、ラモンはトゥーン以外に知らなかった。

大胆すぎるその予告は、過剰な自信の顕れなのだろうか。



「来ると分かってるなら、準備してやらないとな……」



ラモンはコキコキと首を鳴らすと、ひとまずシャワーを浴びるため、浴室へ向かうことに決めた。




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 三十分後、ラモンの潜伏先のアジトの前に、一人の少女が立っていた。



「……」



 少女はアジトの外観を一通り見回すと、唇を曲げてニヤリと不敵に笑う。

黒いフリルの山ほどついた、仰々しいドレスを着た少女だった。


 ロリータファッション、というのだろうか。派手さばかりが極まって、実用性に乏しい服装である。

その髪の毛は輝かんばかりのブロンドで、縦に巻かれた豊かな毛髪が彼女の容姿を彩っている。


 服の隙間から覗く素肌は病人のように白く、精気が全く感じられない。切れ長の瞳は、湖面のような冷たいブルーだった。


 ほっそりとした痩せぎすの肢体には、十分な栄養が行き届いているようには到底見えない。

それなのに瞳だけは、異常なまでに強い光を宿している。



「車はどうしますか」



 彼女が乗り付けた車の運転席から、別の男が声を掛けた。



「帰りにはまた呼び出す。それまで適当に流してろ」



 少女は伝法な口調で男へ述べて、足早にラモンの邸宅へと向かう。

その声は彼女の見た目に反して、野太く低い、男の声そのものだった。

運転手の男は、彼女と関わり合いになるものかとばかりに、早々に車を発進させる。

彼女……いや、彼こそがラモンへ電話した張本人、トゥーンと呼ばれる殺し屋であった。


トゥーンは、何一つ臆するものなどないかのように玄関を開け放った。罠や仕掛けへの疑いは、端から捨ててかかっているようだ。


 玄関に、鍵はかかっていなかった。殺し屋を迎え入れようとする側も、躊躇いなく足を踏み入る側も、どちらも正気の沙汰ではない。

玄関からは短い廊下が伸び、三つの部屋へ続いている。一つはシャワー室、一つは居間、一つは物置への通路である。


 彼はその中から、居間に通じる戸のドアノブを掴んだ。そこを選んだのは、ただの順番である。

元よりしらみ潰しに探すつもりで、一番広い居間から先に選んだだけのことだ。


 しかしどうやらそれは、彼にとって三分の一の外れを、引いてしまったようだった。

潜む殺し屋は、居間の入り口のすぐ側にいた。

部屋へ入った際に死角となるドアの陰。そこへ置かれたチェストの上に立ち、ラモンは彼を待ち構えていた。


 トゥーンは部屋へ足を入れて、三歩でその気配に気づく。だがラモンはすでに銃を構え、発砲の体勢へと移っていた。

一発、二発。引き金はきっちり二度引かれ、振り向き様のトゥーンの額へ銃弾が撃ち込まれる。


 一発目の弾丸が肉を弾き、二発目の弾丸が血を飛ばし、トゥーンはあっけなく床へ倒れた。だがラモンは、警戒の姿勢を解かない。

銃を構えたままチェストから飛び降り、ゆっくりと彼の亡骸へ近づいていく。


 トゥーンは、居間のほぼ中央で横向きに倒れている。ラモンはその遺体へ向けて、念押しの一発を撃ち込もうとした。

しかしその引き金が引かれる直前、死んだと思われていたトゥーンの遺体が、不意に動き出していた。


 トゥーンは横臥した体勢から、近くにあった黒い机を蹴り飛ばした。机には圧縮木材が使われており、重さ70㎏は下らない代物である。

その重たい机が、彼の細足から繰り出された蹴りで、軽々と吹き飛ばされた。


