第23話 炎。
「証。できたよ」
リンゴはノートを持って来る。そこには、びっしりと文字が書きつけられていた。彼女が髪を切った夜から一週間、既に平仮名はマスターし、片仮名もマミムメモの行まで進んでいた。この分なら、じきに漢字に入れる。
凄まじい速度だった。
青色地区で一人ぼっちで生き延びてきたのだ。元々、馬鹿ではないのだろう。それに、学ぼうという意欲が、そこら辺のガキとは違う。
リンゴは、異形の耳を覆い隠す髪を断ち切った。そうまでして、東京市街で生きる事を決めた。その一文字、一文字に。トメ、ハネ、ハライに。彼女の覚悟が滲む。
「どう?」
リンゴは下から俺を覗き込む。
「ああ。よくできてるよ」
頭を撫でてやる。そこに、俺があげた帽子は無い。
「よくできてるけど、お前さん、こんななにびっしり書く必要はないだろ」
ノートには米粒大の文字がびっしりと詰め込まれていた。黒い部分の方が多いぐらいだ。
「だって、ノートもタダじゃないから」
「……悪いな。うちは貧乏で」
リンゴがブンブンと首を振る。
「おかねなんかなくても、証と、詩といっしょがいい」
あ、やばい。
何だろう、これ。
父性?
これが父性なの?
その時、玄関のドアをドンドンと叩く音がした。
「お客さん⁉」
詩が駆けていく。一分後、トボトボと帰って来た。
「郵便局の人だった。これ」
そう言って、封筒を差し出す。
「何だよ、これ?」
封を開ける。
「……これ、通知書だ」
「何の?」
「リンゴの事、施設で受け入れてくれるらしい」
「本当⁉」
「ああ」
正直、ダメで元々だった。青色地区をうろつく孤児の数に対して、施設の容量は余りに少なかった。保護活動はしています、と言い訳するぐらいにしか役に立たない慈善事業だ。
来年、詩が十八歳で成人する。彼女を後見人にして、リンゴを学校に入れるつもりだった。
しかし、施設が受け入れてくれるなら、その方が良い。飯もわざわざ栄養バランスを考えたものが出てくるし、学校も付属している。成績次第では、大学進学も可能だ。
「リンゴ。良かったな」
彼女の頭をわしわしと撫でる。しかし、リンゴは複雑そうな表情をしていた。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
リンゴは笑った。
「詩。証。ありがとう」
それからの一週間は、慌ただしく過ぎた。
リンゴが泣き出したのは、彼女が保護施設へ発つ前夜だった。
「ねえ。リンゴ。大丈夫。これっきりで、会えなくなる訳じゃないから」
詩がそう言って宥めるが、リンゴは泣きじゃくった。
青色地区で、リンゴは一人ぼっちだった。だから、別れる悲しみには強いかというと、そうではないらしい。そもそも、ずっと一人だったなら、別れも無い。
恐らく、彼女にとって、これが初めて経験する別れなのかもしれない。
この夜、俺達は三人で寝た。詩のベッド、リンゴを中心に「川」の字に寝そべる。リンゴが俺達から離れようとしないので、仕方なくだった。かなり狭い。
時計の短針は、既に頂点を回っていた。
リンゴは泣き疲れて、すやすやと寝息を立てていた。
「この歳になって、弟と一緒に寝る事になるとは思わなかった」
詩が小声で言う。
「俺もだよ」
「変な事、しないでよ」
詩が俺を睨む。
「しねえよ!」
「しっ。リンゴ、起きちゃう」
詩は、リンゴの額に掛かった髪を、指でそっと梳く。
「ねえ、証」
「何?」
「リンゴ、大丈夫かな?」
「大丈夫だろ」
「無責任」
詩が俺をなじる。
「実際、リンゴは賢い」
この数日で、彼女は予定通り片仮名を終え、漢字も幾つか覚えた。足し算と引き算も理解していった。掛け算を教えられなかったのは心残りだけど。
「多分、詩姉なんか問題にならないくらい、頭良いぞ」
そんな俺の嫌味に、詩は「そうだね」と答えた。
怒るかと思ったが、拍子抜けする。
「詩姉?」
詩は、しみじみと囁くように言った。
「ほんとに、そう。リンゴは賢くて、可愛くて、きっと運動もできるから、みんなに好きになって貰えるよ」
それは眠るリンゴに言っているようで、事実、詩自身に言い聞かせてるようにも聞こえた。まるで祈りのように。
「そうだな」
詩の気持ちは、分からなくもない。
リンゴならこの先も大丈夫だろうと確信するぐらいに、彼女は賢く、素直だ。
それなのに、不安は拭えない。
リンゴは良い子だ。
でも、大丈夫なのか。
疑問と確信。
矛盾した二つの思考が、脳内でずっと繰り返されていた。こんな感覚は初めてだ。俺は肘をついて頭を支えつつ、リンゴの横顔を覗き込む。今はただ、穏やかに寝息を立てる彼女に、幸あれ、と願うばかり。
「あ! 今、いやらしい目で見た」
「見てねえよ!」
明けて、翌日。
別れの朝。
しかし、昨日までとは打って変わって、リンゴは一切、泣き言など言わなかった。今もキッチンで、朝食のサラダの盛り付けを手伝ってくれている。
「……お前さん、大丈夫か?」
彼女が余りにも平然としてたので、俺の方から訊いてしまった。
「うん。へいき」
リンゴは言った。
「きっと、だいじょうぶ。また、会えるよね?」
「ああ。もちろんだよ」
「それなら、だいじょうぶ」
彼女なりに覚悟を決めたのだろう。ただ、余りの変化に、俺の方が驚いてしまう。子供の成長って、これほど急激だっただろうか。覚えていない。
やがて、扉を叩く音がした。
リンゴは俺と詩を交互に見てから、静かに頷いた。
「ありがとう」
詩は微笑んで、俺は頷いて答える。
事務所の下に、小型の白いバンが停まっていた。リンゴはこちらを振り向きながら、それに乗り込む。俺と詩は並んで、彼女を見送った。バンが小さくなっていく。そして、右折する。ついに見えなくなった。
セミの声が降る。俺と詩は、何となく事務所に戻る気もしなくて、バンが走って行った、ひび割れた道路を眺めて居た。
「上から見送る!」
その時、詩が言った。そして、走り出す。彼女はそのまま、事務所ビルの階段を駆け上がって行ってしまった。
確かに。事務所の屋上からなら、リンゴの乗るバンがみえるかもしれない。俺も彼女の後を追う。屋上に辿り着き、息を整えながら辺りを見る。詩は貯水タンクの上に立っていた。
ただ、様子がおかしい。詩は茫然と、一点を見つめている。俺も貯水タンクに登る。
「詩姉。どうしたんだよ?」
彼女の視線のその先、リンゴの乗ったバンがあった。
そのバンが、轟々と真っ赤な炎を噴きだしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます