透過 Ⅱ

 彼女の体からは、細長いチューブがいくつも伸びて、空中を漂っていた。


「そもそも、初めからおかしかったんだよ」


 それは、突起物が生育した姿だった。

 まるで素肌を食い破って露出した毛細血管のようであり、皮下で蠢いていた線虫の群れのようでもあった。


「私が大学に行かなくなって、自分の部屋に閉じ籠もるようになってから一週間後ぐらいに、小泉くんは訪問したよね。わざわざ私の家まで来て、直接話がしたいって」


 線虫達は瞬く間に、肥大した芋虫のようになり、ついには白濁の触手と化した。

 体節の線が入った、蛇腹状の帯をくねらせて、不規則に伸縮を繰り返している。


「たいして仲も良くなかった小泉くんが、どうして私のところに来たの? 小泉くんってさ、高校の教室でいつも独りぼっちだったよね。孤立した席に座って、遠目に私のことをじっと見ていたよね。そんな小泉くんが、私が落ち込んでいることを誰よりも早く嗅ぎつけて、話がしたいって言い出すなんてさ。正直、不気味だったよ」


 僕は、冷めた目で見返していた。

 その視線に反応したのだろうか。彼女の周囲を浮遊している、巨大な触手。その内の何本かが、鎌首をもたげて近づいてくる。


「人間不信に陥っていた私は、当然拒み続けた。なのに小泉くんは、毎日執拗に通い続けて。私はさらに気分が悪くなったけど、お母さんはそんな小泉くんの姿に感激していたみたい。結局お母さんの説得のせいで、会話は扉越しという条件付きで、小泉くんを家の中に招き入れることにした。下らない心理カウンセラーの真似事をするようだったら、すぐに追い出すつもりだったけどね」


 ぬるりとした先端が、鼻先に触れた。

 僕はコートの懐に両手を入れたまま、無関心に眺める。


「小泉くんの話は、カウンセリングなんかじゃなかった。誰が人間関係を苦にして大学を中退したとか、誰がノイローゼにかかってマンションの屋上から飛び降りたとか。中高の同級生の近況に関する、暗い話題ばっかり。私には、小泉くんがどうしてこんなことを話すのか、わからなかった」


 頂点には、微かに切り込みが入っていた。

 その穴から絶え間なく、粘稠の白い液体が漏れ出している。フォンデュの噴水のようなそれは、頭部の傘の形に沿って、波紋状の模様のまま滴り落ちていく。 


「でも耳が慣れていく内に、一つの結論に至った。もしかすると小泉くんは、私のことを励まそうとしているのかもしれない。中学や高校の他の人達も、落ちぶれている。私だけじゃない、これは薄命世代のせいなんだ。だから心配しなくていい。そうやって、閉じ籠もっている私を安心させるために、外の世界のことを教えてくれるんだと考えるようになったの。それに他人の不幸の話は、実際に面白かったからね。昔から言うでしょ、蜜の味って。シャーデンフロイデっていう、人間には必ずある裏の感情なんだ。だから、私が自室の扉を開けるようになるまで、それほど時間はかからなかったはずだよ」


 目の前に迫っていた触手が、ぴたりと動きを止めた。

 涎を数滴垂らすと、徐々にその身を湾曲させて、先端が彼女へと戻っていく。


「私と小泉くんが顔を合わせて話すようになってから、数ヶ月が過ぎた。扉という隔たりを取り除いたのに、私達の関係は少しも変わらない。高坂くんが大学を中退したとか、秋田がレイプ事件を起こして退学になったとか。相変わらず同級生の躓きを、ただ写実的に口にするだけで、私を外の世界へ誘うような行動は、一切しなかった。私から少しだけ胸中を話しても、黙って聞いているだけで、なにも答えてくれない。私の期待はどんどんと萎んで、代わりに当初からの疑問が浮かび上がったの。小泉くんは何のために、私の家に訪問しているんだろう、って。そんな不毛な月日がずっと流れたある日、やっと私は理解した。ああ、この人は私達を助ける気なんて、これっぽっちもなかったんだなって」


