第2話 夏の夜、雑踏。
「夕飯、カレー?」
俺がキッチンに立っていると、詩が背後から鍋の中を覗き込んだ。
「ああ。そうだよ」
日は沈み、西の空に、夕焼けの赤さが僅かに残るのみ。暑さも少しは和らいだ。開け放した窓からは、涼風が吹き込む。結局、事務所に仕事の依頼は一件も無かった。
「どうせ鶏肉でしょ?」
詩が訊いた。
「鶏肉? まさか」
「豚⁉」
「豚でもない」
「鶏でも、豚でもない……。そんな、そんなはずが無いよ……」
詩は恐る恐る呟く。やけに鋭い眼光は、野生のそれだ。
「もしかして……牛、なの?」
「そんな訳ねえだろ。そもそも肉なんか入ってねえよ」
「なんだ。シーチキンか……」
「シーチキンでもねえよ」
「え?」
「もやしだ」
「……もやし?」
「そう。もやし」
「もやしって?」
「ビーンスプラウト。知らないの?」
蹴られた。
煮立ったお湯に溶かしたカレールウに、モヤシを一袋(※注 十六円。税込み)をぶち込んで、もやしカレーは完成した。
「「いただきます」」
そんな声にも、どこか元気が無い。
「シャキシャキシして、歯ごたえは悪くねえだろ? ほら。お代わりも有るぞ?」
「ついに、ここまで来たか……」
詩がため息を吐いた。
「ここの所、全然、依頼が無かったからな」
「おかしいよね。区内に競争相手なんて居ないのに」
「だからじゃねえの?」
湊区は、ほとんどが青色地区に含まれている。だから、誰もそんな区に律術事務所を構えようとは思わない。事務所なんて有ったら不自然だ。良心的な価格設定も、怪しさを醸し出すのに一役買っているかもしれない。
人間の善意ほど怪しいものは無い、というのが俺の持論だ。ただ、所長こと詩は、そんな事は全く思わないらしい。
「こっちには最年少律術士まで居るのにね」
「元、な」
元最年少律術士こと、俺が答える。
「それに、最年少って、結局は経験が無いって事だろ? ……まあ、地道にやっていくしかないよ」
「分かってるけどさー」
詩がふくれっ面で言った。
「そうだ。ご飯食べたら、パトロールに出ようよ」
「パトロール?」
「このまま待ってても、依頼は来ないと思うの。だったら、こっちから出向こうよ」
正直に言って面倒だ。
「良いじゃん。どうせ、明日から夏休みなんだし」
「夏休み、明日からだっけ?」
「忘れてたの?」
「忘れてた」
「夏休みを気にしない高校生なんて、滅多にいないよね」
「こうして事務所を開いてるとな。……まあ、良いや。パトロール、付き合うよ」
俺たちはもやしカレーを食べ終えると、夜の街へ繰り出した。
事件なんて、そうそう起こる物じゃない。詩姉を後部座席に乗せて、夜の街を走るのも悪くない。明日から、夏休みだし。
スクーターで十数分。繁華街に差し掛かる。飲み屋や風俗店が入った雑居ビルがひしめいていた。道の両脇に並ぶのは、廃材を継ぎ接ぎして作られた屋台や、車を改造した移動店舗だ。そこでは、どこから仕入れて来たか分からない酒の類が、ちょっと引くくらいの低価格で流通していた。
スクーターを押しながら歩く。
「うん。いかにも治安が悪そう」
後部座席の詩が言った。
「随分な言い草だな」
その時、不意に、眼前に赤い球体。
咄嗟に、左手で掴む。
それは林檎だった。
「……危ねえ。何だこれ?」
「惜しイ! はずしタ!」
声のする方を向けば、見知った顔が有った。果物を商う屋台の少女だ。肩の出た服の上に、長いエプロン。彼女の肌は艶やかな褐色。見た通り日本人ではない。そもそも戸籍が無いので、どこの国の人間でもないけど。青色地区には、こんな人間、幾らでもいた。
「よう。儲かってんのか?」
林檎投げ少女に話しかける。
