第22話 君が髪を切る時
青色地区を出たところで、春譜とは別れた。別れ際、彼はにこやかに
「また遊びましょうねー」
と手を振っていた。
事務所に帰り着いた頃には、完全に夜になっていた。
「……ただいま」
扉を開けると、事務所の中から嬌声が聞こえて来た。それと、甘い匂い。果実や草花のような香りとも、芳香剤の人工的な香りとも違う。例えば、詩をスクーターの後ろに乗せた時のような匂いだ。出所不明の甘い匂い。要するに、少女の香り。
何だろうか。
恐る恐る、リビングに踏み込むと、板張りのはずの床に、絨毯が敷き詰められていた。すぐに、それが人の毛であることに気づく。散乱した薄茶色の毛。匂いの原因はこれか。その中心に、リンゴと詩が居た。
「あ、おかえり」
「何だよ、これ?」
「リンゴの髪、切ってた」
確かに、いい加減、切るべきだっただろう。後ろからリンゴを見ると、余りの毛量に、毛の塊が移動しいるようで驚く時がある。しかし、これでは散髪と言うより、羊の毛刈りだ。
詩の背中に隠れていたリンゴが、おずおずと顔を出した。
「ど、どう、ですか?」
頬を微かに赤らめながら、そんな事を訊く。
実際、悪くない。
夏の雑草の如く繁茂していた髪の毛は、セミロングに切り揃えられていた。彼女は今、詩に借りた白いワンピースを着ている。つばの広い麦わら帽子でも被れば、避暑地のお嬢様と言っても通りそうなくらいだ。
「ん? ああ。まあまあな」
手招きして、俺の前に座らせる。
「これ、詩姉の仕事だな?」
リンゴが頷いた。
「微妙だな……」
後ろから見て右側の髪が、左側に比べて僅かに少ない。詩が右利きだからだろう。左側の毛を梳く。ついでに毛先を整えてやる。
詩は俺の作業を、横からジッと眺めて居た。眼が座っていて怖い。
「なんだよ?」
「証って、変に器用だよね」
「別に良いだろ」
「なんか、嫌」
「なんだよ、それ」
軽口をたたきながらも、ハサミは動かす。
「終わったぞ」
リンゴはしばらく、その場でくるくると回っていた。窓ガラスに映った、半透明の自分を眺めている。それから、にこりと笑った。思わず漏れてしまった。そんな笑いだった。
ふと、彼女は何かを思い出したように、足元の毛を掴んだ。その毛の束を、俺に向かって付き出す。ワカメを収穫する漁師が連想された。
「何だよ?」
「あげる」
「こんなもん貰っても……いや、売れるか」
そう言って、俺は彼女の髪を受け取る。
「え。何それ。そういう趣味なの? 私の弟、変態なの?」
「ちげえよ! 人の髪は、ウィッグとか、人形の材料とかで、需要が有るんだよ!」
俺は足元の一本を摘まみ上げると、人差し指と親指で挟み、感触を確かめる。これは結構な値段が付くかもしれない。ろくに手入れなんかしていないだろうが、若いだけあって、その髪は滑らかだ。枝毛も無い。長年、伸ばしに伸ばしてきたせいで、長さも十二分だ。
「証。一応、確認しておくけど、匂いを嗅いだりはしないんだよね?」
「するわけないだろ」
「信じても良いの?」
「嗅がないから! 弟を信じろよ」
「かぐ?」
リンゴはそう言って、頭を近づけてくる。
「お前さん、止めてくれ」
詩の表情が怖い。
「でも、切っちゃって良かったの?」
詩が訊いた。
「おれい」
「そんな、気にする事ないのに」
リンゴは首を振った。
「それに、もう、いらないから」
やはり、そんな事だろうとは思った。リンゴが異常なほどに髪を伸ばしていたのは、獣の耳を隠すためだろう。そんな彼女が今、こうして髪を切った。
「お前さん、こっち側に来たいか?」
つまり、青色地区の外側に。
以前に同じことを訊いた時は、いや、と即答した。しかし、今、彼女は躊躇いがちに、首を縦に振った。
「ずっと、ひとりだった。ひとりがよかった。だけど、ちがうのかもしれない」
リンゴは言う。
彼女と出会って、まだ一週間と少ししか経っていない。それでも、リンゴは一人の少女の命を救った。出会った頃、他人は怖いものだと、ただ恐れていた彼女とは違う。
「うん。応援する」
詩が言った。リンゴがはにかむ。
しかし、俺は言った。
「言っておくけど、世の中、詩みたいなやつは滅多にいないからな」
和やかな空気が一瞬で凍り付いた。
「……ごめんなさい。かみのけ、めいわくだった?」
「違う」
「あかり?」
「お前さん、アパルトヘイトって知ってるか?」
リンゴが首を振る。
「南アフリカの人種差別政策だ。肌が白くない奴は、人間として扱われない」
「証!」
詩が叫ぶ。しかし、俺は無視して言葉を続ける。
「ルワンダの大虐殺は? ホロコーストは? ダルフール紛争は? どれも、自分達の思う普通と違う人間は、人間として扱われない」
詩が、俺とリンゴの間に立ち塞がる。
「あんた、ふざけてんの? 人が前向きになってんのに水差して、何の嫌がらせ?」
「前しか見ねえ奴はただの馬鹿だ」
