同化 Ⅱ
僕は腕時計を見た。もう時間だ。
立ち上がって、帰り支度を始める。ポールに掛けたコートを羽織った。
静観は変わらず、座ってラジオに触れている。僕はその様子を見下ろしてから背を向けて、部屋の出入り口へと歩く。
扉のわずか手前で、後ろから聞こえた。
「たぶん、薄命世代なんて存在しないんだよ」
足を止めそうになったが、振り返りはしなかった。そのまま、ドアノブに手を掛ける。
「私達だけじゃない、みんな同じなんだよ。全人類みんな、先のことがわからなくて、怯えている。いろんなことに悩んで、悩んで、疲れ果てている。本当はみんな、心が弱いんだ。ガラスの心を、一生懸命に着飾っているだけ。でも、私達の世代には、例外があった」
「例外?」
僕は、握った手を放した。
「みんな同じことを考えているんだ。みんなに好かれたい、誰かに必要として欲しい、一人きりになりたくない、幸せに生きたい。高坂くんも同じことに悩んでいた。でも、死んだ。馬鹿だよね」
静観が、カーペットから立ち上がった気配がした。静かに、近づいてくる気配も。
振り返りたかったが、顔を合わせると静観が閉ざしてしまいそうで。だから、そのまま佇んで待った。
僕の少し後ろで、足音がぴたりと止まった。彼女の、ああ、という物憂げな吐息が聞こえた。
「私も考えていた、みんなに好かれたいって。作り笑顔と愛想を、周囲に振りまいていた。大学生になってからは、二つのサークルに掛け持ちして、交友関係を広げていった。この頃は順調だった。でも、二年生になってから、なにかがおかしくなった」
声に
「同じ旅行サークルの
後ろから、鼻を啜る音がした。
僕は目を閉じて、耳を傾ける。
「神矢先輩は悪くないんだと思う。ちょっと不器用なだけで、あの人も被害者なんだよ。本当に申し訳なさそうに頭を下げたから、私は許した。でも、綾音の攻撃は止まらなかった。顔を合わすたびに、口汚く罵られて。足を蹴られたり、持ち物を隠されたり、階段から突き飛ばされたりして。サークルで会う時には、綾音と仲間に集団で乱暴されたこともあったよ」
静観が話す内容は、どれも初めて聞くものだった。
静観も両親にさえも話していないのだろう。喋り方が震えて、とても辿々しい。
「耐えられなくなって、旅行サークルの脱退届けを出した。でも、部長が承認してくれなかった。もうちょっとで夏合宿だから待ってくれ、新入生の費用は先輩達が持つのがこのサークルの伝統だ、お前も一年生の時には奢ってもらっただろう、って。それでも辞めるんだったら、新入生の旅行代と、夏合宿と冬合宿、クリスマスコンパ、イベントの金全部を支払ってから辞めろ。そう言われた。そんなお金、すぐに払えるわけがない。私はなんとしても、夏合宿までに辞めたかった。私の噂は一年生にも流されていて、上からも同年代からも、後輩からも白い目で見られていたから、合宿先でどんな目に遭うか、想像しただけで怖かった。最後の手段、大学に訴えようとも思ったけど、それをしたら二度と大学に来られなくしてやるって恫喝された。どうしようもなくなって、だから、私は結局――大学を辞めた」
静観は原因を話し終えると、
僕はただ、無言だった。
「高校生の時に描いていたものなんて、所詮絵空事だったんだ。みんなに好かれたい、誰かに必要とされたいなんて、馬鹿らしいことなんだよ。一人きりの方が、他人を気遣う必要もないし、誰かに嫌われる心配もない。そういえば、神矢先輩も綾音側に加担していたって噂があったけど、ほんと今さらだよね。あはは」
力の抜けた笑い声が、白い部屋に消える。
僕には、少しも笑えない。
「私はね、人間関係に疲れちゃったんだ。だから閉じ籠もることにしたの、誰も私を傷つけない、私だけの世界に。でもね最近、付き合ってもいいかな、って思える人が現れたんだ。ねえ、小泉くん」
一歩、静観が近づいた。
「小泉くん、私、処女なんだ」
また一歩。近づいた。
いつもの境界線を越えて侵入する、静観。
徐々に、カーペットが沈む感触が強くなる。微かに、硬質な音がした。
「綾音達に口には色々突っ込まれたけど、下は奇跡的に無事なんだよ。小泉くんは、童貞?」
僕は、首を横に振った。
静観は、もう真後ろにいるらしい。彼女の温かい吐息が、首筋にかかる。
目の前の白壁が、揺らいだような錯覚がした。
「ねえ、小泉くん。やろうよ、セックス。体験しないままなんて、損だよ。どれぐらい気持ちいいんだろうね、それすらも妄想なのかな? ……大丈夫だよ小泉くん、今日はどれだけ近づいたって、手首を切らないから。死なないから、安心してやっていいんだよ」
僕は、強く呟いた。
「嫌だ」
「なんで」
「だって、ヤったらお前、死んじゃうだろ」
僕はそのままドアノブを掴むと、引き開けて外に出た。
静観の顔は見なかったが、にやけているのが容易に想像できた。
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