透過

 乾燥した風が吹いていた。

 鉛色の暗雲に遮られて、光さえも射さない駅構内。

 気味の悪い冷ややかさに、思わず身震いがする。

 コートのポケットに手を差し込んで、モノトーンの空を見上げた。埃を含んだ空気を吸う度に、肺が軋むようだった。

 ふと、すぐ近くから音がした。

 硬い、金属的な音。

 右隣の、プラスチックシート。

 その座席の上には、小さな缶コーヒーが置かれていた。そのスチール缶を摘んでいる、白いたおやかな指も。

耳の後ろから、声が聞こえる。


「ひさしぶりだね、小泉くん」


 吐息がかかるほどの距離。

 顔を右に向ける。そこには、僕の肩に顎を載せるような体勢で、静観怜子が微笑を浮かべていた。

 突然のことに、言葉を失う。すると静観は、背後のシートからすらりと立ち上がった。


「どう? 小泉くん。この制服、似合うでしょ。一度着てみたかったんだ」


 静観は、ブルーのジャージ姿ではなかった。

 黒で揃えたスーツにタイトスカート、バンプスを身に付けていた。ジャケットの胸元が大きく開いたデザインのため、白いブラウスの膨らみが強調される。

 静観はその場で、くるりとターンをした。艶やかな長髪が、ゆるやかになびく。


「私ね、会社員になったの。私の世界から外に出て、面接を受けたら、まさかの一発合格。小泉くんのおかげで、無事に社会復帰することができたよ」


 歌うような朗らかさで口ずさむ、静観。

 びしりと、なにかがひび割れた感覚がした。


「それにね、秋田くん。彼も今、公務員試験に向けて頑張っているんだよ。国家公務員になって、お金を稼いで、心と体に傷を負わせてしまった女の子達に、慰謝料を払って回るんだって。それが彼自身の、一生の贖罪なんだ」


 強烈な違和感を覚えていた。

 秋田はともかく、静観が会社に勤めているなんて、あり得ない。

 なぜなら、彼女は――


「それもこれも、小泉くんのおかげ。小泉くんが、ふさぎ込んでいる私達の家に来訪して、カウンセリングをしてくれたからだよ。だから私達はみんな、小泉くんに感謝しているんだ。ありがとう、小泉くん」


 白々しさを臭わす態度と、皮肉がたっぷりとのった台詞に、胸が悪くなる。

 無言のまま座っていると、静観はなにを察した様子で、シートを迂回して、僕の正面まで歩いてきた。

 いつもの境界線を侵害して、静観は嗤う。


「ねえ、笑ってよ」


 静観の顔が、さらに接近する。酷薄な笑みを、湛えながら。


「嬉しいよね? 私達がみんな、社会に戻れて。手助けをしてくれた小泉くんのお手柄なんだから、すごく嬉しいはずだよね? だから喜んでよ、小泉くん」


 詰め寄る静観の顔からは、吹き出物が綺麗に取り払われていた。

 高校時代と変わらない、漆黒の瞳が射貫く。


「ねえ」


 自然と、目を伏せる。

 足下には、砕けたガラス片。


「私、知ってたよ」


 なにを、と聞き返す間もなく、静観は続けた。


「小泉くんが、私達を助ける気がなかったってこと」


 外気が、急速に冷え込んだ。

 真空になったように、周囲から物音が消える。

 僕は、深々と溜息をついた。それからゆっくりと、顔を上げる。

 静観は変わらず、眼前に佇んでいた。

 寒さを気にする素振りもなく、すらりと背筋を伸ばしたまま。返事を要求するように、ただ静観せいかんをしている。

 僕は、なにも答えなかった。

 静観自身も、僕の沈黙を予期していたのだろう。

 だから彼女は、冷笑を浮かべながら、抑揚のない声で宣告する。


「薄命世代なんて、存在しないんだよ」


 静観は、滑らかに後退した。バンプスの踵がコンクリートを叩く音が、駅構内に残響する。タイトスカートから覗くしなやかな太腿が、冷気のせいか白くなっていた。


「小泉くんさ、私達の家に訪問するたびに言ってたよね。私達がこうして世間から消えていくのは、薄命世代のせいだって。篠木高校卒業生に偶発的に与えられた受難、悲劇的な運命のせいだって。でもさ、そんなの嘘っぱちでしょ? そうやって架空の罪の対象を創ることによって、実体から目を逸らさせたかっただけなんだ」


 静観の両足は、不自然に白くなっていた。

 それは以前までの、閉じ籠もっていた時の生白さではない。血の気が一切感じられない、セラミックのマネキンを彷彿とさせた。


「そもそも薄命世代っていう言葉自体、私にとって眉唾ものだったよ。人生に行き詰まって、悩んで苦しんで到達した私だけの世界を、さも他の人と同じだ、薄命世代のせいだと一括りにされたんだから。統一する必要なんてない、同じ篠木高校を過ごしてきた小泉くんになら、わかるよね? 私達は、世代で生きてきたわけじゃない。いつだって、一人で生きているんだ」


 もはや脚部だけではなかった。静観の手、首、露出している肌が、次々と色素を失ってゆく。

 やがて静観の顔も、蝕まれるように白に塗り潰された。


「でもね、確かに私達には存在したんだよ。みんなを破滅へと追いやる、なにかが。それは薄命世代なんて抽象的なものじゃなくて、もっと明確な悪意。そう、私達の世代には例外があった」


 染色を終えた静観の全身からは、ぽつぽつと無数の小突起が発芽している。

 膨張したいぼのようなそれは、先端が丸く溶け、液汁が滴り落ちていた。


「そいつはね、汚いんだ。自分が撒いた種なのに、薄命世代というスケープゴートを仕立て上げ、罪の意識を擦り付けて。さも自分は悪くないように振る舞うの。それどころか、落ちこぼれたみんなを拾ってあげている、救世主のような偽善面をしている。常に考えるのは、保身だけ。絶対に安全な場所から、自分が傷つくことを恐れて、他人を傷つけている。そいつのせいで、高坂くんも死んでしまったというのにね」


 静観の肌に繁殖している突起物が、その軟体を痙攣させ、さらに別の形へ変貌しようとしている。


「私達を食い物にするそいつを、許せないとは思わない? ねえ、小泉くん」


 僕は、理解した。目の前にいるのは、静観ではない。

 静観怜子の姿形を模倣した、別のなにかだ。

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