第3話 廃病院にて
「詩姉。飛ばしても良いか?」
「うん。急いで」
ギュッ、と詩が俺の背中に抱き着く。エンジンの回転数は最大。ほとんど骨董品のそれが唸りを上げる。
沿岸部は廃墟ばかりだ。人なんて居ないから、人に見られたら困る事をするために最適だ。おかげで治安は最悪。青色地区の住人も近寄らない。普通の高校生が歩いているような場所ではなかった。
街灯にも電気は通っていない。ただ、立ち尽くすだけ。スクーターのライトに驚いて、ネズミがコソコソと逃げる。
「証。そこの角、右」
「了解!」
ハンドルを切った。
前輪が瓦礫を踏み、車体が跳ねる。
しかし、アクセルは緩めない。
「証。あそこ」
前方に廃墟が見えた。「〇〇〇総〇病院」。屋上の看板は半壊し、辛うじて一部の文字だけが読める。そこは、この街が普通の街だった頃から、日常的に人が死んでいた場所だ。確かに、肝試しには相応しい。
裏門に回ると、案の定、高校生くらいの集団が居た。
「あれ、証のクラスメイトじゃない?」
俺は目を細める。
「……本当だ。何人か、見覚えのある奴がいる」
「見覚えが有るって、クラスメイトだよね?」
「そうだけど?」
「証……。とにかく、トラブルに巻き込まれる前に帰らせないと」
「了解」
集団の傍にスクーターを停める。
「……あれ? えっと、もしかして星川詩先輩ですか?」
誰かが言った。流石は詩。有名人だ。
「ここは危ないから帰った方が良いよ」
詩が言う。しかし、連中は気まずそうに顔を見合わせるだけで、何も答えなかった。
「何人か、病院に入ったな?」
俺が訊く。図星だったらしい。
観念したように、彼らは事情を話した。
彼らはやはり、この廃病院で肝試しをしていた。二人一組で霊安室まで行き、その前で写真を撮ってから帰ってくる、というルールだった。
しかし、最初に入ったペアが、いつまで経っても戻らない。迷っているのかもしれない、と二組目が病院に入った。しかし、彼らも戻って来ない。流石に心配になって、三人の少年が捜索に向かった。そして、彼らもそれきりだった。
「警察は?」
無言。
沈黙は、呼んでいない事を意味していた。俺は携帯端末を取り出す。
「あ、待って」
一人が俺を止めた。
「何だ?」
「いや、でも、あんまり大事には……」
彼は決まりが悪そうに言った。
「……なるほどね」
廃墟とは言え、私有地に無断で立ち入っているわけだ。普通に補導だろう。当然、補導歴は個人番号と紐づけられて記録される。将来にも影響するはずだ。
「だからどうした?」
一言で切って捨てた。完全に自業自得だ。
俺は携帯端末で、警察と、念のため救急に、位置情報を送る。ただ、ここは青色地区の最深部だ。警察が到着するまで、下手したら三十分以上かかるかもしれない。
「詩姉。どうする?」
「うん。行こう」
すぐさま、予想通りの答えが返って来た。
「了解」
破れたフェンスの隙間から、俺達は廃病院の敷地に入り込んだ。建物の黒い輪郭が、月光に浮かび上がる。
「青色地区に住んでから、ホラー映画があんまり怖くなくなったの」
「現実には敵わねえからな」
詩は背中に筒を背負っていた。本来なら、設計図のような大きな紙を入れるための筒だ。しかし、中から出てきたのは日本刀だった。
二尺三寸。
鍔に、踊る二匹の兎。
銘を
黒塗りの鞘に収まったそれを、詩は腰に吊った。
俺達は、鍵の壊れた窓から廃病院に入り込む。そこには暗闇が詰まっていた。真っ直ぐ伸びた廊下のその先は、ただ、黒い。
「……暗いね」
「ああ。使おう」
俺たちは静かに目を閉じて、開く。
視界が昼のように明るい。
割れたガラスの破片、塗装の剥がれた天井、床に積もった埃、そして、消毒液の空き瓶。今まで闇の中に潜んでいたそれらが姿を現す。
見る、とは物体に反射した光子を、網膜の視細胞で捉える事だ。暗闇で物が見えないのは、飛び交う光子が少ないからだ。しかし、その数少ない光子が全て、偶然、視細胞に飛び込んだとしたら、暗闇でも物が見えるのだろうか。
答えは、見えるのだ。
ただ、それは奇跡だ。千個のサイコロをビルの屋上から撒いて、その全てが積み重なるような奇跡。しかし、その奇跡を起こす術が在った。
三十億の塩基対が規則正しく並んだ遺伝子。その遺伝子が六十兆の細胞、一つ一つに刻まれている。そして、六十兆の細胞が遺伝子に従って役目を果たすことで、一人の人間を成す。人はその体内は天文学的な「秩序」を内包していた。
その「秩序」と引き換えに、奇跡を起こす。