「がっぽリですな! これから暑くなるからネ」
「そりゃ良かった」
すると、少女が手の平を差し出した。
「何だよ?」
「二百円」
「は?」
「リンゴのお代」
「くれたんじゃないの?」
「そんなことないヨ」
「そんなことないの⁉」
詩に渡したリンゴには、既に彼女の歯形が付いていた。
「美味しいよ?」
唇を林檎の蜜で濡らしながら、詩は言った。
「どういう商売だよ……」
商品を客に投げつけて買わせるなんて、有りなのか。いや。うちの事務所にも、この積極さが必要なのかもしれない。
「わたし知ってるヨ。アカリ、ふきげんに見えるけど、そういう顔なだけだッテ。本当は、ふきげんじゃないんだヨ?」
「今は本当に不機嫌なんだよ」
渋々、代金を渡す。
「アカリ、不便な顔してるねー」
「ほっとけよ」
その時、詩はリンゴを食べ終えたらしい。
「ご馳走様。美味しかった」
そう言ってほほ笑む。その笑顔をまじまじと見つめて、少女が言った。
「……本当に、キョウダイ?」
「そうだって言ってんだろ。何回、訊くんだよ」
会うたびに訊かれている気がする。
「何でそんなにちがうんだろうネー?」
「そんなの、遺伝子が違うからだろ」
遺伝子。
それは、アデニン、シトシン、グアニン、チミン、という四種類の塩基が規則正しく並んだ分子だ。
要するに、人間の設計図。骨も、筋肉も、内臓も、そして脳でさえ、遺伝子という設計図に刻まれた通りに形を成す。体格、容姿、運動能力、病気の罹り易さはもちろん、性格や知能といったものにさえ、遺伝子は影響を与える。
だから、不機嫌に見える顔の男がいれば、一目で心を奪うほどに美しい少女もいる。
「イデンシ、かえちゃウ?」
「馬鹿言うなよ」
遺伝子は生まれた時には決まっている。そして、その遺伝子が、人体の約六十兆の細胞全てに刻まれている。書き換える事などできない。
ある者にとってそれは祝福であり、ある者にとってそれは呪いなのかもしれない。
「それより、この辺で何か変わった事は無かった?」
詩が訊く。そう言えばパトロールだったな、と俺は思い出す。
「変わったこと?」
「依頼が無いもんでな。困ってそうな奴がいたら教えてくれよ」
「あー、カネヅルのことネー」
「言い方」
少女は少し悩んでから答えた。
「んー、若い人、見たヨ。たくさん」
「珍しくも無いだろ」
「若い人、この街にいる感じじゃなイ」
「若いって、私たちと同じくらい?」
「うん。そう」
俺と詩は顔を見合わせる。
思い当たる節が有った。時折、高校生くらいの連中が、青色地区を遊園地のアトラクションと勘違いして、入り込む事が有る。全国的に、日本の高校生は明日から夏休みだ。気分が舞い上がって、羽目を外してもおかしくない。
「サイフのひも、ゆるかった。売りつけてやったヨ」
少女が人差し指と親指をくっつけて、お金のマークを作った。
「たくましいな……。それで、連中は何か言ってなかったか?」
「キモダメシするって」
「肝試し。馬鹿か」
「キモダメシってなに? エッチなこと?」
「違えよ! それより、連中が何処に行ったか分かるか?」
「あっち!」
少女が指さした。沿岸部の方向だ。
「やばいな……」
俺が呟く。詩も頷いた。
繁華街をうろつく分には、せいぜいカツアゲに遭うくらいで、至って安全だ。しかし、さらに奥に踏み込めばそれだけでは済まない。青色地区は一般的に、海に近いほど治安が悪い。
「証。行こう」
「ああ」
スクーターに跨る。
「ジョウホウのお代は?」
「ツケにしといてくれ!」
一方的に叫ぶと、アクセルを捻った。
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