第29話 灰色の河を前にして

俺達は身を寄せ合うように、路地裏に隠れていた。


そっと、顔だけ出して様子を伺う。


雨に霞んで、橋が見えた。全長百メートル程か。


あの橋を越えれば、東京市街だ。


咄嗟に顔を引っ込める。


 雨に濡れる事も厭わず、行きかう人影が有った。情報本部の自衛官たちだ。土砂降りの雨に人の消えた青色地区で、彼らは本当に亡霊のようだった。


 青色地区の外では、まさか春譜たちも銃撃戦を繰り広げる訳にはいかない。だからこそ、俺達は東京市街を目指している。もちろん、向こうだってそのくらいは分かっているはずだ。


 俺達はこの廃ビルから、動けないでいた。


「証。リンゴが」


 彼女の息は荒く、唇は青ざめ、肌は白い。


 足を撃たれて血を流し、雨に打たれて熱を失くした。


 詩に抱かれたその小さな身体は、長く持ちそうにない。


「時間が無い……」


 分かり切った事を呟く。無言では耐えられなかった。


 もう一度、路地裏から周囲を見渡す。


「ん?」


 目をこする。


 最初は、雨粒が目に入って霞んだのかと思った。


 しかし、どうも見間違いではないらしい。


 橋がせり上がる。


 まるでシーソーのように。


 一分ほどで、今まで橋だった物が、壁に変わった。


「マジかよ……」


 いわゆる、「跳ね橋」と呼ばれる類の橋だ。本来なら、船舶が行き来する時だけ、踏み切のように上がる橋だ。しかし、この運河は船なんて通らない。


「……どうして?」


 詩が呟く。


「暴動でも起きた時の為だろ」


 有事の際に、暴徒が市街地に雪崩れ込むことを防ぐつもりなのだろう。


 考えてみれば、ここは世界有数の治安の悪さを誇る青色地区だ。加えて、春譜が語った「青色地区は巨大な実験場」という事が真実で有るならば、跳ね橋ぐらい有っても不思議ではない。周辺の橋も同様に上がっているはずだ。


 本当に、嫌になる。


 一人の少女が普通に生きようとしただけなのに、どうして、こうも、次から次へと障害が立ち塞がるのか。理不尽だ。何もかも。


 連中は、リンゴが、はにかむ所を見たことが有るのか。


 獣の耳が有ったところで、彼女は一人の少女でしかない。


 ただの少女でしかないのに。


「……わたしなら、だいじょうぶ」


 俺が険しい顔をしていたからだろう。リンゴは言った。しかし、それが強がりであることは明らかだ。


 俺は考える。目の前の河を迂回するとなれば、相当な遠回りだ。おまけに、自衛官に隠れながら行かなければならない。多分、それだけの時間は無い。


「……分かった。あと少しだけ、我慢してくれ」


 廃ビルを抜け出す。しかし、橋へは向かわない。路地裏に入りこむ。それから、しばらく歩いた。そして、とあるビルに辿り着いた。


「証。ここは?」

「このビルから、向こう岸に飛び移る」

「え?」


 一瞬、詩は驚いたが、俺の目を見て、本気だと分かったらしい。すぐに頷いた。


 ビルの屋上に登る。一際、高いこのビルは、河沿いに建っていた。その屋上からは、河の向こう、整然とした東京市街が見える。


「飛ぶって、ここから?」

「ああ」


 屋上の縁に立って下を覗けば、ちょっと目が眩むくらいの高さだ。自然と背筋が伸びる。東京市街と、青色地区の間に横たわる河は、灰色に濁っていた。遮る物は無い。風は容赦なく吹き付ける。雨粒が横から顔に当たった。


「空飛ぶ万象律なんて有った?」

「ねえよ」


 ただ、幸い、ここは青色地区だ。勝手に繰り返された増改築。ビルの間には橋が架けられ、その壁面には訳の分からないコードの類が這い回っていた。ガラクタには事欠かない。


「万象律で、ガラクタの鎖を造る。それを、向こう岸のビルにまで渡す」

「それを、渡れば良いの?」

「ああ。即席のロープウェイみたいなもんだよ」


 緋兎丸の鞘を鎖に引っかけ、その両端を持てば良い。


「できるか?」

「できる」


 詩が言った。躊躇無く頷くから、訊いた俺が不安になる。


「……詩姉。要するに、俺に命を預けるって事だぞ」


 対岸まで、軽く百メートルを超える。帯磁の万象律の射程の、限界ぎりぎりだ。


 おまけに、この叩きつける雨と、吹きすさぶ風。


 ほんの少し、磁力の操作を誤れば、詩も、リンゴも、真っ逆さまに川面に叩きつけられる。この高さだ。下が水でも助からない。


「分かってる。証になら、預けられるよ」


 詩は言った。


「リンゴ。そういう訳だ。悪いけど、命を預けてもらえるか?」


 彼女が頷いた。


「……証になら」


 ああ。


 この人達を死なせるわけには、絶対にいかない。


 俺は、灰色の雨に煙る東京市街を睨みつけた。


 詩がリンゴを背負い直す。詩に回したリンゴの腕を、手首の所で縛る。彼女が手を放しても、落ちないようにするためだ。


 リンゴの頭を撫でる。


「あと少しだ。あと少しだけ、我慢してくれ」


 一瞬、詩と目が合う。


 言いたいことは、大体それで伝わった。


 大丈夫だ。


 今なら、万に一つも失敗する気がしない。


「詩姉。リンゴ。じゃあ、行くぞ」


 帯磁の万象律・操蛇

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