Part.8

「……まぁ。なんて美しいのかしら」


 井の頭公園に到着すると、目を輝かせてつま先立ちになったピスカは頬に手を添え、愛おしそうに桜並木を眺めている。


 園内には立派な桜の木がそこかしこにそびえ立ち、風に煽られて桃色の花びらがひらひらと宙を舞っていた。地面に散らばった花はさながら魔法の絨毯を思わせ、木製の柵で囲われた長い橋を渡った対岸にも多くのしだれ桜が咲き誇っていた。


「なるほど。満開は越えておりますが、水面に垂れ下がる様はなかなかの風情を感じさせますな」シルマは池のそばの桜を指差し、「おっと、あれはヤマザクラですかな?」


「そうなの? シルマさんって物知りだよね」と新が言うと、彼は深々と頭を下げ、「それほどでもございません。色々と下調べをさせて頂いただけにございますので」と答えた。


「下調べ?」


 新はわずかに首を傾げたが、すでに彼は園内のお祭り騒ぎに興味を移していた。


 広大な敷地内にはブルーシートが所狭しと並び、酒を酌み交わしながら騒ぎ合う人々の姿が見られた。遊歩道までも花見客で犇めき合い、桜を写真に収めようとカメラを向ける者たちでごった返している。


「なんとも、珍妙な光景にございますな」


「お花見って一種のお祭りだから」と新が花見について説明をしながら歩いていると、ピスカが勢いよく池の方を指差し、「私が見たのは、あの水たまりなの!」と叫んだ。


「あれは池という物にございますよ、ピスカ様」


「大きな鳥って、まさかアレのこと?」


 新は中央部の池に浮かぶスワンボートを指差しながら、呆気に取られていた。ボートには子供連れの家族やカップルが乗り込み、のんびりと水面を漕ぎ進んでいる。


「あっち側に行ってみましょうよ!」ピスカは橋の向こう岸にあるボートの発着場を指差し、「私もアレに乗れるのかしら?」と張り切った様子で橋を駆けていく。


「人混みで走ると、また迷子になるよ」


 彼女を目で追いながら声を掛けた新は、シルマの方をちらりと眺めたものの、隣にいたはずの彼はいつの間にか姿を消していた。周囲を見回すと、彼は遊歩道に並ぶ屋台に目を奪われ、次々と食べ物を買い漁っている。


「なるほど。たこ焼きという食べ物はなかなかに美味。ですが、一見して一口大かと思わせつつ、あっふ、あっふ、いざ口に含むと、火傷を誘発させるほどの熱量。これは魔の代物と言えますな。イカ焼き、串焼き、ソフトクリーム……? ほう、これが噂の――」


「あらら」


 ひとまずシルマのことは放っておき、新はピスカの後を追い始めた。橋の上では対面からの歩行者に加え、水面に向かって伸びる桜並木を撮影しようと立ち止まる人々で思うように進めない。隙間を縫うようにして器用に前進する彼女の背中を彼は辛うじて捉えていたが、それもしばらくすると視界から消えてしまった。


 仕方なく人混みの中をのろのろと進んでいた新は、橋の中腹付近まで来てようやくピスカの姿を見つけることができた。「誰と話してるんだろ」


 彼女は、何者かと向かい合っていた。相手は新よりもひと回り以上体格の良い男で、ケミカルウォッシュ加工されたデニムジャケットに大きなワークブーツを履いている。


 男はピスカの腕を掴み、彼女はそれを激しく拒みながら相手に向けて何か言葉を発していた。この短い間に一体何をやらかしたのかと、呆れた様子で新は二人に近寄ろうとしたが、ピスカは口論の末、男の頬に勢いよく平手打ちを浴びせた。


 相手はあまりの痛みに顔を歪めていたが、力いっぱいに身体を引き寄せるとそのまま彼女の口を手で塞ぎ、肩の上に担ぎ始めた。


「あ、ピスカ!」


 思わず新が声を上げると、彼の方を振り返った男は、「何だおめどは? ピスカちゃんとは、どうしゃべる関係だ?」と睨みつけた。


「ピスカ、ちゃん?」


 じたばたと暴れながら相手をぼこすか殴りつけるピスカの姿を見た新は男を睨みつけ、「やめなよ、そんな小さい子を乱暴に扱ってさ」と言いながら止めに入ろうとしたが、その瞬間どこからか「――なるほど」と呟く声が聞こえてきた。


 新は周囲に目を配ったが、どこから声が聞こえてきたのか分からない。その間にも足元には煙のようなものが広がり始め、気づけば周囲は煙幕に覆われていた。突然のことに、橋を渡る人々は悲鳴を上げながらパニックを起こしている。


「今のうちにお逃げくださいませ」


「……シルマさん? でも、まだピスカが!」と言って男の方へ足を踏み出しかけた新の手を掴んだのは、ピスカだった。


「行きましょ、アラタ」


 幾分かすっきりした様子の彼女に手を引かれ、新は橋の上から素早く抜け出した。


「――びっくりしたぁ。ピスカ、あの人に何かしたの?」


 彼らに続いて公園の敷地内から抜け出した新は、住宅街を足早に歩き進んでいた。右側を歩くピスカを見遣ると、「されたのは私の方よ!」と鼻息荒く答えながら彼女は眉間に皺を寄せ、「本当にしつこいお方ね」


「しつこい……。あ、やっぱり知り合いなの? ピスカちゃんとか呼ばれてたけど」


「あの者はアルゴと申しまして、ピスカ様の幼馴染にございます」と、左側を無表情で歩き進むシルマが答えた。


「幼馴染?」と言って突然立ち止まった新は、そのまましばし考え込み、「それって、逃げる必要あったの?」と首を傾げた。


 彼の数歩先で立ち止まった二人は互いに顔を見合わせると、何やら意味ありげに頷き合い、やがてピスカが一歩前に踏み出しながら、「とにかく、この辺りからもう少し離れましょうか」と答えた。

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