 引き返した触手の群れは、そのまま彼女の肢体に襲いかかった。

 意志を持つかのように、素早い強靱な動きで喰らい付いていく。


「小泉くんの目的は、私達をにあった。その最もたる根拠が、あの同級生の不幸自慢。あれを聞かせていた本当の意味は、励ましなんかじゃなくって、その逆。鬱ぎ込んでいる私達に、現状のままでいることの安心感を植え付けたかったんだよ」


 凶暴性が伝播したように、漂うだけだった夥しいほどの細長い管も、静観の両手両足を捕縛していく。

 締め付けられた彼女の胴体が裂けて、白濁の水飛沫が上がった。


「ああ、他の連中も失敗しているんだ。それなら、少しぐらい停滞してもいいだろう。みんな似た境遇なら、自分もこのままで大丈夫だろう。そういった周りの堕落的な情報だけを、作為的に繰り返し伝えることで、負の連帯感を擦り込んでいたんだ。だからこそ、白い部屋から連れ出すためのアプローチをしなかった。ずっと落ちぶれた生活を続けて欲しかったから。その哀れな連中を、助けるふりをしたかったから」


 彼女の腕と脚が、端正な顔が、白のベールに覆い隠されて消えていく。

 漆黒の瞳だけが、依然変わらず見つめていた。


「神様にでもなったつもり? 小泉くんは、私達をずっと自閉という心の檻に監禁して、外からの情報を餌として与え続けてさ、まるで飼い主様の感覚だね。その情報だって、自分の身を削ったものじゃなくて、弱っている同級生から吐き出させた心の傷痕トラウマじゃない。それを利用して、傷ついたばかりの相手に近づいて。新しい情報を手に入れたら、また次の標的を探す。そのループを、延々と繰り返してきたんだね。それなのにみんなを救っている、みんなから必要とされていると勘違いして――君はただ、偽りのヒロイズムに酔っているだけなんだ。自分より上を認められずに、下にいる人間を見て優越感に浸っている。自分より弱そうな人間しか、相手にできない。そんな卑しい、劣等感の塊なんだよ、小泉くんは」


 反論が、口を衝いて出そうになった。

 だが唇が接着されたかのように、開くことができない。手の甲で擦ると、デンプン糊のようなゲル状の膜が付着していた。


 僕の代わりに、彼女が喋っている。

 だから僕には、口を挟むことができない。返答を放棄した僕に、その権利はない。


「それにしても、二ノ宮先輩にまで訪問をしたのには驚いたよ。面識もない相手に、よく会いに行こうとしたね。小泉くんはそこまでして、自分よりも下の立場の人間を確保したかったんだね」


 僕は、向かい側のホームへと顔を向けた。

 そこにいたはずの賑やかな家族連れ。二ノ宮先輩と、妻と二人の娘。

 彼らは、影も形もなくなっていた。


「そういえば秋田は、首を鎖に付けられる前に、小泉くんの家からいなくなったんだっけ? なんとなく、このままじゃ不味いって考えたんだろうね。とてもいい判断だったと思うよ。でも、高坂くんは残念ながら違った。小泉くんの狡猾な罠に、嵌ってしまった」


 参考書を読み耽っていた坊主頭の秋田幸司も、どこにも見当たらなかった。

 その代わりに、僕と同じホームに立ち竦んでいる、小柄な少年が目に入った。


「同じ境遇に陥った私になら、わかる。どうしようもならなくなっていたんだ。無気力の渦の中に落とし込まれた高坂くんは、もう社会復帰する気力も失せていたし、それに輪を掛けて、小泉くんが言い触らした噂がある。なにかを切っ掛けに、知ってしまったんだろうね。みんなの陰鬱な現状を聞いて高坂くんが安堵しているのと同じように、自分の個人情報がみんなに暴露されているってことにさ」


