第30話 この、死を前にしても

「詩姉。リンゴ。じゃあ、行くぞ」


 帯磁の万象律・操蛇

 

 しかし、何故だ。


 万象律が発動しない。 


 磁力が操れないのだ。


 パイプも、コードも、ありとあらゆるガラクタが、微動だにしない。それどころか、近くに在ったパイプが俺たち目掛けて飛んで来た。屈んで躱す。


 俺の万象律じゃない。


 誰か、別人の。 


 それも、俺より格上の律術士。

 

 屋上の扉が開く。


「あーちゃん。やっぱり、ここに居ましたか」


 現れたのは春譜だった。


「……お前さん。もう起きて来たのかよ」

「律術士ですから」

「どうして、ここが?」

「橋を上げるように命令したのは、ボクですから」

「……なるほど。誘い込まれたのか」

「そうなりますね。橋が上がり、最短経路を潰された。しかし、少女は足を撃たれ、時間が無い。そんなあーちゃんの目には、このビルが留まったはずです。律術士であれば、向こう岸に渡ることくらい簡単な事ですから。ボクがあーちゃんなら、そうします」


 彼の推理に一つ間違いが有るとすれば、俺にとって向こう岸に渡るのは簡単ではないという事だ。訂正はしないけど。


「……嫌になるよ」

「ボクもです。使えない部下ばかりで、結局、最後は僕自身がどうにかしないといけないみたいですね」

「そいつは残念だったな」

「あーちゃんこそ。ボクをきちんと殺しておけば良かったのに」

「そんなこと、できるはずないよ」


 詩が言った。


「詩さんは、優しいですね。その優しさのせいで、ボクの代わりに、その少女が犠牲になるんですね」


 春譜は笑う。


「犠牲になんてさせない」


 詩が言った。


 俺の背後で、彼女がそっとリンゴを下ろし、柵に寄り掛かるように座らせた。


「ごめんね。リンゴ。絶対助けるから」

「春譜。いい加減、こんな事は止めにしろよ」


 舌打ちが返って来た。


「その言い方、嫌いです」


 それが開戦の合図だった。


 俺が駆け出す。


 春譜が拳銃を抜いた。


 氷結の万象律 


 銃口を凍らせる。


 すぐさま春譜は拳銃を捨てた。


 その時には、俺の拳が届く距離だった。


 打ち込む。


 しかし、かすりもしない。


 横薙ぎのナイフも、それを囮にした下段蹴りも、届かない。


 まるで煙でも相手にしているようだ。


 春譜は避けるような素振りは見せない。


 それにも関わらず、俺の攻撃は空を切るばかり。


 その時、俺の腹に拳打がめり込んでいた。


 その打撃は、一切、見えなかった。


 動揺する俺の顔面に、さらに拳が突き刺さる。

 

 鼻から液体が垂れた。

 

 上唇をペロリと下で舐めると、鉄の味がした。

 

 血だ。

 

 また、腹に拳が突き刺さる。

 

 次は足元に蹴り。

 

 避ける事も、受ける事も、一切できなかった。


 何故なら、どの攻撃も、一切、見えなかったから。 


 倒れる事だけは堪える。


 何かタネが有るはずだ。


 見に徹する。

 

 春譜の重心の傾き、力の入れ具合から、右拳が来ると予測。

 

 その通りに、俺の胸に向かって、彼の右拳が伸びる。

 

 その進路を、俺は広げた手の平で遮る。

 

 次の瞬間、春譜の拳が、俺の腹を捉えた。

 

 身体がくの字に曲がった。

 

 息が詰まる。

 

 何故。

 

 胸に向かって伸びた春譜の拳。

 

 それを防ごうとした。

 

 次の瞬間、腹を殴られていた。

 

 春譜が使うのは自衛隊式格闘術だ。

 

 日本拳法を基礎においたそれは、奇術の類ではない。

 

 だとしたら、万象律。

 

 しかし、どんな。

 

 こんな幻影を見せるような万象律、俺は知らない。

 

 氷結の万象律で足元を崩しにかかるが、春譜の方が、一枚上手だった。

 

 揺炎の万象律

 

 簡単に溶かされる。


 踏み込むが、俺の一撃は空を切るばかり。


 その隙を滅多打ちにされる。

 

 受ける事も、避ける事も、出来ない。

 

 これではサンドバックだ。

 

