第21話 進化する人〈ホモ・エボルヴ〉
「味は悪くなかっただろ?」
「味は、ね」
オヤジの仕事のおかげだ。
新鮮なうちにナマズの血抜きを済ませ、内臓を綺麗に取り除き、酒に浸す。それから、香辛料の利いたタレに漬け、高温の油でカラッと揚げる。出来上がるのは、至って美味な白身魚のフライだ。ホクホクしている。臭みも無い。
「ボクは汚されてしまいましたよ。あーちゃんに、汚されてしまいました!」
「おい。その言い方は止めろ。誤解を招く」
「事実じゃないですか!」
春譜が口調を強める。その時、オヤジが冷えた炭酸飲料の瓶を、春譜の前に置いていった。
「サービスだ。初回限定のな」
「……あ、ありがとうございます」
春譜が怒気を弱める。去り際、オヤジは、俺にだけ見えるようにウインクをしていった。
「恋のキューピットに任せな」
とでも言いたそうな顔だった。満足そうな顔が非常に鬱陶しい。だから、痴話喧嘩じゃない。
日が暮れようとしていた。
青色地区の、林立した黒いビル。夕日がその影を長く伸ばす。入道雲は、端の方だけを赤く染められて、ゆっくりと流れて行く。一日の終りを眺める場所として、ここは悪くないように思える。
俺達は椅子を空の方へ向けて、並んで景色を見ていた。
「今日は、驚く事ばかりでした」
ポツリ、と春譜が言った。
「俺からすれば、東京エリアの方が慣れないよ」
俺は視線を前に向けたままで答えた。くるり、と椅子の向きを変える。春譜が眺める方向とは反対側。東京市街が見えた。整然と並ぶ街並みと、それを支配するように立つ、四本の白亜の塔。
俺達はしばらく無言で、お互いに反対の景色を眺めて居た。
「不思議です。ボクたち、こんなに似ているのに」
「そうか?」
くすり、と春譜は笑う。
「十五歳で一級律術士になったのはボクたちだけです。ちなみに、三番目は二十六歳だとか」
「俺は、本当に十五か、分からないけどな」
孤児だから、正確な誕生日は分からない。
「そういう事言うから、友達居ないんですよ」
春譜は呆れたように言った。
「ボクたちは似ていますよ。似たような才能を持っている。違いますか?」
「どうだろうな」
確かに、持っている能力は似ているのかもしれない。
「あーちゃんも、高校も大学も跳び級して、早く社会に出れば良いのに」
「事務所が忙しくてな。詩姉の人使いが荒いんだよ」
ただ、その境遇はまるで違う。選んだものが違うからだ。
「あーちゃん、ボクのこと嫌いですよね?」
「お前だって、俺の事が嫌いだろう?」
お互い、否定も肯定もしない。
「でもね、あーちゃんなら、良い相棒には成れる気がするんですよ」
「誰の?」
「ボクのですよ。あーちゃん。ボクの相棒になりませんか?」
「嫌だよ」
「そう言わないでください。きっと、愉しいと思いますよ」
「何が?」
「あーちゃんは、「進化のしやすさ」って、知っていますか?」
「生物学の講義に付き合うつもりは無いぞ」
「もう。答えてくださいよ。知ってるんですか?」
「いや。知らない」
「マイナーな学説ですからね。知らないのも無理は有りません」
「だったら訊くなよ」
春譜は笑う。
「進化のしやすさ。「Evolvability《エヴォルヴァビリティ》」と呼んだりもします。提唱されたのは、二千年代の初め頃ですかね。まあ、反論も多いですけど」
「何だよ、それ?」
「生き残る生物は、より優れた性質を持った生物です。具体的には、より硬い殻を持つとか、より早く動けるとか、より空腹に強いとか……。しかし、ボクたちが見落としていた性質が有ります」
「それが、進化のしやすさ?」
「はい。文字通り、環境が変化した時、より素早く適応できる能力です」
「じゃあ、何だ。魚類より鳥類の方が進化しやすいだとか、そんな事が有るのか?」
「ざっくりと言えば、そうです。例えば、恐竜が滅びたのは、進化しにくかったから、という説も有ります」
巨大化した恐竜は長い寿命を持つ。寿命が長いという事は、子孫を残せるだけ成熟するまで、時間が掛かるという事だ。つまり、それだけ世代交代する機会が少ないという事だから、進化する機会も少ない。そこに隕石によって止めを刺された訳だ。
一方で、昆虫はほんの一月の間にも、次々と世代交代していく。研究室で飼育したショウジョウバエは、僅か六十年の間に約五パーセントものゲノムが、野生のそれと比べて変わっていた、という報告も有る。
「他にも、繰り返し構造を持つ生物は進化しやすい
「繰り返し構造?」
「人間だってそうです。例えば、背骨や、あばら骨。手足は左右で二本ずつです」
「それが、進化のしやすさと、何の関係が有る?」
「繰り返し構造を持つなら、簡単に体格を調整できます。繰り返しの数を増やしたり、減らしたりすれば良い。要するに、身体のサイズを変える進化が起きやすい」
「なるほどな……」
生物は進化する。ただ、その進化のし易さには違いがある。長い目で見れば、進化のしやすい生物が繁栄することになるだろう。環境は絶えず変わり行く。進化しやすい生物ほど、その環境に適用しやすい。
Evolvability.