 ラモンは銃を下ろすと横に飛び、すんでのところで机を回避した。

ラモンの背後のチェストにぶつかり、机は重々しい破壊音を立てる。

しかし、ラモンが回避したのと同じ方向に、トゥーンも跳んでいた。


 机を蹴り飛ばし、起き上がってラモンの体を追う。その間、わずか数秒の出来事である。

彼もまた、ラモンに劣ることのない反射神経を有していることになる。



「チッチッ、甘ぇよラモン。こいつぁ没収だ」



トゥーンはラモンが下ろしていた銃を握り、彼の手からむしり取った。



「……チッ」



 ラモンは舌打ちすると、トゥーンから大きく距離を取った。

トゥーンは、ラモンの手の届かない居間の隅へ銃を放り、ふふんと鼻で笑った。



「そうカリカリすんな。俺は話をしにきただけなんだからよ」



 そう語るトゥーンの声は、どこか愉しげなものを含ませているように思えた。



「おっと、この声のこたぁ気にしねぇでやってくれ。今日は声帯のクスリ飲んでねぇから、声は男のままなんだ」



 トゥーンは、嗄れた中年男の声でそう言った。



「声よりも、ドタマぶち抜かれて生きてるカラクリを教えてほしいもんだな」



 ラモンはゆっくりと、彼に与えた傷を観察する。最初にラモンが撃った傷口は、二発とも弾が貫通せずに留まっていた。

額がえぐれて流血してはいるが、致命傷には至っていないようだ。



「手術でハチに鉄板埋め込んでんだ。その程度の安物の銃じゃ、俺の頭は通さねぇよ」



 トゥーンは傷口を指でほじり、ぐりぐりとかき回した。出血は酷くなり、傷口は余計に損壊して荒れたが、全く気にしていないようだ。



「それより、俺はお前に聞きたいことがあったんだ」



一定の距離を保ち、ラモンはトゥーンの正面で足を止めた。



「恩赦の参加表明の死体、ありゃお前が殺ったヤツじゃねぇな?」


「そうだ。よく分かったな」


「お前の仕事なら、ナイフの断面がもっと綺麗だ。自分が殺った訳でもねぇ殺しで、なぜお前が動いてる?」


「あれは俺の舎弟分のやらかしだ。責任の一端は俺にもある」


「なるほどな……要するに他人のケツ拭いかよ」



トゥーンはつまらなそうな顔をして、天井を仰いだ。



「恩がある相手でもあるまいに、マジメなこったなぁ?」


「傍観者に徹して殺されるのは真っ平だからな。だが、お前はそうじゃないんだろう?トゥーン」



トゥーンはそれを聞いて、そのおもてに悪魔的な笑みを浮かべた。



「あぁ、もちろんさ。俺ァお前が恩赦に名乗りを上げてくれて、感謝してるんだぜ?」


「他の有象無象の殺し屋なんぞ眼中にねぇが、フォークロア=ラモンが相手なら話は別だ」


「だから他に獲られる前に、俺がお前との戦いに一番に名乗り出たってワケよ」



 トゥーンは唇の端を吊り上げて、ニヤリと笑った。



「だろうな。でなけりゃ、何の警戒もせずこんな意味の分からん指令に、首突っ込んだりしないだろう」



 ラモンは皮肉めいた口調で、トゥーンを非難してみせた。しかしトゥーンはそれを意に介する様子もない。


 ラモンが渡された恩赦の死体写真、その一番最初の写真がトゥーンのものだった。

無惨にも脛椎がへし折られ、胸に数多の穴を穿たれた写真である。


 鯉衣が言うには、写真は参加意思を表明した順に並んでいたという。

好戦的なトゥーンなら、真っ先にこの戦いへ参加するのも当然と言えた。

恐るべきはその殺しの技が、全て素手を駆使して行われたということだ。


 武器のひとつすら携行を拒み、その細いあでやかな体躯とそれに見合わぬ怪力で、標的を殺め続けた男。