 しかし、不意に、春譜が殴るのを止めた。


「あーちゃん。もう、諦めてください。次はこれです」


 ナイフを抜いた。


 春譜の拳打にも、まるで対応できなかった。


 だから、ナイフだって避けられるはずがない。


 そして、その白刃は、ただ一撃で命だって奪う。


「いい加減、分かってるんでしょう? もう、諦めてくださいよ」


 春譜は言った。


 切っ先を、雨の滴が滑り落ちる。


 その先端は、人間の肉なんて、容赦なく突き破るだろう。


 しかし、俺は答える。


「嫌だね」


 俺はもう一度、拳を握る。


 左手を顎の前、右手をわき腹に添えて、半身に構える。


「だったら、死ねば良い!」


 春譜が、刃を振り下ろす。


 訓練を受けた人間が繰り出すとは思えないような、デタラメな一撃だった。


 それでも、やはり、避ける事も、防ぐことも出来なかったけれど。


 肩口に燃えるような激痛が走る。


 白刃が俺の肉を喰い破っていた。


 咄嗟に春譜の腕を掴み、それ以上、刃が食い込むことを防ぐ。


「……どうして、諦めないんですか⁉」


 随分と、分かり切った事を訊く。


「分からないか?」

「分かりませんねえ!」

「結局、お前さんには、大切な誰かが居なかった。身体を張ってでも助けたいと思えるような、誰かが」


 その時、詩が言った。


「証。使って良い?」

「存分に」


 俺は跳び下がる。


 詩が緋兎丸を構えた。


 刀が煙のように溶ける。


 次の瞬間、再び刃が現れた。


 百本の刃に姿を変えて。


 瞬閃の万象律


 蜘蛛の巣状に張り巡らされた刃の中心に、春譜が絡めとられた、はずだった。


 張り巡らされた刃の中心には、誰も居ない。


 春譜は刃の網を、その後方から眺めて居た。


「そんな……」


 詩が愕然と呟く。


 刃の網が消え、元の日本刀に戻る。


 しかし、


「……分かった」


 俺が呟いた。


「……そうか。……お前さん、それ、空気レンズだな?」


 水を張ったグラスに物体を入れて、上から覗くと、物体が実際よりも大きく見える。


 原因は光の屈折だ。


 水と空気。

 

 屈折率の異なる物体の境目で光は曲がる。


 小学校の理科でも習う、ありふれた現象だ。


 しかし、同様の事が、温かい空気と冷たい空気の境界でも起きる事は、あまり知られていない。


 春譜は、万象律で、空気分子の運動を制御していた。局所的に温かい空間と、冷たい空間を生み出す。そして、その境目で光は向きを変える。


 俺達は春譜の位置を錯覚していたのだ。だから、彼の攻撃は防げなかったし、俺の攻撃は当たらなかった。

 

 思えば、その布石は有った。


 俺達がマフィアから麻酔を奪った夜、春譜は平然と狙撃手の前に生身を晒していた。あの時も、春譜は万象律でこの空気レンズを造り出していたのだ。射手は標的の位置を誤認しているのだから、当たるはずが無い。


「流石です。よく分かりましたね」

「詩姉の万象律だ」


 張り巡らされた刃の網。その真っ直ぐな刃の一部だけ、歪に膨らんで見える箇所が有った。


 と言っても、決して大きな歪みでは無い。


 普段は背景に溶け込んでしまうだろう。


 真っ直ぐな刃という物差しが有ったから、その存在に気づけた。

 

 気が付けば雨は止んでいた。


「春ちゃん。もう、止めよう」


 詩が言った。


「……貴方達こそ。……いい加減、邪魔は止めてください」

「お願い。リンゴは、私達の大切な人なの」

「うるさい!」


 春譜がナイフを投げた。


 詩は、それを緋兎丸で難無く弾く。


「何故、分からないんだ⁉ 人類は次の段階に進めるのに!」

「春ちゃん……」


 その時、雲が途切れた。


 一条の光が差し込む。


 春譜が腕を、空に向かって振り上げた。


 反射的に、俺の身体が動いた。


 勘だった。


 詩姉に飛び付くと、そのまま押し倒す。


 一瞬前まで彼女が立っていた、コンクリートの地面が溶けていた。


 固いコンクリートが、まるで水飴のように溶けている。


 見上げれば、空が歪んでいた。


 巨大な空気レンズだ。


 春譜は巨大な空気レンズで、太陽光を集中させたのだ。


 虫眼鏡でも紙が燃える。


 それの巨大版だ。


「動かないで! 動いた瞬間に撃ちます!」


 春譜が叫んだ。


 彼の頭上で、空気が揺らいでいた。


 ドームも、かくや。


 空に、先ほどよりも遥かに巨大な空気レンズが、形成されようとしていた。


「空気レンズの仕組みが分かった所で、貴方達に勝ち目なんて無い。……さあ。最後のチャンスをあげましょう。今、その少女を置いて行くのなら、貴方達は殺しません。簡単な算数です。一人の命で、二人の命が助かります。どっちがお得か、馬鹿でも分かるはずです」

「ざけんな……」


 立ち上がろうとするが、意に反して、膝に地面に付いた。


 ナイフで刺された肩からは、ドクドクと血が溢れ出していた。乱発した万象律。おまけに、散々、殴られたのだ。ここら辺が、体力の限界だったらしい。


 死。


 ここで、死ぬのだろうか。


 ただ、怖かった。


 血を失った身体が震える。


 頭上の空気が揺らいでいる。


 春譜の意志一つで、光線が俺を打ち抜くだろう。


 万象律は?


 いや。


 ダメだ。


 コンクリートが一瞬で溶けるほどだ。


 しかも、頭上の空気レンズはさらに巨大。


 俺の万象律で、その光線を受け止めることは不可能だ。


 どうすれば。


 激しい心臓の鼓動が、僅かに残った理性すらも洗い流す。


 その時だった。


「大丈夫」


 詩が言った。


 膝を着く俺を、後ろから包み込むように抱いた。


 震えが止まる。


「この状況で、大丈夫、とは?」


 春譜が、皮肉を込めて笑う。


「大丈夫。お姉ちゃんが一緒に居るから」


 春譜などまるで眼中に無いように、詩が言った。


「大丈夫って……」

「うん。私が一緒に居るから」

「でも、どうやって?」

「それは証が考えてよ」

「は?」

「私は一緒にいる」

「何だよそれ……」


 思わず、脱力する。


 しかし、不思議と恐怖は無かった。


 この、死を、前にしても。


 むしろ、春譜の方が怖そうだった。


 彼は何を恐れているのか。


 憎々しそうに俺達を睨む。


「お別れは済みましたか?」

「してねえよ」

「ずっと一緒だから」


 そう言えば、そんな約束をしたな。


「そうですか」


 春譜が腕を振り上げた。


「この斬撃は、光の速さです。文字通り。――光剣こうけんの万象律!」


 空気レンズが完成する。


 瞬間、視界が白く染まった。

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