昨日
いつしか彼女の体からは、白い糸がなくなっていた。
空中を漂っていた数多の触手も、素肌に増殖をしていた軟体も、全てが幻だったかのように、掻き消えて。
彼女は、さっきまでと同じように、凛として佇んでいた。
僕が座るプラスチックシートから、わずかに離れた地点で。うっすらとした笑みを保ったまま、囁く。
「小泉くんはきっと、復讐をしたかったんだよね」
だが、この場所に現れた時の彼女のように、黒いスーツではなかった。
ブルーのジャージ姿。着古した衣服に、全身を包んでいた。
「かつてのクラスメート達に、嫉妬していたんだ。自分より無神経に、自分よりも楽しそうに学校生活を謳歌しているみんなが、憎たらしかったんだ。だから卒業後に、みんなを見返せる方法を考え付いたんだよね」
顔には万遍なく、赤い斑点が散りばめられている。長髪は艶を失って、所々が毛羽立っていた。手足は痩せ細り、骨の角が浮き出ている。
それは紛れもなく、あの白い部屋に閉じ籠もっていた彼女の姿だった。
「たしかに、計画は成功したのかもしれない。自分より下に落とせたから、自尊心が満たされたのかもしれない。だけどそんなことをしたって、無意味なんだ」
彼女は僕から数歩だけ離れると、右手の人差し指を立てた。
そのまま腕を、対岸のホームへと翳す。
「君自身は、自分の殻に閉じ籠もったままだから。昨日と同じ明日を、延々と繰り返しているだけだから。それじゃあ、ダメだよ。どれだけやったって、秋田や二ノ宮先輩のように、反対側のホームになんか行けやしない。あの送電線の向こう側へは、決して渡れないんだ」
僕は、彼女が指差した先を見据えた。
架線柱から伸びた白い送電線が、二つの浮島を完全に分断している。
その弛んだ太いロープは、さながら幾重にも張り巡らされた、蜘蛛の糸のようだった。
「君はずっと、この場所に留まるしかないんだ。ただ居心地がいいだけの、殺風景で寒々しい、孤独の終点に。この最果ての駅に、
いつの間に到着したのだろう。
目の前の線路には、銀塗の電車が停まっていた。
巨体の側面には、紫のラインが入っている。自動ドアは開ききって、橙色の照明が漏れていた。
彼女はそれを確認すると、背中を向けた。誘蛾灯に吸い寄せられる羽虫のように、危なげな足取りで近づいていく。
「それじゃあ、私はもう行くからさ。お別れに、ひとつだけ言わせて」
彼女は立ち止まると、もう一度だけ振り返った。
そこには僕が見ていた、篠木中央学校での静観怜子の面影があった。教室内での大人びた振る舞いの合間に覗かせる、子供らしさと虚しさが合わさったような、少しだけ寂しそうな表情だった。
静観怜子は、懐かしい声で呟いた。
「今まで助けてくれて、ありがとう」
そして彼女は、消失した。
まるで初めから、存在しなかったかのように。
さっきまでいたはずの場所には、小さなつむじ風が巻き上げて、砂礫が宙を舞っているだけだった。
どうやっていなくなったのかは、わからない。
電車に乗って次の駅に旅立ったのかもしれない。もしくは、ホームの下へ転落したのかもしれない。どちらにせよ、姿を眩ませてしまったことには、変わりはなかった。
彼女がいなくなって。
静観怜子の貌をした、自分自身が消え去って。
そしてやっと、対峙する。
自分自身と、向かい合う。
――羨ましかったんだ。
心に、亀裂が奔る。
クラスの中心にいた、秋田幸司が。
綺麗で人気者だった、静観怜子が。
ただ虐げられていた、高坂徹か。
なにもない自分にとっては、全てが憧れの的だった。
机に伏して、寝たふりをしながら上目遣いで、教室内の様子を窺っていた、あの日。僕の瞳に映っていたのは、どんな色だっただろう。
羨望の眼差しでは、なかっただろうか。
被り続けていた仮面が、崩れ落ちていく。