その金剛力と人形のような容姿、そして獲物を玩んでから殺す性質から、彼は≪金剛の玩具ダイヤモンド=トゥーン≫と呼ばれていた。



「ずっと、お前みたいな男と命のやり取りをしたかったんだよ」


「頭のてっぺんから爪先まで、痺れるくらい気持ちいいヤツをな」


「いつか吹っ掛けてやろうと思ってたが、ロマネスクの恩赦がいいきっかけになってくれたのさぁ」


「つまらん拳銃なんぞ捨てて、たまの取り合いと洒落こもうや、なぁラモン」



 トゥーンはラモンへ向けて、細く白く長い中指を立てて見せる。

その指に、その腕に、その細かった首に、みるみるうちに太い血管が居並んだ。



「いいだろう。やるなら『とことんやる』、それが俺の流儀だ」



 ラモンはそれだけ告げると、静かに戦闘の構えを取る。

それを受けて、トゥーンも獲物に襲いかかる猛獣がごとき前傾姿勢となった。


 そして二人の戦いは、瞬時に開幕した。


トゥーンは長いスカートの裾をはためかせ、ラモンの間合いへと入る。ラモンは右手にナイフを携えると、それをトゥーンの頸動脈めがけて走らせた。



「フハッ!!」



 トゥーンは上体を反らしてそれをかわすと、切り込みに来たナイフを腕ごと掴もうとした。

ラモンは掴みに来たトゥーンの手を半回転して避け、勢いを殺さずに反対の拳で裏拳を放つ。

それはトゥーンの鼻っ柱をかすめたが、彼は鼻血の一筋すら溢しはしなかった。



「いーい連撃だ、さすがのことはある。だが、その程度じゃあ俺は殺せねぇぜ?」



 そしてトゥーンは、軽やかな様子でくるりと回転し、その左足から回し蹴りを放った。

ただでさえ予備動作が大きく、スカートが邪魔になる回し蹴りが、ラモンのような手練れに当たるはずはない。

ただしそれは、一般的な使い手の回し蹴りならば、である。


 トゥーンの回し蹴りは、さながら鋭い竜巻のように、切れ目なくラモンを襲う。

一度地面から離れた蹴りが着地するや、今度はそちらを軸足として反対の蹴りが放たれるのである。


 ラモンは落ち着いてそれをかわし、反撃の機会を窺った。モーションの大きい蹴り技は、動きのどこかに必ず隙が出来る。

しかしトゥーンの蹴りには、一分の隙さえ見当たらない。あまりに早い連続蹴りのため、ナイフで蹴り足を切りつけることも叶わないのである。



(それなら、これはどうだ?)



 ラモンは変幻自在の蹴りの軌道を見切り、その軌道の途中へナイフの刃を向けた。

こちらから切りかかるのではなく、ナイフで蹴りを受けてトゥーンの自滅を誘ったのだ。



「バカが!!」



しかしトゥーンの蹴りは、ラモンのナイフの寸前でかくんと折れて曲がっていた。回し蹴りの途中で膝を畳み、軌道をナイフから逸らしたのである。


代わりに放たれた反対の足からの蹴りは、回し蹴りではなくラモンの胴体を狙った横蹴りであった。

ナイフの罠をかいくぐり、トゥーンの足はラモンの腹部を捉える。

かろうじて左腕でそれをガードしたものの、蹴りの勢いまでは殺せず、ラモンは壁際まで飛ばされてしまった。


 トゥーンはラモンが背中に壁をついたと確認すると、素早く間合いを詰めて自らの頭上高く右足を上げた。

それは先ほどまでの回し蹴りと違い、一見するとゆったりした動作である。ラモンを仕留められるような動きには、到底見えなかった。


 長いスカートがひらついて、数瞬トゥーンの視界は完全に塞がれる。その隙に避けることも出来たが、ラモンはそれよりも、トゥーンの脚の動脈を切りつけるつもりでナイフをかざした。

