Part.12

 首を傾げる彼をよそに、ピスカはそれを手渡しながら、「辿り着くのが不可能なら、この子をハッチに投げ入れれば良いだけのことよ」と言った。「あなたならそれが出来るのではなくて?」


「なるほど。アラタ様は遠投の名手にございますからな」


「え、無理だよ。あんな遠くに投げ入れるなんて」と手を振った新は、船のある方をじっと眺め、「どの辺に投げれば良いのかもよく見えないし」


「あの筒のちょうど真上から、落とすように入ればステイシーはきっと起動するわ」


「真上?」


 新は腕時計を手のひらの上で放り投げながら、「それこそ、こんな軽いものじゃ無理だよ」と言った。「綺麗に放物線を描かず、向こう側に飛んでいっちゃう」


「……まぁ」


 ピスカは悩ましげな表情で口元に手を遣ると、「じゃあ、どれくらいの重さなら可能なのかしら?」と尋ねた。


「重さ? そうだなぁ」と腕を組んだ新は、「バスケットボールならやれるかもね」と答えた。


「あそこならちょうど、スリーポイントと似たような距離だし」


 彼はおよそ冗談半分に言ったつもりだったが、それを真に受けたピスカは「分かったわ!」と言って時計を取り上げると、それをそのままシルマに手渡した。


「はい。これをバスケットボールとやらにしてちょうだい」


「ですがピスカ様、私はこの地での使用許可を頂いておりませんので、これがもし明るみに出れば旦那様にまた叱られて――」


「緊急措置です。私が許可するのだから問題があって?」ピスカは彼の言葉を遮るとまたも胸を張り、「どのみち私がここで連れ去られれば、それこそあなたは叱られることになるのですよ?」


「ふむ、……なるほど」


 シルマは澄ました顔のまま唸り声を上げ、「どちらを取ってもお仕置きを免れない、究極の選択肢にございますね」


「ねぇ、今度は何の話なの?」


 二人の会話に渋い顔をした新は周囲を警戒しつつ、「もしかして、シルマさんにバスケットボールを買いに行かせようってわけじゃないよね?」と尋ねた。


「……まぁ」ピスカは鼻で笑いながら新を見つめると、「シルマなら、ステイシーをボールに変えるなんて朝飯前なのよ」と答えた。


「ボールに、変える……」


 新はさらに迷宮入りした脳内を彷徨い始めると、なぜだか表情を失った。


「アラタ様。ご説明が遅れましたが、私の家系にはピスカ様とはまた違った体質があるのでございます」とシルマが補足するように答えた。「まず物質の性質をナノレベルまで分解し、その後構造を再編成したのち、再び構成手順を――」


「シルマ、説明するよりも見せた方が早いのでなくて?」


 ピスカは新の手を掴むと、シルマが時計を持った手のひらの上にそれを重ね始めた。


「えっと、何これ。……湿ってる」


「申し訳ございません、アラタ様」と答えたシルマは、すでに目を瞑っていた。


「物質の変換には個体情報を知る者の協力が不可欠なのでございます。頭の中にそのバスケットボールというものをイメージしては頂けませんか? ちなみに多汗症の私は、カタリーナ様にはまだ手を握ってもらったことが――」


「アラタ、ボールを想像するの!」と、ピスカは彼の言葉を遮るように言った。


「よく分かんないけど、想像すればいいんだね」


 シルマと同じように目を閉じた新は、高校時代によく使用していたボールの感触を思い出した。時おり向かいから、「直径はどれほどで? ふむ、重量は?」などとシルマに質問をされ、それも言われるままに想像した。すると二人の手の間に置かれた腕時計はみるみる膨張を始め、いつの間にか指先には慣れ親しんだ縫い目の感触があった。


「なるほど。これがバスケットボールにございますか。思いのほか大きいですな」


 新が目を開くと、そこにはよく馴染んだ天然皮革のバスケットボールが現れていた。「すごい! ねぇ、どうやったの?」


 新は興味津々にそう尋ねたものの、素早くシルマからボールを奪い取ったピスカはそれを彼に手渡しながら、「とにかく、これで出来るわね!」と言った。


「でもさ」久々に触れるボールの感触を確かめた新は、指先でそれを回転させながら、「立ち上がったら、あの人に見つかっちゃうんじゃない?」と言った。


 工場内には未だアルゴが徘徊しており、ドラム缶や自動車を軽々と持ち上げている。


「座ったままじゃ駄目なの?」


「さすがに無理かな」


「分かったわ!」


 ピスカはすかさずシルマの肩に手を触れ、「分かっているわね」とでも言いたげに微笑んだ。青ざめた表情で頷いた彼は、ゆっくりと腰を上げながら、「この度は命の危機の代償として、高級宿泊施設のバイキングというものを堪能したく――」


「さっさとなさい」


 彼女に背中を押されたシルマは、身を隠しながら二人と離れた場所に移動するとドラム缶の陰から姿を現した。それを発見したアルゴが彼を追いかけると、シルマは工場内を走り回って逃げ始めた。


「さぁ、集中よ! 一発勝負なのだから」


「何だか、……申し訳ないね」


「あら、大丈夫よ。シルマはご飯のためなら死んでも死にきれないから」


「縁起でもないな」と言って立ち上がった新は、手首をほぐして床の上にボールを何度かバウンドさせた。「懐かしいなぁ。何ヵ月ぶりだろ」


 続けて大きく深呼吸してボールを構えると、彼は膝の力を使って全身をバネのように跳ねさせ、その勢いでボールを宙に放り投げた。手首のスナップにより縦回転をしたボールはしなやかに弧を描き、空中に固定された機体へ向かって飛んでいく。


 その瞬間ピスカはおろか、周囲に立つすべての者が突如として現れた謎の物体に目を奪われた。息を飲み、宙を舞うボールを黙って見つめている。


「…………」


 指からボールが放たれた直後、新はすでに確信していた。眉間の辺りにはまるで光線で射抜かれたように爽快な感覚が訪れ、ボールが放物線の頂点へ達した頃には笑みが溢れている。


 落下する球体は白い円柱の内部へ垂直に吸い込まれると、そのまま姿を消した。

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