それが、万象律。
「詩姉。取り敢えず、霊安室に行こう」
詩が頷いた。
廊下を進む。
バックパックから、ボールペン程の大きさのプラスチック棒を取り出す。ケミカルライトだ。ペキッと折ると、青白く光り出す。それを撒きながら進む。警察が到着した時に、すぐに俺たちの居場所が分かるようにするためだ。
一本、約十円。二本でもやし一袋。十円玉をばら撒いている気分だった。やがて、目の前に階段が現れた。少年たちの話では、霊安室はこの階段を降りた先らしい。
「誰も居ないね」
「ここまでは、何の問題も無かったんだと思う」
「何で?」
「床、見てみろよ」
積もった埃のおかげで、足跡がはっきりと残っていた。注意深く見れば、八人分の足跡がある事が分かる。つまり、この階段までは全員が辿り着いたのだ。
「問題は地下だな」
詩が地下へと続く階段を眺めながら、唾を呑みこんだ。
俺はその闇にケミカルライトを放る。
「詩姉。明かり、足りてる?」
「ちょっと、暗いかも」
「了解」
俺と詩では、万象律の実力が違う。ケミカルライトの淡い光だけでも、俺の視界は昼間のように明るいが、詩の場合、そうはいかない。多めにライトを撒く。
階段を降りた先も、真っ暗な廊下が続いていた。
ケミカルライトを放る。数メートルだけ闇が晴れた。その分だけ歩いては、ライトを投げる。そんな事を繰り返して、俺達は前に進む。
何の音もしない。
ここが病院だということもあって、嫌でも死を連想する。
「……嫌になるよ」
俺はつい振り返って、詩の顔を見た。
「大丈夫」
詩は言った。本当にそう思っているらしい。闇を見据える瞳は、あくまで冷静。高校生たちを助けるのだという、強い意志を宿していた。
「赤の他人だ。俺たちが身体を張る義理は無いぞ」
前方を睨みながら言った。
「証のクラスメイトでしょ?」
「あ。そう言えば。赤の他人は言い過ぎか」
「証……」
「だけど、青色地区が危ない事はガキだって知ってる。それを承知であいつらはここまで来た。自己責任だろ」
「そうだけど、助けられるなら、助けたい」
「ご立派なことで」
「証だって、一緒に来てくれてる」
「別に、俺はそんな正義感なんて無いよ」
「じゃあ、何で来たの?」
本気で訊いているらしい。
「何ででしょうねえ……」
詩が来なければ、そもそも来ていない。たまたま教室が同じだっただけの連中を、身体を張ってまで助ける義理なんてない。おまけに、自分が補導される事と、友達を、天秤にかけるような奴らだ。余計に助けたくない。
三十二個、つまり三百二十円分のライトを撒いた頃、霊安室に辿り着いた。
「詩姉。足元」
「無くなってる……」
階段の前には、八人分の足跡が有った。
ここには一つも無い。
連中は、霊安室まで辿り着けなかったらしい。その代わり、別の痕跡が有った。やたらと長い五本の指を持つ足跡が幾つか。そして、何かを引きずったような跡。
「……足跡の形は、ネズミの類だと思う」
「これでネズミなの?」
「形は、な」
ただ、その大きさはネズミではない。足跡から見積もって、本体は中型犬くらいか。シバイヌと同じサイズのネズミ。普通に気持ち悪い。
「異常進化?」
詩が訊く。
「だろうな」
生物が、別種の生物に進化するまで、普通は数十万年から数百万年の時間が掛かる。
しかし、二〇三〇年代に入って、突然、既存の生物とは違う、異形の生物が報告されるようになった。まるで、数百万年かかる進化を、一晩のうちに完了してしまったかのように。
それが、異常進化生物。
原因は分からない。チェルノブイリ以降、度々、発生した原発事故。
八十億の人口を養うために大地に滲み込ませた、莫大な量の農薬という化学物質。
或いは、遺伝子組み換え生物。
様々な説が唱えられているが、どれも決め手に欠けていた。結論は出ていない。
実際、原因なんてどうだって良いのだ。
重要なのは、異常進化生物は、時に人間に牙を剥くということ。
例えば、廃病院の天井の穴に潜んだ、こいつらみたいに。
「詩姉! 下がって!」
叫ぶ。
同時に後ろへ跳んだ。
瞬間、寸前まで俺達が立っていた場所に、黒い毛の塊が落ちる。そのシルエットはネズミだった。しかし、大きさはシバイヌ程。奇襲に失敗したその生物は、滑るように壁を登り、再び天上の穴に引っ込んでしまった。変態じみた動き。何処かの猫型ロボットじゃなくても、ネズミが嫌いになりそうだ。
「詩姉。目、閉じてて」