その顔が予想外の痛みに歪んだのは、蹴りが放たれるにはまだ遠すぎる間合いからだった。



「……!!」



 ラモンのナイフを持った側の手に、固いものが高速でぶつかる感触があった。

取り落としそうになったナイフを強く握り直すと、手の甲にズキリとした鋭い痛みが走る。

それを見計らったかのように、ラモンの上空からトゥーンの踵が舞い降りて来た。



「チィッ!」



ラモンはナイフを蹴りの軌道に置きつつ、横っ飛びに大きく跳んだ。

トゥーンの足は途中で軌道を変え、ラモンのナイフの横をすり抜けて行く。



「惜しいねぇ。ナイフを落とすかと思ったが、そこまで甘くはなかったか」


「ナイフが無ければ、脳天カチ割って俺の勝ちだったんだがな」



 トゥーンは踵落としの勢いそのままに、180度開脚した足を地面にペタリとついていた。

それはまるで、バレエのように優雅な舞いの途中であるかのように見えた。

ラモンはその隙に壁際から逃れると、距離を置いて自分への攻撃を冷静に分析した。



「……指弾しだん、か。弾は俺が撃った銃弾か?」


「ご名答!ここに残ってたのをほじくり出してな」



 トゥーンは立ち上がりながら、出会い頭に撃たれた銃創をトントンと指で叩いた。

指弾とは、弾を指で弾いて敵を攻撃する、中国拳法の技の一種である。トゥーンはそれを使用し、弾丸を指で弾いて飛ばしていたのだ。


本来は不意討ちや目眩ましに使われる技だが、達人が行うとそのものが攻撃として成立するほどの威力となる。

ラモンの右手には、ガス銃で撃たれたかのような、骨まで響く痛みが残っている。人体から生成される力で撃ったとは、到底思えない威力だった。


 彼の異常性は、自らの頭に残っていた弾丸を取り出し、指弾の弾として使用したことだ。

先ほどの傷をえぐる動作は、ただのパフォーマンスではなかったのである。


 加えてトゥーンは、高く上げたスカートで利き手を巧妙に隠し、弾の放たれる寸前までラモンに悟らせなかった。

あの一瞬の邂逅で見せるには、あまりにも狡猾な策だったのだ。


 だがそれ以上に、ラモンには気にかかることがひとつあった。その情報を確信へと変えるため、ラモンはトゥーンへ揺さぶりをかける。



「……ステロマイナーか。えらくマニアックな薬を使ってるんだな」


「……!」



トゥーンはぴくりと体を反応させ、ラモンへ向けて身構えた。



「図星みたいだな。感情はもう少し抑えた方がいいぞ」


「……何故分かった?」


「何故も何もない。お前を見ていれば全ては一目瞭然だ」



ラモンは感情を宿さない瞳で、トゥーンの急所を指摘してゆく。



「指弾の弾速、異常な筋力、屈強な顔面。全てがステロマイナー使用者に通じる特徴だ」


「迂闊に手の内を見せすぎたな、トゥーン」



 ステロマイナー。それはステロイド系の薬物に属する、筋増強剤の一種である。

通常のステロイドは男性ホルモンに近似した合成薬物であり、筋量を増大させる効果がある。


 それに対してステロマイナーは、筋繊維の『質』そのものを上昇させるための薬品である。

この薬を使うと、筋量ではなく筋繊維一本辺りの耐用強度が増していく。


 通常の筋繊維を木綿糸とするなら、ステロマイナー服用後の筋繊維はピアノ線ほどの強度になると言われている。同じ見た目でも、遥かに強靭な筋肉を有することが出来るということだ。