 彼はさっきまで、篠木中高指定の詰襟学生服を着ていたはずだった。それがいつの間にか、ネイビーのダッフルコートに替わっている。

 両足は、白線の外側だった。


「大学一年生の夏前に、中退したこと。それからずっと、薄暗い部屋でひきこもり生活を送っていること。高坂くんにとっての心の暗部が、一番ナイーブな傷口がナイフで抉り取られて、晒し者にされていたんだ。それも最後に信用した相談相手に、裏切られてね。もう、元の世界に戻ることは絶望的だった。高坂くんがとるべき道は、二つしか残っていない。小泉くんに隷属したまま蟄居を継続するか、自ら人生の幕を閉じるか。結果、高坂くんは後者を選んだ。家族以外に干渉をされることのない、密葬を望んでね」


 コンクリートの淵で、彼は片足を持ち上げた。

 ダッフルコートの背中が、白い世界に霞んでいく。 


「無念だっただろうね。なにしろその自殺の話題さえも、こうして話の種にされているんだから。どうして死んだのか、なにが自殺の原因なのか。それが小泉くんによって、さらに広められると思ったから。だから高坂くんは、遺書を書かなかったんだよ。これが彼にできる、唯一の抵抗だったんだ」


 そして高坂徹は、ホーム下へと姿を消した。

 僕には不思議と、彼の背中を押した、誰かの手の幻影が見えたような気がした。 


「みんなの希望の光を完全に剥ぎ取ってから、その命を摘んでいく。深い孤独と絶望の中で、高坂くんは死んでいったんだよ」


 二人きりになった駅構内に、彼女の声だけが浸透していく。

 僕はそっと、目線を戻した。触手達の饗宴は、すでに終わっていたようだった。

 そこにはただ、白い縄で隙間無く包装された、楕円状の塊が宙づりになっている。


「篠木高校卒業生の私達を取り巻く、死の連鎖。それは小泉くんに言わせれば、薄命世代のせいなんだよね。でも、私にはね、もっと違うものに見えるんだ」


 雁字搦めにされた、彼女の体躯。

 規則的なリズムを伴って、胸部だけが起伏している。


「もっと具体的で、もっと日常的な、なにか。私達の身近に潜む、ある生物の形態に、とてもよく似ていると思ったの」


 その姿は、なにかによく似ていると思った。

 まるで卵の中で呼吸を続ける、雛のようで。

 もしくは羽化を迎える前の、繭のようでもあって。

 その姿は、まるで、


「まるで蜘蛛の巣みたいだな、って」


 蜘蛛に捕らわれた、蝶のようだった。


「蜘蛛の食事方法って、知ってる? 獲物の身体に、口吻部にある毒牙を打ち込むの。全身を麻痺させてから、今度は齧りついて、体内に消化液をたっぷり注入する。そしてどろどろに溶けた獲物の体組織を、ストローみたいにずるずると吸い上げて。最後には中身が空っぽになった、獲物の外骨格だけが残る」


 彼女を緊縛している、白い糸。

 それは、彼女自身を苗床にして発芽し、母体を蝕んでいたはずだった。

 だが、実際には違っていた。


「ねえ、そっくりじゃない?」


 トタン屋根の天井から吊り下がっている、繭。その裏側から、一本の糸が未だに伸びている。

 それはホームの支柱やコンクリートを這い、ガラスの破片を吸収しながら、僕がいる座席に到達していた。すでに靴先から膝、胸、肩にまで登っている。

 指先で触れて、さらに続きを辿っていく。


「張り巡らされた蜘蛛の巣のネットワークに、怪我をした私達が引っかかる。その振動に反応して、即座に蜘蛛が現れるんだ。私達に毒の情報を与えることによって、さらに弱らせていって。最後は、私達の頭の中から、引き籠もった理由を引きずり出して、栄養分として同化する。お腹が膨れた蜘蛛は、また別の餌を探しに行く。中身を吸い取られた私達は、見た目こそ変わらないけれど、形骸化したまま生き延びさせられる。そしていつかは、蜘蛛の網から外れて、地面に落下するんだ」


 糸の終点は、僕の口蓋に繋がっていた。

 まるで僕が吐き出した糸が、彼女を搦め捕っているかのように。


「やっと気が付いた?」


 蜘蛛は、僕自身だった。

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