俺は懐から茶色い小瓶を取り出す。天上の穴目掛けて投じた。
瞬間、小瓶から閃光が迸る。とめどなく流れる、光と熱の濁流。目を固く閉じていても、瞼を突き抜けて、強烈な光を感じる。
小瓶の中身は、酸化鉄とアルミの粉末だ。こいつらは一緒にして点火すると、酸化鉄の酸素がアルミに移動する。その際、爆発的な熱と光を発する。それがテルミット反応だ。
「証! 何か光ってるけど、大丈夫⁉」
「大丈夫。ただのテルミット焼夷弾だから」
「ただの何⁉」
酸化鉄とは、赤サビのことだ。アルミもジュースの缶にも使われるくらいにありふれた金属だ。テルミット焼夷弾など、青色地区の路地裏に入れば簡単に手に入る。
一本、八千円也。
これで、巨大ネズミの目は使い物にならなくなったはずだ。俺が目を開こうとした、その時だった。まるで刃物でも捻じ込まれたように、右腕に鋭い痛みが走る。
事実、捻じ込まれていた。
巨大ネズミの発達した前歯が、俺の腕に食い込んでいた。何故、強烈な光を浴びてもなお、こいつは俺の位置が分かったのか。答えは簡単に分かった。
目が、退化しているから。
足跡や、シルエットから、勝手にネズミの類だと思い込んでいた。しかし、違った。こいつらはモグラの類だ。モグラと言えば、地中を掘り進む生き物というイメージが強い。しかし、中にはネズミのように、地上を動き回る種類もいた。連中はそもそも視覚に頼らず、並外れた嗅覚で世界を見る。だから、強烈な光など物ともせず、俺の位置を捉えられた。
腕に食らい付いたモグラ。振り解こうとするが、外れない。
「証⁉」
「平気だ」
なんでもないように答えた。
腕に力を込める。
生物の体内には、電気を帯びたイオンが含まれていた。ナトリウムイオンと、カリウムイオン、塩化物イオン。神経伝達を制御するイオンだ。俺は自身の「秩序」を使って、モグラのイオンの均衡を、一瞬、崩す。
電流がモグラの神経を迸り、焼き尽くす。
獣は気絶したらしい。地面に転がって、ピクピクと痙攣していた。
「証。傷は?」
「後だ」
モグラは一匹だけではない。天井の隙間に、うごめく影が見えた。そのうち一匹が飛び出す。金切り声を上げながら、詩の白い首筋に咬みつこうとする。
させないけど。
その鼻先に掌底を叩き込む、と同時に雷霆の万象律を発動。気絶させる。
立て続けに、二匹。
鼻先を掴む。
右手と左手、同時に万象律を発動。
その時、も一匹、飛びかかって来た。
両手は塞がっている。
だから、蹴り飛ばした。
瞬間、脚に雷霆の万象律を発動。蹴り飛ばされて宙を舞いながら、モグラは気絶していた。
「……まあ、こんなもんか」
俺が呟く。獣は、気を失って床に転がっていた。
その時、不意に、俺の身体から力が抜けた。
あれ。
おかしいな。
意に反して、膝が地面に着く。
身体が、思った通りに動かない。
思い当たる原因は、ついさっき噛まれた傷。
「毒か……」
極めて稀だが、哺乳類にも毒を持つ連中がいた。トガリネズミやカモノハシ。そして、ソレノドンというモグラの仲間。モグラ型異常進化生物が、毒を持っていても不思議ではない。
天井の穴からは、次々にモグラが這い出す。
立たなければ。
そう思って足に力を込めるが、震えるばかり。
「あ、ああ……」
ろれつが回らず、言葉にもならない声が漏れる。
それは余りにも不格好で、祈りにもならない。
その時、詩が言った。
「準備、できたよ。使って良い?」
「……存分に」
掠れた声で答えると、詩は頷く。
その凛とした表情。
彼女は腰に吊った刀を抜いた。
亜麻色の髪が揺れる。
抜き身の刀身が、ケミカルライトの僅かな光を跳ね返し、三日月のように光る。詩は刀身を横に寝かせ、柄を握った両手で、口元を隠すように構える。
少女と日本刀。
危うさと、美しさを秘めた、その取り合わせ。
瞬間、刀身はまるで煙のように、空気に溶けて消えた。
モグラは殺到する。
俺達など肉塊に過ぎない。
餌だ。
しかし、突然、全ての獣が動きを停めた。
一瞬で氷漬けにされたかの如く、身動き一つしない。
何故なら、モグラの身体を、極薄の刃が貫いていたからだ。
日本刀は、規則正しく並んだ鉄原子から成る。その原子を気体に
その結果、出来上がったのが、極細の刃が織りなす、蜘蛛の巣状の構造だ。モグラたちは刃の網に絡めとられ、身動きが取れずにいた。
「終わり」
一言、詩は凛として告げた。
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