トゥーンを参考にした場合、筋力はその体格に比して、成人男性の平均の倍ほどとなっている。


 これによりどのような効果が望めるかといえば、「擬態」である。女子供のような弱々しい肉体に、男性並みの筋力を搭載させることが出来るのだ。

古くは女性アスリートが、見た目に変化を及ぼさずに筋力アップさせる不正のため使っていた薬物である。


 また、全身の筋肉の剛性がまんべんなく上がるため、顔筋や心筋等、鍛える必要のない箇所まで強化される。鼻血が出にくいのも、それに端を発しているのである。



「俺が迂闊だと?バカを言うな」


「たったあれだけの接触で、ドーピングの種類まで当てられるお前が異常なんだよ」



 トゥーンはラモンに対する率直な感想を口にした。それは彼に限らず、誰が対峙してもそう思ったことだろう。

ラモンの卓越した観察眼は、常人のそれを遥かに凌駕していると言えた。



「だが、クスリを当てただけでお前が有利になった訳じゃねぇ。どうするね、都市伝説さんよ?」


「いいや。この戦いは俺の勝ちだ」


「……なんだと?」



トゥーンがにわかに色めき立つ。こうまで露骨な勝利宣言をされては、それも致し方ないだろう。



「ステロマイナーには致命的な弱点がある。そこを突けば、お前を殺すためにナイフの一本すら必要はない」



 そう言うとラモンは、本当にナイフを床へ投げ捨ててしまった。



「……油断させようとしてんなら、ムダだから止めとけよ?」


「いいや、これは本当に必要ないのさ。ダイヤモンド=トゥーン、最後はお前の望む通り、素手で決着をつけよう」


「……お前やっぱ最ッ高だぜ、ラモン!!」



 トゥーンは心底から、嬉しそうに笑った。

それは見た目の年齢からすると、あまりに邪悪さの過ぎる笑みであった。



「ハハァッ!!」



 トゥーンは、獰猛な肉食獣のようにラモンを襲う。狙うは彼の命一つのみである。

彼の首に手をかけ、力をこめるだけで人生は終わりを告げる。その瞬間を想像するだけで、彼の背筋は激しく粟立った。


 ラモンはそれを、あろうことかノーガードで迎え撃った。先ほどまでと違い、彼は戦闘の構えすら取らない。

手を体の横にだらりと伸ばし、色のないガラスのような瞳でトゥーンを見ていた。



「バカめ!!」



 トゥーンは猛然と、彼の首を掴みに行った。顎を引くことすらなく、まるで狙ってくださいと言わんばかりである。

それがラモンの罠であることは、充分に考えられた。


 だが、自分の早さならラモンのどんな反応をも凌駕出来る。

そう信じて、彼は敢えて一撃必殺の首折りを狙いに行った。



「獲ったァッ!!」



 その細い指が、ラモンの首に絡みついていた。勢いのあまり、一瞬ラモンの体が宙へと浮く。トゥーンの強靭な握力は、軽く握っただけでラモンの首筋をへこませている。

あとは力をこめさえすれば、彼の生涯は無へと帰す。だがラモンも、ただ黙ってされるがままになっている訳ではなかった。



「ハッ!!」



 ラモンは彼の右手が己の首を掴んだ瞬間、伸ばされた肘を両手で包むようにして強く叩いた。

自身の体を的にしたカウンターにしては、意味を感じさせない攻撃である。しかしその効果は、如実にトゥーンの体へ表れていた。


 バツンという、太いゴムの千切れるような音が、二人の耳に入った。そして次の瞬間、トゥーンの右手からするりと力が抜ける。



「ぬっ……!?」



 彼の意思に反して、右腕はどれだけ力をこめようとしても、もう動かなかった。



「それがステロマイナーの弱点だ、トゥーン」


「その薬は筋肉の剛性を上げる代わりに、柔軟性を極端に奪う」


「そんな脆い筋肉は、伸びきった状態で横からの衝撃を受けるとすぐ断裂するんだ」


「常に弦の張り詰めたバイオリンを演奏してるようなもんだ」



 実際にこの薬が禁止されたのも、競技会で肉離れや筋断裂を起こす選手が後を絶たなかったからという背景がある。

人体が強度を犠牲にして柔軟性を選択したのには、歴とした理由があるのだ。


 しかし、その特性を知っていてなお、意図的にその傷状を発生させるのが困難であることは想像に難くない。

それはトゥーンのものとはまた違う、ラモンの異常性と言えた。



「チィッ!!」



トゥーンは動かない右腕を捨て、再びラモンへ蹴りかかって行った。 しかし、片腕を欠いたバランスで放たれた蹴りは、既に先ほどの威力を失っていた。


 ラモンはそれを簡単にかわすと、ガードの出来ないトゥーンの右半身を狙い、拳を構えた。

その時ラモンの脳裏では、白い壁に貼りつけた番号とトゥーンの体が、明確に重なって見えた。


 頸動脈、咽頭、鎖骨、肋間神経、鳩尾、横隔膜、腎臓。ひとつの急所を打つのに一秒と掛からない早業である。

恐らくはトゥーンの眼に、ラモンの拳は写らなかっただろう。

それほどの速度でもって、ラモンはトゥーンを殴打していた。



「くぁっ……!!」



 トゥーンがよろけ、膝をついたのを見届けて、ラモンは反対の左半身へ体を向ける。

