同化 Ⅱ

 僕は腕時計を見た。もう時間だ。

 立ち上がって、帰り支度を始める。ポールに掛けたコートを羽織った。


 静観は変わらず、座ってラジオに触れている。僕はその様子を見下ろしてから背を向けて、部屋の出入り口へと歩く。

 扉のわずか手前で、後ろから聞こえた。


「たぶん、薄命世代なんて存在しないんだよ」


 足を止めそうになったが、振り返りはしなかった。そのまま、ドアノブに手を掛ける。


「私達だけじゃない、みんな同じなんだよ。全人類みんな、先のことがわからなくて、怯えている。いろんなことに悩んで、悩んで、疲れ果てている。本当はみんな、心が弱いんだ。ガラスの心を、一生懸命に着飾っているだけ。でも、私達の世代には、例外があった」

「例外?」


 僕は、握った手を放した。


「みんな同じことを考えているんだ。みんなに好かれたい、誰かに必要として欲しい、一人きりになりたくない、幸せに生きたい。高坂くんも同じことに悩んでいた。でも、死んだ。馬鹿だよね」


 静観が、カーペットから立ち上がった気配がした。静かに、近づいてくる気配も。

 振り返りたかったが、顔を合わせると静観が閉ざしてしまいそうで。だから、そのまま佇んで待った。


 僕の少し後ろで、足音がぴたりと止まった。彼女の、ああ、という物憂げな吐息が聞こえた。


「私も考えていた、みんなに好かれたいって。作り笑顔と愛想を、周囲に振りまいていた。大学生になってからは、二つのサークルに掛け持ちして、交友関係を広げていった。この頃は順調だった。でも、二年生になってから、なにかがおかしくなった」


 声にかげりが差す。


「同じ旅行サークルの神矢かみや先輩と、付き合い始めたんだ。でも一ヶ月ぐらい経って、同学年の綾音あやねに詰め寄られたの。私の彼氏に手を出すなんてどういうつもり、って。神矢先輩、綾音とも付き合っていたんだ。同じサークルの中で二股恋愛、なぜか私が神矢先輩を誘惑したって話になっていた。神矢先輩に訊いたら、ごめん、俺が悪かった、綾音のことはなんとかする、って言ってくれた」


 後ろから、鼻を啜る音がした。

 僕は目を閉じて、耳を傾ける。


「神矢先輩は悪くないんだと思う。ちょっと不器用なだけで、あの人も被害者なんだよ。本当に申し訳なさそうに頭を下げたから、私は許した。でも、綾音の攻撃は止まらなかった。顔を合わすたびに、口汚く罵られて。足を蹴られたり、持ち物を隠されたり、階段から突き飛ばされたりして。サークルで会う時には、綾音と仲間に集団で乱暴されたこともあったよ」


 静観が話す内容は、どれも初めて聞くものだった。

 静観も両親にさえも話していないのだろう。喋り方が震えて、とても辿々しい。


「耐えられなくなって、旅行サークルの脱退届けを出した。でも、部長が承認してくれなかった。もうちょっとで夏合宿だから待ってくれ、新入生の費用は先輩達が持つのがこのサークルの伝統だ、お前も一年生の時には奢ってもらっただろう、って。それでも辞めるんだったら、新入生の旅行代と、夏合宿と冬合宿、クリスマスコンパ、イベントの金全部を支払ってから辞めろ。そう言われた。そんなお金、すぐに払えるわけがない。私はなんとしても、夏合宿までに辞めたかった。私の噂は一年生にも流されていて、上からも同年代からも、後輩からも白い目で見られていたから、合宿先でどんな目に遭うか、想像しただけで怖かった。最後の手段、大学に訴えようとも思ったけど、それをしたら二度と大学に来られなくしてやるって恫喝された。どうしようもなくなって、だから、私は結局――大学を辞めた」


 静観は原因を話し終えると、き苦しそうに喘いだ。

 僕はただ、無言だった。


「高校生の時に描いていたものなんて、所詮絵空事だったんだ。みんなに好かれたい、誰かに必要とされたいなんて、馬鹿らしいことなんだよ。一人きりの方が、他人を気遣う必要もないし、誰かに嫌われる心配もない。そういえば、神矢先輩も綾音側に加担していたって噂があったけど、ほんと今さらだよね。あはは」


 力の抜けた笑い声が、白い部屋に消える。

 僕には、少しも笑えない。


「私はね、人間関係に疲れちゃったんだ。だから閉じ籠もることにしたの、誰も私を傷つけない、私だけの世界に。でもね最近、付き合ってもいいかな、って思える人が現れたんだ。ねえ、小泉くん」


 一歩、静観が近づいた。


「小泉くん、私、処女なんだ」


 また一歩。近づいた。

 いつもの境界線を越えて侵入する、静観。

 徐々に、カーペットが沈む感触が強くなる。微かに、硬質な音がした。


「綾音達に色々突っ込まれたけど、下は奇跡的に無事なんだよ。小泉くんは、童貞?」


 僕は、首を横に振った。

 静観は、もう真後ろにいるらしい。彼女の温かい吐息が、首筋にかかる。

 目の前の白壁が、揺らいだような錯覚がした。


「ねえ、小泉くん。やろうよ、セックス。体験しないままなんて、損だよ。どれぐらい気持ちいいんだろうね、それすらも妄想なのかな? ……大丈夫だよ小泉くん、今日はどれだけ近づいたって、手首を切らないから。死なないから、安心してやっていいんだよ」


 僕は、強く呟いた。


「嫌だ」

「なんで」

「だって、ヤったらお前、死んじゃうだろ」


 僕はそのままドアノブを掴むと、引き開けて外に出た。

 静観の顔は見なかったが、にやけているのが容易に想像できた。

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