Part.5

「確か、こっちだよ」


 高架下を潜り、駅前から井の頭公園を目指して案内を始めた新だったが、気がつくとピスカの姿が見えなくなっている。慌てて周囲を見回すと、後方で立ち止まった彼女は斜め上を向いて巨大な映画の垂れ幕に見入っていた。


「……まぁ」


 吐息混じりにうっとりした声を出し、小刻みに身体を震わせている。


「映画館がどうかしたの?」


 彼女の隣に並んだ新が同じ方向を見上げてそう言うと、「映画館!」と声を張り上げて彼の服を掴んだピスカは、「こ、こ、これが映画館なの? ここで映画が見れる? ねぇ、見れる?」と興奮したように尋ねた。


「そりゃ、映画館だもん」


「噂によれば、とてつもない大画面が設置されていて、立体的な音響設備も座り心地の良い椅子もあって、暗がりの中みんなで並んで映画を楽しみながらお菓子を食べる所なのよね? ねっ?」


「お菓子以外もあるよ。ホットドックとか、ポテトとか」


「まぁ、なんてこと!」


 彼女はその場にへたり込み、「実は、私がここを訪れたのはね、映画館へ来るためなの」と感動したように瞳を潤ませている。「……こんな偶然に見つかるなんて。もしや運命かしら!」


「都会では、わりと見かけるけどね」新は彼女を見下ろしながら、「もしかしてピスカは、映画観たことないの?」


「まさか!」


 素早く立ち上がった彼女は、さも心外だとでも言わんばかりに胸を張り、「映画は大好きよ。週に何本も観ているもの」と答えた。続いてどこか寂しげな表情を浮かべると、「……でもね、そもそも映画館という文化が私の故郷にはないの。だから、ここにはずっと訪れたいと思っていたのよ!」


「へぇ、そんな国もあるんだね」


 新は辺り一面が積雪に覆われた秘境を想像しつつ、「ピスカの実家も田舎なんだ」と同類を見る目で答えた。「僕の地元にも映画館くらいはあったのにさ。まぁ、こんなに大きくはなかったけど」


 そんな彼の言葉を無視して一人入口の方へと向かったピスカは、どこから拾ってきたのかパーキングブロックを片手にガラス扉をぶち破ろうとしていた。「――よいしょっと」


「ちょっと! 何やってんのさ」


 慌てて新が止めに入ると、ブロックを道端に投げ捨てたピスカはガラス扉を手で押しながら、「だってこの扉、開かないんだもの」と拗ねたように答えた。


「いや、それは引き戸だから」


 新がノブを引いて簡単に扉を開くと、「そんな……!」と目を丸くしたピスカは、「引いて開けるなんて、不思議な構造をしているものね」と興味深そうに眺めつつ、そのまま中に入ろうとした。


「え、入るの? 探しものは?」と新が言うと、ふと我に返った彼女は「そうだ! 探しものが……」と呟いたものの、しばし俯いて考え込んだ後、「でも、探し物は逃げたりしないものね」と言って扉を潜り始めた。


「映画館の方が逃げないと思うけどなぁ」と呆れてため息を漏らした新は、仕方なく彼女の後に続いて中に入った。


「何だかとっても甘い匂いがするの!」


 建物に入った途端にくんくんと鼻を鳴らしたピスカは、興奮した様子で周囲を見渡している。「うわ、何これ」と答える新もまた、都会の映画館を訪れるのは初めてだった。天井の高いロビーや高級感のある間接照明、地元で通っていた映画館とはまるで違う佇まいに彼は目を輝かせた。「ホテルみたいだなぁ」


 パンフレットや飲み物を片手に上映待ちする人々の方へ向かって今にも走り出しそうなピスカの襟首を掴んだ新は、そのまま受付カウンターに向かった。他に並んでいる者もさほどおらず、すぐに順番が回ってきた。


「何をご覧になられますかぁ?」


 受付に立つはきはきとした声の女性は、彼らに笑顔を向けている。


「え、こんなにあるのか」


 上映作品の数に驚きつつ、新はすぐに始まりそうなものはどれかと彼女に尋ねた。素早くタッチパネルの液晶を叩き始めた受付の女性は、ハリウッド映画の最新シリーズが十五分後に上映予定で、席にもまだ余裕があると教えてくれた。


 そのことをピスカに伝えると、「あまり耳にしない作品だけれど、監督は誰かしら?」と偉そうに腕を組んでいる。


「あら可愛い子! この作品は結構有名よ。監督はねぇ――」と、受付の女性は監督の代表作と合わせ、概要を丁寧に教えてくれた。


「……まぁ」ピスカはうっとりした表情で口元に手を遣ると、「あの監督の最新作ですって? それはぜひ観ておかないとね!」と早くも受付の女性と意気投合していた。


「じゃあ、チケット買うよ? えっと、大学生一枚と……」新はピスカを一瞬眺め、「中学生かな」と伝えた。


「学生証はお持ちですかぁ?」


「ピスカ、学生証は? ――あ、こらっ」


 カウンターによじ登ろうとしたところを新に取り押さえられたピスカは、地面に下ろされるとポカンとした顔で彼を見上げ、「ガクセイショウ……。それはなにかしら?」と尋ねた。


「何って、学生の証だよ」


 新が財布から自身の学生証を取り出すと、目を細めてそれを覗き込んだピスカは、「……スークレンセかしら」と難しい顔で呟いた。「これがあると何か違うの? あっ! もしかして、近くで見られるのかしら」


「まさか」と肩を竦めた新は、「これだから映画館の素人さんは困るなぁ」と咲の真似をして人差し指を立てた。「本当に見やすいのは、後ろの方なんだよ」


「……まぁ」


 ピスカは感心したように吐息を漏らしながら、目の前に出された人差し指を払い落とし、「それで? 何が違うのかしら」


「痛てて……」弾かれた指を押さえた新は目に涙を浮かべつつ、「学生だと、一般よりも料金がお得になるんだよ」と答えた。


「まぁまぁ! なんて庶民に優しいサービスかしらね」とピスカは嬉しそうに頷いたが、「しかしねアラタ、私には専門のティーラがいるから、スークに行く必要はないのよ」と澄ました顔で答えた。


「ティーラ? よく分かんないけど、要するに持ってないんだね」


 新が受付の女性の方へ向き直って料金を尋ねると、すぐさま隣で彼の服を引っ張ったピスカは、「自分の分は自分で出すの」と言ってこれまたどこから取り出したのか、奇抜なデザインの財布を掲げ始めた。


「ピスカって、お金持ってたのか」


「まぁ、失礼なアラタね」


 ぷいっと顔を背けたピスカは、そのまま財布を彼に押し付けると、「いくらでも好きに使ってくれて構わないわ」と言った。


「えーと、どれどれ」


 ピスカの財布を拝借した新は早速中身を確認したものの、そこには見たこともない紙幣が束になって入っていた。「あらら。日本のお金に両替してないのかなぁ。……いや、待てよ。これは子供用の玩具って可能性も大いに」


 彼女の財布から一枚だけ未知の紙幣を取り出した新は、「じゃあ、これだけ貰っておくね」と断ると、映画の代金はこっそり自分で支払っておいた。

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