詩が俺の胸倉を掴む。
「ねえ。黙ってよ」
その冷たい声に、一瞬、心臓が縮む。だけど、俺は詩の手を払いのけ、言葉を続ける。
「良いから聞け。リンゴだけじゃない。詩姉もだ」
「……あかり、どうしたの?」
リンゴが不安そうに訊く。
俺だって、こんな事、言いたくなんかない。箪笥のへそくりを引っ張り出して、「景気づけに肉でも食いに行くか」とでも言ってやりたい。
俺だって孤児だった。東京市街が怖い事なんて、百も承知している。
そびえ立つ白亜の塔。
溢れかえる、見知らぬ人の波。
そして、システマティックに流れて行く社会。
保護されたばかりの頃は、自分を取り巻く世界が怖かった。だから、リンゴの決意がどれほどの物かは、分かっていた。
だけど、俺は告げる。
「肌の色や、信じてる神が違うだけで、人間は、人間を人間と思わない。じゃあ、お前はどうなんだ?」
リンゴは、自分の頭頂部の、二つの突起に触れた。
「肌の色や、宗教の違いどころじゃねえ。頭に獣の耳が生えてるお前なんブェ――」
詩の拳が、俺の顔面にめり込んでいた。それでも、俺は一歩も動かなかった。ただ、目線だけを動かして言った。
「……まだ話してる途中だ。聞け」
鼻血が口に入って、喋る度、赤い泡が飛ぶ。
「真面目に生きてさえいれば、優しくしてもらえるとか、誰かに認めて貰えるとか、幸せになれるだとか、そんな風に考えているなら、そいつは幻想だ」
リンゴに伝えなければならない。
何故なら、彼女に希望を抱かせたのは俺達だから。食事と寝床と優しさを与え、友達を助けることに手を貸した。そうやって、リンゴに希望を抱かせた。
期待した分、裏切られた時、傷つくことになる。
陳腐な表現だけれど、希望が大きいだけ、絶望も大きくなる。
そして、リンゴが期待を裏切られる公算は大きい。死にかけの人間が麻酔さえ満足に手に入らないような世界が、異形の少女にとって生きやすいはずがなかった。
それなのに、俺はリンゴに希望を抱かせた。
だから、俺が言わなければならない。
「リンゴ。世界は優しくなんてないんだ」
口に入った鼻血が飛沫になって飛ぶ。床に、ポツポツと点を作った。
一瞬、リンゴはきょとんとしていた。
それから、クスクスと笑いだす。
「……リンゴ?」
「しってる」
彼女は笑いながら言った。
「え?」
そっと俺の傍に寄ると、腕を伸ばす。その細い手首の裏側で、俺の口に滴る血を拭った。自分の手が汚れることも厭わずに。
「せかいが、やさしくないことは、しってるよ」
リンゴは俺の胸元に、額を押し付けた。
「だけど、ふたりみたいなひとも、ちょっとはいるし、せかいも、ちょっとはやさしいの」
俺は馬鹿なのか。
馬鹿なのだろう。
世界は優しくなんてない。
そんな事、青色地区で、ずっと一人で暮らしていた彼女が、気づいていないはずがなかった。リンゴは、世界の理不尽さを知りながらも、それでも、そこに「少し」の可能性を見出した。そして、踏み出すことを決めた。
「あかりや、うたみたいなひとは、いないんだとおもってたから。でも、ちょっとは、いるみたい。……ふたりがいなかったら、その、「ちょっと」に、きづけなかった。ありがとう」
俺はリンゴの強さを、ちっとも理解できていなかった。
「……悪かった。必要も無いのに、酷い事を言った」
リンゴは頭を俺に押し付けたまま、首を振る。
「わたしのために、いってくれたんだよね?」
「余計なお世話だったけどな」
実際、真剣になって「世界は優しくなんてない」とか言っていた自分が恥ずかしい。後で、詩にからかわれることになると思う。
「あかり、ともだちいないんだよね?」
「……急に何だよ?」
「いないんだよね?」
「あ、ああ。……いねえよ。……残念なことにな」
「あかり、やさしいのにね。やさしいから?」
不意に、彼女が俺の首に腕を回した。そのまま、ぐい、と俺を引き寄せるのだが、如何せん体格が違うので、彼女の方が俺に引っ付いた。
「わたしが、ともだちになってあげる」
思わず、笑いだしてしまう。
「いやなの?」
「そんな事はねえよ。嬉しいよ」
ただ、ちょっと驚いただけで。
「うん。およめさんでも、いいよ?」
無言の圧力を感じた。目だけを限界まで横に動かすと、腕を組んだ詩が見えた。ロ、リ、コ、ン、と口の形だけで言っている。いや。これは、俺は悪くないと思う。
「……結構な申し出で、恐悦至極だけど、今回は遠慮しておくよ。……そういうのは、まだ早いと思うぞ。流石にな」
不意に、ズイと、口元にティッシュペーパーの塊が押し当てられる。
「ほら、証。鼻血、垂れてる」
「こうふんした?」
「違えよ! お前さんも、詩姉が殴るとこ見てただろ」
リンゴが笑う。彼女なりの冗談だったのか。
「殴られ損だったけどな……」
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