進化のしやすさ。
「大体、分かったよ」
「流石、あーちゃん。理解が早い。そんな、あーちゃんに、もう一つ質問です。進化のしやすさが、最も大きな生物種は何だと思いますか?」
何だろうか。
世代交代が早いという意味では、細菌の類か。連中は、僅か数時間で次の世代が生み出す。体の繰り返し構造と言う意味では、ミミズのような環形動物か。連中は、ほとんど同じ構造が連なった紐のような生物だ。
「いや。違う……」
世代交代の速度とか、身体の構造とか、そんな次元の話ではなく、進化しやすい生物がいた。その生物は、自分自身どころか、他の生物の進化さえも操る。何故なら、その生物は、遺伝子の並びを、自在に組み替える事が出来たから。
「ヒトだ」
プラスチックのゴミが邪魔になれば、それを分解する細菌を造り出した。
人口が増えたのならば、荒れ地でも育つ作物を造り出した。
時に、異常進化生物などという、意図しない生物も生み出したけれど。
俺の答えを聞いて、春譜は笑みを深める。
「正解です」
春譜は立ち上がると、芝居がかった動きで、俺の前に回り込む。
彼の背後、白亜の塔がそびえていた。
「生命が誕生して、三十八億年。生命は自らのシステムを理解し、そのシステムに干渉できるまでに至った。遺伝子というシステムに」
俺は笑い飛ばす。
「何をもったいぶってやがる。品種改良なんて、それこそ二十世紀からやってるだろうが」
「一つだけ、手を出していない生物があるでしょう?」
その答えも、ヒトだ。
「ボクたちは進化しやすさの極致にまでは来ました。でも、その先は?」
俺は、問う。
「お前さん、人類を進化させるなんて言うなよ?」
「まさか」
春譜は笑う。
「言うに決まってるじゃないですか」
目だけは、笑っていなかった。
「サルがサルのままで、百億年経っても月に行けましたか? 同じように、ボクたちも、ボクたちのままでは辿り着けない境地が在るはずです」
「何だよ。辿り着けない境地って?」
「さあ。おサルさんがボクたちの考えている事を分からないように、ボク達も、ボクたちより優れた生物が何を考えているのか分かりません」
想像してみてください、と春譜は言った。
「ボクたちは遺伝子を操作し、より賢く、より強い子孫を残す。その子孫は、さらに遺伝子を操り、彼らよりも優れた子孫を生み出す。それを繰り返した先で、ボクたちは神に至る」
「お前さん……正気か?」
「もちろん」
神に至る、など言い出す奴が正気であってたまるか。
「大体、そんな人体実験紛いの事、できると思ってんのかよ?」
「ボクを誰だと思っているんですか?」
招鳥春譜。
そう、招鳥だ。
東京を統べる白亜の塔。その一つの主こそ、招鳥。そして、彼はその跡継ぎ候補だ。
「設備も、技術も有ります」
当然だ。医療に関して、これ以上の技術力を持つ企業は、日本はおろか世界にも無い。
「もちろん、お金も」
日本経済を支える屋台骨だ。金なんて、無いはずがない。
「データも有ります」
国民の遺伝子シークエンスは、人命を救う新薬を開発する為、医療系コングロマリットに集められる。
春譜は言葉を継ぐ。
「想像してみてください。この先を」
確かに、人間は既に、遺伝子を操作する術を手に入れた。
さらには、人口幹細胞を用いて、人体を造り出すまでに至った。
例えば、ミユの心臓のように。
心臓だけではない。
眼球、皮膚、耳、髪、肺、筋肉、ありとあらゆる器官を造り出せる。
その中にはもちろん、生殖細胞さえも含まれる。
今、春譜の言う人類の進化は決して不可能ではない。障害となるのは、資金とか、
技術とか、人材とか、所詮はそのようなものだ。そして、それらは、招鳥の力を以ってすれば、解決できる可能性は高い。
春譜は言う。
「生物は、進化する方向を選ぶことは出来ない。ただ、その時々に、環境に適した種が生き残るだけだ。しかし、ボクたちは、進化そのものを操作することが出来る。だから、ボクたちは既に、生命を越えた。既に〈理性的な
「だったら、何だよ?」
「名付けるとすれば、〈進化する
春譜は俺に手を差し伸べた。
「あーちゃん。一緒に行きましょう」
差し伸べられた手。
その手を取った先に、何が有るのだろうか。
まるで霧の向こうのように、漠然としている。
ただ、心が惹かれるのも確かだ。
人間が紡いできた命と、築いてきた科学文明は、その先に続いていた。
より素晴らしい人類という、その先。
その考えは面白い。
自分が、大きな物語の中にいるような感覚さえ覚えるからだ。
一瞬、夕日が強く輝く。その煌きを最後に、太陽は地平線の下に沈んだ。
「悪いな。手のかかる姉貴が、一人いてな。お前さんの面倒まで見切れそうにない」
伸ばしかけた手を、引き戻す。
「……そうですか」
春譜は、差し伸べた手を戻した。大仰に語った割には、やけにあっさりと引き下がる。
「そんな気はしていましたよ」
そう言って微笑む彼が、一瞬、寂しそうに見えたのは、俺の見間違いか。
太陽は完全に沈み、後は、西の空に薄っすらと赤さが残るばかり。
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