そして左腕を機能しないようにへし折ってから、両足を踏みつけにして機動力を削いだ。

そしてトゥーンの背後へ回ると、彼がどう足掻いても逃げられないよう、その首をがっちりとホールドした。



「このまま、首を折らせてもらう。何か言い残したことはあるか?」


「……」



トゥーンは、何も言わなかった。いかに彼の怪力といえど、両手足を封じられている状態で出来ることは皆無だった。



「ないなら、俺から二、三質問させてもらおうか」


「なんだ。負け犬を余計にいたぶろうってか?」



 トゥーンは毒づいたが、ラモンはそれを無視して言葉を続けた。



「お前、体の痛みを感じてないな?」


「……!」


「筋断裂を起こした時、痛みに対する反応が乏しすぎた。冷や汗さえかかないなんて、有り得ない」



 ラモンは淡々と、自分の感じたものをこれから殺そうとする相手へ伝えた。



「それに急所を打った時も、どちらかというと体の反応で崩れた様子だったしな」


「だから、どうした?」


「恐らくは、薬の副作用を抑えるために手術してるな」


「……」


「ステロイド系の薬は、腎に多大な負担をかける。そのやたらと白い肌も、黄疸を隠すためのカムフラージュってとこだろう」



 トゥーンはため息をひとつつくと、ラモンの推理を肯定した。不思議なことにその声音には、微かに希望の色が含まれているようにラモンには思えた。



「あーあー、分かったよ、白状するよ。俺の体はブロック手術で、痛みを感じる部位を消してあんだ」


「こいつがなけりゃ、俺の体はもう立って歩くこともままならん。余命も保ってあと一年てとこだろうよ」



 ブロック手術とは、痛みを感じる神経部位を固めて、文字通り痛覚をブロックする手術である。

そしてその施術は本来、末期がん等痛みを取り除くのが困難な患者へ施されることが多い。

トゥーンの場合、薬物で傷む体を無理やり動かすために、そのような処置をさせたのだろう。



「銃を弾いた頭の鉄板も、その手術ついでに入れさせたのよ。合理的だろ?」


「なぜそんな体を押してまで、ロマネスクの恩赦に挑むんだ。余命がなければ、組織を抜けようと同じことだろうに」


「お前にゃ分からんよ。世の中には生きるためでなく、死ぬために事に臨む人間もいるってことだ」



 そしてトゥーンはラモンへ、末期の言葉を告げようと口を開いた。



「なぁ、おい、ラモンよぉ。お前は何のために、人殺しなんて割の悪いことやってんだ?」


「金や快楽で人を殺す奴は腐るほど見てきた。組織への忠誠心もあるだろう、生きるため仕方なく殺す奴もいる」


「だが、俺は死ぬために今日まで殺し屋をやってきたんだ。それがようやく、叶う時がきた」


「地獄への土産に教えろよ。フォークロア=ラモンの殺しの哲学ってヤツをよ?」



ラモンは数秒の沈黙の後、トゥーンの質問へこう答えた。



「……知るため、だな」


「知るため?何をだ?」


「そこまで教える必要はない。後はあっちで、答え合わせするのを待っておくんだな」


「ハハハ……最後まで一匹狼気取りたぁ、お前つくづく大物だねぇ」



 トゥーンは乾いた笑いで応じると、全身から緩やかに力を抜いた。



「俺から言いたいことは以上だ。後は好きに殺ってくんな」


「あぁ。痛みもなく送ってやる」



 トゥーンは目を瞑り、その時に備えた。その姿はまるで、出来のいい人形が天を仰ぎ、祈りを捧げているようだった。



「……あぁ、マリア……ソニヤ……やっと、俺もそっちへ逝ける……」



そんな呟きも、届いてか届かずか。ラモンは一切の躊躇を見せず、首にかけた腕へ力を込めた。



「……ッ」



 一瞬、ビクンと全身を痙攣させて、トゥーンの体が強張る。ラモンはそれを確認してから、テコの原理を使って彼の首を強く挫いた。

その強張りが解けた後、再び彼の体が動くことは、なかったのである。




────

  ─────

     ─────



その昔、東欧のとある独裁国家で、若き将校が他国へ亡命しようとした。


しかし亡命は失敗し、将校は最愛の娘と妻を殺され、自らも瀕死となった。


死の寸前、彼は最期を確認されず、死体置き場へ放置された。


生き残った男は復讐を誓う。性別を変え、薬漬けになり、独裁者へと近寄った。


そして見事復讐を果たした後、逃亡する彼をとある組織の勧誘員スカウトマンが拾い上げた。


その後、極東の島国で殺し屋として働く彼の過去を、もはや知る者は誰一人としていない。


少女の装いは、幼くして死んだ娘への鎮魂か。


武器を持たぬは、自らの命を危機へ曝したかったがためか。


それを確認する術は、何一つとして存在しない。


ただひとつ言えること。それは哀れな人形が都市伝説に食われ、彼の宿願が果たされた。


これはそれだけの話だった、ということである。




≪続く≫

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