第16話
夜の海。吹き付ける海風が、潮の香りを運んでくる。
「証。暇なんだけど」
コンテナの縁に腰かけ、足をぶらぶらとさせながら、詩は言った。
俺は携帯コンロで沸かしたお湯を、アルミのカップに注ぐ。中に入っていたインスタンコーヒーの粉は一瞬で溶けた。それを詩に渡す。
「仕方ないだろ」
「そうだけど、暇なの」
詩は湯気の立つコーヒーを啜る。
無造作に積まれた同じ形のコンテナ。大抵は錠前が破壊され、中身も空になっていた。青色地区の住人の仕業だろう。今夜、このうち捨てられたコンテナ置き場の一角で、麻酔の受け渡しが行われる。当然、マフィアの襲撃も予想された。
危なくなったら、すぐに逃げる事。
それを条件に、俺と詩は取引現場に来ていた。もちろん、麻酔を手に入れる為だ。
「ねえ。本当に今日なの?」
「多分な」
俺は自分のコーヒーを淹れる。
コンテナの上に立って周囲を見渡せば、青色地区が薄暗闇の中に沈んでいた。そして、煌々と輝く東京市街のビル群が、青色地区を取り囲んでいる。夜のせいで、東京市街の明るさが余計に目立つ。普段は特別意識しないが、この青色地区が、押し込められた世界だという事を、嫌でも意識させられるた。
ふと、波間に、何か黒い物が見えた。
コーヒーを置く。
「詩姉。海の上。三時の方角。何か来てる」
「……どこ?」
詩はまだ見えていないらしい。
黒い物体は、次第に近づいて来た。どうやら船らしい。漁船程の大きさだ。しかし、明かりを一切、点けていない。暗視装置の類でも積み込んでいるのか。こんな真夜中に明かりも点けず、廃墟の船着場にやってくる船など、十中八九、法外な物品を積んでいる。
「あ、船だ」
詩も気が付いたらしい。飛び出そうとする彼女を止める。
「あれ、絶対に麻酔の船だよ」
「だろうな。だけど、まだだ」
やがて、船が岸辺に横付けされた。闇の中、人影がその船に集まる。砂糖に群がるアリのようだ。彼らは、近くにあるバンに麻酔を運び込んでいるらしい。その後ろのもう一台のバンは護衛か。
荷の積み替えが終わったようだ。二台のバンが走り出す。
「詩姉。行こう」
俺達もコンテナの山を降りる。隠しておいた電動スクーターに跨ると、エンジンをかけた。バンを追う。コンテナ置き場を出ると、バンは北へ向かった。旧首都高や、旧ゆりかもめの高架線が宙で交差している。そんな複雑な立体迷路をスクーターは駆ける。
バンが運河に架かる橋に差し掛かった、その時だった。小型のトラックが二台、横に並んで橋の出口を塞ぐ。バンは急ブレーキをかけて切り返す。しかし、間に合わない。反対側の出口も、トラックに塞がれていた。
俺達は、廃棄された自動車の陰から、その様子を伺っていた。
「マジかよ……」
余りに堂々とした襲撃に、俺は思わず呟いた。流石は海外産。やり方が荒っぽい。その時、ガンガンと金属音が聞こえた。
「撃ってるの?」
「……ああ。だけど、発砲音じゃない」
「どういうこと?」
「弾が何かに当たる音だ。アスファルトか、あのバンか」
恐らく、マフィアは銃に
「助けないと」
立ち上がる詩の腕を掴み、引き留める。
「駄目だ」
「でも」
「詩姉。全部は無理だ。頼む」
「……分かった。証が言うなら」
詩が頷く。
バンも反撃を開始した。開けた窓から銃口を付き出し、銃撃を開始する。
タァン! タァン! という発砲音が絶え間なく響く。銃口から銃火が見えた。こちらは、サプレッサーの類は一切装着していないらしい。
彼らは一生懸命、橋の前後を塞ぐトラックに銃弾を撃ち込んでいた。
しかし、撃つべきはそこではない。
マフィアは、隣の橋から銃撃を加えていた。ただ、彼等は銃口に取り付けた消音器で、音とマズルフラッシュを消していた。そのため、バンの護衛には発射点が分からない。それでも、断続的に弾丸が車体に当たる。パニックになった彼らは、とにかく、一番目に付くトラックに向かって弾丸を撃ち込む。
護衛の質が低すぎた。恐らく、命の他に売る者が無いような連中をかき集めて来たのだろう。バンからの銃声が次第に疎らになって行く。
掴んだ詩の手が震えていた。
「詩姉。駄目だ。全部なんて、助けられない」
「……分かってる。……分かってるよ」
やがて、銃声が止んだ。
トラックから人影が出て来た。彼らはバンに近づくと、扉を開ける。そして、おもむろに中身を引きずり出す。それは死体だった。アスファルトに打ち捨てられたきり、起き上がってくる気配は無い。マフィアは数人がかりで死体を持ち上げると、橋の欄干から捨てた。
遠目にも、浮かれている事が分かる。簡単な仕事だったと、はしゃいでいるのだろうか。大柄な人影が、死体の両足を持つと、ハンマー投げの要領で投げ飛ばす。死体は放物線を描いて運河へと落ちて行った。それを見て大笑いする連中。
「そいつは流石に罰当たりだろ」
俺が言った。言いながら、その大柄な男を、電動スクーターの前輪で跳ね飛ばす。男はアスファルトの上をゴロゴロと転がった。死んではないと思う。
靜動の万象律
空気分子のランダムな揺らぎを制御することで、音の拡散を抑える万象律だ。浮かれるマフィアは、俺達の接近にまるで気が付かなかった。
慌てて銃火器を構えるが、遅い。
後部座席の詩は、既に跳び出している。
右手に緋兎丸。
鞘は被せたまま。
その先端で、連中の顎と顎を、滑らかな一筆書きで繫ぐ。
僅か一振り。
三人のマフィアがアスファルトに沈む。
「これ、貰って行くから」
詩はバンに積まれていた段ボールを一つ、小脇に抱えた。そのまま彼女が後部座席に飛び乗る。同時に、俺はアクセルを捻る。詩が体勢を崩して俺にしがみつく。骨董品のスクーターは軋みながら加速。そのまま最高速。橋を塞ぐ二台のトラックの隙間を走り抜けた。
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