第1話 二〇五九年、夏。
パコンッ、と頭を叩かれる。
夢から覚めて、誰も居ない空っぽの教室。
三十組の机と椅子だけが整然と並んでいた。
「……あれ、何で?」
「テストなら終わったけど?」
腕を組みながら、不機嫌そうに俺を見下ろしているのは、
「薄情だな。誰も起こしてくれなかったのか……」
「
「解答欄は埋めたよ。多分、全部、合ってる」
それでも時間が余ったから、惰眠を貪る事にした。
冷房が利いた教室は心地よかった。
「嫌味だなぁ。だから、友達いないんだよ」
こうして誰も居ない教室を前にすると、返す言葉が無い。
「ほら。行こう」
彼女はそう言って、俺を教室の外へと引っ張る。
床以外はガラス張りの渡り廊下。整然とした街並みが見えた。東京が誇る、世界有数の高層ビル群。そして、それも霞むほどに巨大な入道雲が夏空を占拠していた。
渡り廊下の途中、知らない生徒とすれ違う。瞬間、彼女の視線が詩に吸い寄せられた。そのまま、二秒。詩から視線を外せない。俗に言う「見惚れる」という現象。
率直に言って、詩は綺麗だ。
すっと伸びた鼻筋。
口紅など無粋なモノは塗らずとも、幽かに桜色に染まる唇。
しなやかな亜麻色の髪は、後ろで二つに束ねられていた。
美しさという印象を容赦なく人々に浴びせる。
最早、暴力的なほどに。
詩は女子生徒に微笑みを返す。彼女は口元をもにょもにょと動かした。多分、上手く笑えなかったんだと思う。緊張のせいだ。彼女の頬は心なしか紅い。
同性相手でこれかよ、と俺は心の中で呟いた。
「
「知らない。でも、私のこと見てたから」
自分の微笑みにどんな価値が有るのか、詩はきちんと理解していた。
「何よ?」
「別に」
姉がこれほど美人なら、弟も美形だと思うかもしれない。残念ながら違うけれど。俺は、普通にしていても不機嫌に見えるらしい。かく言う俺自身も、朝起きて鏡を見ながら
「なんだこいつは? 何がそんなに気に喰わないんだ?」
と首を傾げる事がある。
俺なのだが。
きっと詩は母に似て、俺は父に似たんだと思う。もしかしたら、その逆かもしれない。
校舎裏の駐輪場の隅に、十五年物(※注 驚くことに、俺と同い年)の電動スクーターが停めてあった。ハンドルを握ると、指紋を読み取って勝手にエンジンがかかる。ただ、その音がやけに大きいので不安を煽る。
「そろそろ買い換えたいなあ……」
「そんなお金無いよ」
詩はそう言って、後部座席に乗り込む。
「分かってるけどさ」
公道に出る。一路、東へ。
道の両側に、乱立する摩天楼。
そして、中でも一際高い四本の白亜の塔。東京をここまでの大都市に成長させた立役者である、医療系
二〇二〇年代の大不況。日本も例に漏れず、その波に呑まれた。資源は無い。技術立国として栄えたのも、二千年代初頭の事だ。ソフトウェアはインドの、ハードウェアは中国の後塵を拝していた。そんな日本を救ったのが、医療系コングロマリットだった。
彼らが目に付けたのは、「人」。
資源も技術も無い日本だが、一億を超える人間はいた。医療系コングロマリットは国と連携し、国民の遺伝子配列を調べ上げた。一億の国民。その全てをだ。集めた膨大なデータを用いて、彼らは種々の技術を開発した。
遺伝子ターゲティング薬剤、人工臓器、そして、遺伝子診断。以来、日本は再び大国として返り咲いた。世界最大の医療大国として。
白亜のビル達は、まるで支配者のような顔をして東京を見下ろしていた。俺はそのビルと目を合わせないように、スクーターを走らせる。
やがて、前方に歩道橋が見えた。
正確には、「歩道橋だったもの」、だ。
橋の部分には、鳥が種を運んできたのか、草木が茂っていた。ちょっとした現代アートのようだ。その歩道橋には、「
この歩道橋を潜ると、世界が一変した。
滑らかだった路面は、途端にひび割れだらけに変わる。そこから雑草がボサボサと這い出していた。道の両脇にひしめくペンシルビルも、壁面には亀裂が走り、背の低い木が根を張る。
ビルの屋上には小屋が立っていたり、畑になっていたりと、やりたい放題だ。おまけに、ビル間には、廃材で橋が渡してあったりもした。
ここが、東京臨海再開発地区。
通称、青色地区。
いわゆるスラムだ。
この街が迎える、何度目の夏か。
陽炎の中、ゆっくりと朽ちていく途中だった。
何故、俺たちは学校帰りにこんな場所に来たのか。それは、青色地区の隅に、我らが「
家賃は一ヶ月一万円。地価の安い青色地区でも安すぎた。どうせ事故物件なのだろうけど、事故が二つや、三つくらい起きていても不思議ではない価格。
詩は玄関を開けるなり、靴を脱ぎ捨てた。しゅるり、とリボンを解くと、応接間兼リビングのソファに倒れ込む。
「あかりぃー。暑いー」
「はいはい」
冷房の電源を入れると、ゴウンゴウンと重苦しい音を立てながら、冷気を吐き出した。
「ねえ、証。なんか、風が温いんだけど」
「今年に入ってから調子が悪いな」
「買い換えようよ」
「そんな金無いだろ」
詩が盛大にため息を吐く。
「シャワー浴びる。水で」
そう言って、詩は風呂場へと消えた。
夏の暑さは、年々、過酷になる。人は増々、冷房に頼るようになり、より多量の熱気を吐き出す。そんな不毛なサイクルが、二千年代の初頭から続いている。
「しっかし、暑いな……」
窓の外を見た。
そびえ立つ入道雲。
セミがビルの壁に張り付いて、ワンワンと鳴いていた。
「夏だなあ……」
分かり切った事実を、意味も無く呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます