第15話 姉と弟
「証?」
「……いや。何でもない」
頭を振って、脳裏に浮かんだ嫌な光景を掻き消す。
詩は事務所のソファに座って、そっぽを向きながら、左腕だけを俺に向かって突き出していた。白くて滑らかな肌。巨大な大理石から削りだしたように、一切の継ぎ目が無い。しかし、一か所、その肌が剥げていた。赤い皮下組織が露出している。
「悪かった」
「良いよ。喧嘩だし」
そうは言っても、こうも綺麗な肌に傷をつけてしまうと、罪悪感に駆られた。俺はその傷跡に、消毒液をかける。
「んっ」
そんな声が、詩の口から洩れた。桜色の唇が苦悶に歪む。手早くサージカルパットを張り付け、テープで固定する。
「終わったよ」
「証は?」
「俺は無いよ。一発も貰ってないし」
「何かムカつく。噛んで良い?」
「やだよ。横暴だな」
俺は薬箱を片付けながら言った。
「昔の事、まだ清算できてないな。俺達」
「清算するような事でもないよ。昔が在って、今が在るんだから」
「それで、詩姉はこの事務所を始めたんだよな」
「そうだね」
そんな詩を否定するつもりはない。
むしろ、憧れさえ抱いていた。
俺は、詩のような強さは持ち合わせていなかったから。だから、こうして事務所の設立に手を貸した。律術士(補)の免許しか持たない詩は、法令上、一人で万象律を使う事はできない。
「だけど、詩姉が危険な目に遭うんじゃ、意味が無いよ」
「違うでしょ?」
凪の湖面のように、静かな詩の瞳。全てを見透かすようだった。今更、取り繕っても仕方なかった。言い直す。
「……詩姉まで居なくなったら、俺は一人だ。一人は嫌だ」
「うん。ごめん」
ぽんぽん、と詩は俺の頭を撫でる。
「だけど、参ったな」
そう言って、悩まし気なため息を吐いた。
「何が?」
「事務所を開いて三か月経ったけど、何となく、気づいてはいたんだ。認めたくなかっただけで。証の言った通り、私は弱いよ。万象律も、瞬閃以外はまともに遣えない。おまけに、頭だって良くない。……でも、諦めたくない」
ソファの上で、詩は膝を抱えながら言った。
俺は、こんな姉がどうしようもなく、好きみたいだ。
「詩姉には、そんな欠点なんか問題にならないぐらい良い所が有る」
「何?」
「弟が優秀」
「このやろう」
詩は俺の背後から腕を回し、首を絞める。いわゆるチョークスリーパーという奴だ。
「うっ! ギブ、ギブ!」
力が緩む。それでも、腕は俺の首に回したままだ。詩はそのまま、俺の肩に額を押し付ける。
「ねえ、証。私の命、証に預けても良い?」
「……今、何て?」
「私の命、預けても良い?」
無言でその先を促す。
「証の言った通り、私は弱いよ。馬鹿だし。でも、私は、万象律を、誰かの為に使いたい。だから、ヤバそうだったら、私を止めて」
つまり、俺に命綱をやれと。
「重い」
思わず、口からそんな言葉が飛び出ていた。
「嫌?」
「別に。嫌ではないけど」
「だよね。ありがと」
姉はそっと、俺の頭を、両腕で包み込むようにして抱いた。
「じゃあ、私は、ずっと一緒にいるよ。証を一人にしない」
「なあ、詩」
「ん?」
「そろそろ、離してくれよ」
「良いじゃん。嬉しいくせに」
「とにかく止めてくれよ」
部屋の隅から、リンゴが俺たちを見ていた。詩がそのことに気づく。
「照れてるの?」
俺は無視して、リンゴに向かって言った。
「悪かったな。せっかく、花火をしてたのに」
リンゴはふるふると首を振った。
「ふたりは、もういいの?」
「ああ。喧嘩なら終わったよ」
「また、いっしょ?」
そんな事を訊く。
「それは、そうだろ」
「あんなに、おこってたのに?」
「俺たちは、お互いが嫌いになった訳じゃないよ」
「そうなの?」
「ああ。そもそも、別れようなんて考えてない」
「うん。思ってもみなかった」
「じゃあ、なんで? なんで、あんなにおこってたの?」
「……なんて言うのかな。むしろ、一緒に居るためだよ。一緒に居るために、喧嘩してた」
詩と、俺。
姉弟だとしても、別の人間だ。考えることも、大切にしていることも違う。そんな二人が一緒に居るためには、妥協できる場所を知る必要が有った。
溜め込んで、渦巻いてることを全部吐き出して、心の中を晒し合う。
要するにあれは、そんな儀式だった。
「そうなんだ……」
そんな関係が、人と人の間に成り立つ事を、リンゴは知らなかったのかもしれない。
「わたしも――」
その続きを、言いかけて、リンゴは言葉を呑み込んだ。そして、項垂れる。両手で、頭に付いた獣の耳を覆い隠す。
「わたしは……」
「大丈夫」
詩は立ち上がると、リンゴに歩み寄り、彼女の頭を撫でる。
「私はリンゴの事、好きだよ。ね?」
詩が顔だけ俺の方に向けて、同意を求めてくる。
「嫌いではない」
「うわー、何あいつ。感じ悪っ。顔怖っ」
「一言余計だろ」
詩の腕の中で、リンゴは泣き笑いのような表情を浮かべていた。
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