みんなの輪に入れない。友達を作るための行動が起こせない。自分が傷つくのが恐い。唯一話せるのは、自分よりも弱くて、危害を加えられることのない相手だけ。そんな考えだから、誰とも親しくなれない。スクールカーストから外れた、影の薄い、すぐに忘れられてしまうような存在。それが僕だった。
別にそれでも構わないと思った。仲間なんて必要ないし、大声で喋っている集団をうざったいとも感じていた。群れることしかできない、一人ではなにもできない弱い連中だと、口には出さずに罵倒した。友達なんて、僕には必要なかった。
胸の奥が、熱い。なにかが、喉を駆け上がっていく。
でもそれは、嘘だ。
本当は、誰かと繋がりが欲しかった。誰にも必要とされないから、誰かに必要として欲しかった。生きていく意味がただ、欲しかった。
それはもしかすると生前の高坂や、静観が漏らしていた苦悩かもしれない。僕にとっても、同じ想いだった。
だからこそ、僕はみんなを訪問することを決意した。
必要とされない誰かを、誰もが心の支えとする共同体を。不幸を共有することによって、みんなが幸せになれる永久機関を、考え付いた。
僕が眺めていただけの教室の光景は、無駄ではなかった。これは学校生活内のヒエラルキーを、ただトレースしただけなのだから。
あの影絵の教室が、脳裏に去来する。
クラスの強者が、弱者を虐げる。そのわかりやすい構図に、周りのその他大勢が、尻馬に乗る。自分に害が及ばないから、可笑しそうに騒ぎ立てる。真偽の怪しい弱者の噂話や陰口を、悪気もなく吹聴して、話のネタにする。
誰だって、下には落ちたくない。虐められる立場に押しやられたくないから、誰かを虐める。誰だっていい。自分より下の人間がいることに、安心をしたいんだ。
それと全く同じことだった。僕はそのヒエラルキー構造を、一番下にいる誰かを用意して、再現させただけだった。
でも初めは、みんなを助けたいという一心からだった。純粋に、みんなを救いたいと思っていた。それは、本当だったはずだ。
だけど、どうして、こんなことになってしまったんだろう。
「どうして?」
僕は、問いかけた。
答えは、ない。
息を止めて、顔を上げる。
駅構内には、なにもなかった。僕の吐露は、誰にも届いていなかった。寒々しい、閑散とした一人きりのホームに、ただ残響するだけだった。
自分を責めてくれた、僕の中の静観怜子はもういない。
素肌にはびっしりと、冷たい汗の珠が浮かんでいた。湿気の不快感が全身を覆って、体温をさらに奪っていく。静寂が、鼓膜を劈く。心臓が途方もなく、凍りついていく。
それはまるで、孤独の温度のようだった。
――目の前には、また電車が停まっている。
スライド扉の開閉口を剥き出しにして。
暖かそうな電球色の室内灯を、煌々と光らせている。
僕はそれを、ぼんやりと眺めていた。
しばらくそうしてから、おもむろに立ち上がる。
この終着駅から、離れるために。
僕自身も、外の世界に出発するために。
電車に乗り込むために、両足に力を籠めて、動かした。
いや、動かそうとした。
でも実際には、僕は白いプラスチックシートに座ったままだった。一歩たりとも進んでいない。立ち上がってすら、いなかった。
腰が、全身が、座席にぴったりと張りついたかのように、剥がれない。目を凝らすと、僕とシートのわずかな隙間には、粘着性の糸がいくつも引っ付いていた。
自分を守るために拵えたはずの蜘蛛の糸は、今や自分自身を搦め捕っていた。
両手で、顔を覆った。指の隙間から、冷たい水滴が零れていく。
自分の知らない世界へ行くのが、堪らなく怖い。
電車が走り去ってく音が木霊して、遂に聞こえなくなる。
僕はもう、この世界で生きていくしか、ないんだろう。
この荒涼とした、終着駅で。網に弱った餌がかかるのを、ひたすらに待ち続けるしか、ないんだ。
ずっと、独りで。
―― 終着駅の話 了
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